はじめに
私自身ADHDとして生きてきて、また診療内科外来で大人の発達障害のコーチングにトライしてきて、
「発達障害はどこまで適応することが出来、またどこまで適応するべきなのか」という根本問題について私なりに出してきた答えを書いてみます。
これはあくまでも私のベストと考える基本方針であり、
学問的に立証されたものである等の主張が目的ではないことをご理解のうえでお読みになることをお願いいたします。
私の経験と成人発達障害のコーチングの経過から分かったこと
私は自分自身、かつて「普通になろう」と多大な努力を費やして生きてきました。
また大人の発達障害のコーチングの場で、一般社会の中で生きる発達障害の人々の話を聞き、社会の中でスムーズに生きるための方策を本人とともに模索してきました。
そこで分かったことは次のようなことでした。
私を含め、私の出会った人々の多くは、「普通になろう」「社会(多数派)に適応しよう」と多大な努力をしてきた人々です。
その人の多くは、抑うつやイライラ、強迫症状、解離などの精神症状、頭痛や吐き気、下痢などの身体症状に悩まされ、「病気」として心療内科に受診して来ました。
一部の人は、ギャンブルやアルコール依存、大量服薬などの二次的な行動の問題も抱えていました。
これらの行動について詳細に分析してみると、
「これほど苦しんで社会に適応しようとしているのに」というイラ立ちや、
自分が納得できる生き方が出来ないための抑うつが背景にあり、発達障害自体の問題よりもこの結果としてのイラ立ちや抑うつのほうが重大な問題になっていました。
その人々とともに考え、私自身の経験も考慮して得られたのが、次に述べる「発達障害の真実」です。
発達障害は多数派に合わせようとすることで病的となり、かえって複雑な問題を生ずるということを痛い経験をする前に共有することが必要と考えます。
発達障害の基本的な真実
発達障害は、完全に多数派に合わせきることは出来ない。基本的には自分が納得するように生きるよりなく、多数派に合わせれば合わせるほど、自分自身にストレスを抱える。その結果かえってイライラして攻撃的になったり、抑うつになったり、強迫症状や視線恐怖、時には解離などの病的な症状で結果としてさらに不適応となったり、周囲にトラブルを引き起こすことになる。
従って、総合的に考えると、発達障害は「多数派に合わせることを考えないで自分が納得することを最優先にする」ことが一番周囲に与えるマイナスが少ない。多数派に合わせるために払った犠牲のためのツケのほうが、合わせられた効果に比べてはるかに大きいということは、ほとんどの場合厳然たる事実である。
発達障害の適応の基本原則
① 学童期は周囲の理解、協力と、服薬や「空間の分離」等の環境調整により、「本人は出来るだけ我慢させないで周囲とのトラブルを起こさないようにする」ことで二次障害を予防する。
それとともに、思春期以降の適応に備えて、「合理的な思考を身につけさせる」ことを最も重点を置く。
合理的に本人に周囲を理解させることは求めるが、実際に適応するという結果は要求しない。
そのためには、極端には登校しない、引きこもりという選択肢も考える。
② 思春期から、本人に自らの発達障害についてきちんと説明し、本人が主体的に自分と多数派の違いについて理解して多数派を観察し、合理的な状況分析が出来るようにトレーニングする。
③ 成人期には、「自分が納得するように生きる」という基本的な発達障害のスタンスを守りつつ、多数派の観察から得られた状況分析の合理的な結果から、本人が社会の中で希望することと、そのために必要な妥協のバランス、およびその妥協の結果として起こるストレスまで総合的に考えて、合理的に自分自身でどこまで社会(多数派)に適応するかの自分なりのスタイルを確立する。
発達障害の説明
私の説明は、「マイノリティー」という考え方を基本としている。
多数派対少数派という違いだけがあり、それを客観的に理解することが何よりも重要である。少数派であるというだけで多数派に合わせる必要はない。
基本的に自分が納得するように生き、必要最低限、自分が社会の中で得たい立場に合わせてそれを得るために妥協する。
多数派に説明するときにも、やはりマイノリティーとして「少数異民族」という説明をする。
最低限の適応はあっても、「治す」必要はない。
多数派はマイノリティーを独自の文化を持つ存在として尊重し、理解に努めなければならない。
その作業は、異文化理解、フィールドワークに似ている。
私は発達障害であることをどう考えているか
私は物心ついたころからいじめや不適応により二次障害に苦しんできました。
自分は「変わり者である」「人の気持ちが分からない」ことは親をはじめとして周囲から言われ続けました。
私自身も変わっていることは自覚していましたが、何らかの情緒障害であろうと自分では考えていました。二次障害として離人症の状態にあり、さまざまな不適応や抑うつの中で、私は「変わっている」者として、世間の多数派を外から観察し、自分との違いについて分析することを続けてきました。
30歳を過ぎてからADHDであることが分かり、やっと自分が多数派と違うのがなぜであるかについて理解し、その後はADHDとして多数派とどう付き合っていくか、多数派の社会の中でどう生きていくかを考え続けてきました。
現在の私の考えは、「ADHDというマイノリティーとして生きる」というものです。
私がADHDとして生きていることを積極的に捉え、多数派には出来ない過集中をはじめとするADHD独特の脳の働きを逆にプラスに生かすことをテーマとして考え、適応については、「自分が納得することを最優先として、最低限の父親、最低限の夫を目指す」という風に考えています。
特にADHDについては、「本当のことを言うはだかの王様の子供」の役割を自認し、多数派に出来ない「本当のことを言う」ことを私の役割と考えて生きることにしました。
この方針については、妻にも告げています。
普通の夫、普通の父親を目標としていた時期には、慢性的な下痢に悩まされ、また突然昔のいやな体験を思い出すフラッシュバックや気分の不安定さにずっと悩まされ続けていましたが、上記の目標がはっきりすると同時にこういった症状はすっかり見られなくなりました。