最近私は発達障害当事者に「冷たく」なっている。ADHDにもASD(自閉症スペクトラム)にも、私が以前に行動してきた「事実、行動」としての配慮を「本来するべきではない」と考えるようになってきたからだ。
ADHDの場合、KY(状況察知能力の不足)が重症なケースは、「やってくれるのが当たり前」という風に認識してしまう。
相手が私でなくても要求する可能性があり、また相手が私でなければ要求しないのであれば私もしないほうが良いだろう。またASDの場合は、「この個人的関係では当たり前」という風に認識されることが多いだろう。
いずれにしても、その瞬間に「依存」が生じ、これは当事者自身のためにマイナスでしかないのだ。
基本原則としては、「理解はするが配慮はしない」という風にするのがベストと考えつつある。
他方で私は発達障害の中学・高校生の主治医としては、例えば「高校入試の配慮で1.3倍の時間を要求する」
など「配慮」を拡大する動きは続けている。
「配慮」のありかたはどうあるべきなのか?
現時点での私の考えは、「配慮はシステムで行うべし」ということでやっと整理がついた。個人的には「理解の努力はするが出来ないことは出来ないとはっきり言った方が本人のため」ということだ。
県教委や学校現場が認めた配慮は、「公的な根拠を持ったシステム」であり、実際に一般的に要求できるものとなる。この手の合理的な配慮を拡大して行き、個別の配慮はなるべくしない。その代わり理解の努力だけは続ける。これが発達障害当事者への周囲のかかわりのベストなのではないか?
翻って私自身も当事者であるが、特に配慮は求めない。逆に負担をかけているのであれば全部そのまま言語化して伝えて欲しいと思う。ただ理解の努力(結果までは求めない)だけはお願いしたい。
私は自分をKYののび太型と自覚していますが、「やって貰って当たり前」という発想にはなりません。
正直、いまだにコメントを投稿した後「掲載されるだろうか」と不安になる時があります(^_^;)
…あれ?
以前「受動型AS養育の基本方針」の記事で、しばらくコメントを止めていましたよね?
あれは意味があって止めていたのではないですか?
てっきり「過集中で合理的な自己突っ込みが機能しなくなったのび太」と「それに過剰反応するASの方達」のやり取りを見て、「その人達(AS)は責任を自覚できないのだから、責任を自覚できるADHD(私)が冷静になりなさい」という意味でコメントを止めたのだと思ってました。(結果的にコメントは掲載されたので、特性故の考え方の違いが原因であり、どちらが悪いということではないということは分かってましたが)
なんだ、また深読みか…
ちなみにYANBARU先生へは、「過去記事への自由過ぎるコメント」さえお許しいただければそれで良いと思っています。
「相手への配慮が依存に繋がること」は何となく分かってましたが、特性の違い故こちらが妥協するしかないと思っていただけに、この記事はありがたいです。
安心しました♪
私の場合の話になります。
「理解の努力をした上で、出来ないことを出来ないとはっきり伝える事が”私自身のため”になる」のだと言う事を、私はようやく認識しました。
私は「冷たい」と言えるのかもしれません。10年間ほどインターネットにてやり取りをした解離性同一性障害の、現在の主人格宛てにと、これまでまぁまぁ前向きな傾向のある交代人格から受け取ってきた過去の手紙を同封した上で、そのお返事として、私自身はどういう人間になりたいか、どういう風に生きていきたいと思っているか、私個人の望みを書いた後、リアル世界において私がイチから人間関係を築いてきたアロマのお姉様方と一緒に撮った幸福な写真を同封し、今の主人格の傾向を言語的に指摘した手紙を、追跡をかけた上で送ったからです。手紙は転送を繰り返しましたが、記録を見る限り届いたようで、どなたかが受け取ったようです。
彼女は、インターネットのやり取りとブログの中で、「医療費がないから結婚した」とどこかため息をつくかのように、仕方なく言い、「旦那の事を、ネトゲ廃人、と言い、自分の思い通りに安心させてくれない不満と不安のはけ口として使い」、「夫婦の将来の保証のない不安から、突然旦那の職場に直談判」しに行き、「胃潰瘍などドクターストップがかかる中、炎天下のなか外出し、後日倒れ」、「華やかな世界で飲んだ酒と夜明けの思い出に、(逃避的に)浸り」、「身体を壊して車いす生活」になり、「ヘルパーさんの存在に慣れていかないといけない、とあきらめ口調でつぶやき」、「どんな事があっても幸せになれる事を伝えていくため、自身の慢性疲労を不治の病のようにインターネット上で語り」、「リアルでは入退院の繰り返し」をしているようです。
彼女はこれからも相変わらずのようですが、私はこのたびようやくふっきれる事ができました。
手紙の中で、私は自分の回復過程を年代別に箇条書きにしたりしてきちんと言語化できましたし、「この個人的関係において、わたしの(鬱の)世界をすべて受け入れて当たり前」と思っていたであろう彼女の世界認識と強固な思い込みに全く配慮する事無く、冷たいながらもようやく彼女の閉じこもり世界を彼女の脳天から粉砕できたと思います。
彼女の事は、「公的な根拠を持ったシステム」に「配慮」していただいた方がよろしいように、私は思っています。
あと、この記事を読んで「如何に自分がAS環境にどっぷり浸かった依存系のび太であるか」よく分かりました。
と言うのも、特に受動ASに対し「何を言っても理解して貰えない」という考えが常に頭の片隅にあったからです。
相手にとって「理解」とは「合わせる(言いなりになる)」という意味に等しく、話の内容を理解して欲しいADHDの「理解」とは異なります。
これだけならまだ良いのですが、こちらが正直に話したことを「不当に攻撃されている」と過剰に受け取られ、後々(関係無い話で)揚げ足取りの攻撃材料にされ、「あの時お前はこうだった」と言われることがよくあり、「だったら始めから何も言わない方が良いし、誰に対しても当たり障りの無いように接しよう」という考え方になっていました。(他の人と楽しそうに話していると、「自分には冷たい」と言った感じで被害的に受け取られるので、意識して「裏表が無いよう」振る舞っていた記憶があります。こりゃ診断されない訳だ…)
これだけでもストレスですが、何より「お前が勝手にやったこと」と、自分の問題を自覚せず、全て人のせいにし、表面的に相手の機嫌をとるしかしない姿に「自分が一番なんだな」と悟りました。
(続きです)
ただ、全て私が勝手に行動したことは事実であり、相手から「言語的」に頼まれたわけではありませんので、「確かにそうだな」と納得できる部分もあります。
なのでそれ以降は、相手の非言語アピールを徹底的に無視するようになりました。
全く気付かないドライなのび太とは違うので「分からないのではなく、分かって(気付いて)いながらわざと無視している」という風に相手には映ったでしょう。
私自身もADHDらしさが出せず、依存によるストレスを常に感じていたのだと思います。(自分の問題が自覚できない依存系の方達は、私の考え方が病的としか捉えられないのでしょうね。)
この記事を読ませていただき、正直、先生の考え方はこれまで自分にはできなかった考え方なので、目を見開いて驚いてしまいました。
私は「ある程度相手のASが自分に依存するのは仕方の無いことであり、自分が相手に依存しなければそれで良いのかな」と思ってました。(なので相手には「最低限特性の違う相手に対し、『自分とは違うから』と割り切って欲しい」という気持ちでした)
また思い込みから勘違いして依存によるストレスを増やすところでした。
先生に感謝です!
私の考える「理解」とは「言語的に説明して、相手に自分の考えを知って貰うこと」であり、その後相手が私の言いなりになるかどうかは「相手の意思」に委ねたいと思っています。(ここまでは先生の考える「理解」と同じだと思います)
問題は相手(受動AS)の考える「理解」を、こちらがどう受け止めれば良いか?なのですが…まぁ、自己突っ込みごと正直に返すのが良さそうですね。
受動ASへの「配慮」は一切せずに、自分の依存を治すことだけを考えようと思います。
ちなみに、ジャイアン連れ子は突き放すぐらいが丁度良さそうですね。
就学前健診で正式に診断されて、公的な「配慮」を受けられることをこっそり祈っています(-人-)
1/2
「配慮のありかた」について、高1母の立場からコメントさせてください。まず、我が家の経緯を書きます。
子どもは中学受験して私立別学進学校へ入学しました。志望中学は、子どもの希望を元に決定しましたが、今思えば、ほぼ親の価値観どおりに行動したにすぎなかったのだと思います。
中学になじめず、自分の不適応の原因はすべて母にあると周囲の人間に公言し、私立中を退学、別の中学に転入。中3になり、母の関与を一切拒否しつつ中学の先生と相談して受験・入学した高校は、またもや進学校でした。
子の選んだ高校は、母から見る限り中受した私立中と同じ校風と思えました。中学の先生の誘導があったと思いますが、この期に及んで親の価値観を捨てきれないものなのか・・・と複雑な心境でした。
その後、こちらのブログで得た知識で、ASの子どもにとっては「公立で共学校であるところ」が前校と違ったのだろう・・・と理解しました。
入学して間もなく、やはり合わないと考えたらしく(同世代友人と相談しつつ)自ら退学を決め、9月より進学生の少ない公立共学高に転入しました。
2/2
公的根拠のあるシステムとしての配慮は、親の立場からはありがたく思えます。
先生がお書きの例について、ここからは仮定の話になりますが
・情緒的には小5程度の私(自己診ジャイアン)が上記の配慮をしていただいたとしたら。
公的システムである故に、他者に対しては「当然の権利です」という堂々とした態度をとりつつ、内心では配慮に納得できない複雑な思いを(場合によっては生涯)抱え続けると思います。
ですから、事前に親以外の専門家(たとえばYANBARU先生のような)から、システムの正当性と配慮の正当性を本人が納得のいくまでご説明いただきたいだろうと思いました。
・仮にわが子が対象となったら。。。
その場では「そうですか」と淡々と受け止めると思いますが、結果が不合格になった場合や入学後に不適応状態になった場合「1.3倍という時間設定が妥当ではなかった」「入学後の配慮があまりにも不備だ」などの自説を展開することと思います(実体験上から、そう思えます)。
1.単なる公的な配慮システムであり、それ以下でもそれ以上でもないこと
2.システムとして、個別の配慮は一切できないこと
3.配慮を選択するもしないも自己責任である。システム自体に不満があるのなら、将来、システムを変えられる側の人間になりましょう
を、やはり専門的なお立場の方から、口頭と文書で伝えていただきたいと思いました。
(3.は自分が子どもに伝えたいこと!でした)
先生のメッセージ(ブログ)を読んで勇気をもらいました。
発達障害者について理解する場が難しいです。歯科(医師、受付、歯科助手)、人間関係などで苦しんでいます。
医師から説明不足で会話不足、親知らずを抜く事も説明しない、医療管理等を110点ですがかなりとって説明もあいまいで言い訳です。挨拶も出来ないです。
先生のメッセージはお見事です。歯医者がコンビニより増える世の中ですが良い医者がいない。先生みたいに説得力がある1人でもいたらいいなと思います。
「理解の努力はするが出来ないことは出来ないとはっきり言った方が本人のため」について賛成です。
1.私も今、歯科医師のスタイルが駄目なら変える決意です。
2.歯科医師が説明しない所で親知らずを抜かない。
3.激励、続けないなどを言わないです。落ち込んでいる時です。
発達障害者のある通信大学も1.3倍という時間設定している。
「理解はするが配慮はしない」などに厳しい現実です。
私の経験からいっても、自分のできること・できないことは自分が経験してみないとわからないことが多い。
よって、本人が体験する前に先回りして配慮するのは良くないと思います。
私はもう少し厳しくて、例で言えば「高校入試の配慮で1.3倍の時間を要求する」などという配慮も必要ないと考えます。
この例はADHDに対する配慮だと思うのですが、私が見る限りADHDの優秀な人は四大卒よりも短大や専門卒の人の方が多いんです。
ジャイアンの場合は、狭い範囲でいいので、自分が今の組織で一番だ、というものを持つ(つまり、その範囲であれば、自分の好きなようにできる)のがキャリアの始まりだと思うのです。
そう考えると、スペシャリスト採用の場合、仕事になれたところで他の仕事に回されることもないし、早く就職するので若いうちに一番になれる、という利点があるように思えます。
受動型ASのところで、受動型ASはいい大学・いい会社はマイナス、といいましたが、ジャイアンの場合は大学に行くことがマイナスということも言えるかもしれません。
医学部とかの「専門学校としての大学」なら、また違うとは思いますけど。
入試なんて、積極奇異型ASと男性多数派のためにあるものなので、自分に合わないものに無理やり対応しない、という考え方もあると思うのです。
多くのケースでは、今の普通の仕組みで入れる学校に入るが、一番幸せになれるのでは? と思います。
結構、長い時間かけて淘汰されてきた仕組みは良くできていると思うのです。
配慮は、「自分のやりたい職業につくのには、その学校に入るしかない」というケースでは必要だと思いますが、それでもその配慮は他人の力ではなく、自分の力で勝ち取るべきものだと思うのです。
別のパターンとして、地獄を見て自分の限界を知ったような場合には、手を差し伸べるべきだとは思います。
厳しい言い方ですが、発達障害者が社会に適応して生きていくためには、一度は地獄を見る必要はあると思うのです。
さっき連絡が入りましたが、ジャイアン連れ子は就学前検診で発達障害と診断されなかったようです。
お医者様(お母さん?)の前で非常に大人しかったらしい…
まぁ、仕方が無いので知らず知らずのうちにカモにされないようにだけ気を付けようと思います。
>翻って私自身も当事者であるが、特に配慮は求めない。逆に負担をかけているのであれば全部そのまま言語化して伝えて欲しいと思う。ただ理解の努力(結果までは求めない)だけはお願いしたい。
「どうせ何を言っても分かって貰えないから」と、こちらが一方的に我慢するのはおかしいですよね。
「殺してくれ」と頼まれた時、実際は本気で言ってないだろうし「自分のエゴのために相手を殺人者にしても構わない」等とは考えてないことは見抜いてました。(だから言ってしまった事に対し後悔したのでしょう)
ただ、相手の本心はどうであれ「私にはそう見えるし、あなたと同じ発言はできない」と、相手の心情を一切配慮せずにそう言えば良いのだと気付きました。
先生のこのブログで大分発達障害への理解は深まりましたので、後は「冷たくドライに正直に」生きて行くだけですね。
ありがとうございました< (_ _*)>
YANBARU先生は素晴らしいです。
患者の気持ちを理解しています。
医者でも薬漬けをさせる。説明をしない歯科医師が多い。
酷ければ患者からお金を取ります。 答えられない医者もいます。
YANBARU先生はハッキリ自分なりの意見を返したり、患者の声を聴いてくれます。
先生だけが冷たいでは無いよ。 先生は今でも理解する患者がいます。
医者は誰でも患者から冷たいです。内科&皮膚科&歯科&外科&眼科などに行って同じです。
私が通う歯医者でも先生のやり方、説明、態度は冷たいです。
嫌いのは
1.隠す事は嫌い。
2.嘘をつく
3.患者(人)の背にしない。
4.言い訳をしない事です。
5.説明をちゃんとしない。患者の声を聴かない。
6.最初のコンタクトは患者に挨拶しない
7.えこひいきする。
