私は偏屈者宣言を出した後は「普通になる」ことは断念した。しかし実は「人がどうでも良くなった」わけではない。実はADHDのACを卒業した今でも「人に理解されたい」強い衝動は残っている。
「これとASにみられる人への「愛着または執着」の違いを考えてみた。
ADHDのACが求めるのは、「話を聞いてもらうこと」である。相手が自分を好きかどうか、相手が自分を必要としているかどうかではない。求めているのは「理解されること」であり、よくよく見ると実は人による「評価」でさえない。
対してASの「愛着または執着」には、「この相手で無ければならない」というかけがえの無さがあり、また自分本位ではあるが「相手は自分にとって必要」であり、また「相手も自分を同じように愛着または執着することを求める」という特徴がある。そういう意味では「愛情」に形式が似ている。
ADHDのACか受動型ASかを考えるとき、ポイントは「人への愛着または執着」があるかどうかだ。ADHDのACも人を求めるところはあるが、それは「理解」「話を聞いてもらうこと」であり、自分本位であるが愛情に似ているASの「愛着」とははっきり区別できる。
http://www.geocities.jp/yanbaru5555/acwithadhd.htm
愛着、執着、理解についてですが、自分の場合は、どうかということで、考えてみました。
ADHDについては、「理解は求める」ということで、「相手が自分を好きかどうか」「相手が自分を必要としているかどうか」ではないということですが、
私の場合は、つい、先日も、職場では、上司が後輩にお菓子をあげたということだけで、軽い嫉妬を覚えましたし(その上司に恋愛感情を抱いているわけではない)、
例えば、猫が、自分以外の家族に一番なつくという現象に遭遇したときも、自分に一番なついてほしいという感情を抱きました。
ということで、ADHDでもACの部分が強い場合は、愛着の有無では、区別し難いのでは?と思ったのですが。。
それとも、自分は、ADHDではないのかもしれないなと思いました。
難しいですね・・・。
自分はどうだろう、と考えてみると、
相手がどんな人であれ、
『その人』と付き合う、というより、
趣味の合う話をする、という感覚。
基本的に話をして楽しければ、それでいい。
自分をよく理解してくれたら嬉しい、
そんな感覚かな、と。
でも決して人をないがしろにしてるわけではなくて
(と、自分では思ってる)
付き合いはなくなっても、20年近く前に付き合っていた人のことを憶えていて
『そういえばあの人どうしているだろう?』と
突然思い出すことがあります。
(でも特別逢いたい、というほどではない。)
私は人間関係で後悔が多いといういうのもあると
思いますが、もうひとつ、
『現実の付き合いは終わっても、自分の中での関係は終わっていない』ということなのかなと思ったりもします。
・・・なんだか、すこし自己弁護のような文章になってしまいました。自分自身、年賀状や手紙の返事をなかなか出せなくて、人に対してややいい加減かな、と思うところがあるので。
私の感覚は少数派の中でもより少数派かもしれないので、診断基準作りには全く参考にならないでしょうから、無視していただいて結構なのですが、こんな例外もあるという意味でちょっと書かせていただきます。
私と他者との関わりを一言で表現すると「人間大好き・人嫌い」なのです。この一見矛盾する要素が不思議と自分の中では調和しています。
「人間大好き」の方は特定の誰かではなく、人間全体がほんわかと好きだという状態で、「人嫌い」の方は人と長く密度濃く関わると自分の「マイペース」を保つことが難しくなるために「あっさりとドライに」関わる、「人の大勢集まる場所はできるだけ避ける」などの傾向が出てきます。
