自己コーチングガイド各論② ADHDの自己理解そのB(状況理解)
B. 「場」の状況(空気)の理解が難しいことを理解する。
多数派は、特に複数の人の参加する状況(「場」と呼ばれる)において、他の参加者表情や口ぶり、態度やしぐさなどの非言語的情報を駆使して、他の参加者の意図や「場」における立場、自分自身の「場」における立場などの「場」の総合的な「状況理解」(「空気」、雰囲気などと呼ばれる)をリアルタイムに直感的に予測・更新し続ける。これを多数派の「状況理解」と呼ぶことにする。状況理解において、言語的な情報のやりとりはむしろ表面的で、本質的なやりとりはむしろ非言語的な形でなされる。
これに対しADHDは、非言語的な情報のやり取りのコントロールが困難で、特に人の表情などの情報を直感的に察知することが不得手であり、よほど集中して意識的に努力しないと多数派と同じレベルの状況理解は難しい。
その結果として、言語的に指摘されてはじめて自分が(多数派の状況理解からみて)見当はずれなことをしたことがわかったり、明らかに無視されたり不快感を表明されてはじめて自分の立場が分かるという経験を繰り返すため、自己評価が下がることが多い。
「自分の生活で上記の説明に当てはまることがありますか?」
この困難さを克服する方法は、まず「自分は状況理解が不得手であることを周囲に理解してもらう」ことと、「意識的に多数派の行なっている状況理解に代わる状況分析をできるだけやってみる」ということになる。
例えば後からでも、「さっきの状況はこうだった」ということを信頼できるサポート者(理解ある上司やケースワーカーなど)に助言してもらい、状況理解に関する「意識的な状況理解の結果」を頭の中に蓄積していく。
また、通常は「天然ボケ」というイメージを持ってもらうように行動し、社会的立場の要請の中で可能な限り状況理解を出来ることを当てにされないようにすることも重要である。
上に書き入れたあなたの困難さに対して、上記の工夫を考えてみて書き入れてみましょう。
>自分の生活で上記の説明に当てはまることがありますか
・・・ですが、『まず状況がわかっていないということが
わかってない』ことが多いので事例を挙げることすら難しい、というのが正直なところです。
それにしても
>状況理解において、言語的な情報のやりとりはむしろ表面的で、本質的なやりとりはむしろ非言語的な形でなされる
これは、本当に『私の知らない世界』というのが実感です。
まずは、多数派を観察することから始めないとですね・・・。
>言語的に指摘されてはじめて自分が(多数派の状況理解からみて)見当はずれなことをしたことがわかったり、明らかに無視されたり不快感を表明されてはじめて自分の立場が分かるという経験を繰り返すため、
このような経験は、しょっちゅうあり、周りの人たちが私に通訳せざるを得ない場合が、多々あるのですが、
非言語的な情報のやりとりは、自分では、どうかよくわからないですが、
言語自体が、理解できていなくて、起こる場合は、よくあります。
・不注意により、話自体をちゃんと聞いていなかった
・緊張により、頭が真っ白になり、聞いていなかった
・思い込みが激しくて、話を曲解した
・人任せ、無責任な所があるため、物事をちゃんと考えていない。そのため、仕事の場で話されていることが理解できない
こんにちは。度々でごめんなさい。
先のコメントを書いてからしばらく考えたのですが、
自分は状況理解ができてない、ということは
なんとなく自覚があっても、具体的にそれが周囲にどんな影響を与えているか、ということはわかりません。
ただ、今のところトラブルになっていないので
大丈夫なのかな、と思ってますが、自信はないです。
(たまたま、周囲が寛大なだけなのかも?)