8.悪化すると薬漬けする。(歯医者の場合はいっぱい削る)
9.えこひいきが激しい。お年寄りなど良いように対応を見えて発達障害者患者&成人などに冷たくする。
YANBARU先生から強いメッセージをブログなどで発信してほしいです。
少し前から流し読みさせて頂いてました、今回初めて書き込ませて頂きます。
私はつい先日、自分の過ちで多くの人に迷惑を掛け続けて来たことにやっと気付き
ようやく自分の障がいを諦め、受け入れなくては、と思いました。
本当に相手の為を思うならまずはちゃんと自分と向き合うべきでした。
嫌だ嫌だと後回しにした結果が今の状況だなんて後悔してもしきれない。
人が好きだし人の為に生きたい。
自分に生き甲斐を与えてくれる他者にちゃんと仇でなく
感謝をし、恩返しが出来るような人間になりたい。
ずっとこんな綺麗事なんて自分の本心じゃない。
本当は自分可愛さの邪な本心が他にあるに違いない、と認めたくなかった。
でも取り返しがつかなくなるまで散々人を傷付けてやっと分かりました。
善や悪など分かりもしない知ったかで馬鹿な事に拘り
本当に欺瞞の傲りも甚だしく、まんま自分の嫌っていた悪人そのものでした。
少なくとも今、自分は自分可愛さのためにこれ以上人を傷付けたくない。
今までこんな自分に理解する姿勢を向け続けてくれていた人達に
ツバを吐き試し行動ばかりして依存を試みていました。
ジャイアンの暴君、ボーダーの依存がある自分は
本当に多くの人の思い遣りや配慮を足蹴にしてきたと思います。
とにかく今はいつまでも、なんて駄目な自分、に酔ってないで
少しでも合理的な解決が出来るよう努力するべきだと思っています。
依存を期待すると出来ない時のショックが大きいからと
実際は依存も迷惑も多分にかけているのに、それは知らん素振りで
変に孤立し、人の意見にすら聞く耳を持っていませんでした。
今のところとてもじゃないけれど自分が信用できないので
このブログを拝見させて頂く事により道を踏み外さぬよう
障害と向き合うヒントを得ていずれ自立が出来るよう努力していきたいと思っています。
本当にこのような場を与えて下さって有難うございます。
先生、「理解はするけど配慮はしない」という言葉、とても分かりやすくて助かります。
「(主に依存型ジャイアンと受動型ASの)身内や知人の特性」を知り、その人達とは全く違う「自身ののび太型の特性」を知り、どう折り合いをつけて付き合って行くか考えた時にとても参考になりますね。
例えば、上記のような「人の為に生きたい」等の「綺麗事」とも思える考え方を被害的な認知の人達から押し付けられた時、内心反抗する気持ちを抑えながらも「そうだね」と表面上合わせてきました。
これが私の「ACと依存」であり、「反抗する気持ち」こそ「本当の私」なのだと改めて気付きました。
ただ、ASや多数派にとって「人の為に生きたい」という考え方は当たり前であり、それを「理解」はしますが、(結果として)私がその考え方を受け入れるかどうかは「私の意思」で決めれば良い。
それがこの記事の「理解のための努力」であり、ADHDの私にとっての「健康的な考え方」であると思いました。
だんだん「人は人」と上手に割り切る方法を掴めてきました。
先生、ありがとうございます!o(*^▽^*)o
「自分がして欲しいように、相手にもしてあげる。」
難しいけれど、とてもいい方法だと思います。
人も、動物も、植物も、私がやった分が帰ってくる。から、それ以上の事が帰って来ていたとしたら、「自分はなんてラッキーなんだろう!」感謝ですね〜
自分から挨拶をしなければ、挨拶が帰ってくるわけないし、親切にしなければ、親切をうけられないし、水をあげなければ、耕さなければ、花はさかないし、実も成らない、
あたりまえのことですよね!
ならば、自分から「してほしなあー。」と、思っている事は、不器用なりにやる用に心がけています。
タイミングを逃した時は、「私、KYでゴメンねー。静かにしとくねー。」
「私、変な人でごめんね〜。」と、伝えています。
それで、相手は「悪意は、無いんだ。」「おちょこちょいなんだー。」
「プロ野球のいちろーもってよ。気にすることないよ。」
と、励まされ、また、「がんばろ〜ね。」と声をかけてもらえようになり、仕事を教えて頂いています。
優しい気持ちで、正しい努力をしていれば、伝わる人には、ちゃんと、伝わっているみたいです。
ただ、ここで、調子に乗って、その人を傷つけてしまったり、グサリと、くるようなことや、皮肉や、不満がぽろっと出てしまうのが、大変悪い癖だと気がついて
どの人とも、適度に親しくなり過ぎない、甘えない、様に距離をおくように心がけています。
ついつい、過去の自分の傷や「頑張っているのに、分かってもらえない。」悔しさ言い訳が、口から出てしまうので、
不平不満は、言わない。
聞いて気持ちの良い言葉だけを言う。
人の悪口は、絶対言わない。
と、決めています。
お互いに助け合うのが、良いと思います。
周りにいる人間は、以前と同じ人達。
私の心が、ひねくれている時は、嫌な人達。
私の心が、優しい気持ちで、いる時は、素敵な人達。
自分の心次第だったんですよ!!
一番傷付けて、嫌な奴は、自分の中にいるんだよ。
だから、早く自分を許して、こんな自分を受け入れて、好きになろう。
以外と、周りは敵じゃないよ(*^◯^*)
悪いところを、つつき合う場所ではなく、
お互いの良いところや、改善策をみつける、発展性のある場でもあってほしいなー。
もしかして前回の自分の発言で不快に感じてしまった人も
居るのかな、と、ちょっと気になってしまったので
再び失礼します、もし見当違いだったらすみません。
前回のコメントは
本当に誰かに押し付ける気で書いたつもりは一切ありません。
私は長い間、そんな綺麗事は自分の本心ではないが
その理屈は正しいのだから、納得していなくても
その理解に従うしかない、と思い込もうとしてきました。
でも、正しくは「人の為に生きるべき」という綺麗事ではなく
「自分の為に人の役に立ちたい」というエゴが本心でした。前回の
自分可愛さ、とは「自分のエゴの為に他人を利用している」
という自覚を私は持つべきだった、という自戒的な意味でした。
そして、自分が間違えていた、と気付くまで
自身は「自分のエゴで他人を利用していた」に過ぎないのに
人には「人のために生きるべき」と散々押し付けてきてしまいました。
今はそれをとても後悔し傷付けてしまった方々に
本当に申し訳なく思っています。
私が送った手紙のお返事が来て、拝見したところ、交代人格からではなく、今の主人格であり基本人格の「本人」が書いたお手紙でした。
私はもう、あなたの現状についてのフォローはしないけれど。
それは、「互いにフォローし合うのが当たり前だった関係のおわり」という事だけれど。
いつの日か、生きるよろこびと楽しさが訪れる日が来ますように。
言わないでいい事だから言っていなかったけれど、私の方は、相変わらず 無理せず、あせらず。です。
「個別の配慮はなるべくしない。」という事は、自分の問題と他人の問題の区別がついているという事になると私は思っています。
また失礼します。
私は綺麗事、を自分の本心だと思い込もうとしてきました。
でも自分の本当の本心はエゴ、自分勝手、でした。
今までは理解を蔑ろにし配慮の見返りばかり求めてました。
ついでに暴君やボーダーは人からよく言われた評価で
自分では今のところ受動型ASが最も近く思えました。
しかし、まだまだなんとも曖昧な部分が多く
これからじっくり考える必要がありそうです。
前回内容が重複してしまいすみません。
投稿後コメントに対するコメントになってしまうため掲載されないだろうと思い
再トライしたところ、両方掲載になってしまいました。
今まで、私は無責任そのものでした。
上手くいかないのは人のせい、と勝手に被害的になり
自分の嫌な部分を受け入れられず、現実逃避し
人に八つ当たりして責任転嫁しようとしていたんですね。
でも実際は、自分の障碍は誰のせいでもなく、自分が背負うしかないものだ
とやっと思えました。
変えたいなら自分が変わるしかない、この意味がやっと理解出来ました。
自分なんかが変われる訳がない、とずっと思っていたし
今もそう思っていない訳ではありませんが
今は、すくなくとも、出来なくてもやるしかない、と思っています。
自分を変えよう、と思った時、ここは本当に多いに役立ちました。
改めて、本当にこのような場を提供して下さって有難うございます。
すみません、「人の為イコール綺麗事」って言い方は、かなり言葉足らずで誤解を招きやすい言い方でしたね。
改めて説明させて下さい。
私は「人の為に」と考えて行動することはあまりありません。
例えば、誰かからの頼まれ事を引き受けて、「結果的にその人の為に」動くことはありますが、これを「人の為」とは捉えないです。
引き受けたからにはその責任が付きまとうので、場合によってはこちらの都合で頼まれ事を断ることもあります。
いくら「人の為」だからとは言え、自分の力量を考えずに安易に引き受けて途中で投げ出す結果になってしまえば、それは「無責任」ということになり、後々自己突っ込みから自分を責めることに繋がりますので。
もちろん、元々自己責任を認識できない受動型ASの人にこの考えを押し付けるつもりはありませんし、場合によっては周囲からの働きかけも必要だろうと思っています。
「綺麗事」とは少し違うかもしれませんが、私の場合「自分の無責任さを相手のせいにしながら、表向きには『あなたの為』という綺麗な言葉で着飾り、曖昧にしてしまうこと」に対し抵抗があるのかもしれませんね。
この、ブログと数々のコメントは凄い、!!
発達障害の方々の生き方、考え方、パターンが、みえてきました。
私と同じパターンの方、「私も〜!そーなのよー!」とうなずいてます。
が、しかし前進する!暗闇は光に照らされる。
パターンが、解れば立ち直り方も解る。はず!!
自分の事はわからないけど、人の事は冷静にみれる。
人の振りみて、我が振り…直せそう(^O^)/
即、実行します。
「(この場を)お互いに良いところや改善策を見つける、発展性のある場であって欲しい」というお考えについてですが…
YANBARU先生に「直接」そう申し出れば良いと思いました。
個人的に、(私を含む)ここのコメント者に先生の提示したルールを破るようけしかけたいのだろうか?と思いました。
私自身は先生のルール(「最近の当ブログのコメントについて」参照)にのっとって、記事や他の方のコメントを参考に「自身(や身内・知人との関係性)を振り返ったコメント」をしてるつもりです。
先生には管理者としてこのブログを管理する責任がありますので、私が先生のルールを破ってブロックされても文句は言えません。(ただ、理由だけは教えて貰いたいです)
直接先生に「肯定的なコメントしかさせないようルールを変えて貰う」よう申し出るのが良いと思います。
ルールが変われば私もそれに従います。
今回のコメントは、読み手に取って少々刺激的な書き方になっているかもしれません。
おそらく配慮が足りないと思われる単語がいくつかありますが、よい表現が思いつかず、そのままにしています。
「上から目線」などの感情的な読み取りをせず、文章そのまま読んでいただきたいです。
私は「『普通』でいたい人(『普通』を選ぶ人)」に対しては、一切の配慮はいらないと思います。
その人は『普通』でいたいのだから、『普通』の基準で(×1.0倍で)接するのが礼儀だと思います。
就職にしても、障害者枠ではなかったのなら、特別の配慮はいらないように思います。
私は自分がかなり「気の利かない(私流に言うと「頭の悪い」)人間」だと自覚していますが、気の利いていない部分については指摘してもらいたいです。
おそらく黙って直されても、わからないまま過ぎてしまうと思います。
「できてなかったよ」とはっきり言ってもらうか、私が気づくまで放置していてもらいたい(尻拭いしないでもらいたい)です。
こっそり手心を加えられるなんて耐え難いです。
(自分をジャイアンかなあと思った理由のひとつは、このへんの頑なさでした)
自分に配慮が必要だと思えば、堂々と要求できるシステムができるといいです。
誰にもわかりやすく公平な「ルール」。
公的な配慮が学校に通う間だけではなく、社会人になってからもあればよいのですが・・・。
ここ20年ほどの学校は「みんなちがって、みんないい」でしたが、それもどうなるやら。
そして現実の社会は相変わらず競争主義なので。
この書き方で適切か、伝わるかは不明ですが
「責任転嫁を綺麗事で誤魔化しているように見える」
という意味はすごくよく理解出来ました。
実際、この通りの事ばかりしてきましたし
あの書き方でそう見える方がいらっしゃるのは当然かと思います。
誤解や不快を招く書き方をしてしまい本当に申し訳ありません。
直したい、変えたい、と思った場所もまさにここで
「自身の責任を人の為、という言葉で責任転嫁したくない」
が今の自分の目標です。
より適切な書き方としては
「もう、自分のエゴを綺麗事で誤魔化し責任転嫁したくない」
が近いかと思います。
その昔、自身の不適合に悩み、下した解決策が
2度と出来ない約束はしないこと、でした。
出来損ない、の自分を全面的に否定し、人の言い成りとなり
出来なかった時はやらせた人のせい、とする事で
罪悪感から現実逃避したかったのだと思います。
今思うとそれが自責だったのかも不明です
自分の不利が嫌なだけだったのかも知れません。
とにかく、胸が押し潰されるような感覚から一刻も早く抜け出したく
縋った逃げ道、が自分を捨てる事、でした。
自分を欺き続けたせいか、最近は何をしても夢中になれず
自分がなにをしたいのかもよく分からなくなってしまいました。
今は、逆に本来の自分を取り戻したいです、そして今度こそちゃんと
自分の責任から逃げずに自分と向き合える人間になりたいです。
未だに自分がASか、ADHDかは曖昧でよく分かっていません。
「(上から目線等の)感情的な読み取り」とは、少し違いますね。
「コメント者同士、肯定的なコメントしかできぬよう先生に直接申し出れば良い」というのは私の本心であり、自分なら「遠回しな言い方で相手を攻撃するような非言語的威圧」はせずにそうすると思ったので、上記のようにコメントしました。(まぁ…あのコメントを「非言語的威圧」と受け取ってしまう時点で、AS環境の影響を受けた依存系のび太であり、何やってんだろうな…という突っ込みは入りましたが、文章をそのまま読んでしまうと「ちゃかし」や「冷やかし」でふざけているように思えます)
ちなみに、別エントリーで「そこまで自分を責めなくても良いと思う」とコメントしたのは、その方が「本当は周囲の人達に恨み言を言いたいのに、無理してご自分を責めている」ように思えたからです。
感情的な読み取り?だとは思いませんが、私自身、他の方のコメントを「言葉通り受け取っていない」ことは自覚してるので、「何が言いたいのか分からない、何とでも受け取れるような曖昧な表現」のコメントはなるべくスルー(無視)しようと思っています。
「上から目線」ではなく、「馬鹿にしている」という表現の方が私にはしっくりきますね。
堂々と「私はこう考えます」と書いてあれば、「このコメント者はこういう考え方なのだ」と言葉通りすんなり受け入れられますが、「一見媚びへつらった言い方で誤魔化しながら、本心では私の自己突っ込みが病的である」とでも言いたいようなコメントは、何が言いたいのか分かりづらく、また「依存を受け入れろ」と言わんばかりの非言語的な威圧を感じます。
話は変わりますが、「出来ない約束はしない」という考えには私も共感できます。
ただ、私の場合は「自己責任から」という理由ではなく「相手に不誠実と思われ、嫌われるから」という「依存心からくるもの」かもしれません。(もしくはAS環境の影響による首尾一貫性からくるものかも?)
