のび太が依存になってしまうのはなぜかずっと考え続けていたが、思春期のケースについて考えていて一つ気がついた。
「アスペルガーの家族の影響下で育つとのび太も依存的になる」。
のび太は本来ドライなADHDなので、例えばADHDばかりの環境で育てば、いくら他者が仕事を放置して帰っても「私の仕事じゃないから」と平気で放置して帰れるようになるはずだ。
のび太(だけでなくADHD)が育つには、十分に放置されることが必要なのだ。
のび太(だけでなくADHD)の場合に、「せっかく私がやろうとしていたのに親などからやれと言われたからやる気が無くなった」「親の言い方が嫌だからやる気が無くなった」という発言が聞かれて、「やらない言い訳」の典型のように受け取られているが、私はこの発言には意味があることが分かってきた。
つまり、本人から見て「現実的な必要」から「人からの要請」に変化したということだ。
私はAS環境というのは、言葉にされること以外に非言語的な指示や確認などの見えない情報が常時多数飛び交っている環境であると理解する。
のび太にはその全部は見えないが、その空間での行動パターンだけは身に着ける。
一方では(これが非常に重大なことだが)「放置されることが無い」というパターンで、自分が好きなことをしても嫌なことをしても「必ず何か言われる」「放っておいてくれない」「弄繰り回される」ということに慣れてしまう。
他方では、「ボーっとしていたら誰かが指示してくれる」ことも多く、結局「指示や声かけがないと動けない」パターンになることが多いのだ。
これがのび太が依存的になる現実的なプロセスであると私は考える。
物事の必要性が「現実的な必要性」ではなく、「人からの要請」の形で常に体験される。何もしなくても誰かがカバーしてくれたり、一緒に行動してくれたりして自分で全部考えなくてもことが済む。
となれば、特に興味が無い嫌なことの場合、「誰かが声をかけてくるのを待つ」という行動パターンになるだろう。
これは依存に他ならない。
逆に言えば、のび太が成長するには放置されることが必要なのだ。
自分と現実的な必要だけがあり、「やらなければ自分が困るからやる」という単純な図式で嫌なこと、面倒なこと、興味の無いことを乗り切るパターンを身に着ける必要があり、そのプロセスにチャチャを入れられたら困るのだ。
これが放置の意味である。
依存的になったのび太は、「現実的必要で行動する」「自分がやりたいことに必要だから行動する」というシンプルな行動パターンを再インストールする必要がある。誰にも何も言われない自己責任の環境が重要なのだ。
ついこの前まで消極的なタイプの暴君型ジャイアンだと思っていたのに…
頭痛いです。
落ち着いたら考えてみます。
自分の記憶は本当あてにならないものです。
他人のことを悪く言っても、すぐに忘れてしまうから自分の発言に責任が持てない。
責任が持てないまま、自分の気付かないうちに他人を傷付けてしまうのが嫌だから、「徹底的に受け身で自分からは何も言わない姿勢」が身に付いたのだと思ってました。
ただ、この記事の内容は、何だかシンプルでとても分かりやすかったです。
ありがとうございます。
放置環境です。
しかし私は母に「放置したょ」と言われるまで放置されていたことに気付きませんでした。
ええっ?と驚く自分がおかしい。
しかし苦労はしてもせかされるよりははるかにいいです。
せかされると・・・・・
どうせ苦労してることにも気付かないんだし・・
経験することはかけがえのないことです。
また手を出されたり、やってくれて自分が見ていないことなどは「今度やる時に自分は出来ないのではないか」と気に病み、かえって苦手になってしまったりします。
これは非常にまずい、一番避けたいことです。
必ず何か言われるとか放っておいてくれないとかって、迂遠な言葉でうっすらとお前が悪いみたいな、でもやっといたとか、改心しなさいみたいなことでしょうか。耐えられない無理。
放置環境で本当に良かったです・・
>私はAS環境というのは、言葉にされること以外に非言語的な指示や確認などの見えない情報が常時多数飛び交っている環境であると理解する。
