今回「ADHDから見たAS」を書いて以来、いくつかのスレッドにASの方の書き込みを拝見し、私はここに掲載していないものまで見て感じることは、ASの人からも非常に強い「ADHDからつべこべ言われたくない」という御意見があることでした。(私はこれらの激しいコメントを拝見して正直怖いと感じました)。
逆にジャイアンの諸氏もASの立場からの無責任な発言で傷ついたり不愉快な思いをした経過もあり、私なりに下記のように考えました。
このネットという場所は(私は自分のHPで実名まで分かるようになっていますが)本当の意味で正体もばれず、何を言っても言いっぱなしで責任を追求されないという性格があります。それだけでなく、「引きこもって世間に全く参加していない人でも閲覧も書き込みも出来る」という別の特徴もあります。
文字通りネット回線があれば井戸の中からでもアクセスは出来るということです。
私が外来等で相談を受けているASの人とは私は相互理解を生む建設的な対話が可能です。しかし私は「ここ(ネット上)でもそういうことが出来る」と大きな間違いに気づいていませんでした。これぞKYというべき重大な認識不足でした。
クリニックの外来に相談に来られる人はほとんどがすでに井戸の中から外に出て、外で暮らす中で苦労している人々です。甘やかされ尻拭いして育てられた人は自分を変えようと受診したりはされません。これはジャイアンも同様でしょう。
だから私は今後はネット等の公的な場所では「ASは十人十色」と答えることに決めました。それ以上のことは個人的に(メール等で)自分のことを相談された場合にのみ、「特定のその人に限って」はお答えしますが、一般論としてのASについては「分かりません」「人によって違いますから」と答えることにします。
ただし、今後も「ADHDから見たAS」については書くことはあると思います。その場合、ご覧になったASの方は、「所詮ADHDから見たASのことで、真実でも何でも無い」から「ご自分のことと関係ない」とお考えください。見る角度によって物はいろいろに見えます。その一つの見え方について言っているだけで、AS全体について言っているかのように誤解されることの無いようにくれぐれもよろしくお願いいたします。
なお今後は特にジャイアンについて書いているスレッドでは、本論に関係ないコメントは掲載しないことが多くなると思います。それは、「広い世間に、ジャイアンの人が自分のジャイアンらしさについて率直に語り合える場は他にほとんど無い」という貴重な場所であるという特質をご理解お願いいたします。
特にASの人の場合は、ASの人が語り合う立派なネット上のフォーラムがたくさんあります。どうぞそれらの場所でご意見を発表されてください。
以上、私なりのこのブログでのASの人との関わり方について考えを書きました。ご理解をよろしくお願いいたします。
今日の文を読ませて頂いて感じたことですが、先生も、私達も「ASは十人十色」という結論を再確認することに向かって、膨大な量の文章を書きながら旅をしてきたようなものなのではないかという気がしました。
私達は・・・・少なくとも私は・・・・自分をより深く知ることはありがたいし、知的好奇心も満たされて嬉しいですが、これらを振り返ると、世間の人達にもっと発達障碍を分かってくれと言うのは大変だなあと改めて思います。
障碍のない親、注意散漫や認知の狭さを過剰適応な努力でカバーしてきた親などは特に分からせることが困難です。
適応が辛い、孤立が辛いと訴えても共感できない。
戦後の貧困時代を経てきた世代は特に、我慢以外の対処法を知らない。
“努力の必要は分かってる”という結論に向かって、何をいくら説明しても話の角度が離れていくばかりです。
しかし、親と理解し合わないと、雑多な二次障碍を克服できない発達障碍者、発達障害児もたくさんいるのも現実です。
誰にも私達の目線の高さで褒めてもらえない。
ときには人間の全てが損得勘定で動いているように見えたこともありました。
私の気持ちや調子には関係なく「ともかく今はこれをしてほしいから」「これをしないと~だよ」最後は駆け引き。
私を発達障碍者だと分かってる人も、分からない人も、端的にしか言わない。言葉足らずに気づかない。私を無視して自分の目的さえ叶えばいいと思っている健常の人達。
こんな人達と信頼関係なんて本当は築けない。
本心は無理をして謙遜していることを分からない人達。
私はこの思いを忘れない。
無理をしているこの本心を忘れない。
でも生きるために私は健常の人達にへりくだり続ける。
しかし発達障碍者同志でも、何をしたくてネットを開いているのかご自分で分かっていない人達とも仲良く遊べないのです。
「どうにもならなくてもいい、にっちもさっちもいかなくてもいい、それでも私は忘れない」と言いたいのに、関わったコミュニティによっては、言い出しの「ど」まで言ったらもう誰も何も聞いちゃいないところもあるのです。
このブログを安心して読めるのは、先生が何者にも動じず、我が道、我が主義を進んでいるからです。