もう少し掘り下げて考えたくなりました。
ちなみに「謝罪」についてですが、自分の何が悪いのか等、何について謝っているのか考えずに「ただ場の空気や雰囲気を察して謝ること」は、私にはできません。(自分の責任や問題を明確にしたいので)
ただこれは、多数派やASが行う分には問題無いと考えています。
先生、「できない約束は始めからしない」って考え方ですが、もし破ったら「合理的な自己突っ込み」って入りますかね?(^_^;)
自分は強迫的に「(不誠実な人間というレッテルを貼られるので)破ってはいけない!」という気持ちから守りますし、もし約束を忘れてすっぽかして相手に責められても文句は言えないのですが…
逆に相手がすっぽかしてもさして腹が立たないと言うか、「こういう人だから、始めから約束しないか向こうから誘われるのを待とう」という姿勢にはなるでしょうが、「卑怯」という考えにはならないですね。(ただし、私が約束を破った際、その相手から責められるようなことがあれば「あなたにそれを言う資格無いよね?」と相手に突っ込むと思います。)
元々「口約束」という(責任を明確にできない)曖昧なものだからか、それに固執してお互いを縛り付けるのは難しいだろうなと考えています。
初めてコメントします。半年前に先生のHPに出会い、初回メールでWAISⅢ・ストラテラなど教えていただき、その後数回、一方的に長文メールを送って頭を整理し(すみません!)、その間に、職場不適応→うつ→精神科受診→WAISⅢ(言語性114動作性99)→診断(うつ+AS+ADHD)→ストラテラ開始→うつがほぼ自然回復(底から約4か月)という経過です。
「理解と配慮」がとても心に響きました!
常に多数派に求めるものは、「上から目線の弱者に対する配慮」ではなくて、「少数派を理解する姿勢と共存のための人道的な対応」です。仮に結果が同じでも、ベースに信頼の姿勢があるとないとで、質・全体効果・納得感が全く違うことに気づきました。
ADHD+ACを自覚していた自分が、ついに不適応・二次障害に至ったとき、それを底付き体験と思って脱AC、二次障害回復を図ろうとするときに、「上から目線の弱者への配慮」に依存してきた自分に気づかざるをえません。
生きづらさを抱えながら多数派に迎合することで築いてきた見せかけの安全や安定を断捨離しなきゃと、しみじみ思いました(思っても実行するのには相当時間を要しますが…)。
これからは、「困ったときはお互い様」的な対応を超える配慮を暗黙に求めていないか。とか、「これまで必死で多数派に貢献してきたのに…」的な恨み節が出ていないか。とか、自分で突っ込みながら、真正AS+ADHDとして、周りに大迷惑はかけないようにKYなりに努力しつつ、それなりに社会に貢献していけたらな~と思います。
それにしても、ドーパミン・ノルアドレナリン不足があるらしいとして、それを薬で補充できるなら、服薬して注意の持続や物質依存の改善努力をした方が長期的にQOLは上がりますよね~。診断受けて正解でした。ご助言ありがとうございました。
ところで、素朴な疑問ですが、AS+ADHDの併存というのが、いまいちよくわかりません。
少なくとも、KYとか注意のコントロールとか、共通する症状は強化はされるが、こだわりや愛着・執着なんかの異なる特徴は中和しないようで、状況や対象によってASかADHDのいずれかが前面に出てくるような感じがしています。ややこしい奴ですね~
私のコメントで不快な思いをさせて、すみません。
どうしてあの私が今の私になったのか、書きましたが、長すぎて書きながら、マイナス思考の過去の自分にウンザリして消しました。
絶対、後ろは振り向かない。
やっとの思いでここまで来たんだから。
今日より明日は絶対良くなる。
ひとりごとです。気にしないでください。
「配慮」について。
公的な根拠を持ったシステムであり、一般的に要求できるものであるなら、まずは「発達障害と診断して貰うこと」が必要ですよね。
私の場合、市内の病院では発達障害と診断されませんでしたが、おそらく後藤先生に直接診て貰えばADHDと診断されるだろうなと考えております。
「自分に発達障害者としての配慮は必要だろうか?」としばらく考えてましたが、私自身「多数派と円滑なコミュニケーションを取ろうと、空気の読めない性格を覆い隠して言語的なやり取りをしてこなかった(怠ってきた)こと」が悩みの一番の原因であったため、「自分は他者を必要としない」「KYの性格は一次障害によるものだからどうしようもない」そう考え「割り切ること」で大分楽になりました。
また、周囲からは「気にしすぎ・神経質」という印象を持たれ、職場では「要領が悪い」と言われるものの、表面上は問題なく過ごせているので、とりあえず今は「発達障害者としての配慮は求めずに『多数派』として生きて行こう」との結論に至りました。
もちろん「公的な配慮が求められない」ため、KYで要領の悪い部分を「障害が原因である」と周囲に理解して貰うことができない。
(続きです)
そういった意味での苦労は尽きないと思いますが、私自身「好きなことを見つけ、私生活を充実させることで上手にストレスと付き合う」等、まだ改善の余地があると考えており、「(診断を)積極的に先延ばし」することにしました。
もちろん「ADHDの特性」を持つ一人の人間として、これからも多数派やASとの違いを理解し、自分を見つめ直す作業は続けていきたいですね。(ちなみに、自己証明書が欲しいという理由から発達障害と診断して貰うという考えは、何となく理解できます。私の場合は「納得したい」という気持ちが強いからだろうと思いますが…)
先生のこのブログは、自分自身の生き方を見つめ直す上でとても参考になりました。
ありがとうございましたm(__)m
コメントされる方のメッセージのニュアンスにいちいち共感しては心なごみます。自称少数派の人の言うことって、それぞれ個人として表現型とか、ベクトルが全然違うのに何か共通の軸を感じてしまいます。少数派の一貫性というか、一貫性あるからこその柔軟性とか、広がりのような感じ。
遺伝子的、短期的に多数派が優勢で競争優位であるとしても、ロングスパンで、マクロでみると、生物の多様性を支える少数派は絶対的に必要。
多数派は長期的に少数派に支えられているわけだし、多数派がいない世界では少数派は少数派としての意味がないのかもしれないわけだから。
少数派を自覚した以上は、困難は多くても、マイペースで、共存のための相互理解を使命として、かっこわるいくらい不器用に生きるのも、逆にかっこいい感じがしてきました。一人じゃないもんね。
♪Stand tall & Face it all together♪
ああ、うつからやっと抜け出てきた感じが・・・ごはんがおいしいのって、純粋にうれしいです!
追記ですが、エントリー「のび太と依存2」の「チャチャを入れられる」の意味が、この度ようやく理解できました。
このエントリーでのコメントが、まさにそうですよね。
どうも私が他のコメント者さんのコメントを読み、自身を振り返ったコメントをすると、他のコメント者さん達のコメントが増す傾向が強いと思うのですが…「(雰囲気に流されてというのもあり)他の受動型さんを守るために私を攻撃(非難?)しに来るのかな」と考えてます。
真面目に考えてコメントしたので損した気分です。
ごめんなさい、先生。
やっぱり次はHNを変えてコメントしに来ようと思いますf(^_^;
「他者を傷付けまいと、腫れ物に触るような言い方でやんわりと自分の考えをねじ曲げながら発言する」スキルは持ち合わせていませんので…(意味が無いと思っていますし、性に合わないのですね。正直「他者を傷付けまい」等と考える上メセ?の自分を想像してみると吐き気がしますが、それが多数派の世界なんですよね。)
それでは今度こそ失礼致します。
まだクリスマス前でかなり早いですが、良いお年をお迎え下さい。
私のコメントで気分悪くされたのならごめんなさい。
おひとりおひとりのコメントに対してコメントしているつもりは全然なかったのです。
「理解と配慮」についての先生のコメントを読んで、自分の頭の中で、個人的な過去の苦い経験に照らして頭の整理をして、思ったこと書いて投稿してたので。
ブログの暗黙のルールを読めない私は、やっぱりKYなんですね~。濃い対話型のブログに突然登場して、テーマに共感して前後の文脈を全く無視して自分の思いを書いていたってことですから。「個別に理解はできないけれども全体的に強く共感した」という感じなんですが、そう言うと「理解できてない共感ってただの誤解じゃないの?」という突っ込みが入りそうですね。
いずれにしても、「前の方のコメントを全く理解していないが、誤解して何か返そうとしたわけでもなく、ブログのテーマに一方的に共感して自分なりの考えを表現したと思われる、ベクトルはずれているが否定的ではない投稿」という感じで受け取っていただけると、大変ありがたいのですが。
あの、もう一つ、私のコメントがきっかけで道産娘さんがHNを変えたとしたら、変えたHNのコメントの後に私が気づかず投稿してしまって、結局同じように気分を害する結果になったら困るな~と思いまして。
それなら、私がHNを変える方が合理的です。私はそんなに頻繁に投稿しないと思いますが、次回投稿するときは違うHNにしますね。
さて、今日私は頑張って部屋を片づけます。ストラテラ飲んでも部屋はちっとも片付きません。当たり前です。魔法の小人じゃないんだから~。
私はどうやって長年のトラブル体質から抜け出せたんだろうとぼんやり思う。
インターネットで名前を変えても問題は解決せず、だからといいって現状を納得するかと言えば納得もできず。どこで失敗をしたのかすら認識できず。そもそもあの時の私はきちんと失敗を体験させてもらえたのだろうか。だけどやっぱり、特にインターネットじゃぁ、そんなきちんとした体験を味わうのは、ムリだったよなぁ。
傷つけ合うのに疲れたのはいつからだったろう。
ただ漠然と、今陥っている身体症状が悪化する感覚はまだぼんやり覚えている。
先日、障害者手帳の更新申請のための診断書を書いてもらいに1年以上ぶりに病院の担当医の元を訪れたところ、今度の申請は通らないかもしれないと言われた。私の担当医はずっと前から手帳の更新には乗り気ではないのだけど、そういう姿勢を見ると、私はグレーゾーンの存在らしいことがなんとなくうかがえる。複数の相談先から得た情報を拙いながらも総合すると、もしかしたら障害者雇用ではなくなるかもしれないという事。そして、私、を判定するのは、県と今の雇用主と労働局、そして、主治医の意見書らしいという事。
現実として私にできるのは、今の勤務を真面目にこなし続ける事と、体調を一定に保つ事だ。今は自分の状態と状況、そして置かれている立場の事が昔よりもよく見えるようになった分、ハッキリ言えるが、「インターネット」に、かまけているヒマは、自分の現実の生活をこなしていく事によりなくなったし、なくなってしまった。だけど、これで良かったんだろうと思う。
自分の心のモヤモヤを書き散らさなくても今の自分の中にきちんと集約できると私は自分でそう思える。それは、何もかも自分の状態をすべて書き連ねなくても良いという選択がある事を、手探りの困難の中、おぼろげにでも気づき、つかみとっていったからだと、私は自分でそう思っている。
発達障害傾向の人は「過集中」が特徴で、「自閉傾向」もあるため、ネットとの親和性は非常に強いと思います。
私自身、その特徴が強いからこそ、ネットとの「距離感」は常に意識することが必要だなと、いつも自分に言い聞かせています。
先生みなさまお久しぶりです。誰も気にしてないと思いますが、報告したくなったのでコメントさせてください。
無事、常勤の職を得て職業訓練校を卒業できそうです。
夜勤、早番、遅番ののある3Kで有名な職場ですから、仏門に入るような気持ちで出発しよと思います((T^T))/~~サヨナラ
現在「プチ躁」なのではないのかと一抹の不安も覚えつつ、軸がないけどベクトルは合っている・・ハズ・・そんな気分でイッテキマス。
こんにちは、はじめまして。
こちらのブログを知ったのはつい最近のことです。たまたまADHDという検索ワードでたどり着きました。
私自身は過集中型ADDと診断されている成人当事者です。診断が下りてから早くも12年がたとうとしています。
ちょうど「片づけられない女たち」がブレイクする直前でした。
私は「へんてこな贈り物」でこの障害のことを知り、今の主治医にたいそう驚かれたものでした(珍しかったらしいです)。
と、自己紹介はさておいて。
最初に書いたように、ここを知ったのが最近のことなので、記事もまだ少ししか読んでいないのですが、依存と理解について考えておりました。
小学生のころの定型発達の母の口癖は、「何を考えているのかわからない。頭をかち割ってみてみたい」でした。悲しくて悲しくてたまりませんでした。理解されたいと思っていたから。
この障害であると診断されて、お互いの間にはどうしても乗り越えられない壁があるのだとわかりました。
私はご多分に漏れずというか、超が付くほどのマイペース人間で、アスペ傾向もあるということでしたので、ぶつかるまで止まれないタイプです。で、壁にぶつかったら「なんで先に行けないのかな~?」と考えて回り道の存在に気が付かないようなところがあります。で、周りにこっちだよと教えられてなるほどと気が付くと。
ここで依存に陥るかというと、マイペース人間な分、結局は自分の思ったようにしか生きられないでいるんですよね。それでまた壁にぶつかったりしたりするのですが。
私はそうですが、やはり人ごみをさっさと歩くように生きるために、教えてくれる相手にすがってしうまうのはあるのでしょうね。
うつを経験しているので(今は寛解しています)、自分のことも客観的に見る癖がついておりますが、そうでなかったら私もどっぷり依存人間になっていたことでしょう。思えば怖い話です。本人は責任放棄できるから楽でしょうけれど、周りはたまったものではないですよね。というか、それで逆にすがられて困ってしまうこともあったりするのですが。寄り添うのは簡単そうに見えて難しいから。
でも、簡単に突き放すのも難しい。理解されないつらさを身に染みて理解しているから。
程よい距離というものをこちらで学んでゆけたらと思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。
久々にこの記事を覗いてみましたが、誰も見てなさそうなので安心してコメントします。
私自身は「インターネットで失敗を経験させて貰った」とは思いません。
