沖縄の言葉で「難儀」(ナンギ)という表現があり、意味としては「面倒」と同じような使い方をされる。実は受動型ASがよく使う表現である。
主に行動しないときの理由を問うた場合にこの「ナンギ」が登場する。自分の自発的な行動が求められるときはすべて「ナンギだから」しないということになる。
この「ナンギ」には、「それ以上に突っ込んで話を深められない」という作用があり、周囲の人の意欲を失わせる結果になる。
さてこの「ナンギ」の意味を私はずっと考えてきて、やっと一つの解釈を思いついた。
「何で自分がしなければならないか?」「自分でしなければならないのなら面倒だからしない」という意味であると思う。周囲の愛着の対象に対して「(自分のことでも)お前たちがやるのが当たり前だろうが」という強い依存のメッセージなのだ。
受動型ASは依存できると思った相手には、徹底的に理不尽な要求をし続ける。他方「自分」が存在せず、「あなたはどうしたいか?」と聞かれると答えられず、結果、「自分の責任」を認識も実行も出来ない。だから本人にとっては依存が当たり前だから「ナンギ」ということになるわけだ。
私は最近は、特に母親に要求をし続ける受動型ASのケースは(もちろんパートナーでも)、「一旦離れるしかない」という環境調整を本気で検討するようになった。
受動型ASにとっては、周囲に一人も愛着の対象が居ないほうがずっと表面上の社会適応が良くなるのだ。
真のパートナーを得るには、思春期を過ぎて、本人に受動型ASを告知して、その問題点を本人とともに考え、依存で無い生き方を少しずつ模索するしかないのではあるが。
例のAS彼が、積極奇異型であったが受動型であったか、判然としないのですが、確かにこの態度はあった・・・です。
つまり、(上手く説明できないんですが)援助職にあるにも関らず、男女問わず愛着の対象に囲まれていると、本来の「ケア」という仕事の側面が薄れてしまって、(「ナンギ」になってしまうらしい、)
本来、助けるべきクライアントに対して「お前達が自分の責任で治すのが当たり前だろうが」という態度に出る・・・これはありました。
で、仕事の最中でも極端な場合、居眠りしてる。特に、私と関ってからは、この傾向が酷くなって、職務怠慢の繰り返し。(私との関係自体というより、ひとつにはそれで首になってしまったようなものでした。)「自分の責任」が遂行できなくなっちゃうんですね・・・
だから、彼が新しい職場で、0からやりなおすのはいいことかなと思ったりもしました。またそこで愛着の対象をみつけたらパアですが。
もう、そうするしかないというところまできてしまい、直感的に私がこの人と一緒にいる限り、今日依存のうずにまきこまれ、関係は改善されないと感じ、主人と離れました。
この後、どうしていけばいいかわかりませんが、わたしは私一人の人生を生きていくことに全力を尽くしていくしかないし、その中で、ASとしての仁義、筋道、中心志向などがよい方に働くことに希望を捨ててはいません。
離れたことは、残念な結果ということだけにならぬよう、よりよくなっていく第一歩となることを信じています。
私は、徹底的に合理的に生きることに決めました。最後まで希望は捨てません。
父も夫もこれはあります。
主人は自分の興味の対象意外はほとんどメモリーを使いません。自分のバスタオルも分からないくらいです。
定位置にものがないと 「ないよ~」と声がかかります。
でも、たいていすぐ見つかるところにあるのです。
父もひどいときは目の前に橋筒があるのに母に「箸!」と言っていました。母は一生懸命尽くしていましたがあるとき自分が死んだらこの人は生きていけないと思って世話を焼くのを止めたそうです。今では父一人置いて旅行に出かけることもあります。
父は「めんどくさい」という言葉は口にしませんでしたが、夫はよく口にします。しかも、ちゃんというのもめんどくさいらしく、「めんくさ」と言います。
やらない理由は たいてい「めんくさ」です。
この、「面倒(くさい)」という言葉…。実は数年前までよく言ってしまっていました。はずかしいです…。
私は、一回「面倒くさい」という言葉を言ってしまっても、その後一回は、「面倒くさい」と思った事柄に対して、考える事をしています。
この、一回(考えられるかどうか)が私にとっては重要で、考えられたなら、自分の少ない記憶のメモリーの中に、ぼんやりとストックされます。