この、安心できる場所をこれからもずっと続けて欲しいです。
この場所は、発達障害者を理解する為の場所であると共に、意見の交換、交流をする場所でもあります。
「人」の意見は参考程度に留め、自分に合う部分は活用し、合わない場合は受け流します。
この場所で「意見の相違」があっても、自身の生活に支障がある訳でも無く、自身の理解者が身の回りにいれば、それで良いと思うのです。
障害であれ、定型であれ、「十人十色」です。
自身や、周りの「困っている人」を、どのように理解し、サポートするか、或いはしてもらうか、そのようなコメントが増えると嬉しいです。
我が夫はAS傾向、息子も「疑いあり」と言われ、現在不登校状態です。2人共、自覚も無く、告知もせず、「言動の悪さ」を自覚してもらう為の説明に苦労しています。説明の為の説明をし、また、掘り下げて説明をしても、分かってくれません。エンドレス状態です。
良い所も沢山あるのですが、私は死ぬまで、このエンドレス状態を続け、特に息子に、「生きにくさ」を克服して欲しいと願ってます。
その為にも、この場所は大切ですし、参考になるような意見をたくさん交換したいです。(私は、まだ未熟で、交換はできませんが・・・)
初めて投稿させていただきます。
たぶんADHD(自分)とたぶんAS妻とほぼ確定(診断済み)ADHD息子の関係からこちらを参考にさせていただいております。
私自身、ある程度距離を置いて(あぁそんな考えもあるんだなぁという程度の気持ちで)こちらのブログを読んでいて最近思うことは、「実社会で起こっている問題がブログ内でも起こっている...」と感じることです。
それぞれの方の意見も、投稿回数が増えるにつれて、その文章のニュアンスの変化や食い付く部分、討論の仕方など特徴が現れて、そういう面で私自身勉強になっています。
個人的には、YANBARU先生が削除されている投稿も是非読んでみたいです。
私も、YANBARU先生と同じ思いをしました。
最初にWhiskyさんとm2さんの間違いを指摘した頃から、漠然とですが、自分ではかなり控えめに言っているつもりですが、恨まれるのではないか、もしかしたら・・・。私が「命がけ」という言葉を使ったのも、そこまで妄想したからです。そしてやはりYANBARU先生の身の安全のこと、オープンにされているわけですから。先生の、外来でASの人との接触よりも、ネット上の接触のほうが怖いという現実、ほんとうにやりきれない、悲しいです。
ASの人は、リアルタイムのコメントをみて、反論したくなったとき、どうか、2006年07月の最初の先生の言葉から読み返してみてください。先生はASもADHDも平等に、真剣に、前向きに、考えているのです。仕事の傍ら、寝食を削って、発達障害者のために。
みんな辛いのは同じなのです。自分だけが辛いのではないのです。辛い状態から、少しでも抜け出したい、向上したい、そのためには耳の痛い言葉も聞かなくてはならないのです。そのイライラを先生にぶつけるのは筋違いです。ひとりの大人として、「自分はどうすればいいのか」、真剣に自分自身をみつめるべきだと思います。いつまでも逃げていてはだめです。
人それぞれ、違いがあるので
ADだからASだからと、一括りに考えるのはまずいな、
そうコメント欄を読みながら思っていたときに、エイトさんが書きこんでくださったので、あの時はうれしかったのです。
同じAS同士でも、理解し合えない考え方もあるのではないでしょうか。
人は他者の考えていることを、推し測ることはできても、完全なる理解はあり得ないのだろうと、そう感じています。
私もm2さんのジャイアンへの分析は、正直不快に感じていました。
それぞれ完全なる理解はあり得ない、それでも相手を思いやること、それがマナーだと思うのです。
子供のことがきっかけで、YANBARU先生のHPと出会い、自分自身の生きづらさに気づき、向き合えるようになりました。
「理解したい、理解されたい」
皆がそう考えていることを前提としてのコメントです。
話がつながらなかった。
誤解があった。
でも、「理解したい、されたい」のであれば話は続いてほしいのです。
誤解を与えた(?)側からすれば、否定されてしまえばそこで議論終了としても良いし、同じ事を強弁しても良い。
相互理解からはほど遠いのです。
コメントを読む側の姿勢としては
否定でなく部分肯定で返信し、その定義では説明できない事象を肯定のニュアンスで挿入する。
議論、会話がとぎれにくくなると思う。
話が続くなかで誤解に気づけるかも知れないし、
誤解の元になった「何か」が顕れるかも知れない。
その「何か」がきっと私たちが求めている物の一つ
であると思います。
追加です
前のコメントなんか偉そうですね。
自分の以前のコメントに対する反省を基にした物です。
このコメント自体ADHDぽさが顕れている様に感じています。
残念です。私はこのブログのおかげで、やっと井戸の中から頭を出すことのできたASです。
ASに対する先生の直言に、最初は驚きましたが、何度も読み返し、考え抜いてきました。
