私はADHDとして、不確定が当たり前の世界を感じて生活し、未来や他者に関しては「想像や仮定しておく」しかない。
例えば誰かに私が「厳しいことをはっきり言う」という場合、結果は当然「分からない」が、短期的に予想されることは「相手の感情を害する」「相手が反発する」というようなことで、通常は「はっきり言うのをやめよう」ということになる。
しかしADHDである私は、「一時的には表面上対立となっても、長い目で見れば、深い相互理解につながる可能性があるのではないか?」と想像してあえてはっきり言うことを実行した。
ASの人はADHDである私から見ると、「悲観的な可能性ばかり想定するのが得意」のように見える。「マイナスは少しもあってはいけない」のか、「ほんの少しでもマイナスがあったらおしまい」と感じるのか、と想像しているが。
ADHD(である私)は毎日分からない世界に生きているので、「ラッキーなことと不運なことの確率は五分五分」と考える。悲観的な経過ももちろん想定できるが、そのぶん「思いも寄らないすばらしい発見」の可能性も想定できる。
ここで例えば私が書いたことで、新たに認識を新たにする人が居られれば、それはその人から見れば、「喜ぶべき発見」であるのだが、ASの人の想定にはそういう(予想外の発見などの)ことがありうるという部分が少ないように感じる。
「一時は対立しても、その後により深い相互理解が可能になる可能性」は実際ここで何名かの方のコメントの経過を見れば立派に実証されているように思う。
ADHDである私は、あくまでもそのより深い相互理解の可能性を追い求め、一時的な表面上の対立や現実的な一歩後退を怖れず「はっきり言う」ことを続けようと思う。
「少しのマイナスの後にもっと大きなプラスが生じる可能性」を想像することをASの人に提案してみたい。
>マイナスは少しもあってはいけない」のか、「ほんの少しでもマイナスがあったらおしまい」と感じるのか、と想像しているが。
これは私の経験から言うと、『10代にマイナス経験を多く積んでしまう』×『相手が何をどう嫌がるかを経験則から判断する』の、相乗効果が大きいです。
10代はAS本人が定型発達者の思考パターンを学習しておらず、また同級生(=周囲の定型発達者)も未成熟で自己愛的、自己評価が異常に高いので批判を嫌ったり、恨んだりする事が多いからトラブルに発展しやすいです。
成人して、『事実関係のみの指摘(相手の人格を攻撃しないで、行動が起こす問題だけを指摘する)』×『相手の行動パターンがプラスに作用する場面も付け加えて相手のメンツを立てる』という方法をやっと確立しました。
ただ、ボーダーの特徴を多く持つ人には通用しません。行動であれ人格であれ、否定されれば過剰反応を起こしますから。
私としては、『周囲もいつまでも10代ではない』、『いつまでも10代のような反応をする定型発達者もいる』という区別を心がけています。ただその見分け方が難しいのです。
ASの人が『悲観的な可能性を想定するのが得意』のように見えるのは『いろいろなことに、常に高い理想を持っているゆえ、何かの原因でそれが崩れるのが怖い』という心理からくる、一種の拒否反応(ショック反応?)の現れなのかな、とも私は想像します。
人間関係でも、高い自分なりの理想があり、それに近くなるように努力するのが務めだと思ってるようにも感じます。
そんなASの人には『少しのマイナスの後に大きなプラスがある可能性』を想像するのはとても困難ではないかとも思えますが、ここのASの人の何人かのコメントには、『そういう経験の積み重ねによって、いずれは可能なのではないか?』と、思わせるものがあります。
>私はADHDとして、不確定が当たり前の世界を感じて生活し、未来や他者に関しては「想像や仮定しておく」しかない。
この文章を読んで、最初はびっくりしました。
「不安じゃないのですか?」という驚きでした。
でも、読み返してみると、現実は「否応なしに不確定な毎日」を私も送っているし、未来や他者も「変化していく」のは当たり前のことですね。
今、テレビで「天気予報」が流れていますが、ASも「ある種の『天気予報』を見て安心する習慣」が沁みついているのではないかと自己分析してます。
