私は多くの発達障害の方と接してきて、ADHDとASについて考え続けている。その中で、「ADHDとASの中間または合併(両方)ということを考えるか」という問題は一番大きな問題だ。
私は中間や合併の診断をしない。その理由は、「その人の困っている問題の解決やコーチングを行ううえで、両方ともいった診断が使いにくいから」だ。
実際には当事者も多様であり、「注意欠陥だけでくくればADHDに分類するべきだが対人関係の特徴を見るとAS的」というような人(受動型AS)も居られ、逆に私がADHDのACやAS被影響症候群のADHDと呼んでいる人は表面上注意欠陥は目立たずADHDっぽくない。
だからいっそのこと「パーツの組み合わせ」という考え方にして、「ここだけはADHDでここはAS」という表現も確かにある。
しかし私が引っかかっているのは、例えばこれまで記述してきた、「バラバラの認知と関連付けすぎの認知」、「人に執着しないことと強い愛着」、「極端に予測可能な世界を好むことと極端に場当たり的」といったはっきり正反対になる部分がたくさん見られるからだ。
また、表面的には同じ注意欠陥でも、受動型ASの人とADHDは良く見ると違うところもあり、「注意欠陥の意味が違う」というようにも思う。
非常に本質的な問題であるので、何回か私なりの考えかたを書いてみるので、当事者の人の意見を聞いてみたい。
まず私が「大分類」として「人への執着、愛着」を上げたのは、当事者の実際に困っている問題が対人関係であることが多いので、愛着のある人とない人を同じ症候群で呼ばないほうが良いと考えたからだ。
微妙な位置づけとなるのは、私が「自己正当化型ADHD」、「受動型AS」と呼ぶ人々だと思う。次からこれらについて詳しく検討しながらこの問題を考えていくことにする。
『双方の合併』という考え方は、実は発達障害の子どもをもつ親同士の掲示板に参加していたころ、聞いた話ではあります。
ただ『障害の本質』という話になると、やはりどちらかの診断になるのだと思います。
まずアスペルガーを含め自閉圏の障害(=広汎性発達障害)は『三つ組みの障害』という言葉で表現されます。
・社会性の障害
・想像力の障害
・コミュニケーションの障害
(・・・だったとおもいます。ちょっと怪しい。)
対してADHD(注意欠陥・多動性障害)は
『多動性・衝動性・不注意』の3つからなる障害です。(脳内物質のドーパミン等の働きがなんらかの形でうまく働かないことから起こる障害)。
両者の大きな違いは、『ADHDについては、投薬で症状を改善することができる』ということです。AS(をはじめとする広汎性発達障害)の三つ組みの障害については、薬で改善することはできません。
このようなことから、両者は『全く別の脳の働きの違いの障害から起きているのではないか?』と私は仮定しています。
もうひとつ。診断の基準として『自閉症の特徴と、ADHDの特徴が重複してる場合は自閉症の診断(ASなど広汎性発達障害)を優先させる、という『決まり』があるということ。
このことは『たとえ不注意などADHD的な特徴が見られても、自閉症の障害のほうが重い障害だから』という説がありますが、しかし、私は『自閉症の三つ組みの障害が見られる場合は、不注意や多動などは、自閉脳の認知と働きから来ている』からではないか?と(これも仮定ですが)そのように考えます。
自閉症の障害(ASをはじめとする広汎性発達障害)の多動や不注意と、ADHDの多動や不注意は表面上似ていても『自閉脳の働きと認知から来るもの』と『脳内物質の伝達の障害から来るもの』とは本質的に異なりますが、表面上は全く同じに見えるので、これら特徴からの表面上の区別は、専門家でも非常に難しいと思います。
以上、素人の私が今までに得た知識だけでまとめました。違っているところがあったら指摘してください。
個人的にYANBARU先生の『人への愛着』という区分ですが、『三つ組みの障害(社会性、コミュニケーション、想像力)』という側面から考えると、自分としては納得できますが、皆さんはいかがでしょうか?
まさにそうなんですよね。
先生のブログからあちらこちらたどって
何ヵ所か読ませてもらったのですが
ADHDでもAS的な特徴にかぶることがけっこうあるんですよ。
「愛着は」う~ん...どうでしょう...
