感情移入の質問があったので、まとめて書いてみよう。
まず「なり切ってしまう」ほどの感情移入をするのは特に多動型のADHDで、登場人物の気持ちになりきってしまい、一緒になって泣いたりする。私はテレビによく登場する女優さんの中にはたぶんADHDだろうと思う人(S.O氏など)がいるが、「この人にしか出来ない迫力」という演技を超えたような演技力があり、これは私は「ADHDとしてなり切っているだけ」とも思う。
ちなみにこれを説明してみると、「あれはあれ」の認知を極端に押し進めていって、「今は今」で、過去とも「いつもの」自分自身とも離れて役柄に没入してしまうというようなことが起こっているのだろう。
正反対の位置にいるのは孤立型のASの人で、こちらはまた「徹底して鑑賞者」だ。映画も「お芝居が上手」で、結局見せるために作られた「作り物の映像」でしかない。自分は自分の立場から動かず「鑑賞している人」であり、劇中の世界は虚構でしかない。
「自分がない」受動型の人にはまだ突っ込んで聞いたことはないので分からない。
微妙であるのは積極奇異型ASの人だ。私が思うには、ADHDと同じ仕方での感情移入はおそらく無いだろう。ASの人は非常にしっかりとした「自分の立ち位置」を持っていて、そこを離れるのは難しいと思うからだ。
だから、おそらく積極奇異型ASの人の「感情移入」は、「AS的な共感」というようなものなのだろうと想像する。「自分も同じように感じる」という場合に、自分と相手の境界が不鮮明となり、あたかも没入しているかのように感じることはありうるだろう。
言ってみれば、ADHDの感情移入は「相手の世界に飛び込んでいってしまう」という形であるのに対し、ASの感情移入は「自分の世界に引っ張り込む」という形で劇中人物と自分とがひとつになったように感じるのだろう。
私の感じている違いを何とか言葉で表現してみたが、どしどし感想をお願いします。
私は先生によるメールでの診断は孤立型ASでしたが、映画などに感情移入する事がままあります。確かに基本的には客観的な鑑賞者なのですが、正に“「自分の世界に引っ張り込む」という形で劇中人物と自分とがひとつになったように感じる”事があります。
息子と離れて暮らしている今は、父子モノに涙する事が多いです。カタルシスのために、そのジャンルのものを選んで見てたりします。
こんにちは^^
わたしは以前「先生にADHDのACでしょう」と言われましたが、感情移入については「なりきり型」です。漫画や小説でも、主人公になりきってその世界を味わいます(漫画を読んでいる途中に声をかけられると、現実世界に引き戻される感覚になります)。映画も、まあそうです。ただ、演劇は演じている人の力量が高ければなりきれますが、そうではない場合、あら探しばかりするはめになります…。
私は「感情移入」ではなく、ちょっと照れ&ブラック入ってますが(^^;)、「憑依体質」と表現してます.たしかに、特定の対象に感情移入過多だと思います.
「憑依」という言葉は、語源は、私が統合失調症だと判断した従妹を連れて行った精神科医が初診時に使った「憑依性精神病」という病名から(古い話)です.
過去も振り返って、感情移入の対象とその理由を自己分析してみたら面白いかもしれないと思いました.今ざっと考えてみます...
対象はリアル人物のこともあれば劇中人物のこともありました.
理由は憧れや正義感(のようなもの)かなぁ...子供の頃は自分の「生き辛さ」が憧れの原動力になって、模倣しようと努力していたこともあった気がします.
「正義感(のようなもの)」に関しては、高校時代に極端な相対主義に陥って、既成の価値観の大部分を自分なりに解体してしまい、挙げ句残存したエッセンスでその後は生きてる…ように自分では思っています.それは、「人がどう言おうが自分はこれが大事だからそうする」という諦念でもあり、自分なりに考えた「最大公約数」でもあります.当時のテーゼの立て方は、一応「真理」「万物にとって普遍的な価値」といった感じでした(^^;) 岸田秀が読んだ時(戦争への異様な嫌悪が原動力で...みたいなところです)、すごく共感しました.
そして高校生なりに考えた結果というのは、いまも後生大事にしているというか、現在に至る...なのですが、「自分の能力の及ぶ限り」「生命(人間に限らず)を護る」「弱者の味方になる」生き方を選択したい、ということでした(あぁ…ハズカシ).
http://blog.m3.com/adhd_asperger_etc/20061129/_ADHD_ を読んだ時、子供の頃から、自分の考え方や生き方がどうも標準からかなりずれていることはつきつけられ続けてきましたが、その謎がここにあったのか... と霧が晴れる思いでした.(ってゆーか、なぁ~んだ、体質かい! じゃ、しょーがないか!! はっはっ! 爆...(^^;) って感じですかね...)
