行く先々で大きなトラブルに巻き込まれる積極奇異型ASの人にその理由を問われて、私は「世間があなたの納得できるような筋が通ったものではないということが根本的な理由だ」と説明した。
最近英文法を説明するテレビ番組があり、興味深く見ていたが、「こういうものなんだ」という説明が出てきて非常にがっかりした。「英語を勉強したくない」という発達障害のケースが多いのは、「意義が分からない」 ということの他に、突き詰めると「アメリカではこうやっているのだ」というような(発達障害には)訳の分からない説明が出て来ることもあるだろう。
私は英語は嫌いだったが、それは、規則を覚えても結局その例外の不規則変化が非常にたくさんあって、最終的には不規則変化を全部覚えるしかなくなることもその理由の一つだった。大学でドイツ語を勉強した時にはじめて「文法」というのが実質的な意味があることが分かった。
昨年末に私はここで、「合理的な思考」と目標にすることを述べてきたが、「世の中自体が不合理に出来ている」ということをどう考えたら良いのか、最近考えている。
「理」たるべき明確な言語的な表現自体が困難なことが現実世界には非常に多い。あらゆる理論は複雑な現実を乱暴に単純化した結果であり、世間の多数派は理論とは全く違う次元で「空気を読み合い」ながら現実のいろいろな意志決定をしている。
「理」は「建前(タテマエ)」ではあったとしても、少なくとも世間の圧倒的多数の現実の行動は「理」だけで決定されることは皆無であり、その意味では発達障害には複雑怪奇、曖昧模糊、不可思議極まりないものになってしまう。
結論から言えば、「合理」だけでは最終的に的中は難しく、夏目漱石流にいえば「角が立つ」ということになる。
では発達障害はどう生きて行けば良いのか?
まだ私自身の結論は出ていないが、今のところ「理を重んじる少数派としての意味はあるだろう」と考えている。
ただこの情け容赦のない「合理性」が自分自身を追い詰めていることも確かであって、それはそれで別の話として考えていかなければならない。
多数派の世の中は積極奇異型AS以外の発達障害にもあまりに不合理が多すぎ、また自分自身の中にも不合理な部分を確かに持っており、それを抱えて生きていかなければならない。
「不合理とどう折り合いをつけるか?」という大問題が残っているのだ。
(まだ居残っています・・・)
この記事にピッタリくるコメントではないかもしれませんが
思い出したことを一つ。
子供が幼稚園に入る前に、私と子供が公園デビューした頃の話です。
社交的なお母さんたちがたくさんいて、集まってはワイワイ楽しそうにおしゃべりをしています。少し離れたところにおとなしそうなお母さんたちがポツポツと子供たちを遊ばせています。
私は社交的なお母さんたちとも話をし、おとなしそうなお母さんたちとも話をして、どちらにもベッタリとはせず、完全にマイペースで動き回っていました。
ある時、社交的なお母さんたちの中心にいるような、にぎやかなAさんが私のところに来て、(その時は他にあまり人がいない時間帯だったのですが)
「黒すりごまさんて、マイペースでうらやましい。私なんていっつも付和雷同で、何だかむなしくて・・・」と話しかけてきたのです。
私はその人は多数派の中でも目立っていて、中心的だったので、その言葉にびっくりしました。
その時、「人間って、本当は誰でもマイペースで行動したい欲求を持っているのかな」とふと感じました。
不合理で動いている世の中の人たちにも心底は「本当の合理性」に常にあこがれている部分はあるのかもしれません。
ただ、さっきの話のオチですが、たくさんのお母さんたちが公園に集まった時には、例のAさんは何事もなかったように、社交的なグループに戻って一生懸命彼らに合わせていましたから、ずっとそのままだろうとは思いましたけどね。
自分の経験からも家族の会話に潜む不合理性に嫌気がさしていたものです。
その点をいちいち突き詰めて指摘すると家庭から会話は消え去りました。こうなると僕以外の家族にとってはとても居心地の悪いものとなったので、その後止めました。
僕は中学国語の文法体系にとても興味を持ちました。
私の経験なので、はなはだ心もとないのですが、「不合理」と思えることの中にも、細分化すれば、対応の目処があるもので、まず物事を大きく把握したら、経験値で追いつく程度に細分化し、対処する優先順位をつけると上手くいきます。