そして、より深く考える必要がある場面に出くわした時など、(私が)考える(べきであると思う)機会に応じて、意識的にストック領域の中から取り出し、自分で考える機会を意識的に持つ努力をしています。
>この「ナンギ」には、「それ以上に突っ込んで話を深められない」という作用があり、周囲の人の意欲を失わせる結果になる。
「面倒(くさい)」という言葉は、周りの人の意欲を失わせる言葉なのですね。気づかなかったです。これから肝に銘じたいと思います。先生、ありがとうございます。
前向きジゃイアン、Tamaです。
私はほんの少し前まで、「面倒くさい」ばかり言っていました。
部屋も汚かったし、仕事も続かなかった。
それを画期的に変えたのは、「支配の対象から自分を遠ざけた」ことです。
>受動型ASにとっては、周囲に一人も愛着の対象が居ないほうがずっと表面上の社会適応が良くなるのだ。
ASにとっては愛着の対象、ADHDにとっては依存の対象(ジャイアンに特化した場合は支配の対象)がある事で、その性質が増幅されるのかも知れませんね。
私は現在、とにかくシンプルに「好きなことだけをやる」と決めて、キレイな部屋で生活をして、仕事はバリバリやっている状態ですが、本音は「面倒くさい」と思っています。
家にいる時には「潔癖症の演技」をして、仕事中は「男勝りな営業マンの演技」をしているだけです。
それでも、汚い部屋で安月給だった昔より、ずっと生活のレベルは向上しているので、今後もこの演技は続けます。
今、問題だな~と思っているのは、恋愛ができないことです。他人の前で本音を見せることはできませんし、24時間体制で演技をするのがものすごく疲れてしまうからです。
ちょっと愚痴になってしまいました。すみません。
先ほどの自分のコメントに補足です。
ジャイアンにとっての「支配の対象」というのは、
自分の思い通りに動く人、という意味で書きました。
たとえば、家族や恋人が家事をやってくれる状態などです。
「雑用は、言うことをきく人間にやらせれば良い」と思っていた時期があり、そういう状態になると、非常に腰が重くなると実感したからです。
自称多数派、ACだったクロです。
父はまさにこのような人です。何をするにも「めんどくさい」「こんなことやっても無駄」仕事に行くには毎日「いきたかないけど行ってくる」。だから、もの凄く恩着せがましいです。きっと、自分の仕事・責任としてごく当たり前に遂行することでも「特別頑張って」やっているので、「俺はこれだけしてやったんだ」という意識が強くなってしまうんだろうな、と思います。
そんな訳で、自分は常に周囲から尊敬され、感謝され、それゆえに周囲が自分のいいように対応してくれる、と、当然のごとく思っているようです。この辺は、「言ってやってもらってもダメ」と同じような感じですが、それとはちょっと違う、、意識にのぼる以前の大前提みたいなもの、のような感じです。
気に入らないことがあると、母には「俺に対する当てつけか!!」と怒鳴り散らします。(玄関掃除をして靴を端に揃えただけなのに、足の悪い俺が履きにくいように置いた!と怒る。独自の解釈をもとに、被害妄想的になるのは日常です。)
タイプは違いますが、母もまた何故か「自分は特別」というような人で、親や他人には媚びへつらうのに、家では始終不機嫌で冷淡でした。家事が異様に完璧なので「何か文句あるか?」って感じです。
夫婦が蔑みあいながらも、お互いに依存して生きているため(もちろん当人達に自覚はない)離れられないだろうと子ども心にも感じていました。今でも一番不思議なのは、常にお互いを蔑視している愛情のかけらもないような「自分は特別」夫婦が、ある部分ではお互いを信奉しているような所もあるということです。
今、私は両親と相互理解するという事には意欲を持てません。合理的にと言うか、最低限の親子の関係を続ける、というのがやっとです。ただ、「物事は変化する」と思うことが、唯一前向きな姿勢です。淡々と自分の人生を歩むだけです。
>主に行動しないときの理由を問うた場合にこの「ナンギ」が登場する。自分の自発的な行動が求められるときはすべて「ナンギだから」しないということになる。
>この「ナンギ」には、「それ以上に突っ込んで話を深められない」という作用があり、周囲の人の意欲を失わせる結果になる。
自称ACジャイアンのむーんです・・・私が、誰になんと言われても自分には「ナンギ」だから出来ない、と悟ったのは、実はリアルのミーティング(自助グループ)です・・・
