さて自己コーチング②で「己を知る」というプロセスをある程度経た後で、再び「どこを目指すか」という実践的な選択の場面となった。
特にASの場合、積極奇異型の人はどんなに辛くても病気になってでも人間たちの中心を志向する。受動型の人は一人になれない。孤立型の人は逆にその繊細さゆえに生きる場所が限られてくる。
ADHDも、表面上は外交的に見えながら実は偏屈な人種であるので、「普通をどこまで目標とするか」の目安を定めなくてはならない。
ここで再び「発達障害の真実」を確認する。
「発達障害は本来自分に正直に生きるしかない」
「多数派に合わせようとすればするほど病気になる」
「多数派に合わせようとして報われなかったときのダメージは非常に大きい」
「一番周囲への害が少ないのは偏屈の線である」
後は各自、自分の人生について考えよう。
「自閉的にひっそりと自分に極力正直に生きる」自閉的な生き方も良し。
「可能な限り普通に生きて、そのためのストレスは薬物療法やコーチングでクリアしていく」という生き方も良し。
その生き方の大筋を本人が決めた後に、周囲のサポートの基本方針が見えてくる。http://www.geocities.jp/yanbaru5555/adaptation.htm
こんにちは。
自分で自分の生き方を決めるって、わくわくどきどきしますね。
自分の資質にあわせて生きるか、普通をめざして生きるか。
どちらにも自由はあるし、困難もある。
しかしAS的には自分で納得して決めたという事で、一歩進めそうな感じです。
自分の能力が及ばず、職場での職責を果たせていないような場合、周囲に迷惑をかけ、自分も多大なストレスがかかりますが、
それで、人間の価値が決まるわけではなく、ただ、「その場所での役割が果たせていない」だけなのだと、思いました。
だから、変に自己卑下する必要もなく、また、周囲もそれは求めていない、実際に、どうするかだと思いました。
私としては、ストレスがかかろうと、普通に生きる道を探ってみたく思います。
「普通、時々、偏屈」もいいかなと思います。
今日、小学校の役員の仕事が、今日一段落つきました。
次は来年度の部長等を決める運びとなりました。
誰かが立候補してくれるといいのですが、まずいないと予想されます。
おそらく『くじ引き』で決めることになりそうです。
さてこのくじ引きには『ルール』があります。
最大のルールは
『もしも部長等を引き当てたら原則として辞退はできない』。
部長等を辞退したければ、くじ引きそのものを辞退しなければならなく、またその理由も『役員過半数以上の同意』が必要である。
私は、またここで選択を迫られています。
それは
<1>『事情』を話して理解してもらい、くじ引きを辞退する。
<2>くじ引きに参加し、部長等引きあてたら覚悟を決め、1年間役割を果たす。
何故なら私は『状況が読めない』から、人をまとめてひとつの仕事を運ぶなんてことは至難の技。さらに『偏屈』であるゆえ、部員の反感を買うことも予想される。自分としては<1>を選びたいがこれには、部員の過半数の『理解(合意)』を得ないといけない。
現実的に考えると<2>を選ばざるを得ないでしょう。
こうして実際の生活の場ではやはり、ADHDを持ちながら『可能な限る普通に生きる』のは、やはりたくさんの困難があり壁があることを実感する。また、周囲の人の多くが『自分を異質として見ている』ことも、よく観察しているとわかる。
でも、それでも自分でそうと決めたのだから、なにがあっても、どんなときも、最善を尽くすしかない。
他の方のコメントに対するコメントは『無し』という事なので、私のPTA役員活動について書きたいと思います。(選択した生き方の一つです)
私は定時制高校・夜間部の副会長を3年間務めています。ADHDの息子は入学して間もなく休学したので、3年間生徒不在の役員活動をしている事になります。
役員を承諾した最大の理由は《この機会に発達障害を先生方や父兄の方に知ってもらおう!》という思いが強かったからです。この学校はヘアスタイルが自由・制服がなく服装も自由という事で《個性を尊重してくれる学校》という印象を受けたので、私自身が制服やヘアスタイルの事で先生方との意見の食違いで衝突する事が無いというのも理由の一つです。息子が中学生の頃、制服やヘアスタイルで先生方と何度も熱いバトルを繰り返した経験があるので。
役員初顔合わせの自己紹介では「息子はADHDという発達障害です。(その特徴・長所・短所を説明)二次障害から怠学と呼ばれる不登校や非行行為を繰り返しています。…」(内容を全て書くと長文になるので省略)その後最大の理由を熱く語りました。
月一回の《授業参観・校内外巡視活動(ゴミ拾いしながら)》の活動報告時にもよく発達障害を話題に上げます。
また、年間二回午前部・夜間部・通信部合同で《家庭支援会議》が行われます。それぞれの部の教頭・生徒指導・民生委員・警察・PTA役員etc.が参加し、学校や地域、県や全国的な青少年問題を取り上げ、その対応・対策等を話し合いますが、その場でも問題の内容によっては「発達障害が起因している事も頭に置いて欲しいです」と発言します。
小学校の役員は2年間務めましたが高校のPTA活動同様に、発達障害に対する理解の輪を広げる目的で、度々、話題に上げました。
仕事の都合でなかなか参加できなかった学級懇談会が近々あるので、その場でも発達障害を話題にあげる事でしょう。
理由は只一つ、発達障害を一人でも多くの方に伝える為に。
余談ですが、私は携帯からの閲覧・コメント書き込みをしているのですが、書き込み途中に電話が掛かって来たり、間違えてoffボタンを押してしまうとブログの画面は消えてしまい、書き込みも最初からやり直しになります。ちなみに、このコメントは午前中から5回目くらいの書き込みになりました。今電話が掛かって来ません様に!
