最近までは私は基本「自己責任」の考え方でコメントの内容にはあまり介入しない方針でやってきたが、最近あまりに目に余るケースがありやむを得ず介入している。
私に理解できないのは、コメントしている他者の診断云々について書いている人が数名居ることだ。
私は医師でプロだが、メール相談でも「メールだけからは診断などは困難です」と断っている。
少ないコメントに書かれた情報から無責任なことを言える心理は相当重症で病的であると考えるべきだと思う。
(実際リーマスを直ちに服用しなさいと言いたくなるコメント者が何名か居るには居るが)
1.躁うつ病の誇大的な思考である人もいるので、すぐに精神科に受診してリーマスなどの薬物療法を開始する必要がある。躁うつ病はジャイアンにもASにもどちらにも合併することが多い。
2.ジャイアン型ADHDの場合は、依存型の刹那的思考で、本人の自覚とは無関係に暴君型である可能性が高い。実際には「身近な人間に多大な精神的な負担をかけ続けている可能性を24時間考えるべきなのだが、依存型の刹那的思考のために考えきれないだけになっている」という可能性を自分に当てはめて考えるべきだ。
3.のび太型ADHDの場合は、(ほとんど自分で後で自己突っ込みしていると想像するが)、「気付かないで他者の問題に踏み込んでしまう」という失敗であると自覚しよう。
4.「弄くられたのび太」のタイプの人は、本人は自分のことを書いているのだが、気付かないできっかけとなった他者のコメントを不用意に引用することがある。この場合は具体的な他者のコメントを引用しないで書けばよい。
5.ASの場合は「勝手に深読みして過剰反応」がありうる。コメントに対する反応はここには書かないで欲しい。
私のブログの趣旨は、これを読んだ当事者が自分自身の発達障害について考える機会を用意することであり、自分のことを書いたコメントは大歓迎だ。
以前にも断っているはずだが、今後も「コメントに対するコメントは禁止」と理解していただきたい。
「他者のコメントを読んで感じた自分を振り返っての感想」はあっても良いが、その場合も他コメントのHNを名指しすることは厳禁とします。
なお私が病的に極めて重症と判断した人はドメインごとブロックしました(今後も)ので、直ちに精神科に通院し、今後は主治医に相談してください。
おはようございます、やんばる先生。
このエントリに対して感謝を。
介入と具体的な対応を示して下さったことに感謝を。
時々、ものすごいコメントの応酬があってそういうエントリでは書きたいことがあっても怖くて控えていました。
ぼくはやんばる先生の文章対するぼくの経験、考えしか書き込みしてきませんでしたが(他の人の文章は読んでも理解出来ないからですが)知らないひとからそのひとが知らないのに突っ込まれたらどうしようとまだないことに対する恐怖を感じていたところです。
これからは安心してまたコメントを書こうと思いました。
M3ブログ開設時の大原則に戻られたのですね。
身が引き締まる思いがします。
7年ずっとこのブログを見てきて、どうしても横レス(コメント者同士で話をする)をしたくなるのが人情のようで、どの時代にも横レスはありました。
私も最近は「郷に入れば郷にしたがえ」的な気持ちになり、ここは今では、横レスがあたりまえになっている場なんだと思い、結構、人に話しかけたりもしたように思います。
今回、先生は改めて、「横レス厳禁」となさったと解釈してよろしいですね。
今まで、コメント者は先生が掲載なさったコメントは一応OKとみなされたという判断で、ずっとコメントを続けてきたと思います。
これから、先生ご自身のコメントチェック(掲載しないという判断)も今までより、ずっと厳しくなり、お忙しいところよけいに大変になると思います。
なるべくご負担をかけないように、大原則を守りたいと思います。
私は精神科にかかっていますが、確かに精神科に行った時には自分と先生の1対1の関係で、自分のことのみを話題にしますね。他の患者さんのことには当然ノータッチです。
それと同じ感覚で、ブログに参加するというイメージですね。
思い当たります。
僕はまだ暴君か。
それは、そうか。
自覚が足りませんでした。
zzzさん、Fさんとの会話は興味深いものでした。
惜しいですがコメントへのコメントは禁止とのことなので
書き込みを自重しようとおもいます。
はい。
承知(了解、理解)いたしました。
記事内の
>過剰反応
がなかったか、自己分析のために再読していきます。
無論、自分自身の『型』をも再考したく感じています。
ご教授がありがたく、…言語化しきれないのですが……(まさに過剰反応しよとしてしまっている、)御礼、申し上げます。
おもしろがってはしゃいでしまってすみません…。
型がどうのこうのはさて置き、
