依存型ジャイアンの人は不思議に、説明すると「意味」も「他者」も理解できるようになる。他者を実際に感じられないような言動とは裏腹に、説明して理解するだけで他者を前提とした認知や行動が出来るようになるのが逆に不思議だ。
例によって私は突っ込んで本人から教えてもらうと、どうやら「体験はしているが意味が自覚できない」ということのようであることが分かった。
一人で居ることが「さびしい」というのはどんな気持ちか?
一人で食事するのと家族と食事することは違うか?
という具体的な質問を突っ込みでしていくと、実際には「人と居ることで楽しい」というような体験はあることが分かる。
しかしながら、人との関係は? と本人に質問すると、例によって「役に立つ」という利用価値の話になり、本人の自覚できる言語化できる世界には「意味」は存在しない。
ここで起こっているのは、「他者は体験としてはあるのだが、その体験をしていること自体を自覚できない」ということであると私は考える。
この意味では、「他者を実際に感じられない」という情緒障害ではなく、「他者を感じていることを自分で認識できない」という思考の枠組み、言い方を変えれば「思い込み」のレベルの問題であるということになる。
「思い込み」であったので、解説するだけで「理解できた」ということになったというわけだ。
ADHDは「走り方を理論的に教えてもらわないと走れない」ようなところがある。「他者」についても「責任」についても、あらためて言語的に教えてもらう機会が無いことが問題であるようにも思う。
多数派には当たり前すぎて説明する余地が無いだろうからだ。
だから本人が如何に精神病質のようなことを言っていても、その本人は実際には相手と「関われている」可能性があり、「それを自覚させるための説明が必要なだけである」という可能性を想像してみる必要がありそうだ。
>だから本人が如何に精神病質のようなことを言っていても、その本人は実際には相手と「関われている」可能性があり、「それを自覚させるための説明が必要なだけである」という可能性を想像してみる必要がありそうだ。
長男がAS小学生です。親が多数派の場合、言語化して説明するスキルをつけることが必要と感じてます。
当り前すぎて意識していない事も、一つ一つ順をふまえて言語化していくと理解できることもあります。しかし、多数派療育者の方が言語化能力が低いため日頃から意識して説明できる事をしていく努力が必要になってきます。
他者と自分はどう違うのかも何回も言語化して徐々に理解しているようです。説明スキル向上が多数派母の課題になりそうです。
> ADHDは「走り方を理論的に教えてもらわないと走れない」ようなところがある。
これは体験的に経験してます。僕の場合は笛の吹き方や訓練の方法、オケでの作法ですが、初心者の頃から、それらを体系づけて細かく解説している上級者向けの専門書を読まなければ、練習が楽しくならなかったし、上達もあまりしませんでした。
中高での吹奏楽部の指導者の知識の範囲では上達できなかったです。
まるで自分の事を言われているような説明でとてもわかりやすかったです。
自分は欠陥があると思っていて、それが上記載の事だとあらためてわかりました。
言われるとわかるんですね。色々なことがそうで、言われないと解からない事を周囲からはイライラされますし自分でもイライラしますし自分がオカシイのかと落ち込むことも多々あります。
いちいち説明してくれる人などいないので、自分で気付きが必要なのでしょうが、それは可能なのでしょうか?それが可能か不可能か、それがわからないことが不安です。