つまり私にとって何よりも重要なのは「マイペース」をいかに保てるか、「心の自由」がいかに保てるかということのようです。又、他者に対して持っている感覚としては「自分に愛着を持ってほしい」という気持ちや「自分を理解してほしい」という気持ちは極端に少なく、自分の方が「人間全体をほんわかと好き」なんだからそれでOK大満足という感じが強いです。
コメントありがとうございます。いろいろな立場からの率直な表現はお互いに理解を深めるのに実に有効です。
ミリ様
そう言えば私も小学校時代に弟になついている猫をいじめたことがありました。ACが強い場合は表面上似ていて難しいですね。
ただ「ACの場合は猫にも分かって欲しい」という感じもします。自分が分かってもらう(受け止めてもらう、認知してもらう)ことが大事で、相手の問題ではない感じが私の場合はADHDだと思います。
yurin様
ASの場合の、「支配か服従か」のような非常に近い私が愛着と呼ぶ関係とはかなり違いますね。手紙の返事を書かないことと人への興味が無いことは必ずしも関係は無いので心配は要りません。
黒すりごま様
大いに参考にさせていただきます。私の考えではあなたの「人間大好き・人嫌い」は例外などではなく、むしろ(孤立型)ASの方のスタンダードに近いのではないかと考えています。積極奇異の人のような支配や服従も辞さない激しい愛着もありますが、人嫌いでありながらどうしようもなく人間が好きというところが、私が「人に近づきたい衝動を持った自閉症」と表現しているものに近いように思います。
コメントありがとうございました。
http://www.geocities.jp/yanbaru5555/ASspirit3.htm
こんにちは。
今回のお話にもびっくりです。「ADHDのAC」傾向の強かった中学、高校時代、「身の回りには誰も自分を理解してくれる人がいないが、どこかにはきっといる」と信じていました。「あの人に理解してもらいたい」ではなく、「誰かに理解してもらいたい」だったところが、ADHDなゆえんですねえ…。
また、人に「話し相手をノートにしているだろう」といわれたことがあります。わざとではないのですが、思いついたことを相手にどんどん話し、その過程で自分の考えがまとまって勝手にスッキリしたり。むりやり傾聴させるとでもいいましょうか。逆に誰かの愚痴を聞く場合も、どんどん質問を投げかけて状況を整理して合理的な対処法をまとめてしまうため、不満そうな顔をされることがあります(特に相手が「共感」を求める女性だったりする場合)。
こんなに「心のキャッチボール」ができないくせに、でも寂しがりなんですよねえ。。。
こんにちは。
みなさんのコメントは、それぞれの心情が直接的に伝わってきて、いいですね。
YANBARUドクター様
>「ACの場合は猫にも分かって欲しい」という感じもします。自分が分かってもらう(受け止めてもらう、
>認知してもらう)ことが大事で、相手の問題ではない感じが私の場合はADHDだと思います。
とても興味深い表現です。
認知してもらうという事だけが大事ということは、相手は誰でもよいと言うこと
なのでしょうか?認知してもらいたい内容は重要ではないのでしょうか?
そうすると確かに相手の問題ではなくなります。
「ACの場合は猫にも分かって欲しい」という文章を読むと
猫に「何を」わかったほしいのかと、私の場合は「何を」が重要視されるようです。
結果、相手に「何を」理解してほしいかが最終目的で、理解できるか否かは
相手の問題になります。
いずみん様
>「あの人に理解してもらいたい」ではなく、「誰かに理解してもらいたい」だったところが
>ADHDなゆえんですねえ…。
上記の文章を書いている間に、いずみん様のコメントが書き込まれました。
納得しました。対象は特定の人ではないんですね。
この場合、理解してもらえたかどうかの確認は不要なのですか?