これができるようになった経緯が、ちゃんと思い出せないのですが、とにかく丸ごとだと対応できっこないものが多く、しかし問題に対しては常に「解決したい!(ストレスだから!)」という強い動機があり、自然と中庸を取ったのか、そうできるようになりました。
※
私には、「誰にも頼れない、頼るべきではない、頼ったら崩壊だ」という意識があります。
私はあえて答えを出さなくなってしまいました。
だんだん自己突っ込みをいれているうちに、自分が独りよがりの発想でばく進していることに気がついた(周りから気がつかされた?)からです。
もちろん、過集中のときは「みんなが間違っている」と息巻いて、自分は悪くないと思い込んでいます。でも、そればかりやっていると周りが引いてしまうので、時間が経つにつれて「多数派の考えはどうも違うらしい」と気がつき、自分の合理性はそれはそれで置いといて、「自分は無理だけどそういうものらしい」的なところで、いったん流します。
先に延ばしてとりあえず忘れる試み、みたいな感じです。
(あとですっかり忘れてしまうこともあり、もしかしたらあまり学習されていないかもしれませんが・・・)
あとは、とりあえず「自分は悪くない」とひとりで暴れた挙げ句ではありますが、落ち着いた頃「このように相手に返事をしても問題ないだろうか」というふしのことを第三者に聞くようになりました。
以前、気に入らなければ即断絶の私からすれば、ちょっと前向きな発想かな、と思ったりします。
昨年一度だけ12月にコメントしたさざなみと申します。
先生のHPにある発達障害を疑う自覚症状に関しては、わたしも少しは当てはまる部分があります。
そして、もっとも当てはまるのが12月のコメントと同じ元同僚です。(本来は自己診断ですので、他者に当てはめるのはよくないかもしれませんが・・・すみません)
彼女は先生が書いているように「世間があなたの納得できるような筋が通ったものではない」ということを理解できていないように思えます。
ですから、社内でまさつがおきるたびに、皆が間違っているのであり、私は悪くはない。という態度をして来ていたのです。以前の職場でもそうだったと推察します。
空気が読めない、という人でもあり、学習はせず、日々昨日と今日は本来は「線として」つながっているということを理解できずに、行き当たりばったりの、昨日は昨日
今日は今日という
「点」としてでしか捉えることができていないように思えました。
Sakuraさんが自覚しているような『自分は悪くないと思い込んでいます。でも、そればかりやっていると周りが引いてしまう・・・』
というように周りが『引いている』事にも全く気がつかない人でした。
周りが引いている、というのは非言語なものなので、これを誤って解釈し「自分は一目置かれている」と考えていたようです。
チームワークを要求されるような職場では、彼女のような人は浮いてしまうように思えます。
中学校から高校生の時期に不条理文学と言われるカミュを愛読したことが、個人的には、世界の不合理性を受容する良い訓練になったように思っています。
世の中は不合理に出来ている。その不合理な世の中を受け入れ、ここで生きていかなくてはならない。
また、そういう私自身、完全に合理的な存在となることができず、私の不合理性を受容しつつ克服していかなくてはならない。
世界の不合理と戦いつつ、自分自身の不合理とも戦う、という戦いばかりで、私の人生は成り立っているようなものです。
記事のテーマから外れていないといいのですが・・・。
とてもためになる研修講座を聴いてきました。
フットワークが軽くない私にとって、手の届くところである仕事関係の講座はありがたいのです。
しかし、お話しした教授先生が熱く語ったため、終了時間を20分オーバー。
終了時間15分前から、私はお手洗いに行きたい苦痛と闘っていました。(結果は10分オーバーの時点で中座しましたが。)
ささやかな事例ですが、何故私はあえて苦痛と闘わなくてはならなかったか。
我慢は自分の体にも良くないし、大人の判断で周りの邪魔にならないようにそっと中座することは犯罪でもなんでもない、それでも何故あえて葛藤して悩んでから結論を出すのか。
私だけでなく、多くの私よりも礼儀正しい常識人達がその場の空気を極力乱さないように振る舞うのは、思うに集団社会を作った人間のさがのようなものかもしれませんね。
一般の人達は、いい人であればある程、平和な空気を守ることに全力を尽くします。