また、状況理解と少し離れてしまいますが、
自分の気持ちや、内面的な状況も、実はよくわかっていない(自覚できていない?)ところがあるように感じています。
実は今の自分の状況も、理屈では、ある程度理解できていても、
『感覚』として認識できていないかもしれません。
それこそ以前は不注意も状況のわからさも『個性の範囲』のように思っていて、今でこそ『個性の範囲とはいいがたい』と自覚はあるものの、決して認めないわけではないはずなのに、きちんと実情把握ができていないような気がします。
『自分で自分の状況がよくわからない』。
自分がモニターしにくい、というのは自閉の人の特徴として
あげられますが、状況がわからないという意味から
ADHDの人も良く似たようなところがあるのかも、と思いました。
こんにちは。
先ほどの続きです。
>「さっきの状況はこうだった」ということを信頼できるサポート者(理解ある上司やケースワーカーなど)に助言してもらい、状況理解に関する「意識的な状況理解の結果」を頭の中に蓄積していく。
良く考えたら状況理解については『サポートもしくはアドバイザーが欲しい・・というのが自分としての本音だということがわかりました。
しかし現実には、
恐らく周囲には『変わった人』とか『天然ボケの人』という印象を与えているとは思いますが、『実はそういう状況で私が困っている』とは、誰も気がついてはいないと思います。
むしろ『性格の問題』であると思われているでしょう。
そんな状況下で『サポートが必要』とは言えないですし、
言ってもきっとわかってもらえないと思います。
それに私自身、サポートを求めて良い立場なのかどうかも、
実感としてわかりません。『性格の問題なのかも?』と思ってしまうあたりは、自分が『状況がわかっていない』からなのでしょうか?
本当に、何度もごめんなさい。
でも、私はこれだけ書かないと、自分の内面的なことの状況把握もできないようです。
これは、性格でしょうか?それとも障害の部分でしょうか?
《発達障害を持つ偏屈者の専門医》に発達障害の2人の息子と自分自身のカウンセリング受診を続けている、現在ADHDのACからADHD丸出しにリセット中の身ですが、私は《偏屈者の医師》の口から診断名を聞く前にHPを見て自己診断し、ADHDのACと認識(思い込みによる断定)その結果HPのACの治療法を自分なりに解釈し、自然な形で過去の振り返りを実践、《偏屈者の医師》のサポートも受けながらAC的な認知の修正が少しずつ出来る様になりました。自己診断に関しては自らの経験上、あれこれ思い悩むよりも、あっさり断定してしまえば自然な形で自己修正が可能になるのでは?と思っています。
また、ADHDの息子(18歳)がいる為、専門医の指導を受けながら、可能な限りの知識を蓄えて小学校・中学校・高校(長期休学中)において二次障害による問題行動等に対応すべく、《発達障害者の存在》《発達障害による不適応》を先生方や警察、裁判所、ありとあらゆる場所で直談判し続けて来ましたが、理解不足に苛立ちや等歯がゆい思いをする事ばかり…定時高校では入学早々パニックを起こしてガラスを割り、他の生徒にも怪我をさせてしまったASの生徒に対する「出校停止」の対応が納得行かずに先生方に参考書類やビデオを見せて検討してもらったのですが、「ウチの学校では手に負えません。養護学校への編入を…」という結果になり、怒りと共に自分の無力さに落胆させられたり…
最近では《発達障害児(者)への理解》を少しでも深めてもらえる様に、YANBARU先生のHPやブログを息子の通う小学校や定時高校の先生方に紹介しています。私は発達障害への不理解にぶちキレるタイプなのですが、不理解者の意見も聞いてみたいと思うのも隠せぬ事実。何故理解できない(しようとしない)のか?疑問を抱き続けているからなのでしょう。
リセット様
はじめまして。
書きこみ拝読いたしました。
>不理解者の意見も聞いてみたいと思うのも隠せぬ事実。何故理解できない(しようとしない)のか?