>どんどん質問を投げかけて状況を整理して合理的な対処法をまとめてしまうため、
>不満そうな顔をされることがあります(特に相手が「共感」を求める女性だったりする場合)。
なるほど、と思います。私の場合は、そのように直接的に質問されたほうが、わかりやすくて楽です。
(合理的・機能的だと思います)
YANBARUドクター様も書かれているように、ASがADHDとは楽に時を過ごせる(ストレスを受けない)
理由がなんとなく理解できてきました。
これは、今回のテーマについての考察です。
今回のテーマは ADHDのACか受動型ASかを考えるときのポイント についてで
そのキーワードが、「愛着または執着」と「理解されること」だと思うのですが
少し前に戻って、言葉の定義付けを再確認してみました。
ADHDのAC から抜粋すると
http://www.geocities.jp/yanbaru5555/adhdac2.htm
>発達障害のADHDを持ちながら、家庭環境などの二次障害としてACとなっている人が
>少なからず居る可能性がある。典型的なADHDにも見えない。典型的なACにも見えない。
との記述があるので、「ADHDのAC」の「AC」の部分=二次障害と読み取れます。
対して、「受動型アスペルガー症候群」は二次障害ではないので、「ADHDのAC」と、
「受動型AS」を直接的に比較対象にすると、自己判断が難しくなるのではと、感じます。
(要約すると、二次障害をはずした状態での直接的比較にしておかないと、
そのバリエーションの多様さから、選択する事が困難になる)
ADHDとアスペルガー症候群との比較
http://www.geocities.jp/yanbaru5555/adhdvsas.htm
は、私にはわかりやすく感じるのですが、この表に、二次障害を加えてしまうと
全体の意味するところが伝わりにくくなり、図として成立しなくなってしまうのでは
ないでしょうか。私にはこの表のようなものが、最初の段階の自己診断基準として
理解されやすいと思います。
私はもう一度、全体を読み直してみようと思います。
コメントありがとうございました。
ASの孤立型ですか。なるほどと納得いたしました。
ここ数日参加させていただいて大変勉強になりました。
しばらくマイペース充電のため、コメントをお休みさせていただきます。
充実した診断・コーチングガイドが出来上がることをお祈りしております。
YANBARU先生、コメントをありがとうございます。
また、皆様のコメントを拝見させていただき、人それぞれの考え方を知ることができて、良かったです。
私の場合、相手に自分をどう扱ってもらえるかが大事で、その相手自体には、あまり関係がない。
その相手でなければというかけがえのなさもない。ということで、先生の言われている愛着には、該当しないなというこ
とは、わかりました。
先に述べました私の「猫に一番なついて欲しい」というような思いは、理解を求めるというより、もっと子供っぽい感情で、これは、ACが強いせいかなと思います。
でも、自分が理解を求めていないかと言ったら、そうではなく、理解はされたいです。
なのに、中々、話が通じない、また、人の言っていることが、すぐ理解できないことが多いというのは、しんどいことです。
確たる自分というものを持てたら、たとえ少数派に属していても、自分自身は、楽になれるだろうなと思うのですが、自分というものがなく、自分でも自分が何を言いたいのか、何がしたいのかわからないことも多く困った状態です。
ALIVEさま
コメントありがとうございます。自分の述べたことに関心を持っていただき、大変嬉しいです。
>この場合、理解してもらえたかどうかの確認は不要なのですか?
今からみると、当時自分が求めていた「理解」とは、おそらく「同じ思いをしている人との共感」であったと思われます。当時自分はAC傾向が強く、孤立感を深めていました。
その後、考察を重ねたり、またいろいろな人と出会う中で、自分にとって必要な「理解」とは、「受容」と「分析」であると思い至るようになりました。
ということで、現在は上記のようなイミでわたしを「理解している」人がわりと周りにいるため、辛さを感じることはあまりないです。理解さえしてもらえれば、その相手が自分を「好き」かどうか、相手が自分を必要としているかどうか、などはまったく気になりません。
…お答えになりましたでしょうか??
