ゴールデンルールとは聖書の言葉で、「あなたが人にして欲しいことを人にもしなさい」というかなり普遍的な行動原則だ。ただ相手が発達障害の場合は失敗することが多いので、「発達障害と付き合うときにはゴールデンルールは捨てる」ことが必要だ。
その理由は簡単で、「発達障害のして欲しいことと多数派のして欲しいことはかなり違う」からだ。例えば発達障害は自分にかなり不利なことでも、はっきり言葉で言って欲しいと思うので、多数派にもはっきり言って顰蹙を買う。逆に多数派ははっきり言って欲しくないので発達障害から見ると理解困難となる。
昨日のブログで「少数異民族」という表現を使ったが、実際言語や文化が異なるに匹敵する思考と行動パターンの違いが発達障害と多数派の間にはあるということの理解が一番大事なのだ。
「(多数派は)自分がして欲しいからといって発達障害の相手が喜ぶとは限らない」逆に「発達障害も自分がして欲しいと思うことは少数派の価値観なので多数派には応用しない」というお互いの努力が必要だ。
それに替わるルール、方針は、これも簡単で、「相手本人に言葉で聞いてみる」しかなく、「自分にはどんなに当たり前に見えても言葉で説明するしかない」ということである。
私は多数派である妻と話すときもほぼ全会話で多数派の用語法(思考パターン)を発達障害の言葉(思考パターン)に変換(翻訳)して理解し、また変換して発語するということを24時間行っている。
一部のADHDとASの人にはこのことの理解は根本的に困難なので、子供の時から粘りづよく説明を続けるしかない。
http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/
春先まで自分はボーダーラインではないかと、思い、苦しみながら受け入れたんです。。
が、娘のアスペルガー、ADHDという診断(最初は学習障害だと思って医療機関を探した。。)をうけ本を読み漁りました。
ボーダーラインは2次障害であって、幼少からの生きづらさは生来のものなんだと納得しました。
こういった具体的な対処方法は経験の上からも納得できます。ありがとうございます。
私が20才頃までは、このゴールデンルールの通りに実行して、だいたいうまくいっていたような気がします。
私は人にはっきりと何かを言われるのが嫌でした。ささいなことでも、傷つき易かったと思います。だから人にも同じようにはっきりとは言わず、いつも気を使ってものごとを婉曲に言ったり、本心を隠したりして、丸く収めようとしていました。
その結果、人の評価は「優しいけど優柔不断」みたいに思われていたようです。
その後、いろいろと変化し、AC的な感覚から抜け出たら、ゴールデンルールは使わなくなりました。感覚がドライになり、行動がズバッズバッと男性的になりました。あまり「優しい人」ではなくなりました。
以前の私を気に入っていた女友達からは「今までみたいな優しい○○ちゃんでいてほしいな」などという甘ったるい手紙をもらったりして、「わあ~この人とは距離を置くしかない」などと思ってしまいました。
社会適応を捨てたような現在の私は、あまり多数派とは関わっていませんし、翻訳の努力もしていないように思います。
同居の両親は多数派的なところがありますが、ASの私を丸出しにして、時々きついことを言ってしまい、ちょっと悪いなと思いながらもそのままです。相手は年寄りだし、敏感になっているから、あまり傷つけないように気を付けようと思います。
YANBARU先生はそんなご苦労をされていたのですね。
今は楽になられたのですね。よかったです。
「相手本人に言葉で聞いてみる」(互いに、より良い関係を築きたいと考え、相手にとって苦痛な事はしないようにする、という柔軟な発想や対応ができ、ゆっくり時間をかけ、少しずつていねいに相手本人に言葉で聞いてみる、という事)
これを、リアルまたはインターネットで実践している人は、ほとんど見ません。(私だけかもしれませんが…)
特にインターネットでは実践しづらいだろうなぁ、と個人的に思います。
リアルで実践できない人は、インターネットという双方向のツールで、どう距離を保ったり身を処すればいいかわからないからです。
最近は、お手紙(地上配達の郵送)でやり取りするリアル文友さん(複数の障害もちの人)とも、インターネットでの距離が取れてきました。
正直なところ、しあわせな気持ちです。
ささやかな日々を交換しあったり、節度を保った関係になれた事が、こんなにしあわせな事だったなんて、と驚いています。