これは、多数派の文化なのでしょうか、恐らく『皆で協力してひとつの成果を上げる』ことが何をおいても価値あることという認識があるからだと思います。
これは私が中学生の頃の話ですから、もう20年以上前の話です。
当時の私は、特に理由があったわけではないのですが、クラスメイトに馴染むことができませんでした。それで、担任教師に『もっとクラスの友達と話すように』と言われました。さらに、『いつもうつむいていて暗そうな雰囲気だから皆が話し掛けにくい、もっと明るくなるように努力しなさい』とも言われました。
この言葉は今も私の脳裏に焼き付いて離れません。
実際、当時私は担任の言うとおり、明るくなろうと『努力』しました。でも、形ばかり作っても、当時から『冗談がわからない』『雰囲気が読めない』私は、どこか外してばかり。クラスメイトの一言一言に傷付いていました。それを担任に話して『皆は冗談で、親しみをこめて言っているのに気にしすぎ』。とにかく私は『何でも必要以上に気にしすぎている』ということらしかったです。
今にして思えば、生徒の個性を無視したとんでもない教師、と思えますが、教師の側からすると悪気はないにしろ、『クラス全体がまとまっている状態』にしたかったのかもと思えます。
これと同じで、発達障害に理解を示さない教師は、『理解しようとしない』よりも、『協力と調和を何よりも大事にする』多数派の文化から来ているような気がします。
私は元々調和ということも、協力ということも良くわからなかったと思います。でもなんとなく、クラスにはそれが必要ということはわかっても、価値があることのようにはあまり思えない。でも、たとえわからなくても価値が見出せなくても『それに合わせる努力をしないと生きていけない』。
『努力』という言葉は曲者です。人並みに合わせる努力。明るく振舞う努力。・・・いろんな努力。皆が私にそれを求めてきたから、この言葉が、今も意識のどこかに残っているのかもしれません。
リセット様
>自己診断に関しては自らの経験上、あれこれ思い悩むよりも、あっさり断定してしまえば自然な形で自己修正が可能になるのでは?と思っています
これについて、自分に置き換えて考えてみました。
自分の過去を振り返ると、改めて『自分は辛い体験をしている』と思うのですが、自分の実感として『辛かった』という形で認知されていないことがわかりました。
・・・何故そうなのか?
確かにそのとき、自分としては辛いと感じていたに違いないと思う。
でも、どれだけ辛いと周囲に訴えても、受け止めてもらえなかった。『いくら自分が辛いと訴えていても、それをわかってくれる人間はこの世に存在しない、ならば、辛いと感じることをやめよう』。
いつからこのように、自覚がないまま無意識にインプットされていったかどうかはわからない。自覚がないから、記憶にも残っていない。ただ、『そうでもしないと私は辛くて、生きていけなかった』のだと思う。それが癖になって、『辛かったのにそういう経験と認識ができなくなった』のではないかと思った。
しかしまだ、人から『辛い経験だったね』といわれても実感が持てない。でも少しづつこれを意識しないと、いつまでも本当の自分を認めてあげることができないように思います。
改めて、認知というものは一度おかしくなると
元の状態に戻すことが難しい、ということがわかります。
リセット様の書きこみで、私は自分でも気がつかなかったことに気がつきました。・・・ありがとうございます。
yurin様
>恐らく周囲には『変わった人』とか『天然ボケの人』という印象を与えているとは思いますが、『実はそういう状況で私が困っている』とは、誰も気がついてはいないと思います。
>それに私自身、サポートを求めて良い立場なのかどうかも
実感としてわかりません。
書き込みを拝見させていただいて思ったのですが、yurin様は、もし、ADHDであるとしても、今の環境で適応されているのでは?と思いました。
1.自分が悩み、苦しんでいる、周囲は困っていない
2.周囲がその人に困り、悩みの元となっているが自分は悩んでいない
3.周囲も自分も悩んで苦しんでいる
上記の様な状態の時に、何らかの治療等が必要となるかと思いますが、どれにも該当されないのでは?と思いました。
YANBARU先生が書かれているとおり、
>明らかに無視されたり不快感を表明されてはじめて自分の立場が分かるという経験を繰り返すため、自己評価が下がることが多い。
「何でこんなことがわからないの?」、「何で、そんなことを言うの?」、とほとほと困ったという口ぶりで言われたり、相手を怒らせているのに、その原因がわからず、周囲の人が口々に「これはこういうことだよ」と通訳してくれたり、、
周囲を困らせていることをわからせられて、自分もしんどく、悩みます。
中には、周囲がほとほと困って、何度も指摘していても本人が気づかないというケースもあると思いますが、yurin様が該当するとは思えません。
リセット様、こんにちは。
>不理解者の意見も聞いてみたいと思うのも隠せぬ事実。何故理解できない(しようとしない)のか?