>一方では(これが非常に重大なことだが)「放置されることが無い」というパターンで、
確かにAS環境ってこんな感じかもしれませんね。
私とASの子ども2人の関係は、2人が4~10歳くらいの間に、私がカウンセリングを受けることにより、関係が改善して、その後はスムーズになりましたが、ADHDの子どもがいたら、私にとって、より難しい子育てになったと思います。
このコメントは非公開希望です。
先生が「ASの子ども」も本来「放置」が良いとお考えでしたら、今朝の、「私のこの記事へのコメント」は不掲載になさってください。
先生、ありがとうございます。
もう間違いないですね。
(過去のことは記憶が曖昧なので触れませんが)今現在、衝動・表面的な認知・(妬みや嫉み、調子に乗る等の)ジャイアンの中心志向の部分が全くありません。
なのでACかとも思いましたが「自己評価は低いけど、それが普通で当たり前」といった感じなので、違うようですね。(イライラや鬱は依存が原因かな)
>「放置されることが無い」自分が好きなことをしても嫌なことをしても「必ず何か言われる」「放っておいてくれない」「弄繰り回される」ということに慣れてしまう。
情緒障害が酷かった学童期は特に過干渉だったと思います。
親は「放置してた」と言ってますが。(以前「お前なんか産まなきゃ良かった」的なことを言われましたが、言った本人は忘れて言い逃れするし、そんな親を何とも思わない自分はきっと過干渉な環境に慣れきっていたのでしょう。ドライだな)
徹底的に受け身で、ASと区別がつかなかったのも頷けます。
「人からの要請」と「人に必要とされたい」って、確かに似てますよね。
このタイプののび太型で決まりです!
>私はAS環境というのは、言葉にされること以外に非言語的な指示や確認などの見えない情報が常時多数飛び交っている環境であると理解する。
>一方では(これが非常に重大なことだが)「放置されることが無い」というパターンで,,
ああ、これは私の母だ、と思いました。以前からAS疑惑濃厚ですがとにかく私が子どもの頃は、子どもの後をくっついて回ってああせいこうせい、と指示ばかり口やかましい。子どもは当然大人ほど上手にできないので「バカ」「下手くそ」「なんにもできない」なんてケナしまくって、さらに軽く頭をはたかれたりもする。かといって「どうやるか」をレクチャーすることが下手で、教えるのを嫌がる。反論するとパニック&逆切れ。「出て行け!」などと騒ぎ出す。こんな毎日を繰り返して家族はぐったり。
家族全員に煙たがられていることに全く気づかないで「お母さんが働きにでたら子どもがかわいそう」などと本気で思っている。今になって母親になった私に対して「働くのは子どもがかわいそう」などと言うので「ある程度大きくなったら、自由にしたいんだから母親がつきまとうとウザいものよ」と言ったら驚いており、ショックだったようだ、、、。家族全員にウザがられているのに全く気づかないって、、、全然空気がよめないんだよな、、、。めったにない母不在の日は父と子供達にとってなによりの休息日でした。
知人や友人で、ASの母親が「ASの子ども」と「ADHDの子ども」の両方を持っているケースが結構多いのですが、ASの子どもはお母さんにペタッとくっつき、ADHDの子どもは家を出て一人暮らしをし、自由奔放に生きているパターンが多く、それぞれのお母さんたちは、ADHDの子どもの子育てに戸惑いを感じている様子がよく見られます。
幸い、支配が強力なAS母ではなく、おっとりして大人しげなAS母なので、ADHDの子どもたちはのびのびと育っているのかもしれません。
他に1人、元学級委員タイプの強力なAS母の家庭がありますが、そこでは子供たち2人が「お母さん、怖い」と言って自分によりつかないと言って、寂しそうにしていました。でも自分を変えるのは嫌なのだそうです。
追記です。
上記の「お前なんか産まなきゃ良かった」発言は、ジャイアン母によるもので、AS環境とは一切関係ありませんでした。
失礼致しました!