そういう善良で穏やかな人達に少しでも認められないと、私も社会の中で生きると決めた発達障害者として、礼を尽くしているとは言えません。
依存的な傾向の人達の罠や誘いから身を守る自主訓練と思えばこそ、真似でもいいからときには意地で努力するのです。
そういう自分こそがアホな鴨だなと、冷静に思うこともあります。
でもできないことはできません。
パソコン仕事を早く正確にするとか、雑談の中に仕事の情報交換をさりげなく混ぜるとか、雪掻き率先してするとか、越えられない限界があります。例え気軽にでも、誰かに指摘されたら終わりが来るような恐さを引きずりながらの生活です。
それでもここに居続けるのが私です。取り繕いにはならないのに、不合理でも無駄に無理しながら、図々しく出勤するのです。
はじめまして、積極奇異ジャイアン系ペンギンです。
今年に入り私がASなのではないかと思い落ち込んでいたら
今、付き合うかどうかというせとぎわの彼もASなのかと思いちょっと質問させてください。
ASで、形式ばった大仰な群☆大仰な群 というカテゴリーがあるらしいのですが、もしこの私たちが付き合ったら
うまくいくのか知りたいです。
。 人付き合いのルールに、厳格にこだわり マニュアル的対応。
特に、実際とメールも裏表がなくかたいが性格は頑固。
お時間があるとき 形式ばった大仰な群をとりあげてください。
ADHDの方の場合はタイプが違うので、「不合理との折り合いのつけ方」もまるで違うと思いますが、ASの場合は「かたくて、まじめで、こだわりが強い」という傾向があるので、不合理と折り合いをつけるには、「しなやかさ」「融通がきくようになる」という部分のトレーニングが有効だと感じてきました。
もちろん不合理をすべて認めるわけではありませんが、小さな不合理は「ま、いいか」というおおらかな気分で対応できると自分が楽になれます。
娘が小学校の頃、とにかくきまじめで、「掃除をまじめにやる、無理してやる、がんばってやる」だったものですから、掃除をさぼる人が絶対に許せない。自分がこんなに一生懸命がんばってやっているのに、あの人たちはさぼってる!と感じて腹が立ったようです。
決められた掃除はちゃんとやるのが合理的で、さぼるのは不合理ですが、合理的を守ることに「がんばりすぎる」「無理をする」「こだわりを持つ」部分が本人を窮屈に縛っていたようです。
私と娘は対策として、毎日のリラクゼーションを実行し、肩の力を抜く練習をして、「心のしなやかさ」「融通性」について、いつも話し合うようにしました。
すると娘本人もそれほどくそまじめに掃除をしなくなり、「ほどほどに」できるようになりました。そうしたら何故か
さぼる人を自然に許せるようになったとのことでした。
娘の中に「ま、いいか」が増えてきたそうです。
「ルールを守る」、「合理的である」はとても大事なことですが、自分自身がそれに縛られてしまうととても不自由なことですね。
ここのところ、ちょっと連続コメントしたので、このへんでお休みいたします。
はじめまして。私はアスペルガー等の発達障害の疑いがある者です。
私は子どもの頃に言語の発達が遅れていて、4歳まで言葉を発していませんでした。それが原因で過去にいじめ(学校・職場)、父親からの虐待、職場の解雇・雇い止め等あらゆるところで人間関係のトラブルが耐えませんでした。(今でもあります。)病院も過去に7回変わっていて、7回目の病院で「アスペルガー」の疑いがあるといわれIQの検査をしましたが、結果は「精神遅滞」でした。それ以外の綿密な検査はありませんでした。大学病院等の検査の紹介状も書いてもらえませんでした。7回目の病院とは手続き等の案内だけで障害に対する親への理解の説明は全くありませんでした。事務的なことばかりでその医師と看護師とトラブルがあり、行くのを辞めました(ていうか辞めさせられた!)それ以前の病院もいろいろと医師等とのトラブルがあり、いやになって辞めました。発達障害のことは何も知らず、精神疾患・障害だけのみの診断でした。それでも人間関係のトラブルが絶えず、「PTSD」等のトラウマだと思っていました。しかし、母親から言葉の発達が遅れていると知ってから自分はおかしいのではないのだろうかと思いました。講談社の「大人のアスペルガー症候群」という本を読んで、本に書かれてある症状とこれまでのトラブルが一致していました。その中で「純粋なアスペルガーのみの症状」が少なく、他の発達障害と併存している場合が多いとかかれてありました。人によってアスペルガーの症状は違うのでしょうか?
