一見被害的(見方によっては誇大的)な認知には、A「統合失調症の被害妄想」、B「躁うつ病の誇大妄想」、C「ASの関連付け発想」、D「ジャイアンの自意識過剰」、E「ACのお節介」などがあり、似ているが少しずつ違う。
まずA統合失調症の被害妄想は、私の印象では「自我の境界が不鮮明となって、自分の中に他人の考えが入ってきたり、自分の考えが他人に伝わったりするように感じる」というイメージだ。
この意味では、Dジャイアンの自意識過剰は少し近いと思う。言ってみれば「自我の肥大」とでも言うべきことで、「世の中のことは全部自分に関連する」(自分に関連しない他者は何も見えていない)という意味で自意識過剰となる。他にも私はジャイアンと統合失調症はある意味で近く、共通点が多いように思う。
B躁うつ病の誇大妄想は、自分と他者は見えてはいるが、立場、位置関係が自分のほうが上に立つという形で、ジャイアンよりは病的でないように思う。
CのASの関連付けは、AS流に自分と他者は認識されているが、「自分と他者が非常に近く認識される」、「偶然が認識できない」というAS独特の認知の特徴から来るもので、被害妄想とは全く違うが、実際の臨床の場では専門家もあまり区別し切れていないのではないかと思う。
ACも見方によっては自意識過剰で誇大的である。「私が支えてあげないと」と自他の問題の区別ができない。これは自己評価の低さと見捨てられ不安から、周囲の人の行動を「自分への評価」という部分だけを異常に拡大して認知するという認知の歪みにより、自分と他者の区別が冷静に見えなくなっている状態と言える。
私はA、D、C、B、Eの順に病的という印象を持っている。A、D、C、Bはいずれも炭酸リチウムが有効だ。
わたしは何者なのだろう。
物心ついたときからそう思っておりました。
不惑をすぎた今でも
その問いを続けております。
先生のブログを拝見しているうちに自分が見えてくるのではないかと思い
通わせて頂いております。
わたし自身正式な判断はされておりません。
発達障害自体にそこまで詳しい先生がいらっしゃらないためです。
自分が何者なのかわからないことは大変苦痛です
オトナの発達障害に本気で取り組んでいらっしゃる主治医に出会えることを本気でのぞんでおります。
以前にも少し書きましたが
例えば、レスリングやボクシングの試合など
痛そうなモノは、とてもじゃないけど見ていられません。
自分は痛くないことはきちんと認識できていますが、
それでも他人が痛そうで、自分が痛いような気がするというか、
とにかく、平常心ではいられなくなります。
これも、被害的な認知の一つでしょうか?
先生:
> 私はA、D、C、B、Eの順に病的という印象を持っている。
> A、D、C、Bはいずれも炭酸リチウムが有効だ。
E「ACのお節介」につける薬はないってことですかねぇ(笑)
いや、他の人はあんまり他人様に迷惑かけないので、薬でも飲ませて
おとなしくさせておいた方がいいのが、ACじゃないかと(じょうだんです)。
ところで、統合失調症。そうですか。そういう妄想なんですね。
だとしたら、私はそれだったのかもしれません。特に十代の頃、いろいろ精神的に参っていた時期にはそういう幽体離脱みたいな、反対に、人と話しているとその感情がわっと自分の中に流れ込んでくるような、巫女さんにでもなったような気持ちになってました。田舎のアミニズム系の感覚が残っている母や祖母に育てられたので、別になんとも思ってませんでした。それと、被害を被っているという気持ちもしませんでした。
人の感覚を真っ白な気持ちで受け止められるのは、いいことだと思っていたくらいです。
自分の仕事(モノをつくって表現)では、自分ができあがってしまうと、いいものが作れなくなる。新たな感覚を次々と取り込んで、リフレッシュして、自分の頭を固めて(老化)しないように、真っ白い自分でいなさい。有る意味子供のように、新しいものに常に感動できる頭と心を持ち続けなさい、というのが、師匠達からの大事な教えの一つでしたから、そのような自分を保つ心がけをしたくらいで、、
病気だという認識はなかったです。もしかしたらそうかもしれませんね。
まさにASの妄想ですw
当たってます。
「自分と他者が非常に近く認識される」、「偶然が認識できない」これを湧き上がった強い不安のとき、頭に何度もこうだからと思うようにしたら、ちょっと、マシになりました。ありがとうございます!つつぬけのように、ずかずかと他者の声が自分に語りかけてるように聞えて入ってきてパニックになるんです・・・。統合失調症じゃないので攻撃的にならずに自分の耳をふさぎたくなるくらいしんどい不安になり怖くなるんです・・。やっぱりASの認知なんですね。
ジャイアンが統合失調症に似た被害妄想的というのがよく分かりません。
例えば喫茶店の店員の人達が笑っているのを見て、「お前俺のことを見て笑っただろう」と(真実じゃないのに)被害妄想的に怒るとかそういうことなんでしょうか?
そうなんです。
自分と他者は完全に区別できてます。
ところが、関心を持って取り組んでいるもの、例えば、このブログでは、自分が書いたことは大体覚えていて、それに関連することをジャイアンの記事で出た場合、勝手に先生との距離が近く感じてしまうため、「先生は、私をジャイアンだと言いたいのかな?」と、関連付けて不安になります。
こういうことで、ASは疲れていくのですね。
因みに、ジャイアンの「世の中のことは全部自分に関連する」というのは、私だったら、身がもちません。頭、爆発してます。
近隣から聞こえてくる 子供を怒鳴る母親、泣き叫ぶ子供。
寝たきりの介護者を怒鳴る娘。聞こえては来ない老女の心の叫び。
意味の分からない言葉を使う。有り得ない非現実を語る。と言われ、他者との隔たりを自覚し、仲間外れを屈辱と捉え、悩んで眠れないAS者の苦悩の叫び。悩みや屈辱が増える場所へは行きたくないと訴える。ゲームをしている時だけが全てを忘れられる時間だと語る。
喜びと不安の葛藤で中途覚醒を自覚し訴えるADHD。逃避的に飲酒を繰り返し、芽生えた責任感で ほとんど寝ずに仕事へと向かう後ろ姿。
他者の悲痛な叫びに胸が締め付けられて苦しい。
その悲痛な叫びは私の想像でしかないはずだ。
自分が向き合わなければならない問題に対する自覚は乏しい。問題が何であるかさえ分からないのかもしれない。
自覚出来ないと言う事は自分には何の問題も無いのか?
いや、心の中に燻る何かがある事は感じられる。
また 振出しに戻った。
はじめまして。
先生のブログ、HPいつも拝見させて頂いております。
自分は20代の社会人ですが、ADDと診断されています。
かつ、SEという注意力を必要とする仕事について、どうしようか日々迷っている毎日を過ごしています。
病気と考えるとき、社会の認知度、支援体制を考えると
不十分な感じがします。支援の法律が出来ても支援の枠組みが十分に出来ていませんから。人口の5%ぐらいがそうだと
すると、支援体制が強化されてもおかしくないんですが、、。
http://www.nichibenren.or.jp/ja/event/070630_2.html
のような催しがあり、現状がどんな感じか感心があって参加予定ですが、当事者としてはもっともっと盛んに議論してほしいと思います。