事の背景がわからないので、その点はご理解して読んで下さい。
(ASは全体像がつかめないと、不安定になりがちなので・・・)
その学校の対応は理解以前の問題で、基本的人権を侵害している悪質極まりない行為です。
教育者として、自分が何のために存在していて、何をしなければならないのかを全く解って
いないようなので、当事者および家族の「理解してほしい」という切実さを、受け入れてくれる
事は現時点で困難だと感じます。
AS当事者としては、こんな不条理がまかり通る学校は、教育の場としては認めません。
(否定に対して否定で打ち消す、私独自の絶望感消去法)
少し冷静になって、AS的思考で、考察します。
これはカミングアウトのほうにもコメントしたのですが、以前のコメントで
「周りに迷惑なのに理解だけ求めるんか?」というコメントがありました。
これが現実なのではないでしょうか。
個人対個人の関係においては、理解はありえると思いますが、それでも理解してもらう
ための手段を意識的に、事前にじゅうぶん検討しておく必要があると思います。
そのためにも、意見を発信する側に戦略性が求められるのではないかなと思います。
(無計画にいきなり伝えても、相手は困惑するだけ)
対組織に限っていえば「カミングアウト支援システム」のような形を作り上げて、システム対
システムの形式にしない限り、門前払いになって、話が先に進まないのでは、と感じています。
ですから、必要なものはみんなで作りましょう。それぞれの手元にある社会的リソースをかき集めて
「カミングアウト支援システム」や「発達障害だからこそ安心して働ける仕事場システム」等。
これらは私にとって、現実的課題です。
それぞれの立場からの「理解」に対する私見
1・家族の立場から
発達障害をもつ人が家族の中にいる場合、その障害像を知り、理解する事によって、
その時点から、家庭内の生活が、意味のわからない混乱から意味のある混乱にシフトする。
これは生活の質の向上という意味合いで、当事者・家族ともに、お互いメリットがある。
家族の視点からみると、家族内の発達障害をもつ人とは関係せざるをえないし、
ある意味、逃げ場がなく、かつ、切実な問題なので理解への道を選択するしかない。
まさに生きるか死ぬかという切実さ、緊急性が生じ
自ら理解しないとどうにもならないという立場になる。
この「自ら」という点が、大きなポイントである。
結果、発達障害に対する理解度が高くなり、理解(受容)の継続性も生まれる。
2・家族以外の立場から
一方、発達障害と関わったことのない人は、理解してほしいといわれても、理解するための
基盤がないため、理解を要請された時点で得るものは困惑であり、不安である。メリットはない。
発達障害関連の本やビデオを見て、情報を得ることはできるが、当事者・家族のように日々の
実態に、直接的に接する事はできないので、情報と現実(あるいは推測)との間でギャップが
生じ、さらなる困惑・誤解・偏見・不安感を招く可能性がたかい。
(情報で得た知識だけでは、発達障害は理解・対応し得ないという事実がある。)
そしてある意味、「理解してほしい」は微妙な強制が含まれているので拒否感が生じる。
(例えは悪いが、町内会名義で、各種の募金を当たり前のように徴収される感じ)
結果、発達障害に対する理解以前に、拒否反応がでて障壁になってしまう。
よって、自ら理解しようというモチベーションは低くなり、家族や当事者の持つ切実さとは
かなりの温度差が生じる。
・・・続く
ミリ様
ご意見ありがとうございます。
しかし
>中には、周囲がほとほと困って、何度も指摘していても本人が気づかないというケースもあると思いますが、yurin様が該当するとは思えません
このようなことが、私を知らないあなたに、
どうして言えるのかが不思議です。
すくなくとも私は、一度もお会いしたあなたに
たとえ、問題がないように思えても、このようなことは言えません。
自分がしんどいと、自分の辛さしか見えなくなるものだと
思いますが、すくなくとも、ココに書きこんでいる方は
自分のことに悩み苦しんでいるのだと思います。
あなたの書きこみで、
私はまた、どうしていいかがわからなくなりました。
もう、何もかも考えるのが嫌になってしまいました。
皆さんコメントありがとうございます。ADHDにとっては本質的な部分ですので、ここは重要ですね。
ここでひとつ確認しておきましょう。本来「自己診断」と「自己コーチング」の作業は自分ひとりで行い、多数派についての状況分析などの参考情報をケースワーカーなどからもらうという形になります。それを、原案を提示し、今は皆さんと共同作業でまとめていくという形で、特別に書き込みをお願いしているということになります。だからそれぞれの自分自身への振り返りの作業が重要で、(私は参考にさせていただき、お返事のコメントをするときにはしますが)ここでの他の人のコメントに対するコメントは「無し」ということにしたいと思いますがいかがでしょうか?