1〜5どれもやりそうだしすでにやってることもあるんだろうけどよくわからないという1番悲しい事実に衝撃を受けています(T ^ T)
迷惑をかけている可能性を24時間考える…いつの間にかサボっていました。
気を引き締め直します…。ありがとうございます。
私は、現実の生活の中で、事実を言葉によって確認する事にしています。
>5.ASの場合は「勝手に深読みして過剰反応」がありうる。
私の場合、現実で過剰反応すると余計にこじれた事態になり、トラブルとして現れる傾向にあります。
>コメントに対する反応はここには書かないで欲しい。
コメントに対する過剰な反応は「ここに書く事ではない」と思っているので書いていません。
1~5までの失敗パターンを自分の事としてもう少し考えてみようかと思っています。これまでうまく考えられなかったので、先生、ありがとうございました。
先生、最後まで自己分析のためにこの場を使わせていただきましてありがとうございました。今まで自分について、ここまで深く考えたこともなかったんですけど、自分の特性が具体的に分かり、今後の人生にも生かしていけそうな気がするので本当に感謝しています。いろいろあって、とても楽しかったです。
私には関係ないことだと思っていても最近のコメント欄にはずっとイライラしました。
もう少しで爆弾投下でした。
(まだまだ衝動的で攻撃的です抑えたのが奇跡かもしれない)
>ASの場合は「勝手に深読みして過剰反応」~
依存型のジャイアンにもあるのでは...と考えています。
今回のことは深読みというよりコメント欄をそのまま読んでいて腹が立ちましたが。
>身近な人間に多大な精神的な負担をかけ続けている可能性を24時間考えるべき
私自身まったくそうだと思います。
現実なのです。
気が付くと自分を正当化しようとして「でも」とか「だって」とか言い訳をする
かなり醜いです。
恥ずかしくてたまらなくなるのですが
トラブルを起こして周りを巻き込むこともこの歳になってもあるのです。
了解しました。今まで以上に自己抑制していきます。
ASとしての俺にとって、先生のブログは特に、ADHDの皆さんの思考を知り実生活に反映させることができる、とても貴重な場となってます。
対ASでは同類ゆえおおむね想像できるのですが、対ADHDでは複数の可能性を想像したうえで取捨選択することが多くあります。そのため、疲れてるなどで頭の回転速度が落ちているときはどうしても、反応がワンテンポ遅れることになります。ADHDの皆さんの生の声である先生のエントリーや皆さんのコメントを読むことで、ADHDの思いや反応を知ることができます。それにより、実生活でも想像する選択肢の数が減り、また取捨選択が速くなっています。
本ブログからは、自分の発達障害について考える機会に留まらず、他者理解についても考える機会をいただいています。とても感謝しています。
うーん、「今まで以上」と書いたけど、俺、今までは自己抑制できてたのかなぁ……。客観視は未だに苦手だからなぁ。そうだ、中庸、中庸。
私このブログを閲覧した当初からやってましたね…
「後で自己突っ込みを入れている」部分は3番にも当てはまりますが、やはり4番の「弄くり回されたのび太」の方がばっちり当てはまります。
確かに他の人のコメントに影響を受けて自分のことをコメントすることがありますが、見てしまった以上「引用しないよう気を付ける」というのはかなり神経使うので正直面倒ですね。
ただ、調度良かった。
最近他のコメント者さんに対して被害妄想等から攻撃的になってたし、自己分析も終了してこのブログに入り浸る理由も無くなったので「もう止めなきゃ」と思っていたところです。
>私のブログの趣旨は、これを読んだ当事者が自分自身の発達障害について考える機会を用意することであり、自分のことを書いたコメントは大歓迎だ。
これからは他の方のコメントは見ずに、自分のことだけコメントしていこうと思います。
ご指摘ありがとうございました。
はじめてコメントします。
娘の不登校をきっかけに発達障害について考えるようになりました。
娘は診断おりないグレーゾーンですが『受動型AS』、私は『合理的ADHD』ではないかと思っています。
やんばる先生のこのブログは、娘との関係の取り方に、とても良いヒントになっています。
また不登校の会で、他の子供さんや保護者の方とのお付き合いにおいても、発達障害的な特性があると感じる方も多く、相手を理解するのに役立っています。
このブログのコメントに関しては、それぞれの抱える問題の特性が表れてると思うことも多々感じていました。
『躁うつ病的な誇大感からくる、他者への上から目線の指摘』については、リアルの不登校の会でも、問題になったことがあります。
本人に対して、その行動のオカシイ点を丁寧に時間をかけて説明したのですが、相手の表情・反応から、どうにも伝わらないものを感じました。