私はダンナのこと大好きですしね。
(なにもできなくても大事にしてくれるからかな)
といいつつ
この世の中で「今」1番愛しているのは娘です。
(かわいいし、かなり面白いし、私と似てる)
愛着は愛着でも
自閉症の息子がダンナへ向ける愛着と
私が愛着と思っているのは全然別物のような気がします。
どう別なのかと聞かれると上手く説明できません。
私も久しぶりにネットでいろいろな『診断基準』を探して読みましたが、それだけ読んでると『あれ、私はAS?』と思われるような紛らわしい記述がありました。
私は発達障害の診断の難しいところは『行動パターンや思考から診断する』という、一見して推理小説の犯人探し(言葉は悪いですが)に似た要素が強い。まさに『直感と経験』が必要な作業だと思います。
また他の疾患のように『画像や細胞の検査データなどを参照にしてもあまり意味が無い』ので余計難しいように思います。
しかし実はこの『検査データ』に匹敵するのが(発達障害の場合)『自己診断』なのかもしれません。自分で自分をどう感じて、どこに問題点を感じているのか。これは診断するにあたって大事な情報ではないかと思います。
私も息子のことを、不注意が目だっていたからADHDだと思っていましたが、自分と比べていろんなところが異なっているのがわかってきました。主治医も『自閉症(広汎性発達障害)』という診断なので、あまり自閉症らしくなくてもそうなのだ、と納得しています。(主治医の話では、自閉症は本当にいろんなタイプがいるそうで、中にはADHDっぽくみえる子もかなりいるようですよ。)
人への愛着の有無・・。
逆に私はADHDの方に質問してみたいのですが、自分から異性を好きになることはないのかどうか、興味があります。
結婚をしたということは、その人が好きだったからではないのでしょうか。
少なくとも「愛情」が存在したから結婚に繋がったのではないのでしょうか。
このあたりが、知りたいです。
こんにちは、久しぶりの書き込みになります。
yanbaru先生とのメール相談と自己診断でADHDのACと言われたのですが、じつはこのブログを読み始めて、分からなくなってしまった人間の一人です。
1「バラバラの認知と関連付けすぎの認知」
2「人に執着しないことと強い愛着」
3「極端に予測可能な世界を好むことと極端に場当たり的」
ということなのですが、
1 すごく関連付けにこだわるところがあります。「つまり○○ということなんでしょう。だって××だったんだから。そうじゃないと筋が通らないじゃん。」なんてよく言ってしまいます。
2 話を聞いてくれる人なら誰でもいいというのはADHD的だと思います。
3 基本的には予測できない世界が落ち着かなくてたまりません。常に予測を繰り返し、長期的なことは脅迫的に計画を立てる(長期的な貯蓄計画など)一方、短期的なことは非常に場当たり的です・・・どちらも当てはまる?でも、短期的なことは大体予測がつくからで、予測が外れるとパニック状態となります(^-^;
一方で説明書なんかは読まないし、学会も読み原稿なんて作れません(^-^;
とすると、2以外はASに当てはまるということになってしまうような気もしないでもないんですよね。
ただ、生活史的にはADHDなんだと思います。
(衝動性のみで多動は一貫して目立ちませんが)
話し方とか文章とかは、完全に注意欠陥丸のために連合弛緩調になることが多いです・・・
難しいですね。
>daisyさんへ
元ADHDのACであった私は、今思うと脅迫的に家事や片付けをやっていました。だから表面上は片付けできないということはなくADHDさしさはあまりありませんでした。こだわっていたというよりは『主婦なんだから(社会的にそういう自分を求められているから)そうしないといけない』と思っていました。
生活史的にはADHDだと思われている、ということですので、計画的になるのは『(一般的に社会人として求められているから)計画的でないといけない』という脅迫感からそうなさってしまうように私には見えます。
予測が外れてパニックになるとどんな気持ちですか?『ああ、またここで失敗するかも!どうしよう』という気持ちに近いですか?それとも、もっと違う種類のものですか?
ほかに、日常生活で『どうしてもこの手順でないと気持ちが悪い』とか、長年愛用しているものがどうしても捨てられない、というように、特定のモノに対して強い思い入れがありますか?
HIKARIさんへ
>結婚をしたということは、その人が好きだったからではないのでしょうか。
少なくとも「愛情」が存在したから結婚に繋がったのではないのでしょうか。
うーん。
この質問にこう答えたらどう思われるだろう。
結婚に至ったのは好きだったからでしょう?と聞かれたら『そうかもしれないし、ちょっと違うかもしれない』。かといって嫌いではなかったのは確か。
愛情・・・。私はこの言葉を前にいつも立ちすくんで何も言えなくなるけれど、私は愛情よりも(同性でも異性でも)信頼を求めているのは確かです。
私にとって愛情とは、実に気まぐれでアテにもならず、信頼ができないものです。
だから愛を信じて人生を共にする、という考え方はできません。裏切られるから不安というより、愛とは裏切られるのがこの世では当たり前と考えるからです。また愛は時に人を支配し束縛し、自分の意思すら自由にしてくれません。
それよりも、自分と同じ理想や志を共有できることが、私の幸福ではないかと最近思うようになりました。
私も1ヶ月前は「ADHDとASの合併だ」と思いつめて、発達障害を診断してくれる病院を公的機関で紹介してもらって受診に行こうとしてたところでした。
YANMARU先生のブログともう1つ別のHPでお医者さんの寄稿した記事(ASの自己診断方法について)を読んで、「単なるADHDだ」と思い直して病院に行くのをやめました。
(別に病院で診断してもらうのを否定している訳ではありません。ADHDの診断は5,6年前にすでに病院でしてもらってますし。)
HIKARIさんへ
私はADHDですが恋愛は普通にすると思います。
「愛着」(=アタッチメント)というのは、「乳幼児が母親を特別な存在と認識すること」と私は理解しています。乳幼児ー母親間では愛着が正常な発達を示すが、成人ー成人間で愛着があるのはtoo much で、それが「発達障害」であるゆえんなのかなと私は想像していました。例えて言うと、AS男性(私の周囲の数人)はいつまでもマザコンの中学生みたいな態度で母親に接し、(いい年して母親を馬鹿にするなど)その態度をそのまま妻に転化させてる(妻に対し、常に「お前馬鹿だなー」みたいな態度で教育的指導をしようとする)ような印象を持ちます。
* あくまでも私個人的な経験です。ASの賢そうで自信があるところはうらやましいと私は思ってます。
連投すみません
>HIKARI さん
ADHDも人を好きになりますよ。
けれどもきっと「熱しやすくて冷めやすい」パターンが多いかもしれませんね。
ADHDの恋愛初期って常に好きな人のことで頭がいっぱいで、勉強やそのほかdutyが手が付かなくなってしまうなんて人も多いのではないでしょうか。
一方で、移り気なので、遠距離恋愛は苦手そうな気がします。
♪わかれても~好きな人♪なんて歌はいまいちADHDになじまず、AS親和的ですよね。
ちなみに私の恋愛パターンはやはりADHD的です。
また、既婚者ですが、恋愛と結婚は別だと思っていますw
yurinさん ありがとうございます
>『(一般的に社会人として求められているから)計画的でないといけない』という脅迫感からそうなさってしまうように私には見えます。
そうかもしれません!!
