多くのADHDはもともと思い込みが激しく、意見を聞くたびに「説得されてしまう」。その思い込みが徹底したケースでは、普通ではとても出来ないような滅私奉公も可能になる。
ある女性は「9歳から家事をしてきました」という。親が居なかったわけでもない。妹も居たが、本人が自分から「自分の役割」と思い込んでやってきた。
AC(アダルトチルドレン)とは「本人が納得している」点で決定的に違い、その時には全く問題にはならない。
この方がクリニックに来られたのは、「世話をする必要のある家族が居なくなったら自分にはやることがなくなった」という問題で治りにくいうつ状態となったことであった。
50歳を過ぎてから「好きなことを結果を考えないで楽しんでしましょうね」ということを目標にカウンセリングを続けている。私はこういうケースを思い込み型ADHDと呼んでいる。
http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/adhdNH.htm
昨日、ネットサーフィンでこのブログに辿り着いたkoronです。超多忙な時間を過ごしていると、時々、これからの方向性を探して自己に沈潜したくなる休息の時期が来ます。どうぞ、よろしくお願いいたします。ブログのあちこちで拝見する琉球の景色に懐かしさを覚えながら、こっそりとコメントを。
家族環境の中で幼少から自然に身につけたと認識できる、思い込みADHDに嵌り易い習性が、私には、あると思います。
普通の人から見たら理解不能。
酷い罵声は、バッカじゃないの?何のメリットがあるの?
まだしも好意ある批判は、そんあ薄給でよくやるなあ?見返り無し美人(?)やってるのん?
と、驚愕される(自分でも普通の観点から見たら理解不能だと分かる)ことに何の抵抗も持たず、滅私奉公!楽しく働ける・・
時々、またやってるわ・・・と自分の性を悲しく?なる時もあるけど、でも、これは、自分では美点だとさえ思えていて、その対象は、個人的な人間関係だけではなく、社会活動であったり、誰の評価も助けも受けなくても、一人の力で(もともと群れるより独りの方が楽な性質なので)社会に呼びかけて、世の為人の為に!と奮起して社会改革的なムーブメントを地道にコツコツ広げることでもあったり・・・ここ数年も、人知れず密かに(悪事ではなく社会的善事です。念のため。)やった!大成功!と喜ばしいことがあったりもしました・・・
しかし、これを思い込みADHDと言うのかどうか・・・
人生ではいろんなことが起こるから、自分の力で何とかできる限りの改善はしたいと思うと、次から次へと対象はある訳で、思い込みの対象は絶えることは無いような気がして・・・
ADHDの経過に照らしますと、ティピカルではないにしても、思い込みADHDと合理的ADHDの混在を自分に見つけます。でも、これって、本当に発達障害なのでしょうか?
昨日から、このブログで勉強させて頂いているkoronです。琉球の懐かしい景色に思いを馳せながら、今夜もこっそりコメントを。
症例と同様に、家族環境の中で形成されたと認識できる思い込みADHDが、今も私の習性となっている事に気が付きます。
普通の人から見たら理解不可能な事を、何の疑問も抵抗も感じずに滅私奉公・・そこに楽しみまで見い出してやってる・・・
それは、家族関係や個人的な人間関係に限らず、社会的な行動でも、誰にも評価されなくても、私の生きがいの一部になっているかもしれないとさえ思います。
社会的な思い込みは「世の為人の為に尽くす」という言葉で、ここ数年も、社会悪に対峙して、これではいけないこんな制度は変えなければ!と、独り(もともと群れるのが嫌いなので)密かに(悪事ではなく社会的善事です。念の為。)社会的なムーブメントを広めて、喜ばしい結果を得たことが2、3ありました。人生ではいろんな事が起こるので、解決したいことは次から次へと出てきて、何の見返りも無い仕事に忙殺されることもあります。これも、思い込みADHD?
このブログを拝見していると、思い込みADHDと合理的ADHDの複合を自分の中に見つけます。そう思い込んでる私も思いこみADHD?
私の行く先探しは続きます。