もう1人の文友さん(画家さん)は、初めからインターネットのやり取りですが、人生で一度もパソコン以外のモバイル機器を触ったことがないという、インターネットの疑似コミュニケーション世界とは縁遠い人なので(←明らかに違うのがよく分かります。即反応を求めない事が自然にできる。100%の理解や完全一致を求めずに、互いの違いを認め、時には楽しむ。空白の時間に身を置く場所は現実世界だけである。などなど)、私が節度を保った関係を保てているのは、彼の現実の日常生活の習慣や、これまで培ってきた日常体験によるところが大きいだろうと思っています。
私は、世の中は感情だけで回っているわけではない事を知った時、衝撃を受けました。
そして、自分のルールに則ったゴールデンルールが通じないという事実(不条理ではない)を知り、正直ショックでしたが、むずかしいけど少しずつ考えよう、知ろう、学ぼうという姿勢を取り続け、今日(こんにち)まで至ります。
私は基本的に「現在のことしか感じることができません」。
だから、私の言葉だけを見れば、矛盾や穴はたくさんあります。
妹は「私に言葉を投げかけて、ひとつずつ少しずつ私の意図を確認する」という姿勢を取ります。
弟は「思考の速度が私と比べて速すぎて、3、4段階も先の話を返してくる(これでも私用に加減しているのが薄々わかる配慮っぷりです)」ので、私は自分の認識をどのあたりに保てばいいのかの調整をその都度しなければならず、弟が手加減しているのがわかっていても、正直接するのが大変です。
「言葉そのものにこだわり、機械のように正確に、誤差なく使用する事を私にも求める」人や、「私よりも思考の速度が何段階も速い(加減しない)」人の言葉は、私にとっては完全に「苦痛」となります。
そして、自分だけの「ゴールデンルール」を一切手放す気のない人に執着された場合、私はその人物について「私に苦痛を与えてくるストーカー」と呼ぶ以外になくなります。
私の、毎日を心健やかにすごしたいというささやかなのぞみは、リアルにおいてもインターネットにおいてもあまり叶いませんが、こういう気持ちが落ちている時や、ひどく混乱している時にインターネットを使用すると、ロクな事にならない事がよくわかっているので、そういう時には幸福な事だけを想像したりします。
(意外にも、ささやかなしあわせの瞬間がリアルにはあるんですよね、これが。)
先生、ありがとうございました。
「言葉(理屈)が、自分の世界の全てを構築する」という人種の人には、私の言葉はさぞや苦痛だろうなと思いました。
私の場合、節度を保った人間関係ができるとしあわせな気持ちになります。きっと、愛着以外の人ともおだやかに関わっていたいのだと思います。
自分の生活を充実させる事よりも、節度を保った人間関係を取る私は、どちらかというと孤立型というよりかは積極奇異型だと思っています。
先生、「孤立型」については大体よくわかりました。
「積極奇異型」「責任」という言葉で、鬱積がありながらも線引きをしようとしているのは、いかにも自己流であり、初歩的に陥りがちな自己中の振り返りだなぁと思いましたが。
たとえ、自分が鬱積を感じる、自分の世界に変化をもたらしてくる「仕切る」人がいなくなっても、おそらく本人の人生の問題自体は解決しないだろうと思われます。
「自分の中に鬱積がある事をシンプルに認め、その事を、その対象人物に言い放つのではなく(※生まれつき想像力の幅の狭い積極奇異型にとっては、高確率でPTSDやトラウマになりますし、問題が一切解決しない上、孤立型にとってもフラストレーションにしかならないと思われます)、言語の相互理解の領域の中でのみ事態を打開しようとする「自己流の方針」を手放し、できれば孤立型自身も確定診断を受け、自分のリアルの実体験を通した中で、自分の振る舞いや冷徹な論理などが「相手をこわさない程度になるまで自分のコントロールをリアルの現実で学ぶ事」」が望ましいと、勝手ながら思っています。
一番わかりやすいのは、今年大ヒットした映画「アナ雪」を最後まで見るとよろしいかと思われます。
まあ孤立型の重度の人は、リアルでの自分のコントロールが困難すぎるのが、少しだけ想像できるような気がしますが。
ちなみに私が遭遇したマルチ商法にハマった子は、特徴を総合したところ、孤立型の疑いが上がって来ましたので、少しだけ生態系についての納得がいったところです。
私の人生のPTSDの事を書かせていただき、ありがとうございました。