あくまで現実とインターネットは別物と捉えていますし、ネット上での失敗が現実で活かされるとは思えません。
私は、「自分の性格や行動パターンを先生のブログの内容に当てはめて考えることで、自分や周囲の人達の特性を理解するのが好きだから」という「自己分析」を理由にこちらでコメントしてました。(同じ理由で他の方々のコメントも拝見させていただきました。もちろん、「最近の当ブログのコメントについて」記事以前は他のコメント者さんと絡むこともありましたが)
「HNを変える」と言ったのは、「『道産娘』のままだとこの先もずっと茶々を入れられ続けるだろう」と思ったからですが、変えなくて正解でした。
やたら私の使った言葉を引用してコメントする人がおり、(私が「HNを変える」と宣言したことで)その人を私だと勘違いする方がいるかもしれないと思ったので…
ネットは匿名性が高く気が緩みやすくなるため、最低限先生が提示されたルールだけは守るよう、常に気を付けてはいました。
(続きです)
私だけがトラブルの原因ではなく、相手の過剰反応や茶々によるものも大きいと思ってますが、リアルでボーダーっぽい人と関わっていたというのもあり「相手にちょっかいをかけた直後に、自身の言動の矛盾に全く頓着せず、ただただ言い訳や綺麗事を並べて謝る人」に対し、個人的に嫌悪感がありました。(おかげで過集中には至りませんでしたが、思い出すと吐き気と聴覚過敏が酷くなりそう…)
何だか「冷たい」を通り越して「厳し過ぎる」かな?とも思いましたが、やはり自分が同じことをして誰かに「バカにしてるのか?」と指摘されても「仕方無い」と思うし、いくら想像力が欠如し、自分の責任や問題が自覚できないとは言え、「謙虚に自分自身の発達障害と向き合うことをせず、他人に茶々を入れて良い」理由にはならないと思うので。(ちなみに、「茶々を入れている」と思った人は一人ではありませんでした。まぁ、中にはHNを変えて絡んできた人もいたかもしれませんが)
最後になりますが、「診断済み」の方々のコメントを読み「目の前の現実の生活をこなしていく部分は未診断の私と何も変わらない、私も負けずに頑張ろう!」と思いました。
では…(^_^)/~~
(肝心なところを訂正し忘れました)
私の去年のコメント→「他者を傷付けまい」イコール「上から目線」についてですが、かなり乱暴な表現でしたm(__)m
実際は「上から目線」ではなく、「『相手のため』と言うことで、自分の責任を回避したいのだ」と感じ、「私は口にする事ができない」と言いたかったです。(「誰かの役に立ちたい」という奉仕精神や自己満足が理由なら、まだ納得できるのですが…)
先生、これまで私のコメントを載せ続けて下さって本当にありがとうございました。
あと、私のコメントに過剰反応する事無く、黙って見守ってくれていたであろうASの方々にも感謝です。
すでに自己分析は終了しているので、もう「長々と自分の状態を書き連ねる」必要はありませんよね。
また茶々を入れられないうちに、今度こそ退散します。(何度同じ台詞を繰り返したことか…)
ありがとうございました(^_^)/~~
(あっさり戻って来てしまいました…)
上記の私のコメント「自己満足」についてですが、「自己満足だけで物事を成し遂げること」は少ないですね。
責任感から「途中で投げ出してはいけない」という気持ちになりやすいので。(投げ出して良いのは、他人に迷惑をかけない趣味等でしょうか)
「親の責任③」のエントリーに「理解のための努力」について詳しく書かれていたので、自身とボーダー知人のことを振り返ってみようと思います。
「自身の言動の矛盾に頓着しない様に見えたのは、自身の責任や問題を自覚できない受動型の特性」のため」
そう理解しています。
私は彼を発達障害と認識する前まで「他人を馬鹿にしておちょくっているのだ」と本気で思っていました。
そうじゃないなら率直に「違う」と言えば良いのに、そう言わずに「お前がそう言わせた」とでも言いたいかのような言動をとっていたからです。
そして、当時の私は「結果」を求めていたのでしょう。
「悪いと思っていないのに謝らないで。できないなら始めから『できない』って言えば良いでしょう?私に無理矢理言わされたと『被害者面』しないで。」と彼に言いました。
(続きです)
口では「分かった」と言われましたが、結局同じことの繰り返し。(ただ、この頃には「やっぱり無理…」と言っていたので、私も諦めていました)
このエントリーでもコメントしましたが、私自身は元彼と同じ様な考え方はできませんし、自分を押し殺してまで相手の考え方に合わせるつもりはありません。
何故なら、それをしてしまえば私の方がストレスで身体症状が酷くなったり、イライラが募ったり…ということになりかねないからです。
きっと彼も「何故私に責められるのか」分からず苦しかっただろうと、今となっては思います。
きっと私に一生懸命合わせようとしてくれたのだろうと、今は「理解」しています。
それが私の考える「理解」であり、彼の内面を理解はしても、彼に合わせる・彼の言いなりになる等の「配慮」は一切しない。
そう考えています。
うわぁ、最新エントリーで何だか先生にフォローして貰っちゃったみたいですね…すみませんf(^_^;
内モードで真正面からぶつかっている身としては本当その通りなのですが、正直、ここまで文句を言うのは(ASDの依存環境で強い影響を受けた、納得できない合理型ADHDの)私ぐらいだろうなと思っていたので、少し驚きました。
大抵の人は、受動型ASDの人に対し「内弁慶」程度の認識しか持っていないのかな?と思っていたので。
そうか、「自身の言動の矛盾に頓着しない」のは、「変わり身の早さ」や「柔軟性に優れた性格」によるものかもしれませんね。
「納得してからでないと動けない」私とは対称的です。
もう一つ、私には「言語的な理解を相手に求める努力」を怠っていたようです。
「どうせ何を言っても私のせいにされるだけで、理解なんてして貰えないだろう」と思っていました。
「結果を求めていたから」というのもあるのですが、そもそも私の言うことを理解しているように見えなかったです。(媚びへつらってはぐらかそうとしているように見えます)
脳の特性が違うので「私と同じように理解する」のはまず無理ですよね。
ただ、(少しの間でも)私に合わせようとはしてくれたので、彼なりに理解しようとしてたのかもしれません。
これで彼に対し寛容になれるだろうか?
まぁ、こればかりはまた本人に会ってみないと分かりませんが…
相手の過剰反応を恐れず、きちんと言語化することで自分自身に対しては寛容になれるかもしれないと思いました。
沖縄旅行行ってきました!レンタカーで世界遺産の全部と主な名所は、山原地区を除いて制覇しました。沖縄良いですねー物価も安いし、住んでみたいと思いました。今度行く機会があったら山原を攻めてみたいです。全日程を通して雨だったけど楽しかったなー。先生ともどこかですれ違って挨拶ぐらい交わしているかもしれないですね(笑)
「水は低いほうにしか流れない」というのは、結局、自分が対応できる最悪の事態を常に想定しているので、「想定の範囲内なら大丈夫」だと安心してしまうのが原因なのかな、と思います。就職活動も、どんな仕事についても何となくやっていけるような自信みたいなものもあったので、なかなか決まらなくても不安にはなりませんでした。専門学校時代は例にもれず、ギリギリの出席日数で3月になるまで就職活動もろくにしていなかったりします。結局、出席日数が就職活動で大きなマイナスになりました。
専門学校のころは古い借家に住んでいたんだけど、隣に住んでいた駆け落ちした不倫カップルのお年寄りが何かと面倒を見てくれて、よく夕食に呼ばれたりして親しくしていました。そのおじいさんが元有名政治家の秘書で、たくさんの大手企業の公表できない裏情報をにぎっていると言って、顧問先企業のリストなどを見せて、「好きな会社に紹介してやる」と言ってきました。条件としては、そこの借家に住み続けるということだったんだけど、「地元に帰る」と言って断ってしまいました。うーむ、これも引きの強さなのかな?それから二年後に、おじいさんは亡くなってしまいました。
友達が起業して「手伝ってほしい」とか頼まれたり、「同じ会社で一緒に働こう」とか誘われた場合なら受けるだろうけど、ただコネを使うだけとか、一方的に人の世話になる場合だと、人に借りを作ってしまうことになるので、よほど追いつめられなければ断ってしまうような気がします。
↑のコメントは「受動型ASDの経過」へのコメントでしたm(_ _)m
コメントがブロックになりましたね。
先生、本当に申し訳ありませんでした。
私が前回書いた言葉は、インパクトがある上に、先生を含め、主に全国のADHDさんのダメージになるような言葉だったと思っています。
ここは自分の生きづらさを押し付ける場ではない。肝に銘じます。
それでもこうして書いた事によって、私を見つける事ができた気がします。
昨夜、深夜帯の時間でしたが、五輪の日本男子フィギュアフリー演技の中継を見ていました。
解説者の言葉を聞くまでもなく、演技を終えた選手たちの表情を見ていて、その思いが、なんだか、なんとなくですが、伝わってきたような気がしました。
人生は、報われない事もあるけれど、夢のようで、あっという間ですね。
※上記↑の私のコメントの続きになります。
受動型の人達の特性を理解し、(弄くられたのび太タイプである)私の特性との違いが明白になってくるに連れ、ある一つの疑問が浮かびました。
「私は受動型ASDの人の生き方に、憧れるだろうか?」
今は「NO」です。(思春期頃はACが強く、「普通」というものに憧れていましたが)
私の従弟はおそらく状況察知能力の低いKYの受動型で、「言語的なやり取りが主流で気が利かない」部分は私とよく似ています。
なので空気の読めない性格故の悩み?は私と結構共通しますが、やはり受動型の彼の方が要領が良く、(本人の話によれば)外では器用にやっているだろうと思います。
私が彼に対し羨ましいと思うのは、他の(状況察知能力の高い)ASD身内と違い、「自身のこだわりに熱中できる」部分です。
基本的に内モードではこだわり優先・やりたくないことはしないと言った感じで融通が利かず、他のASD身内がKYの彼のフォローをしている光景をよく見ますが、本人はそれすら気付かない程KYで、自身の趣味等に熱中しています。(おかげで他のASD身内のような身体症状が、彼にはありません)
(続きです)
「多数派に適応することでストレス症状に苦しむより、自身のこだわりや好きなことを優先しながらマイペースに生きていく」彼の姿が、とても充実して幸せそうに見え、少し羨ましく思います。(あくまで私の主観です。そういえば、このブログのコメント者の中に、ご自身の仕事に関する専門知識を誇らしげに語る方がいらっしゃいますが…その方の仕事に対する熱意・思い入れの強さ等がよく伝わってきて「きっと充実してるんだな…」と思うことがあります(^-^)♪)
ただ、「友人の引き」「変わり身の早さ」等で上手に世の中を渡り歩き、社会に適応していく受動型ASDの特徴を、私は羨ましいとは思いません。(もちろん否定も致しません。私自身、そこに欲が持てないだけです)
せっかくの先生のフォロー(最新記事)が台無しになってしまいそうで申し訳ないのですが…確かに先生のおっしゃる通り、私も「受動型ASDの人は、それほど心配しなくてもやっていけるんだな」と感じています。
取り敢えず今は、身内や知人に不適応を起こして引きこもりになってしまった人は居ないので…大丈夫そうですね。
(さらに続きです)
そういえば彼から「俺の事が羨ましいんだろ?」と言われたことがあるのですが、その時、彼のことを可哀想に思い「ある意味羨ましいよ」と笑いながら答えました。
当時、私には「自惚れが強く、本当は自分にしか興味がない」という風に見えていましたが、ある時から「自分の非を認めることができない・自分を省みることができない可哀想な人」という目で見るようになりました。
私は、彼のように「何もかも相手のせいにすることで自分のこだわりを守り、優位を保ちたい」という考え方はできません。
「自分に非があるなら、それを認めてできる限り改善したい」と思うのですが、彼には、私のこの考え方が「AC的で自分を責めている」ように見えるのだと改めて思いました。
私の方は「それは発達障害の特性故仕方の無いことであり、相手に悪気は無かったのだ」と「理解」できるだけで大分寛容になれるのですが、受動型の彼にこう言った理解を求めるのは難しいでしょうね。
…というより、今更求める必要等無いのかもしれませんが、可哀想だと思うのはやめて、「相手に理解して貰うために言語化する」努力はしようと思いました。
このブログを拝読して気付いたことがあります。
(このブログの一部のASDコメント者さんや、私の周囲の人達もそうだと思いますが)どうも世間では「想像力の欠如」イコール「KY」という認識の人が多いですよね。
私もこのブログを拝読するまではそう思ってました。(最近は、「状況察知能力と想像力の欠如は別」という定義はやんばる先生のブログ内でしか通用しないのかな?と感じています。私も「相手の立場に立って考えられるので、KYではない」と医者に言われました…)
彼に対しても、私に「俺のことが羨ましいんだろ?」等と見当違いな発言をすることから「この人KYだな」と思っていたのですが、実際は「想像力の欠如」から「相手の立場に立って物事を考えられない」だけで、空気は読めていたんですね。(ちなみに、読み間違えることもあります)
そう考えると、従弟を除き、周囲のASDの人達はほとんど「空気が読める(読もうとしている)」ということになりますね。
この記事でもコメントしましたが、「媚びへつらって謝ったり、機嫌をとる」といった言動も「空気を読んで状況を察知した」結果、そうするのだろうなと思いました。
(続きです)
私も「友人からの引き」で仕事を紹介して貰うことがありますが、じっくり考えて自分の力量を見極めてから決めることがほとんどです。
その為にチャンスを逃してしまうこともありますが、「自分で決めたこと」なので納得しています。
KYの従弟も基本的に外では流されやすいようですが、他の受動型身内と違うのは「外モードの友人が、彼の予定調和のマイペースな行動パターンに合わせてくれる」ことですかね。(傍目からすれば、彼がそういうタイプの友達を選んで付き合っているように見えるのですが…実際は友達の方が彼を必要としているのかもしれませんね)