場当たり的といっても、必ずしも「なんとかなるさ」という楽天的な考えはなくてもいいということなんですね。
私は「何とかなるかどうか分からないじゃん!?」と予測をしたがりますが、「何とかならなかったらどうしよう、また否定される」という無意識の裏返しなんでしょうかね。
>予測が外れてパニックになるとどんな気持ちですか?『ああ、またここで失敗するかも!どうしよう』という気持ちに近いですか?それとも、もっと違う種類のものですか?
それに近いと思いますが、それよりも、制御不能の状態すなわち不穏に近くなります(^-^;言葉で表し難い気持ちですね。
>ほかに、日常生活で『どうしてもこの手順でないと気持ちが悪い』とか、長年愛用しているものがどうしても捨てられない、というように、特定のモノに対して強い思い入れがありますか?
それはないんですよね。蛍光ペンのメーカーにこだわるとかそういうことは確かにありますが、物をなくしやすいので、特定の物に対する愛着は非常に小さいです。
たとえば、バッグは一度使い始めると取り替えるのが面倒くさいので、毎日同じですが、きっかけがあってバッグを変えると、今まで使っていたものは完全に放置されます。
一方で、精神科医の中には、ASとADHDやLDは合併することがあると考えている先生も多いようです。(一番近い先生もその意見でした)
見ているところが違うので、議論自体が難しいところが・・・。
ここで良く出てくるキーワード「愛着」
私は未だに捉えきれずにいます。
私の妻(多分ADHD)は、普通に恋愛しますし嫉妬もしてました。ただ本人が「何でも2年位で飽きる」と言ってましたし、私に対しても冷めてしまいました。今は新しい恋に夢中のようです。
私(AS)は母から正常に(割と早期に)親離れしました。妻に対しては(妻に限らずこれまでの恋愛でも)この人を自分が支えなければ、と思います。と言うか、支える必要がある人を好きになってたような気がします。支えることで自分の存在価値を見出す自己愛のようなものなのかなと思ったりもしますが、良く分かりません。そんな事を考え出した今では、すっかり「愛」が何であるのかも分からなくなってしまいました。
私にとっては(AS的に)、自分のパートナーは完全に自分の世界の不可分な一部になってます。ですので、失う時には自分の一部が切り取られるかのような思いをします。あ、それって親子の愛着と質的に同じなのか…だから愛着なのか…
多数派にとっての「愛」って、どんなものなのでしょうかね?
皆さんのコメントを読みながら・・・『私ってさびしい人生送ってきたのかしら?』私がこの手のコメントをすると、ADHDは人を好きにならない、という先入観を持たれてしまうようで、今後少し考えようかな、と思ってしまいました(^_^;)
うーん。恋愛については私は奥手でした。十代のころは異性に恋愛感情を抱くところまでいかなかったですからねー。友達と上手く(普通に)やるのが精一杯。二十代に入っても、誘われたらお茶してお喋りして、話が合ったら次も約束するっていう感じ。いきあたりばったりでしたね。ただ歌の歌詞にあるような切ない気持ちとか、愛しい気持ちになったことはない。だから、他の人はそういうふうに人を好きになるのかな、なんて思っていました。でも、これって私の幻想だったんでしょうか?
ただ、別れると決めたらスッパリでした。相手に見切りをつけたら(って偉そうですが)別れを決めるのは早かった。未練なんて言葉は、私の辞書にはなかったです。
基本的に、私は1人のほうが気楽でいいという考えがあるのは確かのようです。人を好きにならないわけではないけれど、生活を共にするのはやっぱりしんどいなーと思います。だらしない、ってこともあるけど、相手が自分の生き方を尊重してくれる人ならいいけど、人は基本的に、一緒にいたら自分と一緒になることを望むようなところがあるように思える。・・・あ、これも幻想かな?夫が支配の強いASだから。
(ASが悪い、ということではないですけどね、人間って基本的に皆、相手を自分好みに変えたい欲求は、程度の差はあれ持っていると思います)
愛着というのは、『人を好きになる気持ちを(相手の気持ちに合わせて)断ち切れない』あるいは『誰か1人を好きになるあまり、他の関係のバランスを欠いてしまうくらい強い愛情』っていうことなんでしょうか?
人を好きになる、ならないというより、好きという力の強さの違いとも考えられますね。
>HIKARIさんへ
>自分から異性を好きになることはないのかどうか
よくありますよ
ひとめぼれも多いです。
ダンナのことも大好きです。
いろんな事を知っている人、尊敬できる人は好きです
好みのルックスもあります
それでも...