また、大人の発達障害は子どもと比べて診断・診察してもらえる病院・診療所が少なすぎます。また、他の障害と比べて支援できるものもないです。こういった発達障害は何も支援のないままあきらめて人間を辞めなければならないのでしょうか?
続きです。
自分の症状ですが、言語の発達の遅れが目立っただけで、知的障害はありません。学習は中学まではついていけず、高校進学は私立や定時制等しか進学できませんでしたが、養護学校への進学は担任からは何も勧められていませんでした。高校ではクラスで10番台に入っていたことがありました。興味については絵や料理等の芸術的なものには興味はありますし、特技でもあります。最終学歴は短大卒です。人とのコミュニケーションが欠如していて話し方も独特で時に人を苛立ったりしたことが何度かありました。友達もなく、彼氏もできません。人に対する興味がありません。職場では「礼儀作法ができていない」と言われました。言葉遣いも子どもの頃から指摘されました。母親をはじめ家族は私に対する理解者はいません。
はじめまして、楽しく拝見させて頂いております。
私自身、ADHDの気があると疑っているのですが、常日頃ASの方が、「世の中は何故合理的でないのだろう」という価値観で世界を認識していると知り驚きました。
これは、もう埋めがたいギャップだと思うので、逆に「世の中の事は全て不合理、思い通りには決していかないものだ」
と認識を逆転してみると、発達障碍者の気持ちも楽になるのではないでしょうか。
「世の中にいくつか理不尽がある」ではないのです。「世の中は全て理不尽である」、と。
私は元々気分屋で、コミュニケーションもADHD特有の空気の読めなさでトラブルを起こし続け、部屋も散らかり、
仕事も「波」があって上手くいかず、という状態でしたが、
思いつきで始めた脳トレ等が血流量増加に役に立ったおかげか、症状が結構劇的に改善するという稀有な体験をさせて頂きました。
その時に自分を観察する機会に恵まれたのですが、症状改善前と改善後では、明らかに世界に対する認識が変化しました。
以前は、世界はひどくつまらなく、どうしようもなく退屈でうんざりした場所だと感じていましたが、
以後は、全くそう感じなかったのです。これは自分でも驚きました。
何が言いたいかと言いますと、つまり症状によって生じる世界認識に、現実が合わせられるわけはないのです。現実は現実です。発達障碍者の世界認識とは無関係に存在します。
で、あるならば、極めて合理的なルールであり、一つの例外もない、「世界は全て不合理。理不尽。不公正。不均等」であると見なすよう促していけば、現実の社会と障害による認識の歪みも不一致がなくなり、問題も少なくなるのではないでしょうか。
先生も英語嫌いでドイツ語を習ってから納得されたとのこと
私も全く同じです
ドイツ語習ってから
こういうことだったのか
と思うことが多かったです
ドイツ語先に習いたかった
今の日本の教育体系では無理ですねぇ
アルバトロスさんがいうとおり世の中理不尽、不合理だらけです
その最たるものが
今の世界同時不況
だと思います
あれはアメリカのサブプライムが発端
つまり無理な住宅ローンをつくり、貸し、借りた人の問題であったはずなのに
かえせないつけを世界みんなで払う羽目になった
そう考えるとあほらしいけど
しょーがない
頑張るしかないですね
私の頭自身が不合理で気分の波にあっぷあっぷしているのですが
いつも
今私はこうしたい
けど
やらなきゃならないのはこれ
と言い聞かせたりしています
私自身の不合理の波で他人に被害をださないように自分の中で処理する
これにつきると思います
「合理的」という単語を字だけ見ると「論理的に正しい」ように読めるのですけど・・・
実際には「目的に対して最適化されている」「最短で結果を出す」意味でよく使われるのかなと思います。
こちらの意味で言うと、合理的であることは決して「正しい」とイコールではないです。
教育実習で小学3年生のクラスにお邪魔していたときのことです。
運動会の総練習を見学しているとき、ある男子児童(A君とします)が、ふざけて私を叩き始めました。
私は「痛いからやめて」と言ったのですが、やめてくれません。
言っても聞いてくれないので今度は無視していたのですが、あまりにしつこく叩き続けます。
そのうち見かねた他の男子児童(B君)が「やめろよ」と止めに入ってくれました。
そしてその二人の間で、叩き合いの喧嘩が始まってしまいました。