>ASの人はADHDである私から見ると、「悲観的な可能性ばかり想定するのが得意」のように見える。「マイナスは少しもあってはいけない」のか、「ほんの少しでもマイナスがあったらおしまい」と感じるのか、と想像しているが。
「悲観的な可能性」が一番に頭に浮かぶのは自分でも何故なのかわかりません。
「悲観的な可能性」を思い浮かべたとしても、言葉で発する前に頭の中で「楽観的な可能性」に変えることは努力次第で可能になるのではないかと思います。
「ほんの少しでもマイナスがあったらおしまい」と感じて本当におしまいにする方がいるとしたら、立ち向かってほしいと思います。
「きれいに去った」というよりも「逃げた」のではないかと私も思ってしまいます。実際、私も逃げようかと思いましたが、表面上の対立と現実的な一歩後退に身を投じ、一過性の不安を伴いながらも立ち向かっています。「本当の意味で『自分』と向き合って」います。『自分』を救えるのは最終的には『自分自身』だと思っています。
勿論、YANBARU先生の存在無しにはその機会さえも無かったのですから、先生に感謝します。
「あら~今日もバッサリ?」と絶句の日々もありますが、本当のことを言ってくれる人は周りにいませんので、ありがたく思っています。
こういうことを書くと、先生に対するクレームかもしれません。
以前、
>「ASの人は***だ」と書くと、「ASの人だけが***で、他の人は全て***ではない」という意味にASの人は受け取っているように思う。
と書いてありました。
確かに、そう受け取りがちなところがありますが、
逆に言うと、
ASの人だけが***ではなく、ほかの人も***である。
ということになります。
ということは、***はAS固有の特徴とはいえなくなってしまいます。
そういう傾向が強いのは確かでしょうが。
今回の記事で言えば、ADHDだから、悪い結果を予想してはっきりと言う・・という行動を取れるとは、はっきりいえないのでは??と思います。
ASの人でも、それをしなければいけない場面があったら、はっきりと言うと思います。というよりも、結果を想像しないで言ってしまう場面が多いでしょう。
要するに、そう考えるのはADHDだから、ASだからと、割り切れることが疑問だということです。
そうするかしないかは、個人の個性の範疇ではないかと?
ASという障害の問題にする意義がわかりません。
2次障害のうつを防ぐとか、ASが生き辛い・・という問題を解決するのに役に立つのでしょうか?
コーチングの目標がわかりづらいです。
私がもしASだったとしても、最悪の予測しかできなくても・・・それはそれで、自分の生き方だと思ってきました。
決して騙されないから、徳だ!と思ってみたり・・・。
もし不利益を承知で、行動していくならば、それは「障害」にあらず、「個性」だと思われるのですが。
さきほど夫に口論でバッサリやられて、やや気落ちしながらコメントを書いています。相互理解とは、双方傷付き傷つけられるというしんどさを引きうけないといけない現実に直面しました。
原因は、私が夫が非常に毛嫌いしている某新聞を契約してしまったことがことの起こりです。私が『断りきれなかった事情』を夫に話したら、『お前ももう少し駆け引き上手になったらどうだ?』といいながら、いつものように夫流の駆け引き論を展開され、それが少々うんざりだったので『そんなに言うなら自分が話したら?』と言ったら『何だそれは?諦めて丸投げする気か?』と。
夫の私に対する『率直な意見』を聞きながら、はたして夫にとって私はどういう存在なんだろうかと疑問になりました。
夫が私に望むことはハードルが高く『駆け引き上手になれ』と言われても、夫の言うところの駆け引き上手というのが夫特有の意味合いが強くて、そもそも理解しずらいところがある。これを無理だとか、わからないとか言うと『努力しようとしない堕落した人間』、『お前とは意見が合わない、終わりだ』という言葉を前に力が抜けます。
また『オレの言葉に対してワンクッション置いてから返せ』といわれてもリアルの会話では厳しいものがあります。夫の望むようなリアクションはどうしたって出来ません。『努力はするけど100%は無理』という理論が、夫には伝わりにくいような印象もあります。言葉ではなく態度、というのも、どういう態度で私の努力がわかってもらえるのか、見当もつきません。
