(これから、順序はバラバラになりますが、各論としてADHDのことを書いたりASのことを書いたりしていきます)
コーチングガイド各論② ASの自己理解 そのA(注意集中の特徴)
A.注意集中が自分でコントロールできないことを理解する。
どんな対象に対しても、適当なときにある物事への注意集中を開始し、適当なときに切り上げ、また適当なときに再開することについて、多数派はまんべんなくコントロールが容易である。
これに対して、ASは、「一度注意集中を向けたらその後の変更が全く効かない」という特徴を持つ。注意集中が向くのは刺激の強さには通常関係なく、人への「愛着」および「執着」をはじめ、第三者への合理的な説明の難しい「こだわり」と表現するしかない形になる。
例えば、物を置く位置や時間的な予定、通る道順、食べるものの感触、服装、付き合う人など、一度「こだわり」になったら、修正が効かないことが多い。
他方で興味を持った対象に関わる努力は疲れを感じない。表面的には躁状態に似た過集中もみられるが、疲れると身体症状が出現する。
物へのこだわりは不変な傾向を持つが、人へのこだわり(愛着および執着)は、自分の物へのこだわりよりも優先となり、「愛着および執着の対象の相手の好みや都合に全面的に合わせる」ということが表面上しばしば見られる。
(ここに「自分の生活の中で上記の説明に当てはまることがありますか?」という書き込み欄が入る)
この困難さを克服する方法は、「環境の変化自体を少なくする」というかたちとなる。人への愛着および執着を含め、「後で変更が効かない」ことを前提として、現実的にも変動が少ない環境に身を置き、もしも社会参加などでどうしても変動する環境に身を置く必要がある場合は、自分のくつろげる特定の場所だけは一切変化しない環境を用意して脳を休める必要がある。
(この後に「上に書き入れたあなたの困難さに対して、上記の工夫を考えてみて書き入れてみましょう」という書き込み欄がある)
http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/as.htm
わたしは、自分ではおそらくASだと思っていますが
<コーチングガイド②ADHD編そのA>の事例が、
よくあてはまります。
他にもきっと同じような方がいらっしゃると思いますので、
もしあれば、注意点を書いて頂けると、ありがたく思います。
例えば、
●この事例は、ASとADHDの両方に当てはまることがある
●ASとADHDでは、ここがこう違う
等々です。
こんにちは。感じた事を書いてみます。
>注意集中が向くのは刺激の強さには通常関係なく、人への「愛着」および「執着」をはじめ、
>第三者への合理的な説明の難しい「こだわり」と表現するしかない形になる。
適切な表現だと思います。私の場合、過集中状態に入るトリガーは、刺激の強弱ではなく
まさに「第三者への合理的な説明の難しい「こだわり」」です。
ただこれも、現実的にコーチング等を受け、他者から指摘されて、初めて「こだわり」という状態を
知り得ました。それでも、いまだもって自身で注意深く自身を観察していない限り、「こだわり」に
気がつくことができませんし、気がついたところで「こだわり」に対抗するのは難しいです。
(コントロールが難しい)ですから、外から見るとわがままにみえるのでしょうが、自身の
内側では、どうしようもないのです。
>他方で興味を持った対象に関わる努力は疲れを感じない。表面的には躁状態に似た過集中も
>みられるが、疲れると身体症状が出現する。
興味を持った対象に関わるという時点で、それは努力ではなくて、やりたい事を、やりたいように
やっているという感覚です。そして、それを妨害されると、衝動的に攻撃されたと認識してしまいます。
激しい拒否感が生じます。ですから私は、私の過集中を妨げられない環境を求めています。
(あるいは逆に過集中に入り込まない環境)
>この困難さを克服する方法は、「環境の変化自体を少なくする」というかたちとなる。
私の場合に限っていえば、もうこれ以上のアドバイスはないだろうと感じます。
私は聴覚過敏をはじめとした感覚過敏があるので、できるだけ刺激を受けない(刺激の少ない)
環境を求めてここ10年引越し等を繰り返していますが、それもまた、困難な作業になっています。
どうしても結果として袋小路に自ら入り込んでしまいます。
コメントありがとうございます。
まーちん様