まず、最初に「分かち合い」と称する、内心の吐露をしなければならない。これ、皆半分泣きながらやっているんだけど、ジャイアン私が話すと、抑揚のない話し方になって、それだけで浮くし。第一、「オモテ」が全てのジャイアンにとって、「ウラ」でだけそういう事をするというのが、いかにも不自然で辛い。
その後、フェローシップ(これは自由参加なんですが)があるんですが、「辛かったでしょう、でもこれからは幸せが待っているから」と周り(多数派)には慰められ、私はきょとんとするばかり。おまけに、その場の他人にそういう声がけが出来ないから、KYと言われる。
結果的に、周囲の気を完全に削いでいるので、最終手段として黙っていると、いじめられる・・・という訳で、ここに書き連ねること自体がもう苦痛なんですが、
結局、8ヶ月で心身共にズタボロになってやめました。
AS彼には、「なんで自発的に行かないんだ」と散々責められましたが、別れてしまった今、全然腰が動かなくなってそれ以来二度と行ってません。。。
人間関係が苦手な私にとって、何かでトラブッタリ理不尽な扱いを受けたりした時の救いの頼みが夫だったから、その他の夫が「ナンギな」(責任の所在があいまいな)事は全て私の仕事になってしまった気がします。
特に私はノビ太なので、ジャイアンなどは恐くて(このブログで少し理解できてきたけれど、鈍くさい私は何気なく地雷を踏んでしまいそうで、やっぱり心配・・)対面すると萎縮してしまってオドオドするばかり・・。
そんな時でもどんな相手でも、受動型ASは持ち前の超鈍感力と論理性で声を荒げることなく何事も解決してくれる存在!
その利点だけの共依存ですんでいるうちはよかったものの、
受動型ASの刃が妻である私に向いて初めて受動型ASの真の恐さ(非情)を知りました。先生の辛辣な言葉も納得です。
でも(受動型AS)息子を育てていて、どうしてこんなにも人に依存しきれるのか不思議であり、不憫でもあります。(完全にコントロールされていますね、私・・。)
>この「ナンギ」には、「それ以上に突っ込んで話を深められない」という作用があり、周囲の人の意欲を失わせる結果になる。
話が通じない旦那は、やはり面倒くさがり、私に意見させることを止めた。
受動型ASは自分から共依存に持ち込んでおいて、自分に意見をさせまいと、「面倒」なんてことを言うもんだから、
人など必要でなかった私の目を覚まさせることになった。
まるで催眠術にでも掛かっていたかのように、「1・2・3・ハイ!」で目覚めてしまった。
このように、受動型ASは色々な場面で墓穴を掘ってしまうように感じる。
裏表のないADHDがただ単に話を聞いてやっただけなのに、「俺の話を聞いてくれる人」と勘違いしたことから始まったお付き合い。
誠心誠意私を優しく受容してくれた受動型AS。
今度は、私がそれを『愛』だと勘違いしてしまった。
ここで、共依存が成立してしまったんですね。
そして、次は私が誠心誠意尽くした。苦しみながらも、抜けられない日々を送ってしまった。
ここまでくれば、もう受動型ASの思う壺だったでしょう。
そして、だんだん大きな態度になっていき、
ついに『面倒(なんぎ)』と言うことばで、わたしの目を覚まさせることになった。
所詮赤の他人の旦那だから、『面倒』と言われてまで一緒に居れない。
かなりの修羅場ではあったけれど、離れるきっかけになったことは、本当に良かった。
しかし、娘はそうはいかない。
母親(私)に完全に依存している。
>受動型ASにとっては、周囲に一人も愛着の対象が居ないほうがずっと表面上の社会適応が良くなるのだ。
・・・・・というのは、旦那をみていると、実感できます。
私がいないと生きてはいけないだろう…というほど、私に依存していたのに、別居後は一人で自立して生きている。
実証済みだからといっても、娘をどういう形で離すかが問題です。
YANBARU先生のような方に、側で具体的にアドバイスを受け続けたらいいのに・・・
と思いながら、子どもの対応に四苦八苦している状況です。
息子AS。夫AS傾向。
○自分の自発的な行動が求められるときはすべて・・。
2年前、息子が不登校になるも、夫は無関心。私一人苦悩して、電話のやり取りで心配になった母が田舎から上京。
夫に遠まわしに言ってくれた「不登校になって、大変ね」の言葉に「いえ、妻が頑張ってますから」・・何か言うと「妻がやってますから」を連呼。自分で「夫の存在」を無いものにしている。
○「それ以上に突っ込んで話を深められない」という作用があり、周囲の人の意欲を失わせる。