ADHDの方の厳しいコメントも、井戸の中に戻ろうとする自分を許さない、大きな支えになっていました。
悪戦苦闘中で、投稿など思いもよらなかったのですが、一言、お礼を申し上げます。
ありがとうございました。
自分は多数派です。
昨年このスレッド内容と同様のこと、
「直接交わす言葉がなく、文章だけのやり取りだけではニュアンスが伝わりにくく、怖いと感じた」
と書き込んだことがあります。当時はスペース節約で端折ってしまいましたが、
「直接交わす言葉がなく、文章だけのやり取りだけではニュアンスが伝わりにくく、良かれと思う事が悪意に伝わってしまったり、誤解や勘違いによるすれ違いを生じてもすぐに補正がきかず、結果お互いに傷付け合ってしまうかもしれない危険性が怖い(危ない)」
だから皆さん気を付けて読んでね!という私の先読みでした。(このブログ上で端折りすぎてすみません)
この現象は必ずしも書き込む人間の責任だけではなく、ネットの弱点なので避けようがありません。もちろん利用者は細心の注意は必要だと思います。
きっと先生御自身が今回一番不快な思いをされたのではないでしょうか。御心労お察し申し上げます。でもADHDの人は聞き流せるのですよね?それはADHDの方の最大の武器なんだと思います。
拝見していると
「コメントが自分に当てはまってびっくりした」
というASの方や、tkさんの様に頼りにしてる方も居られます。出来ればそういう方々のためにも今後もASについてのコメントを続投して欲しいと個人的には願っています。(私見なので無視して下さい)
もし多数派の精神科医がASについて同様に意見したら、ASの方達はもっと反発して、決して意見を受け止めようとはなさらないと思います。御自身が発達障害を持たれた精神科医だからこそ意見が出来る→やんばる先生の最大の武器だし、他の精神科医には真似ができません。(言わずもがな、他科の医者では全く役に立ちません)
気が付けばこのブログが本日ランキング1位という快挙。
どうかこれからも頑張って書き綴り続けて下さい。私も勉強続けさせて頂きたく思います。
確定診断されない状態のASもどきをASと素人判断するのはかなり危険である
NIRSや染色体検査をしていない状態でASとして扱って判断すると誤った方向に導く
素人がこの人はASと思い込んでいるケースもあるのではないか
医師が確定診断を下し、それを知るまではASと軽々しく判断してはならない
境界性人格障害または統合失調症の可能性も否定できない
ASの診断方法
都立梅ヶ丘病院院長 日本自閉症協会副会長 市川宏伸Drの見解
3歳時までに特徴が出る。それ以降は環境など後天的なもの
統合失調症との違いは薬が効かないことと話が飛躍したり拡散しないこと
精神科医 林公一Drの見解
http://www.so-net.ne.jp/vivre/kokoro/psyqa0971.html
前頭葉の血流検査
http://www.so-net.ne.jp/vivre/kokoro/psyqa1118.html
http://psych.educa.nagoya-u.ac.jp/initiative/team013/index.html
誤診と高機能広汎性発達障害
http://homepage2.nifty.com/atomochanomizu/index.htm
Yanbaru先生、お疲れ様です。先生のご英断には100%同意いたします。
tkさんのコメントを読んで、ほっとしました。
というのは、今回の「ASから見たジャイアン」のコメントに対し、不快に思うジャイアンからの意見は当然入ると思いましたが、それはルール違反であるとのASからのコメントが入らないのを不思議に思っていました。
たとえば、「わたしにも、ジャイアンはそのように見えるが、管理人の意向に沿って当事者でないものがコメントするのは止めよう。」というようなものです。
でも、tkさんの「悪戦苦闘中で、投稿など思いもよらなかった」という言葉で、きっと書きたくても書けなかった人たちもいたに違いないと思うことができました。
tkさんのコメントで偏見になるかもしれなかったASへの思いが修正されました。
定型にしろ、AS・ADHDの方達にしろ、ある特徴を持った集団の一員ではあるものの、各々としては「それぞれに異なる個人である」と言う考え方は非常に重要だと思います。
YANBARU先生が失敗だったと感じている(と、自分には感じられる)取り組みも、お互いが「それぞれに異なる個人である」と言う視点を得る為に必要な事だったのではないかな?と思っています。
これもひとつの「相互理解」ですよね。
今回のことでの、私の「自己突っ込み」を軽くするための理由探しをしているところです。
ASの人から、ASの認知の歪み(間違っていたらすみません)について、一言コメントをいただいていれば、途中で私の暴走が止まったかもしれない、と少し思ってしまう自分です。
でも全ての原因と結果は自分にあると反省しています。
はじめまして。
やんばる先生の本サイトとブログは興味深く読ませていただいています。