ADHDとASとに各論を書き分けて行きますので、両方を読み比べてみて下さい。注意集中については、私のイメージは、「移り変わり過ぎてコントロール出来ない」のがADHD、「移り変われなくてコントロール出来ない」のがASという感じです。また、ASの「受動型」は、「相手中心」の結果、相手や状況によって注意集中の状態が変わるので、一見ADHDに似ています。
ALIVE様
ASの人の「体験」の特徴は、人を含む体験する相手・対象との「近さ」であると私は思います。感覚過敏もそのうちのひとつとして、「拒否できない近さ」、「存在する時点で無視できない」、「理解されなければ即否定されることになってしまう」という「近さ」について考え続けて行きたいと思います。
コメントありがとうございました。
この記事は見落としていました。今更ながら先生の提言に驚いています。私は身勝手な変人であるにもかかわらず、協力し合って夫婦は生活するもの、勝手な行動はしないでというスタンスで夫に接してきました。私を家に縛りつけるのだから、夫にも家族の役割を果たしてもらおうという気でいました。夫は社会的責任が生じた後すぐに脅迫行動の類いが酷くなり、私はその行動に巻き込まれていきました。
彼の母親の家は、他人から見るととても衛生的で整理されてるとはいえない。父親の家も、掃除機は汚れていようといまいと週に一度と決まっている。私は客観的に掃除の時期や洗濯の時期を判断し、不用品も処分するので、総じて彼らが管理する家よりは整頓され、衛生的にも問題ないはずでした。しかし、夫はけして納得しません。なぜなのかと幾度も幾度も問い掛けました。やっと返ってきた答えは、たぶんあの家では“自分だけの部屋”があったからだ、その部屋は完璧に自分の納得がいくよう整えていたから平気だったのだというのです。だから他の人と自分は切り離して考えられたと。掃除の質の問題だけではないということが感じられる話でした。
そうして度々「僕には完全に一人になれるくつろげる部屋が必要だ。自分が侵害されない完全に自分の物しか置いていない空間が必要で、そこにはベッドも入れなければならない」と言い張っていました。家も狭いし、私が好きなものを広げて作業していると怒るのに、です。また、私は他人が何人家にいようが気にならない方なので、その切迫した状況ががわからず、身勝手で自分だけが可愛い、我が侭な人だと思っていました。それでも、「彼のような人は、自分の空間を守ってもらうことが必要かも知れない」という友人のアドバイスを受けたので、私もそうかもしれないと思い、彼の要望を聞き入れ、一度彼は部屋を持った時がありました(寝室は私と一緒のまま)。5,6年くらい前のことです。(続きます)
でも、子供が生まれて、子供が自由に遊べる広い空間が必要になったので、夫には子供に空間を譲ってもらうことになりました。その後脅迫行動が極まり、他人のモノがあると落ち着かない意味を夫が説明し、私が実感した形で、去年の春、夫は再度自分だけの部屋を持ちました。そして共有空間にはお互い個人的なモノは置かないという取り決めをしました。
夫は若干落ち着いたようでしたが、脅迫行動は完全には止まりません。二ヶ月前、とうとう狭い自室に布団を入れてもらって家庭内別居がはじまりました。結果的には、夫は見違える程落ち着いて、今では注意欠陥的なミスを連発するほど、脅迫行動が減って驚いています。彼は外との関わりを安定させるためには「環境の変化自体を少なくする」必要を本能的に知っていたのですね。もっと早く耳を貸していれば、平和に共存できていたかも……
子供や奥さんの睡眠を邪魔しないようにしないといけないとか、早く仕事を終えて帰らないといけないとか、そういうことが物凄くプレッシャーになっていると真顔でいうのです。今は帰っても、帰らなくてもいい。朝も誰にも起こされない。私は眠りが浅く、夜中に夫の出すラップ音(静かになにかすることができないみたい)がストレスだったし、昼まで家にいる夫に、行動を監視される気がして寝てられるのが嫌だったし。いっそ別の部屋に住めば、気にならなくなると気付くのにこんなに時間がかかってしまって。家族として子育ても手伝ってほしかったけど、子供に対応するに臨機応変さが必要だし、それは難しいようなので、それを期待するのをやめたら私は楽になりました。何か頼みたい時には、面倒でも二日前までに言うことにしたら、やってくれるようにもなりました。先生の提言に感動したので、ご報告まで……