この点について先に確認しておかなかったのは私の失敗であったと思います。ご理解をお願いします。
自己コーチングガイドの部分のみ、お互いのコメントに対するコメントは「無し」ですが、それ以外のご意見は大いに参考になりますので、どしどしお寄せください。
再びミリ様へ。
>その原因がわからず、周囲の人が口々に「これはこういうこと>だよ」と通訳してくれたり、
>周囲を困らせていることをわからせられて
あなたが、そうやって自分の言動が、
周囲にどういう影響をもたらしているかわかっているのは、
『通訳』してくれる(サポートしてくれる)人がいるからではないでしょうか。
私の経験からすれば、多くの人(多数派)というのは、
何も言わずに無視したり、仲間はずれにしたりするものです。
私は今まで何度と無くこういう経験をして、訳がわからず傷付いてきました。
何も言われない=周囲が不満を感じてない、とは決して言えないのが多数派の世界なのです。だから怖いのです。
私からすれば、そうやって忠告してくれる人はまだ親切なのだと。
そうして考えるとあなたのその環境は、大変羨ましい限りです。
>YANBARU先生
了解いたしました。
他の人に対するコメントが一番多かったのは私です。
申し訳ありませんでした。
先ほど先生のコメントと行き違いで書きこみしましたが、
それは削除してください。お願いします。
ただ、先のコメントの中の一部のみ、再度投稿いたします。
多数派というのは、あからさまに反感を示すひともいますが
中には『非言語的な批判』が良く見られます。
無視や仲間はずれがそれに当たると思われますが
私はこれは幾度と無く経験しました。
多数派の怖いところはこういうところで、
あからさまに反感を表明せず、反感を持たれてるのではないかと
私はいつも不安になり、サポートが欲しいと思うのです。
コメントありがとうございます。
さて各自へのお返事を考えましょう。
yurin様
状況理解の問題は、もともとADHDのほうからは見えにくい問題です。多数派の観察を少しずつしていきましょう。
ミリ様
私もそうですがADHDには一番辛い体験ですね。多数派同士のやりとりでは、実は「言葉」もADHD側からは見えない水面下の非言語的なやり取り(表情や口ぶり、言い方など)とワンセットで理解するように発せられています。だから言葉の理解自体が行き違うのは当然で、私はご家族に説明するときには、「(多数派同士のように)省略しないで下さい」と言うことにしています。ただこれを多数派の人に理解させるのも結構大変です。
yurin様2
ADHDのACの場合には、自己主張は基本的にかなり抑えているので、表面上のトラブルは少ないかもしれませんが、逆に本人がきついですね。
あなたはACの部分が治ってきているので、これからぶつかることがあるかもしれません。あってもなんと言われても(我々は偏屈に生きるしかないので)「私はこれしか出来ないの」と居直りましょう。
偏屈さを表に出すようになったらサポートは必要だと思います。引き続き自己観察を続けてください。
リセット様
ポイントは「多数派の観察」だと思います。ます自分自身の振り返りを行い、その後多数派の観察をコーチングでもテーマとしますが、その段階である程度の答えを出せると思います。
(続く)
(続き)
yurin様3
ADHDのACにはとんでもない無理解な発言ですね。このテーマはコーチングの次の章で詳しく検討する予定です。
しかし人は表面しかみませんから、これからは自分で言葉で主張し説明できるようにコーチングを進めましょう。
ミリ様
ここで起こっていることは「すれ違い」です。私はメール等でyurin様の別の情報をお聞きしていますので言葉を追加すると、「ADHDのACとして自分自身の考えや感じたこと自体にも自信が無いので」というのを前に付け加えれば、yurin様もかなり辛いところで生きてこられたことは分かると思います。
ADHDの経過もいろいろで、ぶつかりながら自己主張を続ける人もいれば、途中で自己主張を断念してACの道に入る人もいて、「自分を裏切って多数派に合わせ続ける」ことの苦しさは「叩かれる」ことと同じくADHDには大きなものだと私は思います。
「説明不足」と「断定しすぎ」というどちらもADHDの言葉の理解のコーチングの必要な問題だと思います。
いったん飛ばしていましたが、「言葉の理解」のコーチングをやはり早めに書くべきですね。その必要性がわかりました。