....ちょっとだけ続く
...つづき
yanbaru先生の御説と出逢って、最近私が自分自身を見直さねばならないとことに思うのは、「大人になって、確かに自分なりの生き方を身につけ、子供の頃ほどの生き辛さは感じなくてすむようになった.それは自分が処世の経験を積んだからであるし、多少は客観視できるようになったから.だけど力もついた分、むしろ周りに敢えて逆らうて生き方を選んでいるところもあるような気がする.それはACな部分がそうさせているのだろうか? だとしたらそれは修正した方がいいのではないだろうか?」 ということです.なぜ修正しないといけないのか? を考えると、? な面もありますが...
自分が辛いから? ひと迷惑だから? 少し社会貢献なところもあると思ってはいるのですが...それはACじゃない部分のなせる業か...?
ところで、先生もコメントされる方にもお願いです.
過去のlogについて書かれるとき、いついつの…という日付(もしくはurl)を入れてくださると参照できるので助かります.先生の文書の場合は検索でるのですが(categoryの下にあるsearchで).コメントは検索できないので特に….
ADHDの診断済みです。
漫画が大好きで、ほっておくと一日中漫画を読んでいる子でした。その世界に入り込んで浸って、非現実の世界を味わっていたんだと思います。
大人になってから少々遠ざかっていたのですが、最近また漫画を読み出したら、精神的に少し安定するようです。
自分は夢の世界が必要なのかな、と思います。
漫画の主人公にはなりきれるし、TVの出産ものや、児童のつらい事件など、見た瞬間にどーっと泣けて共感できるのに、自分の子供が足をぶつけたとか、お腹が痛いとか、ママ寂しいよー等にはことごとく共感できません。
なぜなんでしょう。。。
御無沙汰しております。孤立型ASの黒すりごまです。
私の脳は「極度に疲労し易い」ので、どんなに興味のある話題でもじきにウルトラマンのようにピコンピコンランプがともり、シュワッチとどこかに戻っていかねばなりません。ここへの参加もごく一瞬のこととなりますが(たぶん今回はこのコメント1回限り)どうぞ御了承ください。
(ブログ等も毎日見ることはできず、脳の調子がいい時に数ヶ月に1度ザッとまとめて見たりするしかできないのです)
感情移入のお話で、孤立型ASは「徹底して鑑賞者」だとのことですが、私の1側面を正確に表現していらっしゃると思います。徹底的にドライで、一切の「わざとらしさ」を拒絶する激しさがあります。「お涙頂戴の雰囲気」は大の苦手です。
ただ、私の場合、同時にあほらしいくらい涙もろいのです。
ドラマや映画は頻繁には見ませんが、時たま見るとボロボロと泣きます。
「泣かせよう」が露骨な作品でも不覚にも簡単に泣いてしまうのですが、わざとらしさが嫌なのと、こんなもので泣かされる自分に腹が立ってテレビをプチッと消してしまいます。
一方いい作品で、本当にさりげなく人間の心のほのぼのとした温かさを描いているものは文句なしで泣かされますが、後味はしみじみと心地良いので、「見て良かったー、いい作品をありがとう」と思います。
ここまで書いてきてはっきりしましたが、私はあくまで対象を作品と捉えていました。新たな発見でした。
また、見終わった後はケロッとして自分の生活に戻ります。
>ASの感情移入は「自分の世界に引っ張り込む」という形で劇中人物と自分がひとつになったように感じるだろう。
このように感じる作品には、時々巡り会います。
本当に役柄の中にいる人物と自分が一致したような錯覚に陥り、精神状態も暫く左右される感じです。
それは必ずしも自分の体験に基づくものでなくても、果たせなかった願望が一致したり、私の中に押さえ込まれた感情や欲望が見事に表現された作品に出逢ったときに起こります。
一方、夫が好んで見るテレビのサスペンス劇場は、私にとっては大体あらすじが読めてしまって、毎回同じパターンで退屈です。
山林や岸壁で、犯人と主人公が不自然に暴露しあい、危険な状況になるのですが、必ず木の陰などから刑事が出てきて、ギリギリのところで助けられ、犯人はその場で逮捕されるという流れで、私にとっては、スッキリどころか、不自然さが目について仕方ないです。
サスペンスファンの方・・ごめんなさい。
このネタをずっと待っていた気がします。
子供の頃からずっと不思議に思っていたことの一つです。
おママゴトやお人形あそびが、バカらしくてできませんでした。
4歳のシーンをはっきり覚えています。
何のためにやるのか?何が楽しいのか?