二人にやめるように言ったけれど、意地になってしまってやめません。
私はどうしたものか考え、結局、止めに入ってくれたB君に声をかけました。
「ありがとう。私はだいじょうぶだから、見学に戻ろう」
それを聞いたB君はすぐに手を止め、私の横で見学に戻りました。
A君がしつこくB君を叩くので、私はB君を自分の腕の下に置いてかばい、A君を無視しました。
私の態度を見て、B君もA君の叩きを無視しました。
それでもA君は私を叩き続けました。
A君に無視という意思が伝わった頃、私はA君のほうを振り返って「一緒に見学しよう」と声をかけました。
A君はやっと手を止めて(ちょっと恥ずかしそうな、気まり悪そうな顔?で)寄ってきたので、右腕にA君を左腕にB君を抱えて、ようやく見学に戻ることができました。
(続く)
(続き)
「喧嘩を止める」という目的に最短で至るには、この方法が早かったと思います。(そして実際に成功している)
でも私は、自分の行動が正しかったとは思わないのです。(私はA君を先に止めるのが正しいと思う)
私は二人に「許された(大目に見てもらった)」気がするのです。
今でもよく覚えている、もやもやエピソードです。
教育実習中は毎日「試験」を受けている気分で、充実はしていたけど本当にしんどかったです。
最近よく思うのは、「言いやすきに言う」人が多くて、疲れるということ。
多分他者から見て、私は「言いやすい(頼みごとをしやすい)人」なんでしょう。
「それ、根本的に解決してないよね」と意見を述べても、「だってしょうがないじゃない」「あの人に言っても無駄だから」「他にできる人がいないから」と事情を汲むことを求められます。
相手の合理性は理解するが、本質に蓋をしたままに見えます。(本来やるべきことをやらずに済ませている)
やがてしんどくなってきて、私はその人たちから離れる。
私は最後まで消耗品扱いされている気がするのです。そして「人が動くのってやっぱり損得じゃん」と思うのです。
(自分を含め)誰だって所詮は生物、利己的なものかもしれないけれど。
私には、人々の間で交わされる「空気、雰囲気、空気を読み合う」という事がわかりません。
ですが、「ここは、(損や得の問題ではない、何より自分の精神のために)、折れては(妥協しては)いけない」というのが自分の中で電光石火のようにわかる瞬間があるのです。
私の発言と行動の結果、おそらくは「角が立つ」という事にはなっているとは思うのですが、「あの人は何だか独特な人だよね」という感じで、「わたしたち」の中からいつの間にか「例外的に除外」されている事になっているのではないのかと、毎回私は思うのです。特に、私よりも若い人が新社会人となって社会に出てきたと思えるようになったこの数年の人間関係については、この傾向がありますね。どれだけ厳しくても自分の精神を保ち社会に立ち続ける私の人生にはこのような事が起こりうる、と、それこそ僥倖のような、奇跡のような、ハッとしたような気持ちに時折なります。
私は「空気、雰囲気を的中させるという事に固執はしなくなりました」。
今では、友人にも知人にも職場の人にもこうした話はしなくなりましたが、あいまいさの中の境界周辺の見地を保ちつつ、複雑繊細で不可思議な私の人生の目線を通して人と関わっています。
自分の事を私が何も説明しなくても、時々、私の魂に気づく人がいます。
私についての何かに気づいて、大体の人は、はにかむように私に少し近づいて、何かしらこう、目に見えない何かを感じたり、あるいは何かハッと目が覚める思いをするのではないのかな、と、私は勝手にボンヤリ思っています。(私はただほんのささやかな差し入れをしたり、誕生日祝いに参加したりしただけで、それほど目立つ事をしたわけではないのですが)
学童の子供やあるいは中学生、高校生の中にももしかしたらいそうな気がしますが、「気づく人」に「私が気づいた」ケースのみを書いてみます。成人後数年の若い人から青年、壮年、年配の男女という感じで様々です。決して数は多くはありません。
私に言えるとしたら、どうしようもない思いを抱えながら生きている人が短い時間であっても私の魂に気づく事がある、という感じでしょうか。もれなく性格に個々のクセのある人ばかりですが、魂が光る瞬間がある事が私にはわかるので、まぁ悪い気はしませんね。多数派に対する距離の取り方とも違う事は違うし、うまく言葉にはできませんが、自分の人生の困難さについて、目をそらせない、目をそらしていない、そういう人ばかりだからでしょうか。