「でも、一人では大変だし、精神的に参ってるみたいだから、助けてあげてね」の言葉には「どうやればいいんですか?」「なぜですか?」「と言うので、母がやんわりと【妻や子供の支え方】を教えたらしいが、「???」という反応で・・・。
○「自分(父親)の責任」を認識も実行も出来ない。
結局何もしてくれず私も息子も放置。・・・夫は福祉の仕事をしているんですが、マニュアルに無い事や、全く同じ状況の事例が一語一句載っていないと、臨機応変に対応出来ないらしい。
続きです。
問題事に関して「自発的に」を求めた時・・。
例えば、息子がイジメにあっていた時(正確には、ASの五感の強さ、言葉の偏りで、些細な事でもイジメと感じる)・・。
私が「学校へ行って、先生と話し合おう」と言っても「なぜ?」
医者に相談して、医者から「学校へ行って」と言われて、首を傾げながら、渋々出向く。
例えば、現在の息子のネットゲーム依存に対して・・。
特に何もしない、言わない、叱らない。
息子は、学校帰りは「ネットゲーム」で頭が一杯。帰宅後、直ぐPCに向かい、夜の12時半まで。その後にお風呂。宿題は夜中の1~2時。眠りに付くのは3~4時。自分のゲーム時間を削られる事は、1分1秒でもダメ。
ところが、人にPCを明け渡せねばならない時は、1分1秒でも多くやろうと、グズグズする。
それなのに、夫は、ネットゲームに飽きたら、新たにゲーム機を買ってあげる気持ちさえある。
ゲーム時間に、規則をつけようと躍起になって息子に嫌われる私が常識的でないのか??
息子に全てを任せ、「我慢させるのは、良くない」と、何でも思い通りにさせてる夫が常識的なのか?
あれ?話が逸れてしまいました。ゴメンなさい。
要は「ゲーム依存」から「ゲーム廃人」になってしまったとしても、メンタルケアが出来ない夫は、また、「妻が頑張ってますから」と、私に責任を負わせるのだろうか・・と、先を読みすぎて悩む、悪い癖が付いてしまいました。ASの成せる技?
思うに、受動型AS=ウィルス だとすると、ある細胞(妻)に寄生して自分の遺伝子(子)を複製して残しさえすれば、宿主はもう必要でない・・ちょっと生々しく感じるけれど、失礼!・・という事でないかしら?
しかも、遺伝子の出来は特に問わない(責任なし?)
夫の本音〈無意識だと思うけど)として、うるさい妻は「ナンギ」だから、もう要らないんだと思う。子だって出来さえ問わなければ、ウィルスとしてたくましく生き残るはず!
でも私は息子を更なるウィルス?にしたくないから、息子にパートナーは要らない(と、今から息子を洗脳してる愚かな母です。)
そう言えば、受動型ASの息子も夫も「できない」という言葉をほとんど使いません。実際には、ありきたりの事が普通にできないのが受動型ASで、本人達もそれをわかっているはずなのに「できない」「困っている」「ヘルプ!」は絶対に言いませんね・・。代わりにやっと出てくる言葉が「メンドウ」です。
ジャイアンも、これらの言葉を言えなさそうですが、根底には強い意志(プライド?)が感じられます。
受動型ASが「できない」を言えない理由はなんなんだろう?
(息子に聞いても、「出来ない」の定義?云々になってお話になりません。)
わたくしの育った地域でも「ナンギ」は会話に出てきます。
ただ、面倒という意味合いではなく例えば『「難解な」「厄介な」奴だな』の意味合いで使います。
最近の自分自身の職場でのこと等などでの周囲との人間関係を振り返って感じることは
…『お前、ほんっとうにナンギな奴だよな』
っていうことです。
自分が「ナンギ」です、もう本当に。
この存在というか
脳のツクリというか。
> 受動型ASは依存できると思った相手には、徹底的に理不尽な要求をし続ける。他方「自分」が存在せず、「あなたはどうしたいか?」と聞かれると答えられず、結果、「自分の責任」を認識も実行も出来ない。
気づかないうちに『相手(周囲)に、「(私はけしてそういう意図ではなかったとしても)結果的にそういったことをしている』こともあると予想する。
いや…絶対ある、哀しいけれどもんのすっごく嫌だけれど、(そこがあなたのダメなところなんです!何度言ってもわからないから言うんです!と言われたらワタシヲコロシテクダサイと叫びたくなるけれど)
でも事実だ。
自分のない脳を抱えてそれでも生きようとどうやったら思い続けられるだろう?
自問自答しています。
一次障害と二次障害のエントリーにそろそろコメントできそうなので、しようと考えています。