ちなみに夫については、自分のことを「最も理解している人」であり、またそのことによりそばにいて一番居心地のよい人である、という認識をしていて、「そんな人めったにいない、だから大切にしよう」と思っています。ASの方、あるいは多数派の方から見たら「なんてやつだ」と言われそうですが。
コメントありがとうございます。
いずみん様
多数派は、状況から「ここは解決方法を考えるのではなく気持ちのほうを聞いて欲しい」と察しなさいということを当たり前に要求しますが、私は「そうして欲しいならそう言葉で言ってください」という立場です。
目が不自由な人に対して「見えないのはあなたが悪い」「見えるようになれ」というのと同じで、お互いの脳の働きの違いへの理解さえ成立すれば無理解に基づくすれ違いは減らせると私は思います。
「心のキャッチボール」は、そのまま言葉にして立派に出来ます。
ALIVE様
理解してもらう「内容」というのは、結局「自分自身のこと」ですね。ADHDは「自分のことを全て理解される」ことは求めていない気がします。「ただ話を聞こうとする意志、姿勢さえあればそれで十分理解ということになる」というのがADHD的な理解を求める心情であると私は思います。
もうひとつの点ですが、確かに二次障害が混じっていて分かりにくいですが、自己診断を考えるその瞬間には二次障害であるかどうかはまだ分からないので、実践的には、最初の自己診断ガイドは「見えている今の自分の自覚症状」で考える必要があります。ADHDのACの難しさはここにあります。
黒すりごま様
これから自己コーチングガイドの作成に移りますので、また実践的なコメントをお願いいたします。
ミリ様
自分の脳の働きをできるだけ客観的に(子供の頃の情報なども参考に)自分で理解することを続けていけば、あなたの「自分」は必ず分かります。もうひとつ、「好きなことに熱中」してみましょう。違う世界が見えてくるはずです。
再びいずみん様
私はカミさんに同じことを言っています。「ADHDは人を必要としない」ことはどうしようもない事実ですから。
「ただ今はあなたと一緒にいたいとその瞬間その瞬間思い続けているから私はここに居るということで不足か?」と私の場合は居直っています。
コメントありがとうございました。この場所で非常にハイレベルの異文化相互理解のプロセスが進んでいて私もびっくりです。
http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/
いずみん様、こんにちは。
>その後、考察を重ねたり、またいろいろな人と出会う中で、自分にとって必要な「理解」とは
>「受容」と「分析」であると思い至るようになりました。
いずみん様は、苦しみながらも、しっかりと自己を観察したのですね。
「理解」とは、「受容」と「分析」であるという表現は、とてもわかりやすいです。
「理解」という表現の輪郭がだんだんとはっきりしてきました。
「受容」と「分析」、じっくりと観察してみます。
それで、観察してみました。
「理解」は独立したものではなく、「受容」と「分析」が含まれて成立する。
そして「理解」のはじまりは、自分自身からである。
「理解」は最初から大きなものではなく、最初は水滴のようにはかないもので
あるが、「受容」と「分析」を学びながら、やがて川を流れる一群の水となり
さらに学びながら、海のようなになる。
私は、あきらめてはならない、ということです。
>ちなみに夫については、自分のことを「最も理解している人」であり、またそのことによりそばにいて
>一番居心地のよい人である、という認識をしていて、「そんな人めったにいない、だから大切にしよう」
>と思っています。ASの方、あるいは多数派の方から見たら「なんてやつだ」と言われそうですが。
いえいえ「最も理解している人」がいて、居心地がよい人であるのならば、大切にするのは
ごく自然なことだとおもいます。
私は、誰かが幸せである姿を見る、あるいは誰かが幸せであることを知ると、うれしいです。
今回は、「理解」にしろ、他のことにしろ、それぞれの段階があって、一気に成立するものでは
ないという事を教えていただきました。
回答どうもありがとうございました。