(他の場面では、ちゃんと意思が疎通できている感じ)
本人から『鬱っぽい』との相談を受けたこともありましたが、『鬱⇨躁』で少しラクになると、誇大感というのか、根拠のない『大丈夫‼』という気持ちが出てくるようで、治療の必要を感じなくなってしまうようです。
そうしてトラブルを起こしながら、躁と鬱を繰り返しているように見えますが、『躁』の状態ではアドバイスをしようとしても、『やってみて問題が起きたら、その時に考えたら良い』とのポジティブ思考で受け入れられません。
少し前の記事にあった通り、治療・問題解決は非常に困難なパターンだと思います。
コメントの横レスの問題は、不登校の会での会話のルールにも通じるものかあり、トラブルを防ぐためには、現実には問題にならないようなケースも含めて、ルールを徹底していくことしかないんだなぁ、と感じました。
現在まで、このブログを読んできて、今回の記事も読んだ読者は、「横レス厳禁」のルールを理解して、ちゃんと守ると思います。
今後、新しくブログの読者になった人たちは、当然ルールを知らないので、他のコメント者に「横レス」をしたり、「先生やコメント者宛の質問形式のコメント」を書いてくる可能性は十分ありますね。過去記事を見ると横レスがすごく多いので、ここでは横レスOKなんだと思うでしょうから。
それを先生が全部「不掲載」になさるか、もし掲載された場合は、「新しい人なんだろうな」と考えて、常連のコメント者が今回の記事を張り付けたコメントをお節介で投稿すればいいのかな、などと考えました。ルールを知らないで書いてくる人を無視するのは、ちょっとつらいので・・・。
先生がブログタイトルの近くに目立つように「このブログでは横レスは厳禁です」という表示をするのは、形式上、難しいことかもしれませんし。
とにかく新しい読者は、これからも増える一方だと思います。
今回のエントリー、了解いたしました。
最近のコメント欄については、先生が管理されるご負担には、本当に頭の下がる思いでいました。
しかしながら私自身は気にならず読み流しており、自分の書きたいことを書きたいときに書いていました。
自分の書き込みに突っ込みが入るかも、という心配は、全くしておりませんでした・・・
そんな風に考える人ばかりでないこと、改めて認識いたしました。
24時間周囲に負担をかけている可能性(!)を忘れないためにも、自らの方向性を日々修正するためにも、これからも先生のブログと、ご自分に真摯に向き合う皆様のコメントを参考にさせていただきます。
先生、「コメント者へのコメントは厳禁」とありますが、自分の家族や関係者の話なら問題ないですよね?(よく身の回りのASやジャイアンの話をコメントすることがあるので)
>「勝手に深読みして過剰反応」
これも当てはまりそうですが、ASの深読みによる過剰反応というよりは「のび太のKY故の勘違い」といった方が正しいですかね。
(またうっかり引用してしまいそうになりましたが)相手がASの場合、深読みしても分からないことが多いのでほとんど反応することがないのですが、たまたま「自分に関することと一致してしまう」と「私のことを言ってる」と思い込んでしまうかもしれませんね。
ちなみに、相手が私のコメントを引用した場合も、その相手がASだとほとんど反応しないのですが、ジャイアンだと「攻撃されてる?」と何故かモヤモヤすることがあります。
なるほど、こうやって書けば良いのか。
落ち着いたら他の方々のコメントも拝見して「自分を振り返ったコメント」もしていこうと思います。(あと、やっぱりHN変えるのは止めますね)
先生からブロックされてないと分かり安心したと同時に、改めてこのブログの趣旨を書き記して下さり感謝しております。
少し離れている間に何事かあったのでしょうか。
このBlogにたどり着いてから、私はようやく本当に「他人」について興味を持った気がします。
これまで「こういえばこう動くだろう」とか「ああ、○○さんと似た感じの人だな」「意味がわからない人だ」とか、その程度にしか興味がなかったように思います。
自分とは合わない(相性が悪い・引きずられやすい・一緒にいるとしんどい)と感じるタイプの人もわかってきました。
自分が陥りやすい考え方もわかりました。
(その責任は本当に自分が負うべきなのかどうか?「あなたのためだから」「あなたにしかできない」という言葉には注意すること。自分がいなくても世界は回るという事実)
そして「他人との心理的距離を遠めに取る」というスタンスは、自分にとって必要(自分の境界を守るため)なのだということもわかりました。
私が、自分のために、自分の意思で、そうしていることであり、責められるいわれも、引け目に思う必要もなかった。
「自分のことを理解してくれない」と近寄ってくる人に、私の考えや生き方まで譲る必要はなかった。