ところで、ねねさんのコメントに横レスさせていただきます。
>ASからのコメントが入らないのを不思議に思っていました
ASでも、ある程度~かなり状況が読める人(そういうAS人は存在します)は、
自分なりの思いがあっても、ねねさんが自分でおっしゃていた通り
>「管理人の意向に沿って当事者でないものがコメントするのは止めよう。」
と考えて、一切コメントしないで静観していたのではないでしょうか。
また、状況が全く読めない、読もうともしないASの人達は、
自分の意見を書き込んだものの
コメントが表示されないで削除されていたのではないかと思います。
(靴下猫さんのコメントで隠れていた自分の気持ちが表面化してきましたので、書かせていただきたいのですが、先生の意向に沿っていなければアップしないでください。)
前回、わたしが「書きたかったのに書けなかった」と書いたのは、書けるのに書かなかった人がいないことを願っての言い回しだったことに気づきました。
エイトさんはジャイアンらしさを前面に出し、ジャイアンの気持ちを代弁してくれていました。やんばる先生の意向からはそれたかもしれませんが、ジャイアンである先生の感情はエイトさんに近かったのではと思います。
ですから、他のジャイアンから「ルール違反だ」という書き込みはもう必要なく、ぜひともASから「ルール違反はやめてください。先生の再三の申し出に沿ってください。」という戒めの言葉がほしかったのです。その一言さえあれば、ジャイアンの気持ちは納まり、終結していたのではないかと感じます。
エイトさんは、ジャイアンがどのようなものかを(自己突っ込みも含めて)実際に示してくださいました。そのことはジャイアンを探求している今の状況でとても意味あることだと思います。
とてもご無沙汰しておりました。ADHDのACです
>ASの人からも非常に強い「ADHDからつべこべ言われたくない」という御意見があることでした。(私はこれらの激しいコメントを拝見して正直怖いと感じました)。
先生のこのお気持ちすごく共感します。
私もASの方の強い反応には「怖い」という恐怖の感情が沸くことが少なくありません。これはネットに限ったことではなく、現実世界でも日常茶飯事的に起きています。
現実世界でこれがASの上司にされると、パワーハラスメントなのではないかと感じてしまうほどです。
ことにACの私は傷つきやすく、些細なことで自信が崩れ去り、「自分は駄目な人間だ」と落ち込んでしまいますが、
一部のASの方には、この「人を傷つける」ということへの抵抗が少ないのかなと思いました。
ネットでの暴力的な書き込みは、正直目を疑うものが沢山あります。「この人たちは罪悪感はないのだろうか」と
自己突っ込みをしないASには罪悪感は生じ得ないと考えていいのでしょうか。
ADHDはその適応過程から(失敗が多いので)自己突っ込みをせざるを得ないことが多いのかもしれませんが、ASでは自らの信じることを完璧にやり遂げている方も少なくないので、人から突っ込みを入れられる経験の無いと、自ら突っ込みを入れることは非常に困難なのかもしれないと思いました。
自分もルール違反とのコメントを入れなかったASの一人です。ちょっと時間が取れたので過去ログを読み返してみました。
視野が狭い書き込みがあるものの、書き込み自体は私には気になりません。そしてADHDから「勝手な決め付けをするな」などと叩かれないと視野の狭さも分かりません。1年ほど前に私もずいぶん叩いて頂きましたから。ASは単に言っても分からない(自分の考えや信念が強すぎる)から、そうやって叩かれて軌道修正するしか方法が無いように思います。
もう一点、ルール違反だと言う点や、先生の申し出に関しては、何が問題になっているのか(ジャイアンが不快に感じているポイントを)掴むのがとても難しかったです。以前の私なら理解すら出来なかったかも知れません。今でも良く分かってないかも知れません。ASに対しては、もう少し具体的に「あなたのこの発言は、ADHDをジャイアンをこう決め付けている。こう貶めている。」と指摘すると良いように思いました。
この一連のやりとりの結果、状況を余り理解できないASが何も言えなくなっている(書き込めなくなっている)のではないかと想像しています。でもASはとことん考えますから、こうやって素直に指摘される(ADHDから叩かれる)事が、長い目で見るとプラスになると思います。
個人的にはここに書き込みが出来るASには、ADHDからつべこべ言ってあげた方が良いと思います。反発も強くて大変でしょうが、分かる人には分かるでしょう。ASは自分を守れなくなって初めて、新しい視点を持つ事が出来るように思うので(残念ながらADHDの期待するものとは、きっとちょっと違いますが)。一方でADHDに何か言う場合は、ASはもっと気を使った方が良いと思います。ASの言葉はASが想像しない位にADHDを切り裂くようですから。
ほんとうに、今更なのですが。