YANBARUドクター様
>理解してもらう「内容」というのは、結局「自分自身のこと」ですね。ADHDは「自分のことを全て
>理解される」ことは求めていない気がします。
ASである私の認識では、「中途半端な理解=理解ではない・状況により逆に危険でさえある。」と
被害妄想的思考パターンが発動します。どうも世界を0か1で見てしまうようです。
せめて小数点を付け加えられるぐらいの「受容」を学ぶ事の重要性を、いずみん様の回答や
YANBARUドクター様の回答から学べました。
ASの場合、常に他者が存在しており(いやでも何かしらの形式で、他者の存在を感じてしまう)
カミングアウトにしろ他の会話にしろ、結果は相手次第(相手の問題)であり、その後の相手の
反応が予想の範囲を超えていると、対応しきれなくなります。この点がやっかいです。
もしかしたら理解のまえに、知ってもらうといった感じで、多数派に接したほうがいいのかな
とも、思いはじめました。(理解へ向けての最初のスッテプとして)
>自己診断を考えるその瞬間には二次障害であるかどうかはまだ分からないので
>最初の自己診断ガイドは「見えている今の自分の自覚症状」で考える必要があります。
まさにそのとおりでした。途中であわてず、じっくりと腰をすえて取り組みます。
どうもありがとうございます。
(その1)
先生から「これから自己コーチングガイドの作成に移りますので、また実践的なコメントをお願いいたします。」とのコメントを頂きましたので、もう1回だけコメントをしてからお休みすることにいたします。
コメントをお休みすることにした理由は2つで
1.私の脳も娘と同様で、情報処理を多くすると疲労してく るのでこういう場に長く参加するのは無理があるという
自閉症的脳の弱さのため
2.私と娘が今までやってきたオリジナルの認知行動療法は
かなりマニアックであり、人にお勧めできるものではな いからコーチングガイドの役には立たないと思ったため
(それから実際何をやったかもあまり覚えていない)
なのですが、実はたった一つだけお話したいことがあります。(続く)
(その2)
それは「脱力」の効用です。これはどんなに強調しても、し過ぎることはないと思っています。
発達障害や精神障害があるにしろ、ないにしろ、人間が生きづらさを感じたり、落ち込んだり、という「嫌な気分」になっている時には必ず体に力が入っています。また一見楽しいとかうれしい気分の時でもその度合いが強くて「はしゃぎ」や「舞い上がり」になっている時には力が入っています。
この「力」が曲者です。「体に力が入っている→脳が興奮している→精神状態が不安定になる」「体が脱力している→脳が静まっている→精神状態が安定している」という関係があるからです。
そしてこの脱力はトレーニングでいくらでも身につけられます。
先天的にどうしても脱力できない障害というものがあるのだとしたら大変お気の毒だと思いますが、少なくともASで強迫症状もあった娘は脱力を身につけることができました。
ADHDの方も椅子にしばらく腰かけていることができれば
可能なのではないかしらという希望を持っております。
「脱力のトレーニング」は初めはかなりやりにくいのですが、続けたら続けた分だけ効果が出ます。(続く)
(その3)
娘の実例でいいますと(セロトニン系の抗うつ薬と併用)
・人格が劇的に変わる
・ACからの脱却が容易になる
・こだわりがなくなり、脳のギアチェンジが上手になる
・攻撃性や負けず嫌いがなくなり、プラスのエネルギーに転 換される
・多数派の考え方が全くわからなかったのが、わかるように なった(これはもちろん障害の程度にもよると思います
が)
・気持ちが明るくなる
・人間が好きになる
等です。
治療の途中で3年間抗うつ薬を飲まなかった時期がありますが、その時でも脱力のトレーニングをすることで上記のような変化が見られました。
「認知の修正」も非常に大事な要素ですので、これと「脱力」のトレーニングを並行して行うとすばらしい相乗効果があると実感しております。(続く)
(その4)
ACからの脱却を一度経験している方でも体に力が入っていて脳の興奮が高まるとAC的な思考回路が再び登場して、悩まされることがありますが、常に脱力して脳を静めるトレーニングをしているとACから解放された状態を維持できます。