ALIVE様
「無理解者の意見」の問題は、コーチングの次の章「多数派の理解」というところできちんと検討する予定ですので、いったんは棚上げとしておきましょう。
ちなみに私は募金を威張って要求しても良いと思います。「嫌なら断れば良い」というのがADHD流の発想です。
yurin様
非常に感情的なコメントで、載せるかどうか悩みましたが、ACを乗り切りつつあるあなたがかなり頑張って外に出した気持ちなので、大事にしようと思い載せました。あなたが言いたいことを言うことは間違っていません。
ただ原因となった上のやり取りは「言葉のすれ違い」なので、冷静に考えて整理しておきましょう。
次に書く予定の「言葉の理解」が参考になると思います。
コメントありがとうございました。
今の私が一番きついのは、
『自分がADHDであると、やっと認識できてそれを受け止められたのに、(認められない、というのではないのに)それを否定されるような言葉を聞くこと』です。
その言葉を見たとたん、私は急に不安になってしまうのです。
表面上、私は何も問題ないように見えるんだ、
今まで言われてきたように、大袈裟に騒ぎすぎているだけだ、とまた自信が無くなってしまう。私にとってそれはきついことなのです。
でも、だからといって少し感情的になりすぎてしまったと
反省しています。申し訳ありませんでした。
YANBARU先生
>自己コーチングガイドの部分のみ、お互いのコメントに対するコメントは「無し」です
了解いたしました。
yurin様
他の人から、言葉で文句を言われる程ではなく、また、ご自身も、気づかれていないということで、あのように発言したのですが、
「気づかないことに気づいていないのでは?」という所を悩んでおられると言うことが私には、理解できていませんでした。
また、yurin様ご自身の日常生活や、日々感じておられること、悩みなどの詳細を知っているわけでもなく、専門的知識もないのに、無神経な発言をしてしまいました。
ごめんなさい。
自分は、思い込みが激しく、その誤った思い込みで他人のことを断定してしまいがちです。
自分では、良かれと思い、言ったりしたことが、「大きなお世話」「迷惑」「何か、変な人」という反応で返ってきて、自分も嫌な思いをしてきているのですが、中々、懲りないというか、治らないです。
申し訳ありませんでした。
私も人間関係は失敗ばかりで、今現在も失敗進行中です。
失敗して改めて、事の大きさを知っては後悔の繰り返しです。
思いこみと衝動的発言で、友達は減る一方ですが、
反面、『人からは中途半端に好かれるよりは、嫌われたほうがいい』とも考えてもいます。
自己を振りかえって。
この書きこみをした頃を今振り返ると、自分自身の中で
『普通にしがみつく自分』と、『本来の自分を受け入れて認めてあげようとする自分』がそれぞれ葛藤しながらぶつかり合っていたんじゃないか、と思います。
今改めて自分の書いた文章を読むと、先生が指摘されているようにすごく感情的になってるし、
実は自分も、自分の辛さしか見えていなかったことに気が付かされました。
それがいいとか悪いというよりも、人間誰でもある意味似たようなもので、相手を責めたとき、結局自分をも責めることになっている。皮肉な話だけれどそれが真実なのかもしれません。
さて、今やっと私は『普通にしがみつく自分』と『本来の自分を受け入れて認めてあげようとする自分』がそれぞれ折り合いをつけているように感じています。
『どちらの自分を受け入れるほうが、これから自然に自分らしく生きていけるか』ということが一番大事と思うので、私は本来の自分のまま生きていくことを決めました。この道も思ったより大変そうです。だけど本当に一つ一つ問題をクリアしながら、本来の自分ができることで、社会に貢献していくことを最終目的にしようと考えています。
コメントありがとうございます。
ミリ様
「言葉の理解」と「状況理解」のコーチングを適用するようなすれ違いですが、特に「遠まわしな言い方」に見える表現には気をつけましょう。はっきり言うことに迷っていたことによって、結果的に多数派の遠まわしな表現に似た表現になったというのが私の印象です。
yurin様
腹が立つのは普通になろうとしているからです。
偏屈ですから、失敗するのも当たり前で、友達もたくさんは出来なくてもともとです。あなたを理解する人は少数でも必ず居ますから、思い切って偏屈の道を歩みましょう。