ちなみに、従弟は「言葉でのやり取りを面倒臭がらずにする」ので「できないことはできない」とはっきり言ってくれるし、また、媚びへつらったり・機嫌を取ったり…といった非言語アピールも見られず、余計な気を使わなくて済むので、私としては結構付き合い易いです。
状況察知能力が低い分どっしり構えているように見えるので、外モードでの「変わり身の早さ」は、確かに内側からは想像できませんが…その分、予定調和な日々を維持するための(体調管理等の)地道な努力をしているように見えます。
私は彼のことを「可哀想だ」と言ってしまいましたが…決して同情していたわけではありませんでした。
つい最近、彼と話をしてみてそれに気が付きました。
実際は「自分の主張を受け入れて欲しいだけなのだ」と思い、私は表面上「同意・同調」してきただけで、心の中では「私があなたを騙していることを、あなたは知らないのね」と、どこか「冷めた」気持ちだったと思います。
ちなみに、相手に「(表面上嘘を付いて)騙していた」ことは言いませんでした。
過剰反応して被害的になると予測していたからです。(その後モヤモヤとした気持ちになりました…もちろん「言わなかった自分が悪い」という自業自得の自己突っ込みが入りましたが)
ある意味羨ましかったです。
彼はこんな風に「(相手に騙されたと被害的になることはあっても)自分が相手を騙している」と考えることは無いでしょうし、自己突っ込みで自分を責めることも無いのですから。
でも、やっぱり彼のようになりたいとは思えず、やはり「騙すのは良くない」と考え、後から本心をメールで伝えました。
彼はまた媚びへつらって謝ってきましたが…言いたいことは言えたので、かなり気持ちは楽になりましたね♪
他の方のコメントを読ませていただいて、気付いたことがあります。
「自分の主張を受け入れて貰えなかった場合、『逃げる』という選択をとる」
これが受動型ASDの人の考え方なのだなと思いました。
あと、彼と接していて思ったのですが、やはり受動型の人に私の考えは理解して貰えないでしょうね。
これは特性の違い故仕方の無いことです。
ちなみに、私が彼のことを「羨ましい」と言ったのは、彼が「逃げているから」ではなく「逃げていることを自覚せず、他人に責任転嫁して丸投げするから」なのですが。
私が相手を依存させないよう「防御」し、責任転嫁させないよう「我を貫き通していた」ことも相手は知らない。
他のエントリーのコメントも「社会が自分達を受け入れてくれないなら、(通り魔事件等をおこし)他人を巻き添えにして死んだって構わない」という「脅し」に聞こえるのですが、問題はそう言ったコメントをする事自体ではなく、本人に「脅している」という自覚が無いことだと考えます。
(内モードで接したことのある)私からすれば、四六時中そう言った「脅し」をかけて、挙げ句それを私のせいにする「無神経さ」が本当に羨ましかったです。
(続きです)
ただ、受動型さんのこういった言動に振り回されるのは、私の依存性も問題なのだと思います。
相手が「自分の責任を自覚できない」以上、私が「相手を依存させないよう、先ずは自分自身の依存性を取り除く」事が重要なのだと考えています。
個人的に「変わり身の早さ」や「友人の引き」等で上手く世間を渡り歩いていくこと自体は「特技」と受け取って良いのではないかと、私は思います。(ただ、何度も言いますが私自身はできませんし、羨ましいとは思いません)
また、「か弱そうに非言語アピール(きっとこれも自覚が無いのだろう)」して、上手く人に依存するのもアリだと思います。
ただ私としては「無自覚にそういった言動をとる人達が存在する」と分かった以上、その人達のペースに飲まれて自己評価を下げたり、依存的にならぬよう気を付けなきゃいけませんよね。
それに気付かせて下さった先生には本当に感謝しております。
さて、また荒れてくるといけないので、とりあえずこの辺で失礼致しますm(__)m
訂正です。
「逃げていることは自覚している」のですね。
ただ、自覚した上でそれを他者のせいにするのだろうと思いました。
「お前達のせいで、私はここまで追い込まれたのだ」と。
合理的な考え方ができれば「本当に周りが悪いのか?」「本当に自分に非はなかったか?」と、冷静に自分自身と向き合うことが可能だと思います。
私ならそうしますし、事実から目を背けて「自分が正しい」と主張し続けることが、本当に正しい事だとは思えないからです。
先生、もしこのサイトがASDさんが運営するサイトなら、私はとっくの昔にブロックされてたでしょうね(爆)
やんばる先生がADHDで良かったです…これまで私のコメントを載せ続けて下さって本当にありがとうございました(>_<。) 私の発言がASDコメント者さん達を「過剰反応」させているという自覚はありますが、私自身の「ありのままの気持ち」をこのブログで振り返らせていただいたこと、とても嬉しく思います。 また忘れかけた頃にコメントしに伺います!
やんばる先生へ
すみません…自分のコメントを読み返していて「先生が発達障害で良かった」等と、M元総理並の失言をしていたことに今気が付きました。(のび太型の失敗ですね。恥ずかしいです)
決してその様な意図があって発言したわけではないこと、ご理解いただけるとありがたいです。
失礼なことを申し上げてしまったこと、お詫び致します。
すみませんでした。
上記の私の「羨ましい」というコメントについて。
(別に嫌味ではなく)受動型ASDやジャイアンの「被害的な認知」を羨ましいと思っていた時期がありました。
私には、多数派のように互いに愚痴を言い合ってその場の空気を共有するという感覚が分かりませんし、それでストレスを発散する事ができません。
受動型ASDやジャイアン(特に依存型)は表面上多数派と同じ行動をとるので、それを見て「愚痴を言い合ってストレス解消するという感覚を味わってみたい」と思っていました。
私の「羨ましい」という気持ちはせいぜいその(好奇心?)程度で、「妬ましい」とまではいかないかもしれません。
個人的に、ASDの「単なる愚痴」を言葉通り真面目に受け取って「損をした」と感じることはあっても「騙された」と被害的になることはありません。
まぁ「実際は大したこと無いだろう」と思いながら聞けば、嘘にならないので「騙している」という感覚にもなりませんしね。
「表面的に多数派に合わせるだけで自分を普通だと思える」人は、「(その人の考える)普通」という生き方を貫き、表面的に自分を普通だと認めて貰える人達に囲まれて満足して生きていけば良いと思いました。
今気付きましたが、非言語的な「挑発」や「脅し」も茶々の一種かもしれませんね。
(コメントの内容を)真面目に受け取らなくて正解でした♪
そうそう、私がよく発言する「私自身はできませんが、他の人がする分においては別に構わない」という台詞ですが、これはのび太型の「人は人、自分は自分」という考え方によるものだと、改めて気付きました。(当たり前過ぎて気が付かなかったです)
ただ、私自身AS環境に慣れっこになっていたせいか、ASの人に対しどこか腫れ物に触るような対応をしていたのも事実です。
「可哀想」という発想も、「彼に欠けている部分を、私がカバーして補ってあげなきゃ」という「依存心(人からの要請)」から来ているということは、何となく分かっていました。
だから冷たく突き放さなければならない。
あと、私は「自分が満足するか」どうかを基準に行動しているわけではありません。
「合理的に考えて納得できるか」どうかです。
もし私が「恵まれた環境下で満足できない」とすれば、それは「(ゼロ百思考等により)自分の理想が高過ぎる可能性」を疑います。
あと、私の「人は人〜」は、「世界に一人を孤高」と捉える見方とは違います。
最近毎日、軽度ASDの診断を受けている3歳息子と「おさるのジョージ」を見てます。
物語中の人間はみんなジョージがサルだと「理解」しているので、どんなヒドい失敗をしても、リカバリ不能な迷惑をかけても「仕方ないか、君はサルなんだから。」と許します。
反面、サルにしかできない得意技で人間の役に立つと拍手喝采「さすが、おさる!」と褒め称えます。
特に何か具体的に「配慮」されている様子は無いのですが、強いて言うなら「サルはサルとして扱う」という姿勢が「配慮」なのかもしれません。
ジャイアン母から見ると軽度ASDの3歳男児なんてほとんどサルと一緒なので、
気楽なものです。
訳の分からない事に固執してパニックになっている姿を見ても「やっぱりこの子ってASDなんだな〜。」とか、「仕方ないか、ASDなんだから。」と思って受け容れられるのです。
また、儀式化されている行動を逆手に利用して都合良くコントロールすることも結構できたりします。
例えば寝る前にお片付けをする習慣があるので、どんなに眠たくない時でもお片付けをさせると文句も言わずに自分からベットに入って大人しく寝てくれるとか。
むしろ苦痛なのは同族であるジャイアン娘5歳の方で、最近はジャンケンで負けて泣くだけでは収まらず、「なんでチョキ出してくれないのよ!」と相手を責め、石につまずけば「石が悪い」と石を責め、というか「誰が石を置いたの!」と誰かを責める姿に、ホトホト、ウンザリさせられます。
こだわりもなく、行動の習慣も身につかず、場当たり的なくせに自分の意思だけは通そうとするので、親に都合良くコントロールされたりしません。
だいたい、コケて泣く姿から違っていてASDの子は「痛いよ〜。」と言って泣くのに、ジャイアンは「ママが(悪い)〜!」と言って泣きます。
並の精神力ではジャイアンの母親は務まらないと思います。
何だか話が逸れてしまいましね。
本質的に理解できないものに対しての方が寛大になれる、理解できなくても許せること、理解できるから許せないことがあります。と書きたかっただけです。
(ちょっと言葉足らずだったので捕捉します)
「世界に一人を孤高と捉える見方」について。
「孤高」という表現自体、自己評価が高くて何だか偉そう…という印象がありますが、私の場合「世界を相手取った」発想が無く、「世界(世間)の中で〜」という考え方にならないんですよね。
あくまで「(他の人はどうか分かりませんが)一個人として」という考え方になります。
「合理的に考えて納得する」ことについては、先生の記事内容とほとんど同じですが、私の場合「誰かが私を必要としているから」という「人からの要請(依存)」を理由に動いてしまうことがあるので、そこは先生と違うでしょうね。
他の方のコメントに非言語表現の話がありましたが、私にとって非言語的な状況察知は、相手の気持ちを言い当てる「賭博」に似た感覚で、今はそんなところに神経使うのが馬鹿馬鹿しいので、なるべく言葉で確認するようにしています。
ただし、その人の「行動」も見ていますから「うわべだけ綺麗な言葉で着飾って行動が伴ってない場合は、『口だけ』だな」と判断し、相手の言うことを信用しなくなることがあります。(始めから「できない」と言われれば納得しますが)
「石が悪いという発想」について。
例え「相手が悪い」と言い放っても、その結果として他人からどう思われようが何を言われようが、その事実を本人が受け止められれば、それで良いだろうと考えていました。
でも「石が悪い」という考え方では、永遠に「自分が悪いという可能性」に辿り着くことはなく、ずっと周囲を非難し続けなければならない。
例え原因がその人にあっても、本人は「自分が悪い」と認めることができないので、周囲の理解が得られなければストレスが身体症状となって現れる。
「他者を動かす(コントロールする)ことが面倒」な私には想像が難しい世界ですね。(ただ、自分は「本来他者を必要としないので、誰かに愚痴を聞いて貰う必要が無い」ことだけはよく分かりました)
そう考えるとやはり、あまり使いたくない言葉だけど「可哀想」だと思ってしまう。
同情し、手を差し伸べてあげたくなる。
でもしない。
すればそれは「配慮」になり、「依存関係」になってしまうから。
ちなみに、私が被害的な認知の人達を「冷たく突き放す」のは、(相手だけではなく)自分自身の依存性を取り除くためでもあるので、それを「配慮」だとは思いません。
「非言語アピール」について、上記の方のコメントで説明できそうです。
私には、この方のコメントの「(表面上は)本質的に理解できない人より、理解できる人の方が許せないと感じる(似た者同士だからこそぶつかり合う)」という部分が「表」で、「育児でお子様を自分の思い通りにコントロールできず、大変な思いをしていると訴えている」部分が「裏(本心)」かなと思えます。
それと、「サルをサルとして扱うことが配慮である」という例えの部分が「表」で、「裏」では「(サルを人間として扱うことで)受動型ASDを表面的に多数派と同じように扱うことが望ましい、それが『配慮しない』ということである」とおっしゃりたいのかな?と思いました。
うーん…大雑把に言えば、「家族を(多数派流に?)自分の思い通りにコントロールする事こそ正しい」と言いたいのかな?と思いました。
ただ、これは「感情的な受け取り」ではなく、「回りくどい表現や例え話で覆い隠して、本当は何が言いたいのか?」私なりに考えて読み取っただけです。
これも「人からの要請」による考え方かな?(^_^;)
きっとドライなのび太なら「何が言いたいのか分からない」と受け流すでしょうね。
なるほど。私の文章は「回りくどい表現や例え話で覆い隠して、本当は何が言いたいのか?」分からない文章なんですね。今後気を付けます。
私は医師からも「何が言いたいか分からない」と言われることは良くあるのですが、どうも例え話が原因なのかもしれませんね。
そう言えば「ナイフで刺されたみたいな痛さ」とか「熱い鉛の球を飲み込んだみたいな痛さ」とか言って「はぁ???」って言われることが良くあります。
あと「育児でお子様を自分の思い通りにコントロールできず、大変な思いをしていると訴えている」部分が「裏(本心)」という指摘は面白いです。参考になります。
確かにそうかもしれません。子供を簡単にコントロールできれば、こんな楽な事ないですもんね。ジャイアンはそれを受け付けてくれないので辛い。本当にその通りです。
本当の本音を書けと言われれば単純に「子育てなんて面倒くさい事はやりたくない。親としての責任を負いたくない」って事なんですが、その中でもジャイアンよりもASDの子の方が扱いが楽で、面倒くささが少ないと感じる、と。
で、それは何故かと考えたら、ASDの子はもう最初から「どうせ理解できない存在なんだから」と理解を放棄することでドライな関係が築ける。そのドライな環境が発達障害の子に必要な「配慮」なんじゃないかって事なんですけど・・・。
またまた、分かりにくい文章ですか?