整理がついてすっきりした気分です。
このBlogを離れることができる日も近い気がしています。
一時、ここに存在することを許していただけて、本当にありがとうございます。
初めてコメントさせて頂きます。
フォロワー同志の言い合い・感情のぶつかり合いの影響が強く
不快な感情になり、それを消化する作業が毎回でした。
赤裸々で、デリケートな内容
余所では言い合えない内容
一番知ってもらいたい内容
なので感情的になってしまうのはしょうがないとは思いますが、理論的・専門的解釈を参考にして
改善していけることだと感じていましたので今回のブログに感謝します。
純粋な参考文献として閲覧出来ることを嬉しく思います。
はじめまして。40代女性です。
アスペルガ-について、専門家の先生にどうしてもお聞きしたいことがあり、コメントします。
先日、私の父親が亡くなりました。70代でした。
実は、私は父とは何十年も会話もない状態でした。
複雑な思いから、見舞いにも行かないままでした。
父との関係については、後悔がないわけではありませんが、仕方がなかったと思っています。
今、私は父はASだったのではないか?と思っています。
特徴としては、
・社交的スキルなし。友人は一人もいないが、本人はそれを苦にしない
・数えきれないほどの転職をした。一般にいう「男の甲斐性」という類のものは一切ない。
・とにかく変わっている人だなあ、という印象を人に与える。
・家に客が来ても、皆が話している中で一人で本を読んでおり、雑談などの社交はできない。
このような点です。
もちろんこれだけで判断できませんし、もう亡くなっているので真実はわかりません。
ただ、もしも父が何らかの障害を持っていたとして、
今回お聞きしたいのは、ASの方は我が子に対する愛情はない(少ない)のでしょうか?ということです。
私は父の死期を知りながら、見舞いにも行きませんでしたが、本人からもとうとう連絡がないままでした。
ASの方が親になった場合、普通の父親のように、死ぬ間際は娘に会いたいとか、そういう感情を持つことはないのでしょうか?
もし、障害ゆえ、父の方に私に対する一般的な愛情がもともとなかったのであれば、
私は罪悪感を持たず、これからの人生を大分楽に生きていける気がします。
サイトを見ても、ASの子供を持つ親の立場か、奥さんの立場で書かれたものがほとんどで、
子供からの視点のものは見つかりません。
一般的な情報でかまいません。
ASの人は、我が子に対する愛情も、一般的なそれとは違いますか?
最近、新ルールになったため、お知らせのひな型を作ってみましたので、張り付けてみます。
失礼します。
現在このブログは「横レス(コメント者同士のやりとり)は禁止」となっています。
また、YANBARU先生も基本的にはコメント欄に登場されません。(ブログ初期には登場されていましたが、お忙しくなったため、現在は登場されません。)
したがって、ご質問等にお答えできる人物がこのコメント欄にはおりませんので、どうぞご了解ください。
はじめまして。40代女性です。
アスペルガ-について、専門家の先生にどうしてもお聞きしたいことがあり、コメントします。
先日、私の父親が亡くなりました。70代でした。
実は、私は父とは何十年も会話もない状態でした。
複雑な思いから、見舞いにも行かないままでした。
父との関係については、後悔がないわけではありませんが、仕方がなかったと思っています。
今、私は父はASだったのではないか?と思っています。
特徴としては、
・社交的スキルなし。友人は一人もいないが、本人はそれを苦にしない
・数えきれないほどの転職をした。一般にいう「男の甲斐性」という類のものは一切ない。
・とにかく変わっている人だなあ、という印象を人に与える。
・家に客が来ても、皆が話している中で一人で本を読んでおり、雑談などの社交はできない。
このような点です。
もちろんこれだけで判断できませんし、もう亡くなっているので真実はわかりません。
ただ、もしも父が何らかの障害を持っていたとして、
今回お聞きしたいのは、ASの方は我が子に対する愛情はない(少ない)のでしょうか?ということです。
私は父の死期を知りながら、見舞いにも行きませんでしたが、本人からもとうとう連絡がないままでした。
ASの方が親になった場合、普通の父親のように、死ぬ間際は娘に会いたいとか、そういう感情を持つことはないのでしょうか?
もし、障害ゆえ、父の方に私に対する一般的な愛情がもともとなかったのであれば、
私は罪悪感を持たず、これからの人生を大分楽に生きていける気がします。
サイトを見ても、ASの子供を持つ親の立場か、奥さんの立場で書かれたものがほとんどで、
子供からの視点のものは見つかりません。
一般的な情報でかまいません。
ASの人は、我が子に対する愛情も、一般的なそれとは違いますか?