なにかの歌の歌詞にあったのですが
「愛してるからといって なんでもは出来ないよ」
がまさしく私です。
尽くすタイプではないです。
私は愛着と愛情ってちょっと違うと思います。
愛があっても縛られるのはイヤです。
愛されるのはいいのですが愛着の対象にはなりたくないです。
愛着は「がんじがらめ」のイメージです。
それに
愛していてもダンナが死んだら出てきてほしいとは思わない。
ダンナは「幽霊でもいいから逢いたいと思わないのか!」
と悲しそうにしていたのですが絶対にムリです。
愛着についてのご回答、ありがとうございました。
yurinさんの
>愛とは裏切られるのがこの世では当たり前と考えるからです。また、愛は時に人を支配し束縛し、自分の意思すら自由にしてくれません。
そちらから見ると、「愛」はこう見えるのですね。
「愛は裏切られるのが当たり前」という前提は、私にとっては怖い真実のようです。正視したくない「真実」という位置にあります。
私は裏切らないから、あなたも裏切れないよね?という勝手な思い込みに支えられている自分がいます。
私はこの「不自由さ」がどこからくるのかわかりません。
「自由恋愛」など、してみたい気もあることはありますが、傷つくことを恐れ、何もできないのはYANBARU先生の「プラスの可能性の想像」が苦手だからなのかな、とも思います。
尤も、私は結婚していますので「不倫」になる訳ですが、私が「不倫」ができるようになったら「凄い!」と思います。
全然、勇気ありません・・。
話がそれてしまいましたが、「信頼関係」での回答、わかりやすかったです。ありがとうございました。
>パパイヤさんへ
発達障害の成長過程がわかりやすかったです。
ADHDの特徴を持つ娘の交際相手は不思議とASの特徴を持つ男性ばかりです。彼らに共通することは「父親との距離が遠く、母親との距離がとても近い(相談相手になっている)」ことです。これが結婚してから横柄な態度に出られたら、娘はすぐに別れると思います。
これも分かりやすかったです。回答ありがとうございました。
>daisyさんへ
なんて自由なんでしょう!
そうなりたいと思っているのですが、実際の自分は「保守的」です・・。このまま腐ってしまいそう・・。
別れて傷付くのが怖くないですか?
結婚前も今も、「浮気」は「終わりの始まり」と思っていましたので、どーしよーもない脳みそです。
「飛べない」「飛ばない」私です。
率直な回答、ありがとうございました。
なんだか・・みなさんの回答にカルチャーショックです。
つくづく私が古い女だな~、重い女だな~と思いました。
正直なご意見、ありがとうございました。
月の草ADHD-ACのはず、です。
daisyさん>
よかった〜〜〜〜っ!!!!!(涙)そうですよねぇ〜〜〜(^^/
昨日、丸一日ずっーーーとYANBARU先生宛に、恋愛体験談を書いてました(ほとんどヤケです)。で、昨夜深夜過ぎにやっと一つ目を送ったところです。今日はYANBARU先生は朝からつまんない物を見せられて、今日は体調不良になられてると思います(すみません、あと三回くらいは続きます)。
私はもう、昨日からずっと落ち込んでました。_____嗚呼、愛した人が何人かいて、嵐のような恋愛を経験したことがあるなんていったら、きっとまた愛着だっていわれちゃうんだろうなー、どうしよう、_____
だって、これをあたしから取り上げたら、何も残らないですー。唯一自分のつまらない人生の中で精彩を放ってる部分だし、本物の愛を探すために生きてきたみたいなところがありますからー。
なんか色々昔の恋愛を思い出してみると、あれこれ気付くこともあるし、思い出しすぎてdutyや仕事に手が付かないし、、今日も一日どんよりしてました(外出先でもずっとぼうっと考えてしまって)。いろいろ新しい発見もあったけど、色々思い出して、気付いたこともあって、がっくりきちゃって端的に話せないです。皆さんぱっぱっと考えを口にできて、自信があって羨ましい。
思い出してみると、ほとんど相手はASだったかも、、、定型タイプも含まれてるようなんですが、ほんとに少ないみたい。
♪わかれても~好きな人♪かー、いますねー。確かに別れた後数年は全く思い出さなかったというか、極端に評価を下げてましたが(フン、あんなのいらない、みたいな)、時々浮上してくるんですよね。このごろは時々思い出して嬉しくなります。あれはいい話だったんだ、と。短期で再開を考えちゃったりして、危ないですねー(^^; その人は、思えば一番私をまともに扱ってくれた人だったから、単にそういう「持ち上げてくれる人」を求めてるアダルトチルドレンなだけかもしれないですけどー。あぁーあ。いずれにしても嘆息です。
あひるさんへ
>愛があっても縛られるのは嫌です。
>愛されるのはいいですが、愛着の対象にはなりたくないです。
>愛着は「がんじがらめ」のイメージです。
縛られたことが無いので縛られる怖さを知りません。
縛りたくても自由奔放な夫で、うまくかわされてしまってます。(ADHDじゃないかと密かに思っていますが)
新婚当初は悔し泣きしてましたが、今は慣れました。
夫への愛を、子供に向けてしまったのかな?
子供を愛することで自分を充たしていたのかな?