(私には意味のない役に立たない世界にしか思えなかったので)
楽しそうな友達がいつも不思議だったこと、それから
いつも自分がお友達の輪に入れてもらってるのに、
つまらないし、楽しめないことを寂しく思っていました。
お遊戯や劇も同じく。
幼稚園や学校で強制されるのが、イヤでイヤで・・
読書やテレビを見ても、いつも傍観者という感があります。
登場人物と共に行動している感じがします。
(役にはなりきってない)
だから共感はするけど、どこか冷めた目で見ている自分を感じています笑
自称ASのACです。
やはり、主人公になりきってしまうという風な感情移入の仕方はしませんが、部分的な描写に物凄く入り込む事があります。
例えばキリストの磔刑を描いた映画「パッション」などは、キリストが痛めつけられる場面で実際体が飛び上がりました。ずっと肘掛で身体を押さえ込まないといけない程大変なことになってました。
また、泣く場面も人とは違い、自分の実体験に置き換えやすい部分に非常に泣けてきて、一人だけなんかやばい人になっています。(普通は泣く場面ではないのに、涙ボロボロ・鼻水ずるずるなほど派手に泣いてしまう)
先生の仰る「AS的共感」「自分の世界に引っ張り込む」
まさにそんな感じですね。
しかし、実は感情移入(=AS的共感)して泣きそうだな・・と思う様な映画や漫画はあまり見たいと思いません。感情移入し過ぎてしんどくなるし、そのうえもし部分的に納得いかない所があったりすると、過度に腹が立つからです。
あと、劇中の役(役にではなく)に真剣に惚れたり、漫画の登場人物に真剣に惚れたりしますね。で、自分もその設定の中に(恋人などとして)入り込みたい!という妄想はたくましくあります。これも、どちらかと言うと「自分の世界に引っ張り込む」という感じのはまり方なのかな・・・、と思ったりしています。
初めて投稿します。
先生に、夫は(積極奇異型ASor自己正当化型ADHD)、長男は(ADHDのAC)と診断していただきましたが、私の診断はまだなので、ASなのかADHDなのか迷っています。「感情移入」については、劇の内容に感動して泣き笑いする事はありますし、共感もしますが、劇中の人物になりきってしまう事はありませんので、私はASでしょうか? 「ADHDの依存」では、全くその通りと同感できますので、ADHDでしょうか?
実は、現実生活の『感情移入』で悩んでいます。長男が2年半の別居の末、去年の11月に離婚しました。5歳になる男児がいます。私は長男の離婚劇に深く関わってしまいました。心配をし、悩み続けました。当然の事ですが、自分の事ではないので私流に進行していくものではありません。この離婚劇が自分の問題であったほうが、よほど楽だった様に思います。子供の不幸に胸が痛むと言う事は親ならありうる事と思いますが、自分でも不思議なくらいのめり込んでしまうのです。長男のACの面と、私のAS(?)がなせる業だったのでしょうか? 今は孫に会う機会もありませんが、息子をACにしてしまった罪悪感もあってか、ふいに孫の将来が心配になり、えも言えぬ不安に襲われるのです。別れた嫁にしたら迷惑な話だと思いますが、嫁も孫も『自分の世界へ引っ張り込む』形で、心配をしてしまいます。これだけ人に愛着があったら、ASですね。
tohsan さんの投稿を見て思いだしたのですが
私も他人の痛みが、自分のことに感じられることが多く
最近はまだマシになったと思いますが、
映画、小説、プロレスやボクシング等の格闘技など
痛いシーンが苦手です。
一番古い記憶は、東京大空襲の絵本と耳成芳市の話(共に8歳)
あまりに激烈だったので、何日かに分けて泣きながら読んだ記憶があります。やはり他の子はどうして平気なのかが不思議でなりませんでした。
私も作り話の影響を受けすぎる子どもでした。見られないテレビ番組があったり、本を読んだ後、余韻が残りすぎて生活に影響するようなことも多かったです。ちょっと怖い番組を見ると、夜中に目を覚まして泣くので、母が危なそうな番組を私に見せないように気をつけていてくれました。主人公になりきるということはなく、主人公と自分の区別はありましたが、同じ世界に居るような錯覚がありました。大人になって幾分マシにはなりましたが、ドラマや小説の結末が期待とはずれると、いつまでもひっかかって集中力を欠き、困ることがあります。
また、先生の話を読んで、子どもの頃に見たアニメ「魔法使いサリーちゃん」を思い出しました。魔法使いは小説を読んではならない。なぜなら、魔法使いは人間と違い、物語の中に入って戻れなくなってしまうから・・・のような設定でした。でもどういういきさつか忘れましたが、サリーちゃんは「たけくらべ」を読んで、物語の世界に入ってしまい、主人公になってしまいます。弟のカブも、姉サリーちゃんを救うべく「たけくらべ」の中に入っていき・・・後は覚えていませんが、最後は一件落着でした。
私の周囲のASの人達は「半沢直樹」を観てませんでした。(皆揃って裏番組のバラエティー観てました。流行りの台詞は真似してましたが)
ジャイアン母と祖母は「面白い」と言いながら観てました。
のび太の私も「主役の俳優さんが好き」という理由で観てましたが、話の内容は「要は復讐劇だよね」と、どこか孤立型のように冷めた感じで観てました。
個人的に、ドラマよりスポーツ選手等のドキュメンタリー番組の方が感動しやすいのですが、ドラマだと、その後の展開を考えながら観てしまうせいか、先の読めないようなストーリーは気になって見続けてしまいます。
ただ、「電車男」の部分を読んで思ったのですが、例えば「(学園ドラマで)いじめられている生徒を助けて、逆にいじめの標的にされる」シーンなんかは目を覆いたくなるので、(多分いじめの傍観者に対して)感情移入はしてるのだろうと思います。