参考までに一般の方がとっつきやすい脱力トレーニングとして「心の体操」というのがあります。http://www.mnh.co.jp/start.asp
娘は認知の修正と脱力トレーニングをした結果、ASに典型的だといわれている「こだわり」などがなくなり、残っている特徴は「情報の取り込み過剰傾向」のみになりました。
こだわりから解放されたことは大変ありがたいことでした。
もう一つだけ付け加えると「食事の大切さ」があげられます。砂糖の多い食事やファーストフードなどの食事をしていると症状が治りにくいことは体験しています。
大変おせっかいなことを書きまして失礼いたしました。こんなことを平気で書いてしまうのがASの孤立型かもしれません。
YANBARU先生がこの文章をチェックなさった結果、コメント欄に載せるのはまずいとお思いでしたら、削除して頂いて結構です。 (完)
コメントありがとうございました。
ALIVE様
発達障害の求める「理解」はADHDもそうですが非常に厳密で、多数派の中での「対立していなければ良い」というあいまいな理解とはかなりかけ離れています。このあたりがすれ違いが起こる大きな背景であろうと私は考えています。
黒すりごま様
役に立つ情報をありがとうございました。「脱力」について早速私も勉強してみましょう。またこのことについて教えてください。
コメントありがとうございました。
先程初めてHPの発達障害自己診断を拝見させて頂き、
リンクしてこちらにコメントさせて頂いております。
遅れたコメントですみませんが失礼致します。
私は、ASもADHD(のAC)も可能性があると自覚していました。
以前自閉症スペクトラム指数(確か33点以上だと自閉症の疑いがある)の自己診断をしたら25点でした。ただ、普通の健常者の平均指数は18点とのことで、やはり標準よりは自閉症傾向があることは指数上でも確認できました。
「愛着または執着」と「理解」ですが、
確かに私も、「特定の人に対する愛着(または執着)の念」というものがあります。ちなみにそれは、自分の場合は恋愛に関してのみだと認識してます。
しかし、恋愛を除いた人に対する心情は、「自分が感知する全ての人」に「自分の存在に対し合格点をもらいたい」というものなのです。「理解してもらう」という漠然とした感覚以上に、相手に心理(心情)的なレベルからOKをもらいたい、といった願望がかなり強いのです。それが全ての人に対してです。
これは発達障害の域を超えているのでしょうか?
私は、依存性人格障害に該当する人格でも生活上いじめを始め支障をきたしております。
上記からすると、発達障害は無くAC+人格障害ということになってくる可能性が強いということなのでしょうか。
もしこのコメントを読まれましたら、教えて頂けませんでしょうか。遅れはせながらお手数おかけ致します。宜しくお願い致します。
このスレッド、見落としてました!
まさに、ジャイアンACの私と、AS援助職の関係です!私は「理解」される事を非常に強く求め、
(具体的に言うと、彼が診断書をあれこれ読んでいると嬉しかった)
彼は、「私自身」が「彼の言うなりになること」を激しく求めました!!
(ちなみにAS父は、「理解」もしませんが「言うなりになること」は諦めてるみたいです・・・私、我が強いので。)
この記事のコメント欄で、以前使用していたハンドルネーム「黒すりごま」で、たくさんのコメントを残していますが、今読んでみると、「あー、やだやだ、お節介ぽくて」などと感じてしまいます。
後、自分のことを「人間大好き、人嫌い」と表現していますが、「あの頃は若かったんだなあ」と思いました。
現在はもっと年を取って、くたびれてきていて、よれよれな感じなので、「人間大好き」などと言う元気がなくなってしまいました。加齢というのは、こんなものかもしれません。
今、言えることがあるとすれば、「自分がのびのびとマイペースでいられる環境には愛着を感じる」という感じかもしれません。
そして私が無理なくマイペースでいられる環境では、裏に周囲の人々の「この人はマイペースが好きなんだ」という「理解」があるのだろうと感じて、有難く思います。