あ・・それが「愛」という名前の「支配」だったんだ、きっと・・。
回答ありがとうございました。
うわー、、古いキャッシュにレスつけちゃったみたいで、すみません〜
デイジーさんの15:30のところしか、私が書き出した時は表示されてなくて〜(泣)
あースレッドが終わってる……
(HIKARI さんもうちょっと待ってくださらないとーーーがんばって書こう。また取り残される……)
私は十代の頃から“台風の目みたいな奴だ”と、、、制御不能な感じ(そうそう、それ!!なんだ、四文字で表現できるのか…..二日間も悩んだのに)で、前後の見境がありません。本能に従うのみです。特に十三歳〜結婚までは荒れた生活をしていて、めちゃくちゃでした。交際している相手がいる時は比較的おとなしくしているんだけど….だいたいMAX三ヶ月。例外的な三人とは一年です。
多重生活というのかしら。いくつかの世界への興味を、一人の人が全部満たしてくれればいいんだけど、そういう便利な人には出会わなくて、どうしても役割分担をお願いする感じになってしまう。本気の相手がいる時は、絶対に他の人とは付き合わないんだけど。
学校で、目が会うとドキドキする彼がいる(でも夜は歓楽街)。それから、大好きで胸がきゅんとするバイト先の親友みたいな彼。寂しい時に電話すればいつでもそばにいてくれるお金持ちのお兄さん。面白い本を貸してくれたり、美味しい物を食べさせてくれる洒落た人。暇な時に気の済むまでドライブに連れていってくれる男の子の友達。映画を一緒に観る相手、ウィンドウショッピングする相手、歓楽街で遊ぶ相手、山に散歩に行く相手(全部三ヶ月以内に別れます)……そういうまとまりの無い自分や、○○企図の自分が嫌で、19才くらいの時恋した相手との関係を維持するため精神科に通うようになりました(症状は境界例)。
今の夫のことは、結婚当初は愛してました。でも、夫とは結婚前から全くうまくいっていなくて精神科の先生に「私は別れたい」っていつも言ってました。「あなたはなんでももう少しの所で破壊してしまうところがあるから」と言われたことがずっとひっかかっていて、夫ともただその私の破滅嗜好のせいで、振られる前(見捨てられる前)に壊そうとしてしまうのかもしれないから、もう少し頑張ろうと思って別れなかった経緯があります。(また書きますー)
ADD自己認識で病院に行ってみて、AS傾向も指摘されました。
今の心情は日本で育った外国人が、「あなたは外国人だ」と言われて、育ち方から俺は日本人なのになんでだ?って気分です。
自己受容の点からはAS認識がまだ出来て居ない、それよりも今までの生きづらさや、このサイトの説明での共感のしやすさ、先生のページの愛着についてのコメントを見直すと自己帰属意識はADDです。
現状の反応パターンを見ると軽いAS的なところも散見できるので、医者が診断するならAsと言い出してくる理由はあるとは思います。大人しい普段はぼーーっとしてる方なので、自閉っぽくみえるのかも。
嫉妬が判るので受動型ASかも。
ASからくるadd状態なら、Asのコーチングでもいいのかもしれません。そのため「問題の解決やコーチング」のためにどちらかに診断してそれを元にしていく方法が有効な気はします。
そうでなく、自覚の方のADDにASが併発なら、(ASの自己受容が出来て居ないためかもしれませんが)、Asに関するコーチングを読んで行きましたが、自分の実感と違い過ぎてかなり一人で理解するのは難しいです。実感できない事を実行するのはもっと難しい気がします。
続きます
先延ばしの場合、As的な計画を立てそれが100%出来ないために最初から取り掛かろうとしない場合、長期の計画を立てようとしてもそこまで意識が回らずに100%できるかどうかも頭で考えれない、
それ以前の段階で諦めてしまう。(子供の頃、夏休みの計画を立てるのも嫌でした、守れないと作る段階で思ってる)
結果的には計画さえ完璧に出来ないから実行しないと、100か0かと同じようになります。AS的に最後まで考えて判断してから先延ばせる能力が羨ましい。
障害の本質がAsだったとしてもADD的な脳が邪魔をする感じですが。
めんどくさい、無理、諦め、自己評価の低下を過ごしてきた自分には、完璧を求められる事自体が無茶な条件で(とても運がよくない限り無理)、自分が自分にそんな事を要求するAsだったら、何も出来ないし勘弁して欲しいです。
(書いてきて、自分がAsだと言われるのを頭で理解しても納得しないわけが見えてきた気がします)
合併の場合、現状のADHDとAsのそれぞれを参考にしたら、あっちではこうだけどこっちではああの部分が、自分にとってどうなのかよく判らなくて悪戯に混乱を招く可能性が高いと思ってます。
長々とすみません。これで終わりです。
> まず私が「大分類」として「人への執着、愛着」を上げたのは、当事者の実際に困っている問題が対人関係であることが多いので、
そういう理由で判断に上げられたというのが今わかりました。なんでこんな判りにくい事が判断の基準になっているのか疑問でした。
私が半ひきこもりになったのも、自信のなさからで大人社会でのコミニケーションの問題ではあるんです。
まがりなりにも一般的な恋愛関係状態になった事の無い私にとっては(擬似的なのはあるんですが)、愛着って何、自分のは本当に該当する愛着なのか?と思って判断がつかず、推察するしかない事象です。多くの方がこの部分で表面化しているのなら有効な指針だと思いますが、ズレてる身にとっては、他の指標も欲しいかなとは思ってます。
執着対象が、リアルで動いてる人かどうかが重要な要素になっていない私個人の場合には敷居が高かったりします。