何か気づく事があったらご指摘ください。
あと、依存型ジャイアンは(もしかしたら私だけかもしれないケド)「正しさ」を追求することは無いので、、、つまり究極の場当たり人間なので「~こそ正しい」という発想は無いです。
そう言えば、「受動型ASDよりジャイアンの方が『悪』だ」という風にも捉えられますね。
ちなみに、上記のコメントで私が言いたかったのは「KYののび太は空気が読めない分、曖昧な言い方をされるとおかしな受け取り方をして誤解を招きやすい」ということですね。(プラス「被害的な認知」の方達に、「あなた方が誤解を招きやすい言い方をしていることを自覚して欲しい」というのもありますが…これは難しいでしょうね)
>ASDの子はもう最初から「どうせ理解できない存在なんだから」と理解を放棄することでドライな関係が築ける。そのドライな環境が発達障害の子に必要な「配慮」なんじゃないか
これは分かりやすいです。(サルの例えの意味がよく分かりました)
ただ、私の解釈とは全く違います。
私は、自分とは違うタイプの特性(例えば、ASDの想像力の欠如や、受動型ASD・ジャイアンの被害的な認知等)が存在し、その影響を受け、私自身依存的になり、不健康な生き方・ものの考え方をしてきたことを知りました。
それと同時に、彼等は私とは「ものの考え方が全く違い、理解の意味も異なる」ということも分かりました。
これが私にとっての「理解」です。
(続きです)
私にとって「理解」の意味はとても大きいです。
相手を理解することで、自分には無い「困難さ」に気付き、自分に対する言動も「悪意が無かった」ことが分かり、相手に対し「寛容」になれたからです。
ただ、相手の「困難さ」に気付くことで、新たに「可哀想」「私が何かしてあげなきゃ」という同情の気持ちが芽生えたことも事実です。
ここで実際に「相手のために何かしてあげること」が「配慮」であると捉えます。
ちなみに、本人から言語的に「○○して欲しい」と頼まれた場合、特に私自身に負担が無ければ引き受けます。
できない時は「できない」とはっきり言いますが。
私の場合、この「同情」の正体が「人からの要請による依存心」であると理解しているので、非言語を無視し、あえて自分から手を出さないことでドライなのび太に戻れると考えています。
ちなみにこの「理解」という発想、「理解イコール即受け入れる」の認知のASDの人や、「結果主義」のジャイアンの人からすると「意味が無い」と思われ、中々受け入れ難い…ということはあるかもしれませんね。
あと、私の想像なのですが…
そのお医者様は「例え話が分かりにくかった」のではなく、単純に驚かれたのではないか?と思います。
「ナイフで刺されたような…」→「刺されたことあるんですか!?」
「熱い鉛の玉を飲み込んだ…」→「飲み込んだことありますか!?」みたいな。
「相当痛いのだろうな」ということは伝わりますが、感覚としてはイメージしづらいので、ちょっと大袈裟に聞こえるかもしれませんね。
そうか、「〜こそ正しい」はASDっぽい表現でしたね。
ただ、場当たり的な人ほど使う言葉かなって気もしました。
「正しい」という表現も、「使うと、相手に自己主張する際に説得力が増して、主張を受け入れて貰いやすくなる」という非言語的なアピール効果があり、場当たり的な人が積極的に用いそうな印象がありますね。(あくまで私の印象です)
そうそう、最初に説明した「大袈裟な表現」も非言語的なアピールに見えます。
ただこれは、責任を自覚し「(常に)自分の言動が他人に何かしらの影響を与えているかもしれない」と考える人間の発想であり、依存的(被害的)な人からすれば「?」であることを、理解しておこうと思います。
コメントへのコメントになってしまいますがコメントします。
私はおさるのジョージの話は、相手を尊重するの意と取りました。こだわりを逆手にとるところは、物事に両価性・多価性があるの意ととりました。
私は次記事のコメントで自分だけは大丈夫なように云々~と書きましたが、これも両価性で、当人の何かこだわりがあってそれを守っている姿というふうにも見えるのです。まずは守ればよいと思うのです。こだわりがあると自分で理解しなければ折り合いもつけられないだろうと、これは自分を見ても思うのです。
あとは文末に書かれていることが結論と思いました。同じようなことを言うジャイアンが周囲にいるので、ああやっぱそうなんだなぁと思いました。(依存性も合理性もあるジャイアンです)
裏とか非言語アピールはちょーっと分かりませんでした。私は結局そこには興味が無いのかもしれません。言語として表に出ているぶんで十分なのかもしれません。
私は最近ずっと特別支援教育について調べているのですが、ASDの子が予定変更にすぐ対応できず教室でパニックになる時、ではこうしたら?と妥協案を出してはいけないんだって。本人が今対応しようとしているひとつの予定変更をさらに変更してしまうことになり、本人は参ってしまうだけだと。そういう時先生やクラスメートは距離を保って、本人がパニックをやり過ごすのを待つのだそうです。ドライな配慮と言えるかもしれません。
なるほど、これは「では、こうしたら?」と妥協案を出すことで、その後も他者に逐一答えを求めるようになる事が当たり前になってしまう、一つの「依存の形」が出来上がってしまう…ということかな?と思いました。
「自立を促すため」のやり方かなと捉えています。
「サルはサルとして(受動型ASDは受動型ASDとして)扱う」という表現だと、受動型ASDの特性を考慮して「依存させる」とも「依存させない」ともとれますね。
上記の方は「コントロールしやすい」とおっしゃってますので、「お子様を自分の言いなりになるよう、依存させる」という意味だと思ってました。
「コントロール」という言葉が誤解を生みやすい表現だったかもしれません。
日本語で「制御」と言った方がマシか、「環境調整」と言うべきだったかも。
私は成人発達障害の専門医からADHDの確定診断を受けていますが、依存型ジャイアンだというのはこのサイトを見ての自己診断です。
なので、基本は「人は人」で、根本的なところでは人を自分の思い通りに動かしたいという願望はありません。
唯一、人に依存する事があるのはその相手が「強く、賢く、利用価値がある」時だけで、「弱く、愚かで、利用価値のない」幼児と共依存関係を築くなんて、まっぴらゴメンな訳です。
とは言え、どんなに私が全力で「親の責任」から逃げても、逃げ切れるものではなく、必要最低限の躾をどうしてもしないとマズいのです。
それは、三食与えるとか、歯磨きさせるとか、夜更かしさせないとか、のレベルの話です。
ちなみに上の子の歯磨きをサボってたら案の定虫歯になったのですが、3歳の子に大人しく歯科治療を受けさせる事がどんなに困難な事か身を持って体験し、躾とは子の為にするのではなく、自分のためにするのだと学習しました。
つまり子供がケアされることを望んでいるから(人からの要請)ではなく、自分が酷い目に遭うのが嫌だから(現実の自分の必要)のために躾けるというスタイルをインストールした訳です。
なので、息子が遊び場で玩具を独り占めにしたり、他所の子の使ってる玩具を横取りしても殆ど介入しませんが、玩具をとられて怒り狂ってお友達に噛み付くと、私自身が面倒くさい事に巻き込まれるので、そうなる前にコントロール(制御 or 環境調整)する、ということです。
具体的には最初からそういう小さい子が集まる場所には連れて行かないとか、お気に入りの玩具を持参するとか、ヤバそうな雰囲気になったらさっさと帰る、その時に彼のこだわりや儀式化された行動を利用して気をそらすとかのレベルの話です。
そういう配慮は結局本人が自分自身で噛みつきたい衝動を制御する練習にならないだろうという指摘も当然あるでしょうね。悩ましいところです。
ただ親子通園している療育センターのスタッフからは当面は今の対応で良いとは言われています。
誤解してました、訂正です。
「自立を促す」ではなく、「自分で解決させる」と言った方が正しいかもしれない。
(他の方のコメントがヒントになりましたが)本人だけのこだわりの場合、他者が妥協案を出すことで、プロセスにこだわっている本人の邪魔をすることになり、余計に混乱させてしまうのでしょうね。
だから周囲は「見守る姿勢が必要」なんだ。
私は子育ての経験が無いのであまり無責任なことは言えませんが…私の考える「人からの要請」とはかなり「違う」ということだけ書き記しておきます。
(以下↓つぶやき)
やはりASDの方のご指摘は「鋭いなぁ」と思いました。
「無理して自己評価を上げる必要無い」「自己評価が低いからと言ってACだと思う必要無い」そう「理解」して貰えたなら、私も「言語的に説明して良かったな」と思えそうです。
無駄じゃ無かったですね。
以下↓は「ジャイアンの利用」について私の理解です。
「ジャイアンにとって助け合いとは?」の記事を読みましたが、よくよく考えてみると、のび太型の私には「こいつは便利だから使おう」という感覚はありません。(自分がジャイアンだと思い込んでいた時は「利用できる」と勘違いしていたようです)
ただ、「(自分が選択したという)責任が生じる」という部分はやんばる先生と同じですね。
「こいつは便利だから〜」という発想は「(依存型ジャイアンやASDの)相手をコントロールする」という発想と同じに思えて、他者を動かすのが面倒なのび太型の私にはあり得ない気がします。
ちなみに「損をした」という感覚は、「非言語的なものに反応してしまった時」に感じることが多いので、これはAS環境の依存によるものでしょうね。(これも私が勝手に判断・選択した結果「損をした」のであり、「責任の観念」はありますので、依存型ジャイアンとも違うのだろうと考えています)
「利用」も「コントロール」も支配的なものに思え、何より「他者を動かして自分が楽をする」と「自分はこの人が居ないと何もできないのか」と情けなくなり劣等感に…という悪循環に陥りますね。
私が考える「ジャイアンの利用」とは、「このブログにコメントを書き込むこと」です。
私は私の混乱した頭を整理するためにこのブログを利用しています。
ただし、「自分の頭を整理するため」という目的が「自分のコメントに同意して欲しい」に完全に変わってしまったらそれは依存ですね。
依存型ジャイアンにとっては「利用」と「依存」の距離が近いのでソロソロここへの書き込みは卒業した方が良いのかもです。^ ^
でも、今、良い感じに整理できている所なので、もうしばらくは利用したいと思います。
ちなみに私はこのブログを利用しているからと言って「やんばる先生が居なければ自分の発達障害について何も考えることができないのか」と情けなくなったり劣等感に苛まれたりしません。
て言うか、そういう自己ツッコミが嫌だから最初から「強く、賢く、利用価値がある」時にしか利用(依存)しないのです。
上記の方のコメントを読んで、自身を振り返ってみましたが、やはり「自分とはかなり考え方が違うな」と感じました。
ただ、人それぞれ生き方は違えど、その人がその生き方を「選択」したのなら、私はその人の生き方を「尊重」しなければならない。
それが「ドライな対応」であり、「配慮しない」ということなのでしょう。
ちなみに、このブログへの書き込みは私が「好き」でしていることであり、私自身は利用とも依存とも捉えていません。(ただ、ここに書き込む以上、先生の提示したルールには従うべきだとは思います)
私自身は「自分で考えて納得してしまう人間であり、他者に愚痴を言い『同意して貰う』必要が無い」です。
私としては「依存させないようドライな対応をし続けることが望ましい」と考え実践していますが、これを他の方に押し付けるつもりはなく、他の方同士で共依存関係になるのは別に構わないし、その人が決めたことならその意思を「尊重」しようと考えています。
それが私の考える「人は人」であり、「自分の都合の良いように相手をコントロールしたり、相手に依存する」という発想は面倒なのでできないです。(くどいですが)
「自己ツッコミ」に関して、改めて自分に問い直して見ましたが、やはり依存相手に対して劣等感をもったり、嫉妬したり、という形では存在しないことを再認識しました。
とは言え、いくら依存型でも一応ジャイアンのはしくれですから自己ツッコミは存在します。
そしてそれは常に「相手に人間としての不完全さを見つけた時」に発生し、「自己ツッコミの発生は関係の終わりを意味する」という形で体験されます。
これは取りも直さず、丸投げ依存を開始する時点においては相手を「依存するに値する完全な人間である」と思っているという事であり、それは同時にいつか必ず破綻することを内包しているのです。
そして何よりも重要な事は、私は私の頭を使用して思索した結果として、この結論に辿り着く必要があった、という事です。
それはただ言われるだけでは決して学べない、自分で納得するしかないジャイアンだからです。
依存される側からすると、人を勝手に「完全」と思い込んで依存しておきながら、いざ「不完全」と知るや関係をぶった切るなんて、ただのヒトデナシだろボケ!って感じでしょうね。
しまった!重要な事を書きもらしました!
相手に不完全さを見つけた時に発生する自己ツッコミとは、相手の不完全さを責めるツッコミではなく、依存した自分に対する自己嫌悪というツッコミです。
ジャイアン当事者でここを勘違いする人はいないでしょうが、色んな人が読んでいると想定して補足します。
「自己突っ込み」について、私の考え方とは「全く違うなぁ」と思いました。
でも考え方は人それぞれですから、それで良いですよね。
その人の考え方を「尊重」しようと思います。
ただ、その人の考え方を受け入れるかどうかは、私が考え、「納得」して決めること。
先生がこのエントリーで何が言いたかったのか、最近実生活で「実感」として掴めてきました。
先生、ありがとうございます< (_ _*)>
今日は息子の発達検査の日でした。
私はジャイアン娘よりはるかに育てやすい息子は今回の検査で定型と診断されるかもと思っていたのですが…。
甘かったです。
結局、私は息子がASDであるという事実を「1+1=2」的に「理解」はしていたけれど、その本当の意味は分かっていなかった様です。
このブログのAS当事者さんの「予定変更に対応するのが難しいので幾つもの対案を最初から準備しておく。自分の想定を超える事態には対応できないので撤退する。」というコメントを何度も読んでいたのに、事もあろうに私は息子に「今日は発達検査を受けに行く」と一言も告げづに連れて行ったのです。
アホですね。
ちなみに、発達検査は普段グループ療育で通園している施設の1階で行われるため「(療育のクラス名)に行こうね〜。」と誘って家を出たのです。
そうです。私が悪いのです。
結局、ほとんどまともに検査できず、暴れる、叫ぶ、唾を吐きかける、、、最後には床に転がって「お腹が痛い!」と。
全部、全部、その場しのぎのいい加減なことを言った私が悪いです。よくよく、分かりました。
やっぱり私は自分が痛い目を見ないと理解できないんですね。
でも、これでまたひとつ賢くなりました。
「配慮」について。
落ち着いてよく考えて見たら、昨日の出来事は、もともと軽度ASDの診断を受けていた子が、「社会性は自閉で、知能は検査不能」となっただけで、そんなに自分をアホだバカだと大げさに落ち込むことでは無いという気がしてきました。
と言うか、もしかして結果オーライ?