頻繁に参加するASの人のコメントには、1行目に「この内容は全て私の個人的な意見です。失礼を承知で書いています」という言葉を必ず入れてほしい、私は本気で思いました。それでないと私は読むに耐えませんでした。(掲載されたものでもそう感じたのですから、掲載されなかったものは、ジャイアンのエゴを超えるものだと想像します)当然のことですが、そんな注文を私が書くべきではないのでやめましたが、妄想が膨らんで爆発してしまいました。
今回のYANBARU先生の決断に、残念に思うASの人は大勢いると思います。本気で、先生に再びブログ上でASについて語っていただきたい、と願うのであれば、ASの人達でネットワークをつくり、事前にきちんと、先生の目にふれさせても不快ではないコメントかどうかチェックする。その後それを先生に送信する。それくらいのことを考えていかないと、無理かと思います。私はネット関連は素人なのでよくわかりませんが、技術的には可能なのでは?と思います。
ASの人の感想や意見が聞けないのは、私にも残念なことなのです。私がいうのもおかしいのですが・・
でも命がけの思いももう嫌なのです。(これが、「ジャイアンの根本的矛盾からくる不安定」の具体例です)
daisyさん
>一部のASの方には、この「人を傷つける」ということへの抵抗が少ないのかなと思いました。
傷付けると思っていない、だと思います。状況や相手の表情が読めないから、傷付けている事にも気が付かない。傷付けると思っていない、気が付いていないから罪悪感は生じない。
ASがこの点に気を付けないといけないのは、その通りです。一方で、ASの上記の性質を理解しないと、ASを悪者にしても何を得られないと思いますが。
最近思うのですが、ASは自己突込みを入れる状況下では人前に出られないのではないかと思うようになりました。自らの信じることを完璧にやり遂げないと人前で存在できない。
ASの間違っているのは、それを人に求めてしまうことです。
ねねさん、エイトさん
結果的に静観していた私にまた、自己突っ込みをしております。
エイトさんのお気持ちは、ものすごくお察ししておりました。YANBARU先生には、こそっとお伝えしていたのですが・・今更ながら、申し訳ありませんでした。
幸いにして、井戸の外に出ることができたASですが、井戸の外ではいつもビクビクとして生きています。
したがって、tkさんと同じく、自分自身の自問自答で精一杯で、とてもとても意見など出来ませんでした。
YANBARU先生へ
ご心労の激しかった事を想像し、先生の今回のご判断は残念ではありますが、これで良かったのだと納得しようとしております。
ただ、沢山あるASのフォーラムは、それはそれは恐ろしい場所で、私のような者はとても覗き見ることすら出来ない場所です。
「今後も書くことはある」とおっしゃっている事を支えに、今後も自身や家族の理解のために、拝見させていただきます。
marioさんへ
大変申し訳ないのですが、いつもあれ?っと、思ってしまいます。
今の私よりももっとASらしく生きていた時でさえ、そこまでは思っていませんでした。職業柄もあるのかもしれませんし、尻拭いをされずに育った事もあるのかもしれません。
YANBARU先生のおっしゃる通り、自分を変えようと思っているAS(少なくとも私)は、marioさんが書かれる内容に「ちょっと待って!!!」と言いたい気持ちがあります。
どうか、先生のおっしゃるように、十人十色という形で、自分はこうであるという書き方をしていただきたく存じます。
私は、自分以外を理解や推測、想像することは難しいので、これまでも(機会は少なかったですが)、いつも自分の事のみで、書いてきました。
今、こうやって書いていることすら、ものすごい勇気を出しております。
みなさん、どうか色々なASがいることをご理解下さい。
ふぇありーさん
大変失礼しました。
そうです、あくまで私の理解するAS像、あるいは私のAS的部分 ですね。
自分の考えるところを断定的に書いて、反応や反論を待つ。それによって理解を深める、世界を膨らませるってのは、もしかすると私にとっては職業病かも知れません。やってる事は、先にジャイアン絡みで問題になったのと同じですね。
本当に失礼致しました。
実はその後も複数のASと想像される方からの「非難」とも言うべきコメントがずっと継続しており、削除しているにもかかわらず、繰り返し投稿される状況が続いています。
私からの感想だけ書けば、「自分で責任を取れる場所で発言してください」ということです。反論は結構ですが、その場所はここではありません。
繰り返し書かないとお分かりいただけないように感じますので、何度か繰り返します。
「反論は結構ですが、自分で責任の取れる場所でお願いします。」
「反論の場所は、ここではありません」
ご自分のブログなり特定のフォーラムなり、内容は別のところに書いていただいて、反論を書いたアドレスだけ載せてくれという希望であれば、よく検討したうえで考慮します。
ただその場合は、その後の責任は私は一切関知しません。
自分で責任を取れる場所を他に作ることがなぜできないのですか?