物への執着の、一種「生命を持った生き物に近いその物自体」という認識が非常に実感できるんですよ。
執着のなさは若い頃から感じていました。
普通に恋愛もしますし、デートの最中は恋人らしく振舞いますが、家に帰ってくればわりと相手のことは忘れてしまうと言うか。
「あの人今頃何してるのかしら」「浮気してないかしら」と思いをはせるようなことはあまりありませんでした。(なのでよく浮気されました。まるで気づかないためです)
何年越しでつきあった相手と別れるときも、私なりにとても悲しかったのですが、漫画読んでる間にきれいに忘れてしまったといいますか。
そういうなんというのか、淡白さというか、冷たさみたいなものがあります。
人に話すと、たいがい「本当の恋愛を知らないから」と返ってきました。若い頃は「そうなのかな」とちょっと考え込んだりしましたが、20代後半になって「どうも違う」と思いました。
結婚は旦那から望まれたものでした。私も「私みたいなものでよければ」と思いました。好きでしたし一緒にいて居心地も悪くありませんでしたし。
ただ付き合った期間が短かったんですが、これが長かったら結婚に至らなかったのではないかと今でも思います。旦那は私の「使えなさ」に驚愕していました。
旦那は私から見ると少し神経質で俺ルールのかたまりで、余裕のない人に見えます。少しAS的なところもあるかな?と思うこともありますが、徹底した合理主義や多動(待てない)など、ADHD的と思うところもみられます。
私自身は執着のなさや視界から外れると忘れてしまう、今しかないなどADHD的ですが、予定外の行動に大変弱く、ハプニングがあると「余計使えない人」になってしまいます。ルーチンワークのほうが好きです。刺激より安定を好みます。そこは少しAS的なのかなとも感じます。
話があちこちしました、すみません。
合併という考え方は、結論としては有り得ると考えます。実際ADHDとLDは合併しやすい、といいます。自分の記憶を辿っても、小学校2年まで左右がわからなかったり、筆算の桁を揃えて書けなくて注意されたことがあります。また数字の計算も苦手です。だから軽くLDを持っていると自分自身思っています。
しかし、ADHDとLDは表面上の障害の特性として『見分けがつけやすい』から、『合併という診断』がつけやすいのだと考えます。
しかし、ASとADHDの合併、となると表面上非常に似通って見える特徴が多いので、たとえば不注意ひとつとっても『これはADHDの不注意』か『これはASの不注意』なのか?かなり経験豊富な専門家でも区別しずらいといわれます。
だから、現状の診断基準のように『自閉症の三つ組みの障害が見られる場合は、自閉症(AS)の診断を優先する』という取り決めが出来ているのだと思います。
たとえば『こういう場合に、合併という診断とする』という一定の国際的な診断基準はあるんでしょうか?私が知るかぎりでは見たことがないですが、合併の場合も、そのように診断するなら一定の基準がないと、表面上似たような特徴を抱えた人が『あの医師は合併と診断してくれたのに、こちらの医師は1つしか診断してくれなかった』という混乱を招くと思います。
もしも『ASとADHDの合併』と診断された場合は、その医師の診断の根拠を確かめる必要があるかと思います。
連投すみません。
昨夜は旦那の虫の居所が悪く「お前は俺のことなんかいつも放置だろ」と軽く恨みごとを言われました。そういうつもりはないんですが、自閉の息子の相手もあるので結構大変です(二つのことを一度に出来ないので)
パパイヤさんの書き込みの
>AS男性(私の周囲の数人)はいつまでもマザコンの中学生みたいな態度で母親に接し、(いい年して母親を馬鹿にするなど)その態度をそのまま妻に転化させてる(妻に対し、常に「お前馬鹿だなー」みたいな態度で教育的指導をしようとする)ような印象を持ちます。
これはまんまうちの旦那です。母親に対してもっと優しく接してくれと意見しても受け入れません。私のこともこんな感じですね。これはAS的といえるんですか。なるほど…。いつも勉強になります。
愛着に関するいろんな話が出ていますが、ここで自閉症の三つ組みの特徴の話に戻して話をします。
1、社会性の障害
2、コミュニケーションの障害
3、想像力の障害
以上3つですが、実は1、と2はADHDにも同じようなことが言えるのです。ADHDの多動障害や注意欠陥障害は、コミュニケーションや社会性にも影響するからです。
しかし3、想像力の障害 について、ADHDの注意欠陥障害や多動障害がこの分野に影響することは殆どない、といえると思います。ここでいう想像力の障害とは、おもに『こだわり』といった形で現れ、儀式的な決まりきった行動をしたり、食事につかう食器や身につけるものに強くこだわる、という行動に繋がります。
また想像力の障害というのは『相手の立場に立って相手の気持ちを想像するということも難しい』ということも意味します。特に恋愛において、想像力が阻害されてると『相手の状況からの、相手の心情や思惑を想像することが難しい』ことにもつながります。
つまり、ADHDなのかASなのかを『おおまかに』決めるのは『3、想像力の障害があるかないか、またその程度が実際の人間関係や人生に影響しているレベルであるかどうか』が大きなポイントではないかと思いました。
YANBARU先生の『人への強い愛着』というのは、だからこの『想像力の障害』のことを言っているのではないかなと思った次第です。
しかし当事者には判断に迷う微妙な人も多い。合併という診断を求める心境も確かに理解できます。ただ成人の場合、『合併』と診断するなら、二次障害の影響を考慮する必要もある。となると合併と診断するのなら、かなり慎重さが必要といえるのではないでしょうか?