やはり私と夫は『合わない』のだろうかと思いました。夫が私と居ることが苦痛なら、いっそ別れてしまったほうが双方のためなのでは?という考えすら浮かび、共に生きる可能性に挫折を感じてしまっています。
ASとADHDの相互理解の壁は、想像以上なのかなとも思いました。実際には何度も何度も、ぶつかり合いが必要なのかもしれません。それを恐れて、お互いはっきり言わずに、隠れて文句を言い合うだけでは、理解には繋がらないのでしょう。
wakabaさんへ。
>ASという障害の問題にする意義がわかりません。
先生はASという障害を問題にしてはいないと思います。ただ相互理解の手段として、ASもADHDも双方が『はっきり意見を言う』が大事ということだと思います。
ASとADHDの相互理解の壁は厚いです。私も実生活で夫とのやりとりで実感しています。先も書きましたが、双方(ASもADHDも)が『相手が傷つくから、気分を害するからといって、直接言わない』では、理解は進まないのではないでしょうか。
私も一筋の可能性にかけて夫の理解に務めていますが、先のコメントに書いたように、時に挫折しそうになります。でも挫折するということは、『相手を見限る』ことでもあると思います。見限られるのと、可能性に賭けて争いながらも共に生きるのと、どちらがいいのか?(夫にも)聞いてみたいような気もしています。
私はADHD当事者と自己認識している者ですが(未診断。YANBARU先生にはメール相談にてADHDだろうと言われました)
wakabaさん、
率直に私の考えを述べます。
> ASの人だけが***ではなく、ほかの人も***である。
> ということになります。
> ということは、***はAS固有の特徴とはいえなくなってしまいます。
> そういう傾向が強いのは確かでしょうが。
その言い方は
「AS以外にもそういう考え方をする人がいる。つまりはASだろうがASじゃなかろうがみんな一緒じゃないか」
という意図を含んでいるように感じましたが、どうでしょうか?
そうだとすると、それこそが、
「0でない。ならば100である」
という考え方の一例のように思います。
例えばですが、
「女性の平均身長は男性の平均身長より低い」
という事象と、
「世界から無作為に男性と女性を一人ずつ選んだときに、その男性の身長がその女性の身長より低いことはあり得る」
という事象はなんら相反しません。wakabaさんの論法では、1つめの事象と2つめの事象が同時に成立しないかのような言い方になってしまっている気がします。
さてそう考えたときに、
「ASの人はこういう考え方をする傾向があるので、それが周囲との齟齬を生じるなどして、結果として生き辛さの原因となっている可能性があるから、こうしてみてはどうだろう?」
というアドバイスは、
「AS以外にもそういう考え方をする人はいる」
という事象によって無意味となるでしょうか?私は無意味ではないと考えます。
また、最近のYANBARU先生のエントリにもありましたが、
今YANBARU先生が述べておられるコーチング及びアドバイスは、そのような「傾向」を否定せず、ASなりADHDの特徴として認知した上で、その上でさらに社会と「自分が望ましいと思う関係」を保つ為にどこまで妥協するのかについての指針を述べたものと考えています。そして、最終的な妥協点は様々なアドバイス(や、他の様々な情報)を読んだ上で個々人が判断すればいいのではないでしょうか。
「障害の特徴だから直さなくていい(0)」か
「障害の特徴だから直すべきである(100)」か
ということが論旨ではないと思うのです。
先ほどは個人的なことを長々と書いてしまい失礼しました。
スレッドの本筋から反れてしまいそうなので、私の実生活の相互理解のためのコーチング、とまではいきませんが、『果てしない相互理解』を目指すべく、自分のブログに書いていこうかと思いました。
挫折するかもしれません。それくらい、AS夫との理解の壁は厚いです。なんせ彼は自分の考え方や理論にすごく自信を持っています。正直、ひどく傲慢に思えるくらいです。でもその傲慢さがどこからくるのか、受動型ASとしての夫の見方が、自分としてもシビアさに欠けていたと思えるので、しばらく諦めないで理解につとめようと思います。