この場で起きたことは、管理者として私の責任です。最悪の場合、実は今回のことで私はこのブログ自体を閉鎖してしまうことも考えました。
あなた方のやっていることは、ネットの世界からこういう場所を抹殺する結果にしかならないということを理解して下さい。よろしくお願いいたします。
ふぇありーさん
勇気を出して書いてくださってありがとうございます。
十人十色、いろんなASの方がおられることがよくわかりました。
ここに参加される方は、誰もが相手を理解したい、少しでも歩み寄りたい、わからないなりに何とか認めたいと思っているのだと信じたいです。
多数派からは軽度発達障碍という一括りにされてしまうけれど、ADHDとASはとっても違います。
逆に多数派からは個性的といわれるわたしたちが、驚くほど似ている部分があったりします。
でも、一人一人みなちがう。
だからこそ、分かり合いたいと思うのです。
自分のことを知りたいだけじゃなく、軽度発達障碍のジャンルに入る人たちをわたしはわかりたい。
多数派が「変な人」の一言で理解を諦めてしまったとしても、わたしは諦めたくない。
だから、どうかこのブログを YANBARU先生を応援してください。先生が疲れ果ててこのブログを閉めてしまわないように 批判されている方は攻撃ではなくあなたの心の苦しみを先生に相談されてみてください。先生はあなたを助けてくれるはずです。攻撃する人は わたしたちより心が苦しいのだとわたしは思います。
わたしたち経度発達障碍者の苦しみを軽減するために先生はこのブログで発達障碍について日々考えたことを書いてくださっているのです。互いの理解を深めるために協力してください。
(すみません。ADHDですが、衝動性とKYの塊なので、全く的外れなことを言ってしまったら申し訳ありません)
YANBARU先生、本当にありがとうございます。
きっと先生が、敵意をむき出しにされたASのコメント受け止めてくださっているから、ここにいるADHDの私たちは守られているのだと感じます。
もしかして削除されずにそれらのコメントがここに掲載されていたら、ここにいるADHDは皆深く傷つき、立ち直るのに相当の時間を有してしまうに違いありません。
先生のことはネット上の文章でしか存知あげませんが、本当にすばらしい方と思いました。
ASの方は、正しいことをなさっているのだと信じて疑っていないのだと思います。正しいことをしているのだから、それで相手が悪く思うかもしれないし、すべてを台無しにするかもしれないけれど、それでもそうすることが正しいからしょうがない。
(私の患者さんの言葉です)
面と向かってならば、こちらの感情を伝えること、悲しい表情を伝えること、怒りを伝えること、ときには笑い飛ばすことさえも出来ますが、文章だと本当に難しいですね。
ASもジャイアンも共通するかもしれませんが、「正しいこと」をしようと思ったとき、それが破壊行動になっていないかどうか、ということを何度も自己突っ込みをしないと、取り返しのつかないことをしてしまいます。(自分にも言っています)
破壊せずに分かり合う方法がきっとあるはず。と信じなければ、なにも生み出せないんじゃないかな、と思いました。果てしない努力が必要なのかもしれないですが・・・
しばらく前に書き込ませていただいたAS女子です。
やんばる先生、皆様、お疲れ様です。
私はネットでの議論の悪い点は匿名性などよりも、その継続性にあると感じています。
自分の意見を吐き出すだけ吐き出してすっきりしても、しばらく経つとまた相手が
もやもやとするような対論・異論を掲げている。
特にオープンな場の場合、当事者の2人が納得していても、新たに疑問を抱えた第三者が
やってきて、頭から同じような水掛け論を吹っかける。
ネットはネットだ、と割り切っていられるうちはよいのですが、相手がどう返してくるか
画面に向かっていない間にも頭から離れなくなってくれば危険です。
楽しみのためのネットが苦しみになっていることに、気づいたときには手遅れです。
そう、情報収集、自己表現は他の手段でもできるはずです。しかし、
議論は楽しいものです。それはASの一員としては強く主張させていただきます(笑)
二月頭からのお話は、主にやんばる先生の投稿を中心に時たま拝見していたのですが、
「ここは違うな~」「あー、これある、ある」と思いつつも書き込みかねておりました。
ここにおいて先生と何人かの常連さんが、
『結局、十人十色なのだ』という結論に達したことは、意義深く思います。
十人十色なのだ、とおっしゃるからには、ADHDの方を傷つけずにいられる
ASの者もいるのではないでしょうか?
しかし、この書き込みだけを拝見すると、ASはここの文章を自分のことだと思うな、
騒ぐな、と言われているようにも取れてしまいます。
これまでの記事には「ASの人に多い~」「~というASは」といった表現があり、
文章をそのまま受け取る人間にとって、この表現から「私は違うのね」と解釈を
“ポジティブにねじまげる”のは至難の業です。
ASは全員自己評価が落ちていないわけではないのです。ただ、落ちた末の言動を
他ならぬ自分自身が『自分はプライドが高いから』と誤解している場合もあります。
『自分が悪く言われている』、『この悪評は自分のことを言っているに違いない』と
誤解して激昂するのは、自分に自信がないからこそ起こる現象ではないでしょうか。
(続きます)
また、私にはこれまでの文章はASの当事者に対して、先生の見解について、正しさや
漏れている部分の補足などを求めていたように受け取れました。
公開されているコメントは、それを体現しているように感じています。
しかし、その結果が上のような、一見『対話拒否』とも取れるメッセージになって
しまったのだとしたら、残念極まりないことです。
この点について、できれば先生のご意見を伺いたく思います。