皆さんのたくさんの恋愛体験を読みながら、私も1つ思い出したので書きます(^_^;)
恋愛、というものには発展しませんでしたが、私にとっては印象深く残っていました。多々の思い出に紛れて忘れてました。
私がまだ二十代前半のころ、彼は既に四十過ぎて独身。周囲からは『変わり者』と呼ばれていた職場の先輩。私のことを突然『お前って変なやつだ』と何度も言ってきた彼。『オレも変だけどな』なんてフォローはしてましたが、変わり者といわれている人に変わり者と言われるのは複雑な気持ちでしたが、どこか憎めなくて、話が合って、仕事の愚痴など気楽に話せる人でした。
趣味はバイクのコレクションとマラソンで、それに熱中するあまり『結婚できない男』だったようです。(周囲のうわさでは)四十過ぎて独身、というのもあまり気にしていなかった風でもありました。
一度もお茶したり映画を見たりはなかったけど、どこか安心できる人でした。
今思えばこの人が、私が最初に出合った仲間(ADHD)かも・・・なんても思えてきます。理由は『間違い無く変わり者だった私に、本当のことを言ってくれたから』です。
先生: 「大分類」として「人への執着、愛着」
先にも書きましたが、私は十代の初期から、境界例のような症状、つまり人を振り回す、巻き込む、破壊する、そういう刹那的で破滅的な関係しか男性と結べないのが一番問題でした。一方、女子との交友関係は淡泊で、親友と呼べる人が一人、二人いるくらいで、後は皆顔や意思を持って存在してないようなところ(向うはせっかく私を覚えてくれていても私は知らないとか)が問題でした。小学生の頃から浮いていたし、むしろ、浮いていることを利用していた感じです。煩わしい人間関係に巻き込まれなくてすむ、と距離をとれましたし、常に鋭利な刃物のような本音を語る必要もなくなるし…..それはいいんですが……
また、所属する場も一年が限界で、自分の居場所を確保できないことが問題でした。一度、こここそ私のいるべき場所、と思ったところも、つき合いはじめたばかりの、強引な男にあれこれ問題点を指摘され、君のような人は○○をすべきだ!などといって辞めるように説得され、失ってしまいます。そうやって、誰かに振り回されて自分の位置を確保できないところも嫌でした。
バラバラの認知なのか、互いに相関関係が感じられないバラバラの興味。人に執着できず、大切にできないから枯らしてしまう関係。場当たり的でその日暮らし。あちこち言われるままに顔を出すから(優先順位をつけられない)、せっそうなく増える手帳の友達の数。その割に宙に浮いてるように生きてるから、人を把握できない。人脈を維持できない。等々
かと思うと、執着(?)する相手が登場したり。
で、恋愛と、そうじゃなくてAC的なところを埋める作業の二つあがるんですが、この二つには明らかな違いがあるのを思い出しました。私の場合、PTSDがあるので恋愛関係にない相手と関係を持っても、全くエナジーが出てこなくて、交信できないんですよねー(特殊な例を除く)。だからあれは確かに恋愛だったと思います(そういう困難さ、極端さも精神科受診の理由の一つでした)。
月の草さんへ
21日に私に「愛着」のことでコメントしてくださっていたのですね。今頃気がつきました、ごめんなさい。
あと先生宛ての「大分類」としての執着、愛着も読ませていただきました。
私の娘も「境界例」と診断されています。
だから、外側から見た経過が娘の姿とダブります。
でも、あなたも今は結婚なさって立派に子育てしている。
障害を持ちながらも、子育てを楽しんでいるように私には見えます。私に希望を持たせてくれる「月の草さん」です。
それより、あなたの表現力と、観察力、そして精神力、お見事です。
コメント、ありがとうございました。
HIKARIさん:
メッセージ恐縮です(そういう印象を持っていただけるなんて思ってもみないことで、寿命が十年伸びましたー!)
お嬢さん、境界例なんですね。ご心配ですね。私はこう見えて昔はほんとにめちゃくちゃでした。ストリートギャングだったこともあるくらいです(苦笑)。平和で温かな家庭には憧れるけれども、生涯結婚して子供を生み、育てることはできないだろう、そういう力は自分には無いだろうと諦めていました。三十四になって子供を授かった時には、境界例の原因となった(と、私は思ってるんだけど)事件から二十年が経っていました。十九か二十歳の頃、自分の異様さが嫌で分析医を探して受診して診ていただいていました。薬も沢山飲んでました。嗜僻も色々ありました(あります)。色々なことが風化し、静かで温かな気持ちで新しい生命を迎えられたと思います(出産方法にも凝ったりして(笑)。それに、子供は私が頑張っても頑張らなくても、確実に成長していっているようであり難い限りです(苦笑)。
子供と過ごし、子供の成長を見守るのは、ほんとうに楽しい時間です。こんなに愛せる存在になろうとは、思ってもみませんでした。餌をやらずに枯らす鉢植え植物みたいな失敗をするかと思ってましたが…..案外といけてます。
私は、両親に見捨てられたと感じたことがありました。最後まで子供(あるいは自分)に正面から向き合うことをせず、子供に依存する。揚げ句の果てには、手に負えないからと子供の存在を無に等しいものにしてしまう。そんな風に感じて、とても辛い時期がありました。HIKARIさんは、ご自身の問題を探してこちらに来られているのですね。そういう真剣な親御さんがいれば、お嬢さんが回復されるのも時間の問題ではないでしょうか(そういう真剣な親の姿が、私は見たかったのかもしれないと時々思います)。
HIKARIさん:(長々すみません)私は多くの友人・知人・恋人・街に支えられてこれまで生きてこられ、今の自分(ダメなりの自分)があります。そして境界例の症状から救ってくれたものの一つに、芸術があります。絵、映画、観劇、本、音楽…..芸術に触れて心が浄化されることのなんと多かったことか_______自分が辛い心境だからこそ、深く共感できる絵が、音楽が、本が、映画がありました。ジャンクなものから、崇高なものまで_____数えきれない程の映画を観てます。貪るように展覧会に行き、本を読みあさって音楽を聴いて……一心不乱に正気を保とうとしていたかもしれません。私をこの世につなぎ止めていたのは、それらの芸術に触れる機会、ただそれだけだと感じていたこともあります。芸術は心の整理を行ってくれます。今も芸術に触れることが心の拠り所です。
今は、そういう混沌とした過去があるからこそ、自分の生きられそうな世界を見つけたと感じています。私は境界例ではなく、発達障害系のようですから、この先まだまだ解決しなければならない問題が山積してますが…..