問題は、夫がASを自覚しないまでも、問題点に気が付いていないことです。なんとか気がついてほしいと思っています。ここのASの方のには、問題に気が付いている人も何人かいらっしゃるので、望みはあると思っています。
近頃は意識して「少しのマイナスの後にもっと大きなプラスが生じる可能性」を想像しています。今のマイナス状況にあって、自分自身で沢山のプラスを得ていることは自分でハッキリと分かります。それでも、更にマイナスを許容する事でその先の大きなプラスを目指すことには抵抗があります。マイナスの大きさとプラスに転じる確率をいつも考えています。充分な勝算がないと賭けや博打が出来ないです。
私から見ると、ADHDの方は(人によるかと思いますが)確率を深く考えずに、人間関係や未来に対しての博打が打てる印象です。
話が少しずれますが、何に関してもそのマイナス面に注目してしまう性質をAS的に持っているような気がします。-10と+20よりも、+1と+1を選びそうです。これは未来についてだけではなく、自分自身に対しても、他者に対しても持ってますので、特に他者に関してはトラブルの原因です。
私もメールでASではないか?と指摘されたのですが。
私自身は、いろいろとアスペルガーのことを調べてみた上で、自分は違うのではないか?と思っています。
というより、根拠があいまいな上、やんばるさんの指摘に振り回された感が強いです。
先生に答えてもらいたいと思って書いたので、このブログを参照にする人たちのことを否定するつもりはありません。
ASだから、ADHDだから・・・という表現では
一般的に定義されるAS、ADHDを対象に書かれていると、普通は思います。
しかし、ここのブログで使われている意味は
(私という)ASでは、(私に限っての)ADHDでは・・という意味にとったほうがよいということのようですね。
平均身長のたとえが出ているのでついでですが、
世界の平均身長を出す算出方法は、私にも推測できます。
平均身長は信用できるものだと思います。
正確なデータを出すには、全世界の人々の身長を全てとはいえなくても、大多数の人の身長データを集めなくてはいけませんね。
私には、先生が一般的なASという定義を使って言い切れるほど、データ収集が豊富か?調査が十分か?という疑いがあります。
そして、障害名を出して、こういう傾向があるので○○という障害のある人は、「こういう風に考え方を変えてみなさい」「こういう風に考えたほうがいいだろう」
と、指摘しなければいけない問題か?ということも疑問です。
平均身長は、学術的に意味があっても
「個人」にはあまり意味はなさないものです。
自分が平均より勝っている、劣っているという位置づけには役に立っても、「生きていく」ことには何も関係はありません。
先生が学術的にASの特徴を明確にしたいのならば、それなりの手順を踏んでやったほうがいいことだと思います。
わたし個人の考えですが
>『相手が傷つくから、気分を害するからといって、直接言わない』では、理解は進まないのではないでしょうか。
という表現は、ASだから、ADHDだからと前置きしなくてもいい言葉だと思います。
誰にでも当てはまる人間的な心理の問題、対人関係の問題、それらをASだから、ADHDだから・・・と理由付けていけば、ASの定義、ADHDの定義があいまいになる一方では?
ただでさえ発達障害は、成人後の診断が難しいといわれているのです。
コメントありがとうございます。
wakaba様のコメントだけにとりあえずお返事しておきます。
このブログは、あくまでも一医師で当事者である個人のブログであり、別に見るか見ないかはネットの世界で共通の「自己責任」です。私があなたの通院主治医であるのであれば別ですが、私はあなたに読んでいただく必要も義務も責任もありません。
自分を変えようと努力する発達障害の人が居られ、その人に役に立つ可能性があると私なりに思うことを書いているだけで、役に立てるかどうかは自己責任ですので、あなたに役に立たないのであれば見られなければ良いだけです。
あなたが自分を変える意志が少ないのであれば、見られないことをお勧めします。
メールで書いていることとこのブログの内容は無関係です。この二つを混同するのは大きな問題がありますので、二度としないでください。
コメントありがとうございました。