ADHDらしく、あいまいな表現は少なくしましょうね。
コメントありがとうございました。
>ADHDらしく、あいまいな表現は少なくしましょうね。
これも、普通になろうと努力してきた悲しい結果、と言えるかもしれません。
至るところに、まだこういう部分が残っているのは、自分でも悔しい限りですが、子どもの頃から親や周囲は私に「普通」であることを望んでいたから、真面目にそれに応えていただけ、というだけです。
またその結果の失敗も数多く、できないことを無理してやろうとしたけどやっぱりできなくて更に落ち込むということも多く、もともとのADHDでいるよりも更に余分の被害までこうむり、全くもって大変な人生だったと思えます。親は良かれと思って私を普通にしようと『頑張った』ようですが、これこそ無駄な努力だったんじゃないかと思います。もちろん他の部分で親に逆らうつもりはないですが、この点だけは多いに反論したい気持ちであります。
そんな私の経験から言えることは
『発達障害はありのままが、一番害が少ない』ということでしょう。
子どもが発達障害なら、無理に普通に近付ける必要は殆どないし、それほど無意味なことはないといえるでしょう。
>はっきり言うことに迷っていたことによって、結果的に多数派の遠まわしな表現に似た表現になったというのが私の印象です。
そうですね。もっと、すっきりとした言葉で言えたはずですが、わかりにくい文章になっています。
ところで、状況理解については、私が不思議に思うのは、同じ場所に他の人が存在しなくても、
例えば、ある上司のデスクの前で、私の言ったことに対して、困ったような反応が返ってきて、「これは、こうだ」ということを言われたとしますが、
別の場所で、違う人に対して、同じ発言を私がしても、同じような反応と返答が返ってくることが、しばしばあります。
他の多くの人が、常識として、共通に理解し、判断できることがわかっていないことが私には、多いようです。
「遠まわし」と言うことに関しては、例えば、周囲の多くの人が、「この件に関しては、これ以上は、問題としてあげないで、そっとしておこう」と判断できるものを、
「あれは、どうするのか?」としつこく突っ込んだりします。
それで、相手に、困惑されて、初めて、このことは、ほっておくべきことであったということがわかることが多いです。
>ただ原因となった上のやり取りは「言葉のすれ違い」なので、冷静に考えて整理しておきましょう。
今やっと、一連のやりとりを『冷静に』振り返ることができたように思います。
つまり最初の書きこみを『私は言葉通りに』受け止めてしまった・・・ということでしょうか。
本当は言葉以外の別の意図(気持ち)があったんでしょうね。そこを私はわかっていなかった。
そして最初の私の書きこみもどこかすっきりしない『曖昧な表現』になっていて、これも誤解の元ですね。
原因はこれだけではないけど、やっと真相解明できたような気持ちです。・・・まさに天然ボケです。
こんなだから、きっと実生活でも気がついていないこと、
読みを外している場面が、すごくあるんだろうなと思います。
自己レスです。
>恐らく周囲には『変わった人』とか『天然ボケの人』という印象を与えている
・・・と、以前書きましたが、冷静に考えたらどうだろう?
非常に『天然ボケ』な私に対して、他の人が苦情を言わないとしたら、多数派流の『対立を避ける』にある意味救われているのかもしれません。
『わざわざ対立してまで、文句を言わなくてもいい』みたいに。
そしてこれは、私が他の人から見て(あくまで多数派流で)『立場的に上』と思われていることも無関係ではないでしょう。なぜなら小学校、幼稚園では殆どの親からしたら私は『年上』ですから。
多数派の考える『立場が上、下』というのは、実はこんなレベルなのかもしれないですね。もちろん私からしたら『そんな程度?』の話ですが。
もしも私がもっと若い新米ママで、今のようなら周囲の態度はもっと違っているんではないかと思います。
・・・・・
私達はなんにせよ『言葉で言われないと』気がつけません。だからどういう形であれ『言葉で伝えてくれる』ことはやはりありがたいことなんだと思います。書き方はまずかったですが『言ってくれるのはまだマシ』という考え方は今もおなじです。
ただ、伝え方に気をつけて、とは言いたいですけど。