PTA役員の話が続いているので便乗します。
この後の記事の『ADHDの可能性』のところで、各項目自分にあてはめてながら、今度は『ADHDによる困難ではなく良い意味での自己理解』をしてみました。
結果『私という人間(キャラクター)は、仕切られる立場より仕切る立場のほうが向いている』と思いました。
私が在籍している広報部は『大変』『集まりが多い』などの理由から敬遠されます。つまり『誰もやりたがらない』。
だから、私がこの広報部を仕切り『誰でも活動に参加しやすい広報部』にできるよう考えてみようと思いつきました。集まる回数も今の『週1回』をできれば隔週くらいに減らす。仕事を持ってる人も、働き方に合わせて活動に参加できるようにする。終了時間の12時を極力守る。文章が苦手でも写真が撮れなくても参加できる場所(活動)を作る・・・など考えていたら楽しくて仕方なくなりました。
もちろん『私がやります!』と言っても皆から断られるかもしれませんが。
こんにちは。
今までのコーチングを再度読み直して、自分の「原点」はASであり、その資質は
自閉症である事を知ることができたかなと思います。自己整理ができました。
これで何か困難があった場合、一度、自身の原点に戻り、考え直すこともできる
かなと、思います。発達障害の有無にかかわらず、自分の原点を知っておくことは
生き辛さを軽減するために必要です。
どちらにしろ「世間体」という怪物とは対峙しなければならないので、混乱したときに
回復するための原点として、この自己コーチングを有効利用しようと思います。
(私の場合、さらに現実的なコーチング・サポート+薬物療法が必要ですが、物理的な
時間が限られているので、この自己コーチングで、それらを補う感覚で利用。)
大事なことは他者がどのようであれ、「自分はどうするか」であるという事を
再確認できたと思います。
自己レス。
>もちろん『私がやります!』と言っても皆から断られるかもしれませんが。
後先考えず、見切り発車で先ほど部長を引きうけました。
断られるどころか逆に『ありがとう』とまで言われてしまい、予想外の展開に拍子抜けでした。
・・・『こんなものなのかー』、と思いました。
コメントありがとうございました。
ALIVE様
「世間体」という怪物は確かに大変な相手ですね。私はADHDとして、「はだかの王様の最後に出てくる子供」として本当のことを言い続けて戦っていこうと考えています。
「偏屈で悪いか」というくらいで行きたいですね。
yurin様
引き受けておいて、徹底的に偏屈で突き通してみて、辞めさせられるまで自分の思うとおりにやってみるという方法も「あり」ですね。
「私を選んだからには選んだほうにも責任を取ってもらいます」という考え方でいいと思います。
それにしても「くじ引き」とは責任をあいまいにしたい多数派の最も「悪しき風習」ですね。
コメントありがとうございました。
先生お元気でしょうか。
とりあえず自己診断も終わったしコーチングもしたので一区切りつけさせていただきます。行ってるクリニックではNOSのままですが。ここではのび太でいいだろうと。
自分のイメージはクエーサーでした。宇宙のはじっこで今も離れ続けているあれです。暖かい感じですよ。
クエーサーがいるじゃないかという・・。
気持ちは分からないけど、人にはばれているからいいかな。多数派の人は人の顔を見て「今こう考えてる」と実況中継出来ますよね。ばれているから生きていけると思う。(同居ジャイアンも大体分かるらしいし。)
記事が更新されたらまた来ます。ありがとうございました。
お話してくれた方もありがとう。
全国ののび太のみなさん頑張ってね!
うまくいく必要は無い。人に気持ちを聞いてもいいんだよ。
好きな事なくさないでね。(何しろそれしかないんですよ。)
あああと普遍になりたかったです。
普遍なら誰でもなれると思います。
自己決定権は何よりも大切だけど、人の話も聞きましょう!
気持ちは変わっていくから信じられる。
ひさしぶりにこの記事を読んで、「いいなあ、落ち着くなあ」と思いました。
ここ何年かこのブログを読んで、バカ正直なコメントをしているうちに、このスタイルが当たり前になってしまいました。
かなり潜在意識の深いところまで、このスタイルがしみ込んでいるので、よそ(多数派的な雰囲気の場所)でしゃべると、自分が「正直過ぎて、自閉丸出しで」浮いてしまうような気がしています。
当然の成り行きでしょうから、しかたないことだと納得しています。
でもその分、昔より私は心が解放されている実感はあります。
こうして自分の事を見ていると、自分の、生きるというか、社会においての在り方というか、そのまざまざとした困難さに、改めて唖然とします。
私はいろいろな相談者やサポートの元でトレーニングを重ね、多数派社会に合わせる形で摩擦(ストレス)を少なくする、という方向の努力をしてきました。
私は昔よりも孤独ではないし、昔よりも幸運な環境や状況であるかのようにも感じます。
私の場合、自分の本心が思い出せないのは、「どこを目指すか」という事を考えられていないからなのかもしれません。
これがもしも「実践的な選択」というものならば、私がうっすら思い考える事を、行動という実践にし、そしてまた考えていくという事になるのかもしれないと思っています。
相談員の話になりますが、一部の相談員たちは、「あなたにとっては、この(落ち着いてあまり変動しない)環境や状況が、幸せなのかもね」という発想をするようです。
正直に言って、むかついた気持ちにもなりました。障害者は障害者以上の人間にはなれない、と思われ見られているようにも感じて。(たとえそれが現実であり事実だとしても。)
それに、何が幸せかは私が感じる事でしょ、それはあなた方が出しゃばりすぎる事ではないでしょ、とも思いました。(こう思うのは、それだけ私がACから回復してきたという事かもしれませんね。)
私の担当医は、私の事を冷静に見極めようとしてくださいます。その事が本当にありがたいです。