私がしてきた「配慮」は、家庭生活を快適におくる為のものであり、社会適応に資する「配慮」では無かったということ。
こういった勘違いの「配慮」によって息子は受動型へなっていくのかも、と思いました。
現実の生活で常に社会適応を意識して問答無用で接するのは「自分がなく、場当たり的な」依存型ジャイアンには厳しい…。
ここから先はまだ考えがまとまらないのだケド、自分の場当たり的な判断ミスで息子がパニックになることを知っておき、パニック状況を回避するだけの目的で、さらに場当たり的に息子の非言語アピールに屈する事の無いよう心掛ける、心の準備をしておくことが「配慮」かな、と思いました。
「感情的な読み取り」について、上記の方のコメントを読み、理解できました。
私は上記の方のコメントを読んだ際「自分は依存型ジャイアンだから、自分の主張は正しい(そして、私がASDであると言いたい?)」と、やたら「アピール」している印象がありました。
ただ、「コメントの内容」に目を向けると、やはり自分の解釈とは違っていましたが。
私の考える「感情的な読み取り」とは、この表面的な「アピール」のことであり、「コメントの内容を蔑ろにして、表面的なアピールばかり強調している」ように見えます。
個人的に「あなたの主張を受け入れて欲しいなら、受け入れて貰えそうな人に披露してください」と思いました。(「受動型ASDの経過」でも言いましたが、嘘を付いてまで「あなたが正しいです」とは言えませんので)
ちなみに「依存される側の気持ち」ですが、「相手に完全と言われようが不完全と言われようが知ったこっちゃない、依存させたこちら側の責任だ。」こう思うでしょうね。
あと、それまで上手くいっていた時と同じく「依存していた事実」には変わりありませんから、相手の不完全さを知ったところで自己突っ込みは生じないと思います。
「依存させたこちら側の責任だ。」
救われた気持ちになる言葉です。
私は「依存したあなたの責任だ。」と言われるのが怖いのです。
こういう場ならともかく、面と向かって言われたら、もう何もかも投げ出して全力で逃げたくなります。
なので精神科の主治医にさえ今だに話せない事があります。
12歳から18歳まで、新興の宗教団体に属し、教祖から特別の寵愛を受けると同時に絶対服従の支配を受けていた時の話です。
特に中2から高3までは、教祖自らが「私の一番弟子」と言うほどで、田舎の狭い範囲でしたが広告塔のような立場でした。
結局、高3で脱退する時は本当に文字通り死ぬ思いで依存を断ち切りました。
「死ぬ思い」と言うと大袈裟と思われますね。「全身の血が逆流する」と書いても、そんな事あるわけないと言われますね。ではどう表現して良いか分かりません。
身の上話をやめて結論を言うと、この時の事を「それはその教団に入信したあなたの責任だ。」と言われてしまう事が、やはり今だに怖くて受け入れる準備ができていないのです。
ただ、今回このことをあえてここに書いたのは、脱退して20年以上たった今でも依存体質が抜けないのは、やはりこの時のことをきちんと総括できていないからだ、と思ったからです。
でもまだ、主治医には話せない。3月末で退職されて担当が代わるんです。
しばらくは、ここにウダウダ書いてしまうかもです。
誤解されると困るので、念のため書き記しておきます。
「依存させた側に責任がある」と書きましたが、だからと言って「依存した側の責任が帳消しになる」とは考えていません。
あと「表現が大袈裟」というのは、私個人の印象です。
何度も言いますが、ご自身の意見を受け入れて欲しいなら、受け入れて貰えそうな人に話を聞いて貰えば言いと思います。
例えば、他のエントリーで「ジャイアンが好きだ」とおっしゃる方々が居られるので、その方達にお話されれば良いと思います。
私は共感力が乏しい上、「(好き嫌いではなく)相手の言動を把握し、自身と比較しながらコメントを読んでいる」ため、嘘を付いてまで「同意することはできない」です。
なので「同意して貰えそうな人に話を聞いて貰う」のが良いと思いました。
「非言語アピール」の説明を読みましたが、「人を見る」とはこういうことかなと思いました。
「非言語」と「感情的な読み取り」について。
私の考える「非言語」は
暴力や愛撫、大声や小声、注目や無視、表情や仕草、怒鳴るとか猫なで声とか、、、
です。
つまり、危ないものに触ろうとしている幼児に「こらっ!」と怒鳴って怖い顔で脅して止めさせるが「非言語」だろう、と。
その意味で3歳未満の幼児を非言語抜きで育児するのは不可能です。
例え言語的に補足しながら「それは危ないから触ってはいけません。怪我しますよ。」と叱っても能面みたいな無表情で声の抑揚もなければ、言葉を理解出来ない幼児に意図を伝えるのは不可能です。
私の自己認識としては、多数派に比べてこの手の非言語アピールの引き出しが少ないことが私の育児の躓きの原因と考えていたので、ここに書いたコメントの裏読みをされて「非言語アピールだ」と言われてしまう事が全く理解できませんでした。
「死にたい」とか「殺してくれ」という脅しが非言語アピールだというコメントを読んで、なるほど確かにそういうこともあるかも、と思ったのですが、やっぱりこの場合でも、その場の状況や言い方や表情によって意図が異なってくるという意味で、非言語アピールと言えるのだろうと思います。
だとするなら、言葉のみで構成されるブログへのコメントでなぜ「非言語」認定を受けてしまうのか、不思議です。
そこで、私が考える「非言語」の中で、ブログへのコメントでも表現可能なものは何か考えてみました。
きっとそれは、「場の状況に対する注目もしくは無視」によって表現されるのではないかと気付きました。
早い話、ある人のコメントの内容を徹底的に無視するとか、ある人のコメントの内容をやたらに褒めちぎるとかです。
で、思い出したのが、私がこのエントリーに最初にコメントした時、実はそれまでの他の人のコメントは全然読んでいなかったのです。
それは結果的に、それまでに書き込みしていた人たち全てを無視した、という事で、それまでのコメント者への否認ととられたのだな、と分かりました。
確かに、それまでの状況を無視してコメントした事が否認と取られたのは私の落ち度です。でも、だからと言って私の言葉の一つ一つに込めてもいない否認を前提とした意図が隠されていると読むのは「感情的な読み取り」だと思います。
>私の考える「理解」とは「言語的に説明して、相手に自分の考えを知って貰うこと」
最初に言いますよね聞いてくれますかって。まずは聞くかどうか相手の意思を確かめますよね?利用は当たり前だから確かめないのかな。すごく無造作に他の人のコメントをいじくっているように見えるんですよ。自分が先にチャチャを入れていると気づかないんですか。人を認識しないのではない、自分でも言っているが、他者を感じないという、他者をただ無視して自分の世界にいる。まだ内言ができていないのではないか。あまり喋ってこなかったというし、じゅうぶん外言を発していないのでは。そして自分のひねり出した非言語妄想に対して「返事」しているらしい。小さい時に空想の友達がいたのかな?
>やはりASDの方のご指摘は「鋭いなぁ」と思いました。
「無理して自己評価を上げる必要無い」「自己評価が低いからと言ってACだと思う必要無い」そう「理解」して貰えたなら、私も「言語的に説明して良かったな」と思えそうです。
無駄じゃ無かったですね。
じゅうぶん同意を求めてますよね。相手が自分で考えたことを妄想の中で自分の手柄にしてるのかと思ってびっくりしました。私のことじゃないだろうなと思うけど一応
いや、この方が他の人のコメントで非言語妄想の説明した時も、何勝手に使ってるんだろうとびっくりしました。会社の従業員用の冷蔵庫に入っている同僚のプリンをぼんやり食べちゃう人を見たかのようだった。(私か)
やっぱこの人のコメント見るのは一年に一回ぐらいにしようと思いました。(計画性)次は年末にしよう。理解の努力放棄してないですよ。
>「同意して貰えそうな人に話を聞いて貰う」のが良いと思いました
こういうのを繰り返しているが、自分がそうなんじゃないんですかね?
>逆に負担をかけているのであれば全部そのまま言語化して伝えて欲しいと思う。
これがずっと引っかかってたんですが、自分が何を負担に思っているのかがなかなか分からない。これは聞きたければ処理速度が速い人に聞いたほうがいいと思います。身近にいる人にはその都度「それ、それ」って言えますけど。昨日もいびきがうるさくて眠れなくてつらい何とかしようよとかなら朝言えます。
「非言語」についてですが、とりあえず私の考えとは「全く違う」ということだけ書き記しておきます。(気が向いたら書くかもしれません)
ちなみに、「説明しない理由」は単純に「虚しいから」であり、「損をするから」ではないような気がしてきました。
「何故それが『非言語アピール』に見られるのか、ご自身を振り返ってみてはいかがですか?」と言ったところで無意味ですから。
なので、以前他のコメント者の方に言ったように「(私自身はそうは思いませんが)あなたがそう思うなら、それで良いと思います。」としか申し上げられません。
以上です。
「理解」と「思い込み」について。
「非言語的状況察知能力」とは何か、実のところ本当はよく分からないままで「衝動統制」と「認知と行動特徴」から自分を「依存型ジャイアン」だと自己診断していたのですが、ここへの書き込みで手痛い失敗を繰り返してようやくイメージできてきました。
3日前に長男が40度の高熱を出したのですが、前日にこの周辺では最大の観覧車に乗った後だったので、「知恵熱かな?」と思って様子見していました。
本人は熱にうなされながら「おあか(おなか)いたいよ〜。」などと言っているのですが、日常会話に難ありの子ですから、今回も「キツイよ〜」とか「苦しいよ〜」くらいの意味であろうと思っていました。
それから昨日3度嘔吐した後、たっぷり下からも出してケロっと治りました。その後、何度も「かんらんしゃこあかったね。」「かんらんしゃこあかったね。」と繰り返し「また観覧車乗りたい?」と聞くと「や〜。かんらんしゃこあいよぉ。」と言うので、そんなに観覧車が怖かったのね、よしよし。すっかり元気になって一件落着・・・・・。
と思ってたら、昨晩私自身が強烈な腹痛で目を覚ましました。そこへきて初めて息子の「おあかいたいよ〜」は文字通り「お腹痛い」であったと気付いたわけです。
自分のコメントについては「文字通り受け取って欲しい」と強弁しつつ、息子の言葉は文字通り受け取らないとは、なんともはや、救い様の無い母親です。
そこで、なるほどこれが「非言語的状況察知能力の非対称性」か、と気付いたわけです。
「思い込み」って怖いですね。
「配慮」について。
どうしてADHDで重症のKYだと「やってもらって当たり前」になっちゃうのか…
「配慮」の裏にあるものが見えないからなんだな、と。
3月末で開業のため退職される主治医から、週1回午前中だけ非常勤で現病院に来るのでその日に診ましょうかとの配慮がありました。
その瞬間、私は何を思ったか。
「ラッキー!」
です。
私の主治医は成人発達障害の専門医ですが、退職後に引き継がれる医師は発達障害の専門では無いと聞かされていました。
なので当初は新しく開業する病院に来るように勧められたのですが、私は場所が遠くて通院が面倒なので、と断ったらば上記の話をされたわけです。
私は正直、「なんだ、最初からそう言ってくれたら良かったのに。」と思いました。
ちゃんと状況が読める人が聞いたら「まだ言うか!ナメてんじゃねぇよ!」と思うでしょうね。
人が見えないから、人の裏にあるものが見えない。
大勢の「現状維持」を希望される患者の中から、特別に数名だけを選ぶことの難しさと責任の重さ、、、なんて事が全然見えないんですよね。
今、ここに自分の愚かさを書けるのは、ここに書き込みを続けることでだいぶん認知の修正ができてきたからです。
(でも反射的な反応はジャイアンそのものになっちゃうんですよね。全然、修行が足りませんね。)
きっと、「個別の配慮はしない」としてこのコメント欄への書き込みを放任しているように見えて、必要な時はしっかりブロックするために、毎日毎日、先生も大変な思いをされているのですよね。
本当に感謝いたします。
そろそろ、ここで得られた教訓を活かして現実に応用する方法を考え中です。
一番、目から鱗的に理解できたのは、
「私には人が見えておらず、言動は場当たり的で、自己中心的である。」
「夫は人に対する愛着が強く、言動には首尾一貫とした意味(意図)がある。」
よって、
「夫には私の脳からくる不注意や自己中で人を意識していない行動が、自分に向けられた意図のあるもの(否定的なメッセージ)に見える。」
この「定理」を用いたら、今までなんでこんな些細なことでもう離婚するしかないと思い込んだのか、という喧嘩の説明ができます。
私が
夫が大量に集めたUFOキャッチャーの景品を捨てた時も、
夫の洋服をクリーニング店に預けたまま紛失した時も、
夫のラジコンを息子が触って壊した時も、
片付けができず、家が散らかり放題なのも、
etc…
全部、全部、夫には、自分に向けられた否定的なメッセージに見えていたと。
彼は怒っていたのではなくて、傷ついていたのですね。
この事が理解できたので、新しい適応型の衝動統制のイメージがまとまりました。
中心志向型ジャイアンAC「誤解されたくないから、我慢する。」です。
ジャイアンから一気に合理的なADHDまで目指したら、中心志向と暴君が制御不能な形で暴れ出しそうな予感があるので、まずは「依存」だけ抜いて、「AC的だが中心志向のジャイアン」を途中経過の受け皿として目指そうと思います。
今まで好き放題書き込むことをお許し頂き、ありがとうございました。
現実の世界に戻ります。
珍妙にも一瞬で戻ってまいりました。
「誤解されないために、我慢する」スタイルが思いのほか即効的な手応えがあったもので、喜びのためにかなりハイになっていて書かずにいられません。
昨晩、夫婦でロシアのクリミア併合について話していたら、いつに間にか両親まで引き合いに出されて人格攻撃される喧嘩になってしまいました。
だいたい結論は決まっていて、情緒的な問題で私を非難する時は「あんな母親に育てられたんだから仕方が無い。」無責任問題で私を非難する時は「あの男が悪い。アイツが癌だ。」と責められ、私が答えに詰まって終了します。
今や、なぜ夫が私ではなく私の両親を非難するのか、なぜ単なる時事問題がそこまで夫の心を傷つけるのか、そのカラクリが、話してる際中には無理でも直後には見えるようになったので、早速「誤解されないように、我慢する」を試して見ることにしました。
って、単に1週間くらい放置していた洗濯物を片付けただけなんですけどね。
正直、これで本当に「私はあなたの人格を否定する意図をもって反論したのではない。」という非言語アピールになるのかな?とかなり懐疑的でしたが、なんとビックリ効果テキメン!翌朝夫から「昨日はキレてゴメンね。」と謝ってきたのです。こんな事、本当に初めてです!