先生の余裕があればで結構ですので、何らかのメッセージをいただければ幸いです。
(この「明らかにしたい」という衝動そのものが、私がAS、それも積極奇異型である
ゆえんであろうと感じております。)
もうひとつ、今やネット上では『個人サイト』の運営に関して、管理する立場の人間があらかじめ
自分の考えやスタンスを明らかにしておくことは、必要不可欠なことになりつつあります。
それには、管理者がコメントを寄せるなどする参加者に対して、ある種の枠組みを設け
その中での振る舞いを求めることも含まれます。
つまり、先生のスタンスを明らかにするだけでなく、来訪者、特にASの方について
「発達障害にあまりに理解の無い無責任なコメント」以外の参加ルールを設けては
どうか、といった提案です。
ルールはないよりあったほうが振る舞いの助けになりますし、
(あんまり多い文章では読む前に疲れてしまいますが)
抵触したときも、明確に『これだからダメだった』と穏やかに(※大事)指摘して
いただければすんなり腑に落ちるのではないでしょうか。
その上で腑に落ちなければ、他のサイトを利用すべきであることは先生のご意見のとおりです。
今のままでは、こちらを利用すること自体が先生にとってご迷惑なのではないかと感じ、
有用な意見の数々ももやもやして受け取ることしかできなくなりそうに感じています。
ですので、利用ルールの制定につきまして、どうかご一考ください。
(続きます)
極端な話、「賛成意見以外は書き込めない」というならそれでも結構です。
ここはASのためのブログではないのですから。
(実際は、賛成でも反対でもない意見というものは存在すると思いますが。
定義を覆す、対象を違う範囲で取るなど)
けれども、他の方も指摘していらっしゃるとおり、ASの私たちが抱える重大な疑問
『私たちは何であるのか』ということに、明快に答えのひとつを掲げているこのブログを、
読み返し、自分の考えを語る場、として利用させていただきたいという思いは尽きません。
m2さんがご自身の特質について述べられていましたが、私も自分のASに関するブログを
開設したことはあるのですが、三日坊主に終わってしまっております。
そして議論や相互理解の努力は健康的に楽しめば、楽しいものです。
ですから、私たちに、このブログを柱として語り合う場を与えていただけませんでしょうか。
もし先生がよいとおっしゃるなら、外部に掲示板でも設置させていただき、
互いに断り書きをつけた上で相互リンクさせていただくことを考えております。
しかし、先生が負担に思っていらっしゃることが具体的に把握できておりませんので、
(たとえば、ここにいらっしゃるADHDの方の目に、ASからの攻撃的な意見が触れるのが
苦痛というのであれば、避けたほうがいいでしょう)
その点についてアドバイスいただければと思います。
最後に、この記事に対するコメントで論じられていることについての自戒を申します。
NT(定型)同士の理解について、先生が以前解説された記事があります。
その記事での指摘のように、ASである私にとっての理解とは、ディスプレイの
一つ一つの光点が、どのRGBで表現されているかということを、リアルタイムで
克明に把握していることに似ています。
他の人が『理解』という言葉を使ったときに、「私のこれ↑ではないんだな」と
考えて受け止める一拍が私には必要です。いわゆるマニュアル作業です。
それは『理解』という言葉以外、たとえば『友情』『義理』『親子』『立場』『正解』
『価値』『勝ち』(駄洒落?)……などの感覚に関しても同様です。
(もう一度だけ続きます。すみません)
ですから、それ以外の人の認識する物事が、私の認識(定義)と異なるのは当然です。
お互いにこの溝を『感覚的に』受け止めることは現状では不可能でしょう。
(身体障害者・高齢者体験学習でアイマスクや砂袋をつけて街を歩くようなことが、
脳科学の世界で実現したら、あるいは可能かもしれません)
しかし、AS同士、ADHD同士、そしてNT同士は、『厳密』な相互理解をしているのでしょうか。
答えは先生のおっしゃるとおりだと思います。
それを我々ASは念頭に置きながら、意見や質問を出さねばならないと思います。
我々が集団である以上、何らかの傾向はあるでしょう。
特に先生の提唱される、ジャイアン・受動/積極奇異などの分類には目から鱗でした。
しかし、自閉性障害がスペクトラム障害だといわれることから明らかなように、
ASと診断されたからといって同じ状態であるわけがないのです。
ASである私たち同士の中でも、お互いの意見や肉体感覚を「ここはちょっと違うな」と
感じることはありますよね。
自分でないものが、自分と同じように感じてはいないのが当然です。
常に同じことを感じていたら、それは運命の人かもしれません(笑)
私たち以外の人が『AS』と言う時、それは私たちが言う自分たちのことよりはるかに
あいまいで簡単に変わりうる概念のことなのでしょう。
私たちが『ADHD』『定型』と言ってしまうとき、それは私たちが当然と思う範囲以上に
厳しく、救いのない概念として受け止められているのかもしれません。
それが傷つけ合い、互いに糾弾されていると思うことの一側面であり、その側面からは
文化摩擦や感覚の差といった以上の意味は汲み取れないような気がしました。
かけ離れた育ちをした外国人同士が出合って話している、というように、です。
私たちは同じ言葉を使う外国人である、ということを忘れずにいなければならないのだと感じました。
はじめまして。
コミュニケーション障害オンリー(でもかなりアスペっぽい)ですが、marioさんのご意見、とても共感しましたよ。
それに、ふぇありーさんのご意見に対して、それに納得するかどうかは別として、理解を示し場を収めようと勤めることができる、そういうふうに他人へ配慮することができることは、アスペとしてとても高く評価されることだと思います。