(一度投稿したつもりでしたが反映されなかったので、もう一度だけ再投稿してみます)
両親、妹が発達であろうと思います。父は亡くなりましたが、ASであったと思います。ほとんど会話が成り立つことがありませんでした。定形であろう私は罪悪感を感じながら父を自分なりに理解し、一生懸命やりました、やったつもりです。AS的に頑張りました。なので、ASの父はASの思考で相手を理解し、自分なりに一方的にですが理解しているとの形をとっているのではないかと思います。。お互いが同じような事をやっているのですが、ただ伝わらないんです。お互いがお互いに対して一方通行状態なので・・・父はさよならも言わず亡くなりましたが、自分なりに一方的にしっかり考えて毎日を過ごしていたので、定形、発達障害関係なく、普通に生きたとのことではないかと思うようになりました。普通に家族の一員として生きたのではないかと
罪悪感持たなくていいと思います。。よ。
>「他者のコメントを読んで感じた自分を振り返っての感想」はあっても良いが、
これってすごく微妙ですね。ちょっとずれると、「コメントに対するコメント」になりそうですね。
大原則が崩れやすくならないでしょうか。
細かいことを言ってすみません。
ちょっと疑問がわいたものですから。
>3.のび太型ADHDの場合は、(ほとんど自分で後で自己突っ込みしていると想像するが)、「気付かないで他者の問題に踏み込んでしまう」という失敗であると自覚しよう。
>4.「弄くられたのび太」のタイプの人は、本人は自分のことを書いているのだが、気付かないできっかけとなった他者のコメントを不用意に引用することがある。この場合は具体的な他者のコメントを引用しないで書けばよい。
このどちらかだと思うのですが、自己突っ込みが入らなかったので、多分4.ですね。
ちなみに、「自分で『引用させて貰いましたよ』って言っちゃってるし!馬鹿か?私は」という突っ込みは、後で入りました。(遅いですね…)
先生、ありがとうございました。
以後、気を付けます。
相手の意思を受取る(理解)ことに難のある私にとって
「こういう意思を持っている」とハッキリと書いていただけることが
判りやすくて、ありがたいです。
以前の私は他者の価値観の中に生きていました。
私の存在は深層的に母の価値の中にあって
それが無意識に自分が生きる意志を妨害していました。
自分の問題と、他者の問題と、ようやく区別できるようになったようです。
以前は私が意志を持つには何が何でも他者を変えなければなりませんでしたが
全てが無意味な行為でした。
言葉で判っていたのに、あんなに深層にあの恐怖が残っていたとは思いませんでした。
まだ眩暈は続いています
でも眩暈から逃げたいとも思わなくなりました。
何があったのか、どうしたら良いのか、考え続けようと思うんです。
「ジャイアンと積極奇異型」のエントリの後の反省です。
自分を振り返ったコメントであるように、そして「確信」は避けるように(相手の意思を確認する・一方的な断定は保留する)してはいますが、足りていたかはよくわかりません。
ADHD的自己突っ込みの例を見せてもらって、いろいろわかったことがありました。
私はかろうじてそれらしいものはできるみたいですが、自分で思い至らない部分についてはイマイチ身につかないというか・・・
仮に真似(ADHDのようにもっとたくさん・細かく)しようとしても、「仕組みを理解して、なぞっている」ような感じがします。
まずは、自分の死角に気づかないと、どうしようもないということみたいです。
(幸い、死角の存在自体はわかりました)
現実の生活では、消極的だけども、黙る(観察する)時間がますます長くなりそうです。
もしあの一連のコメントで、大原則が早速崩れてしまうのでは、と心配になった人がいたのなら、すみませんでした。
そしてYANBARU先生、一連のコメントを載せてくださって、ありがとうございました。
皆さんのコメントのやり取りを見ていて感じたのはうらやましいということでした。こんな風に言葉のやり取りができるなんてすごい、私も混ざりたい、そう思っていました。でもできませんでした。ルールを守らなければ、という気持ちからではなく、ただ単に、会話に入っていく能力がなかっただけのことです。言葉からイメージを掴む事ができず、また自分の考えを言葉にすることもできませんでした。
思えば、学校の休み時間や職場の飲み会、親戚の集まりでも同じような気持ちでいました。中に入っていきたいという気持ちはあるのです。でも言葉の意味(表・裏)も場の空気もさっぱりわからず入っていけませんでした。もっとも当時はわかっていないことにさえ気付いていませんでしたが。
話し言葉には対応できないけど、ネット上の文字のやり取りなら入っていけるかもしれないと淡い期待を抱きもしましたが、やっぱりダメなものはダメでした。(笑)
記事の主旨からズレてしまい、すみませんでした。