そうか、そうか、論破するって暴力と同じなんだなって初めて分かりました。
論破した瞬間、中心志向が満たされてその瞬間自分は気持ちが良いけど、相手は傷ついているんですよね。殴ってスッとするというのと全く同じなんですね。
どうして、こんな簡単なことを知らなかったのか、、、
そしてこんな時に「あなたを傷つけてごめんなさい。」と言語的に謝罪しても「どうせ、口だけ。本気で反省してない。」と信じてもらえないので(今まで何度もこんな喧嘩を繰り返してきたので自業自得)非言語でアピールしたのですが、それがどうも通じたようです。
う〜む。本当にこの解釈で合ってるのかな?
これが理想的な適応型では無いだろうとは思いますが、先に進むにはまだ暫く時間がかかるだろうから、もうしばらく「誤解されないため」型でいってみようと思います。
「言葉のみで構成されるブログのコメントが、何故『非言語表現』になるのか?」について。
おそらく「言い方」だと思います。
わざわざ例え話を用いたり、大袈裟な言い方をしたり…「何故そんな回りくどく面倒な事をする必要があるのか?」考えた時、色々と理由が浮かびました。
私が、「死にたい」「殺してくれ」と相手に言われた時それを「非言語表現である」と思った理由は、表情や口振りから「直感的」に判断したからではありません。
何度も同じやり取りが続き、パターン化されていたため「本当は『死にたい』等とは思っておらず、そう口にする事で私の気を引こうとしたり、自分の要求を通したいだけかもしれない」と気付いたからです。(ちなみに、知恵熱の話とは違うような気がします)
「通り魔事件」の話もそうですね。
わざわざ通り魔事件の犯人と自分を重ね、何が言いたかったのか?と考えた時、「こう言えば(脅して威圧すれば)自分の主張を受け入れて貰いやすくなるから」と考えれば納得できます。
実際に通り魔事件を起こしたり、死ぬつもりが無いのにそう口にすることで他の要求を通そうとするため、これも「非言語表現かな?」と捉えています。
「直感的」に理解できるかどうか、、、が分かれ目なのかもしれないですね。
私はよく考えてみたら結構、言葉をストレートに受け取らないことを普通にやってるみたいです。自覚なかったけど。
だから「死にたい」=「私って可哀想でしょ〜」ってのは全然普通、と言うか、ハイハイって感じで殆どストレスじゃないです。
「通り魔事件」の話は私は読んでないので知りませんが、もしもリアルタイムで読んでてもスルーだったと思います。ってか実際は読んでるのに興味ないから忘れてるだけかも(笑)
でも目の前の暴力的な行動の意図が直感的にわからない時は物凄いストレスです。
例えば、夫がプリンターにカッターを突き立ててズタズタにした時とか、モニターを殴って壊した時とか、子供椅子を子供部屋に投げつけた時とか、、、なぜそんな事をするのか全然わからないんだけど、とにかく怒っていることだけはわかる。という時に「非言語」と感じます。
「言い方」か「態度」かの違いはあっても、共通するのは受け取る側が「直感的」に理解できるかどうか、が非言語アピールと感じるかどうかの境目のような気がしました。
ってことはつまり、非言語アピールしている方にしてみれば、「受け取る側の問題」と言えるわけだ。。。なるほど。
そう言えば確かに「思い通りにならなくてイライラするのは分かるケド、壊したら損するのはこっちじゃん。横にいる私まで嫌な気分になるよ。」と言ったら「はぁ?俺がいつお前を殴った?いつお前が悪いと責めた?俺はムカつくプリンタを殴っただけなのに嫌な気分になるなんて言うお前がおかしい!」と言われたなぁ。
相手が意味を取り違えるかどうか、ギリギリの所をあえて狙って非言語を使う人がいたら、それは確かに卑怯なやり方だなと思います。
でもその場合も「非言語」が悪いんじゃなくて、「非言語」を使って人を陥れる人が悪いんですよね。
包丁で人を殺すことができるけど、それは包丁が悪いんじゃなくて包丁を殺人に利用する人が悪いのと一緒で。
ん?あ、そーか、ADHDは人が見えない病気だから、包丁が悪いって事になるのか。
えーと、混乱してきたので休憩します。
上記↑の私のコメント
>「無理して自己評価を上げる必要無い」「自己評価が低いからと言ってACだと思う必要無い」
についてですが、誤解を招くような紛らわしい言い方でしたので、訂正致します。
おそらく、このコメントを読んで「ACを治す必要が無い」と解釈された方もおられると思いますが、そうではなく、「ありのままの自分を認めよう」と言いたかったです。(ACがあるなら治すべきだと思います。あと、ASDやジャイアンの「高過ぎる理想」を基準に自己評価が下がるのは、ACとは違うだろうと思います)
ちなみに私自身は、自分にできること・できないこと(事実)をできるだけ的確に思い起こしながらコメントしているため、今現在自己評価は下がっていません。
それが紛れもない「事実」であり、もしその事実が気に入らないなら、少しでも理想に近付けるように自分で努力すれば良いと考えています。
紛らわしい言い方をしてしまい、申し訳ありませんでした。
※なお、この考え方を他のコメント者さん達に押し付けるつもりはありませんので、「自分に悪気は無かったのに非難された」と過剰反応なさらないでください。
頭の中が整理出来てきました。
多分私は、
言葉をのみで威圧して要求を通そうとしても、まるで効き目の無い重症のKYだから、相手は極端な(暴力的な)行動でアピールするしか無いのですね。
私に対して、
「先月子供が生まれたAさんは、今2時間おきの授乳で大変な時期だけど家事は完璧にこなしてるんだって。」
と言って目の前に散らかっている洗濯物を片付ける様に暗に要求しても、
「ハイハイ。どうせ私は完璧に家事なんて出来ませんよ〜だ。」と、言葉上は裏の意図を汲み取っているにもかかわらず、実際には洗濯物を片付けないから、
だから、洗濯物を蹴散らして、部屋中にばら撒いて去って行くのですね。
実際には部屋中に散乱した洗濯物を見て「なんでわざわざ余計に散らかす必要があるの?」と、今度は本当に意図が汲み取れず、いそいそと部屋の隅に洗濯物を寄せるだけで、やっぱり片付けない、、、
私に洗濯物を片付けさせる唯一の方法は、私自身が「片付けよう」と思う事だけであり、それに他人が関与することはできない。
言葉で威圧しても、態度で威圧しても、その状況を察知して渋々でも何でも良いからとにかく片付ける、という事を私がしない。
これ程までに、私は人を見ていないし、空気を読んでいない。
だから、彼は虚しいのですね。
結婚して14年。年を追う毎に、日増しに暴力的な行動がエスカレートしてきて、もう限界だぁ、なんて思っていたけれど、原因は私だったんだ。。。
って言うか、表面上は共依存だってわかっているつもりだったけど、今、初めて、ストンと腑に落ちました。
とにかくストラテラ飲んで、一応、言葉の裏は読めてるんだから、その時点でさっさと行動すれば良いんですよね。「誤解されないため、、、」とか、何とか、動機付けはこの際もうどうでも良くて、とにかく、どれだけ今まで人の気持ちを蔑ろにしてきたかイメージできたから、「これ以上、非情な悪人にならないため、」とかで良いから、少しは人の気持ちを汲み取って行動出来る様になりたい。と、今、本気で思ってます。
そうか、私は結局「暴君型」なんですね。
そうかも、という気持ちは若干あったけど、「大声、暴力などで相手を押し切る」事は無いよね、と思ってました。
でもそれは単に私が女性で暴力性が無いのと、成績も良く、見た目も良かった(自分で言うのは滑稽ですが、地方都市の「ミス〜」に選ばれるレベル)ので、大袈裟に甘えたりゴネたりしなくても、ニコッと笑ったり、ちょっと不安げな顔をするだけで、誰もが喜んで尻拭いをしてくれただけで、やってる事は「暴君」だったんですね。
恥ずかしい・・・。
学業成績とか可愛さとかの神通力がきかない子持ちのオバサンになったから不適応で身体化症状に苦しんでるだなんて、爆笑ものの惨めっぷりですね。
それでも、神憑り的な指導者にずっと依存していられれば、私の問題は表面化しないハズだから、いるはずの無い「完全な人」を求めてさまよっていた、と言う訳か。
( ´,_ゝ`)プッ 「完全な人」って言い方がまた欺瞞に満ちてますね。
えーと…結論から言わせていただくと「私の考え方とは全く違う」のですが、何故私は、何度も同じ台詞を繰り返しコメントしているのか?自身を振り返ってみました。
それは「私の使った言葉を『引用』しているから」ですね。
例えば「虚しい」という言葉。
上記の方は「ご主人の非言語アピールにご自分が反応できないことに対し、ご主人が『虚しい』と感じている」と言いたいのでしょうが、私が「虚しい」と感じたのは「コメント(話)の内容をきちんと理解せず、私の使った言葉を、ご自身の都合の良いように話の中で引用していること」です。
言語的に説明する意味が無くなってしまうため「虚しい気持ちになる」のですが、同時に「同じ意味で『虚しい』という言葉を使っていると思われたら困る」という気持ちもあり、(逐一説明するのは面倒なので)一言「私とは違う」とだけ言わせていただきました。
今後は「私とは違う」といちいち言うのを止め、「この方は元々『私の使った言葉の意味とは全く違う意味』で引用しているのだな」と思い、何も言わないことにします。(いちいち指摘していたらキリがないし、また荒れてくるといけないので…)
「適応型」が「暴君型」だとハッキリしてくると、今度は「中心志向の過集中」という「メインスイッチ」まで見えてきます。
今まで、ぼんやりとは見えていたんですけどね。
ここに書き込みをさせて頂くことで、衝動をコントロールすること、少なくともそうしなければ「重症の虚脱状態」になるから、コントロールしないといけないのだ、と自分に言い聞かせること、その重要性を感じているので「メインエンジン」のスイッチを押したい衝動を抑えています。
ところで、衝動をコントロールする、という言葉は【思想又は感情の創作的な表現】ではないと思ったので「」しませんでした。
最初に書き込んだ頃に比べて、少しは成長出来てますかね?
まだまだかなぁ。。。( ̄x ̄;)
し、しまったぁぁぁっっ!!!
「相手が意味を取り違えるかどうか、ギリギリの所をあえて狙って非言語を使う人がいたら、それは確かに卑怯なやり方」と自分で書いておきながら、何やってんだろ、私っ。
投稿ボタン押す前にもっと良く考えろ!ですよね。あああ。マジで。
もう、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイぃぃぃ〜。(>人<;)
なるほど…「中心志向」や「衝動」、「被害的認知」や「表面的認知」等が存在しない私からすると、ジャイアンや受動型ASDの方の考えは「未知の世界」であることがよく分かりました。
おかげで私の方も、「相手が『表面的』に自分と同じ言葉を引用したからといって、きちんと内容まで理解した上で引用しているとは限らない」という「認知の修正」ができました。(もちろん、きちんと理解した上で使う方もいらっしゃれば、理解した上であえて引用しない方もいらっしゃると思います)
「たまたま被っただけ」かもしれませんしね♪
何より「私のように目的や理由があって、それに基づいて行動する人間ばかりではない」ということを常に(頭の片隅に置き)想定しなければならないと感じました。
想定した上で相手に確認をとることは無意味だとは思ってましたが、これは裏を返せば「相手はそこまで深く考えて行動している訳ではないので、こちらももっと気楽に考えて良い」と思えるため、気持ちが軽くなりますね。
以下↓訂正です。
「認知の修正」ではなく、「思い込みの修正」でした。
ASD環境によるものが強く、ACにも似ていますが、私の場合は依存的な性格からでしょう。
「始めから『違う』と言っておかないと、後で『裏切られた』と誤解され、被害者面されたり、過去の話を持ち出して攻撃されたりすると面倒」なので…(悪い癖ですね。もう言いません)
あと、最近気付いたのですが、たとえ「違う」と否定的な意見を述べても、「白黒はっきりつけて」答えることで、自分が気付かないうちに「場を仕切ってしまってるな」と思いました。(実生活で意見を求められる事が多々あり、不思議に思ってました)
「即断即決」も困り者ですね…「分かりません」と保留にしておくことも大事だなと思いました。
以前、どこかのエントリーで「ADHDの人はドライ(無味乾燥)だけど、何故か自分に配慮してくれる」というコメントがあり、「(コメントからでも)ドライになりきれてないことがバレバレだなぁ…(汗)」と感じたことがあります。
この方が私のことを指してそうコメントされたのかは(確かめた訳ではないため)分かりませんが、その時にふと自分自身を振り返った時「実生活でまだまだドライになりきれず、冷たい態度を取れない時がある」と冷静に考えられました。
おそらく、自分でもその「事実」に気付いていたのだと思います。
だからその方のコメントを読んだ時「自分の替わりに突っ込みを入れて貰った」ような感覚になり、「その通りだよね」とあっさり認められたのかなと。
一方で他の方のコメントを「(受動型の人が)中心志向型の人に羨ましがられたい」「自分の主張を受け入れて貰いたい」と私が受け取ってしまうのは、単に「押し付けがましく感じるから」かもしれませんね。(見当違いというのもありますが)
表面的に「こういうものでしょ」と括らずに、一人一人の言動を見ている方もちゃんといらっしゃるんですよね。
気を引き締めなければなと思いましたp(^-^)q
私は、(例えば、自分が過剰反応していることは棚に上げ、相手に対しては「感情的な受け取り方をするな」と平気で非難する等)「自分の言動に責任を取ることができず、被害的になる人達」に対し、腫れ物に触るように接してきました。
これは「本人に悪意が無いのに責めるのは可哀想」という気持ちからなのですが、最近「これは人からの要請による依存的な発想であり、『甘ったれてる』よね」と、当たり前に考えられるようになりました。(他エントリーで、同じタイプののび太型の知人のことをコメントしましたが、その知人に対しても、甘いなと感じました)
「目の前の事実(現実)だけを見て、それがその人の責任・問題であることが明確なら、フォローする等といった『配慮』は一切必要無く、また、悪意が無いからといって何をしても許されるという考えがまかり通る訳が無い。」
常にそう考えながら行動することでかなり気持ちが楽になり、「被害的な認知の人達」に対しても、あっさり「仕方無いじゃん」って笑いながら言えることが多くなりました。
「相手に悪意があるかどうか」等と考えることがなくなり、物事も人間関係もスムーズに運ぶようになったと感じています。