ふぇありーさんのみならず、marioさんもご自分を変えようととても努力されているのではないかと感じました。
実は、私にはこういう経験があるのです。
半年ほど前、引きこもり始めて某匿名掲示板にはまったころ、掲示板上でとても心無いことを言われたことがありました。
すごく腹立たしかったし反対意見を言いたかったのですが、私はその場を乱したくなかったので、とりあえず自分の意見を撤回し謝罪しました。
でもそのことが悔しくて悔しくて我慢できなくて、主治医に話したんです。
そしたら主治医が「例え納得できなかったとしても、その場のことを考えてとりあえず謝罪することができる、それは成長じゃないかな」というニュアンスのことを言いました。
そのとき始めて、自分が昔より少し成長していることを感じました。
3年前の私だったら、自分の意見に固執してガンガン押し付けていたかもしれない。
匿名掲示板ならなおのこと、激しい酷いことを言ったかもしれない。
でも私は3年かけて、他人に配慮するということを少し学んでいたんです。
今回のmairoさんを見ていて、半年ほど前の自分を思い出しました。
そして、marioさんがきっと相当の苦労を経て、自分を変えようと努力なさり、そして確実に成長されているのだろうと感じました。
例えその場では理解されなかったとしても、必ずどこかで理解してくれる人がいます。
それにたくさんの人から理解されなかったとしても、自分の大切な人をきちんと見つけて、その人から理解されれば十分です。
ここを攻撃しているという他の方々も、希望を持って、人を信じて、そして自分自身と自分の可能性を信じて、がんばってほしいです。
先生、みなさま はじめまして。
ドキドキしながら、書き込みさせていただいています。
これまでずっとYANBARU先生のBLOGをROMのみで拝見させていただいてきました。
とても興味深く読ませていただいています。
わたしは、ASの主人&子供、そしてどうやらADHDらしき母に囲まれて暮らしています。
私自身は どうやら多数派に属するようです。
先生のBLOGを拝見しながら「こういう内面があるんだ」と驚嘆+納得したり、はたまた「そういう見方もあるのかな」と視点の一角度からと捉えてみたりと、楽しみに拝見してまいりました。
そして今回のこと。
先生がBLOG閉鎖も考えたとのこと、 ご心中お察しいたします。
そのうえで。
みなさま、もうこのあたりで、やめませんか?
切り替えませんか?
先生のさらなる考察の さまたげになるのなら、それはみんなの益になるのかな?と。
そうわたし個人は思います。
ちょっと視点を遠くに離すと、たしかにASのかたにも 書き方やミスした表現、行き過ぎた表現があったようにわたしも思います。
が、その一方で、ADHDのかたのほうもまた、行き過ぎた表現と感情的な衝動?のようなものが強く 文の行間に感じるように思います。正直が行き過ぎる、とそういうふうにも感じました。
【突き詰める】議論の応酬よりも、時間が必要で【受け流す】ほうが上手くいくこともあるように思うのですが・・・
理解ではなく、お互いを追い詰めているように、感じられてしまいました。
余計なコメントを書いてしまったかもしれません。
もし、先生のお考えに合わない場合は、削除してくださいませ。
思うに私が社会で自分の位置づけを上手くできずに鬱になり過剰適応していった結果、ノイローゼ(統合がしにくく)になりとうとう解離し、家族は私の医者に付き合い、ぐちを聞いたことでまたさらに過剰適応してしまいました。なんだかそれまでいろいろなベールで包んでいた自分がいきなりはがされて目の前のもの(彼も含めて)を理解できません。あんなに結婚を急いでいたのも嘘のように感じます。
ベールがはずれて昔の自分が飛び出た感じです。すごく自由ですが、反面緊張感がなく、イドなのか、それとも本来の自分なのか、わかりません。
先生のアドバイスを聞けたらと思います。
前コメントの最初です。
父はAS、母と弟はジャイアン、私は受動的ASです。
18位に人間関係を作ることをせず、母に追従して生きてきました。卒業後だんだん仕事恋愛でどうしても自分を変えられず息詰まることが多くなり、父を頼りに医者にかかりましたが、鬱ではないといわれてしまいました。意識を失った時、母に教えられた部分を全部忘れてしまい、元の自分に戻ってしまいました。原因を家族のせい(母)にして騒いでいた結果、家族の境界をめちゃくちゃにし、あんなに明るかった家族が暗くなってしまいました。恋人には昔は嫌いだった人でなおかつ母そっくりな人を選んでしまいました。慣れているのである意味楽ですが、依存したままでいいのかとずっと考え続けて辛いです。周りもわかってしまっていたらどうしようと思うくらい鬱です。どうしたらいいでしょう
ちなみに彼氏は自閉でなくADHDのジャイアンです。
掲示板利用に慣れていず別のところでコメントしてしまいました。二重になっているところの削除ができましたらお願いいたします。
>だから私は今後はネット等の公的な場所では「ASは十人十色」と答えることに決めました。それ以上のことは個人的に(メール等で)自分のことを相談された場合にのみ、「特定のその人に限って」はお答えしますが、一般論としてのASについては「分かりません」「人によって違いますから」と答えることにします。
確かに私もASは十人十色だと感じます。また、同じ視点から見ると、ADHDも十人十色だし、多数派も十人十色でもあります。
人間をある側面から見ると、明らかにグループ分けができて、共通の特徴が見られ、その理解はとても役に立ちますが、もう一つの側面から見ると、「十人十色」であり、一括りにはできない部分もありますね。
人間を理解しようと思ったら、その両面を忘れないことが大事かもしれませんね。