お嬢さんも、きっと境界例だからこそ感じられる何かがあるかもしれませんね。お嬢さんに、どうぞ良いことが起こりますように*
月の草さんへ
私も今、「芸術」に興味を持ち、「芸術」に没頭することで自分自身を取り戻そうとしています。取り戻せるかどうかは分かりませんが、「絵」を描くことで少し自分を好きになってこれたと思います。「僅かながらも自身が持てた」とでも言うのでしょうか。
「趣味」に支えられることは素敵なことですよね。
私も「絵」に限らず「音楽」「映画」をむさぼってもいます。「映画」からの良いメッセージは自分の立て直しに役に立ちますね。
この歳になって、「本当の自分探し」ができるようになりました。ずっと「私って・・何者?」という疑問の解明を先延ばししてきて・・つまり「本当の自分と向き合う」大事なことから目を背けてきたみたいです。自分よりも「子供の不思議」に先に目が行ってましたが、自分がこうだから子供もこうなった、じゃあどうしようか?その段階まで来れました。
月の草さんのように、娘も這い上がって欲しい。
今は「刺激」を求めている最中のようですが、ここに来て「刺激を求める理由」もわかってきましたので、私自身もまだ成長の最中だなと自覚してます。(苦笑)
私は去年、YANBARU先生にメールで現状を相談したところ、ADHD-ACで、夫がASのカップルではないかというお見立てをいただきました。理由は「夫の態度や言葉は子供に愛着があるASに典型的」「一見「境界例」が治癒するのは実はADHDが多い」「客観的で長く、一見他人事のようなあなたの文章表現」「今力が出ないのはおそらく「ADHDの先延ばし」であろう」「夫の言葉に振り回される特徴」というあたりだということでした。
その後は私がADHDかどうかを考え、私の家族にADHDやASがいたかどうか、子供は発達障害かどうか、そのあたりを検討し、結論を出してから今後の身の振り方を考えてはどうか、というアドバイスをいただきました。その後、自分がADHDかどうかについて、様々に振り返って考えていました。最初は変だと思っていましたが、それで合点が行くことがかなりあるので、今度は夫との関係について考えはじめました。今回、さらに細かく検証する機会を与えていただいたので、もう一度自分がADHDかどうか見つめてみようと思います。
家族はこんな感じです。夫は私よりもずっと強い衝動性と多動性を持っていますが、人にも物にも強い愛着行動を示します。私の子は友人に強い愛着行動をし、ことごとく支配していくのでASだと思います(私の行動までも支配しようとしますから、結構強烈です)。私の父は支配的なASで、母は衝動性は若干ありますが、あまり表面的には目立たないぼうっとしたADHDだと思います。母は自分を肯定的に捉えることをしますが、ACっぽい所もあって微妙な人です。子供の頃は鬼のようだと思ったけど、私の思春期にはそれなりに理解のあるいい母親という面もありました。でも、父には負けていましたし、今でも恐れているようです。
妹は、あんな両親なのに愛着しているのでASだと思います。弟も特定のぬいぐるみに愛着していたことがあり、母に愛着しているのでASだと思います。祖母はADHDかASかわかりませんがどちらの可能性もあります。母方の親戚には、見た目は普通ですが頭の中が多動のADHDっぽい人や、あきらかにASの従兄弟たちがいます。父方の親戚にはADHDの伯母、身勝手で行方知れずだった伯父など……義母は自己肯定型ADHDで、義父は受動型AS。義弟は穏健なASのようです。
1「バラバラの認知と関連付けすぎの認知」
2「人に執着しないことと強い愛着」
3「極端に予測可能な世界を好むことと極端に場当たり的」
1.自分に引き寄せたり、既知の何かに関連付けて考えることが多いです。人や物事の像をできれば正確に捉まえたいので、できるだけ沢山の情報を引き出しにストックしておいて、それぞれ枠を作り、逐一これじゃない、これかもしれないと当てはめて考えることが多い。(AS的?)
2.人と関わる時には「来るものは拒まず、去る物は追わず」が基本だけれど、自分に自信が無くなってからは、来る人も少ないし、去られるのが怖い。だから引き止めようとしてしまうことがある。仲良くしてくれる人なら誰でもウェルカム。人見知り無し。行く先々で会った、知らない人ともよくしゃべる。一方、手紙を貰っても返事を出さないことが多く、徐々に友人が減っていく傾向がある。よほど目上の方からの手紙でもない限り、かなり頑張らないと書けない。昔の手帳に書いてある名前の主を、全く思い出せなかったりする。今はそんなことはほとんどないけど、昔は相手が覚えていても、私がなかなか思い出せないことが多かった。
3.「明日は何が起こるかわからない。予定などしても無駄」と思っているところがあります。何ヶ月も先の航空券を予約するなんて、無謀としか思えない。前日になって、ようやく明日生きていることを予測できる。実感できないうちは用意をしないので、なにもかもが後手に回りがち。
一方、物を作ったり、何かの行事を企画する時には、あらゆる可能性を検討して、綿密な行動計画をたてます。企画内容に思い入れが強いと、途中で方向転換するのが難しくなるほどです(AS的ですね)。ただ、これは最近のことで、結婚前はなんの準備もしようとしないので、先輩達からはよく段取りが悪いと怒られていました。ルーチンワークも苦手で、これをやった後はこれをこう片づける、って常に決まってるのに放置したりして不評でした。メインの仕事に過集中で、その他のことが抜け落ちてたんだと思います。また、行き当たりばったりの勘だけで仕事をこなす不心得者とよく叱られました。