話は変わりますが、今朝の新聞に発達障害に関する記事が二件載っていました。
一つは「ASDの人は共感性に乏しいといわれるが、似た傾向のある他者には共感できる可能性があり、同じ傾向のある人が支援者となる方が、お互い理解が深まって良いかもしれない」という内容でした。
これって「AS同士は妥協できない」の記事の内容に似てますよね?
興味深く読んでしまいました。
ちなみにもう一つは「ストラテラ」に関する内容で、効果や問題点を挙げていました。
問題点の中に「成人の発達障害は診断が難しく、定型者に対してストラテラを処方してしまうことがあるので、ADHDの診断には慎重になるべきだ」とあり、ちょっと複雑な気持ちになりました…
上記のhiroさんのような環境はのび太やADHDにとって、理想的な環境なのでしょうね。
普通は家族にASが混じっていることが多いから、何らかの影響を受けてしまいがちだと思います。
>依存的になったのび太は、「現実的必要で行動する」「自分がやりたいことに必要だから行動する」というシンプルな行動パターンを再インストールする必要がある。誰にも何も言われない自己責任の環境が重要なのだ。
どんなタイプの人も理想的な環境で育つということは少ないので、後から再インストールして、認知の修正をする必要があるのかもしれませんね。
この再インストールができた人は幸せだと思います。普通はそういう機会にも恵まれず、そのままの傾向でずっと行ってしまう場合も多いかもしれません。
僕の場合でも自分を自分で感じ考え判断し行動できるようにするために独りで何もかも調べて決断し、その失敗の時の責任も負うという状況が必要でした。
学校に行かなくなってから、自分だけを頼りにする他ないというところまで行き詰まったのが、良かったのか。
もっとも学校には戻らなかったし、自分は自分で教育するって感じで生き生きとはしてます。ほとんどの人は邪魔者でしかない。社会性は育ってないと思います。逆に社会には十二分に警戒しなくてはいけないとおもいます。
あまがえるさん、こんにちは。
このコメントにはお返事不要です。(以前に横レスはニガテだとおっしゃっていたので)
あまがえるさんのマイペースぶりはいいなあと昔から思っていました。
>ほとんどの人は邪魔者でしかない。
この「邪魔者」という感じが「空気」みたいな感じになるとよけいにご自分が楽かもしれませんね。
この場合の空気は「場の空気」という意味ではなく、「地上の大気」という意味での空気です。
>自分は自分で教育するって感じで生き生きとはしてます。
この感じ、すごくいいなあと思いました。
会社では元保育士の先輩社員に「どうやったらこういう子になるのかしら。お母様はどのような子育てを?お会いしてお聞きしたいわ」など言われておりました。猫かぶっていたわけではないのですが。
この人は褒める意味で言っていたので私は返答に困りました。
「は?はは?大した人じゃありません」
などと答えていました。
家では「全部お前のせいだから」と母に言われておりました・・・
全部お前のせいにするのはいいですが、もうちょっと説明があればよかったとは思います。
母は泣きませんが学校の先生は涙を流していたのを憶えています・・
あと、放置系の人との人間関係しか築けません。
非言語表現についてですが
視線
私を見ていると思うがもしかしたら違うので後ろや周りを確認します。相手の呼びかけがあるまでは自分向けじゃないと基本的に思います。自分が見ている時はただ見ているだけ。
ため息
人のため息は、疲れたんだな・・という認識でどうしたのと確認します。自分はため息だけをつくことはありません。アイエエエ・・と声が出ます。ため息っていつつくのだろうか。
舌打ち
舌打ちはされると真似してやってみます。
よく女の子はキャーと言いますが、私はどうしても言えなかったので家で練習しました。でもこれも使う時が無い。
そういえば犬をなでていると、母は
「なでてないで散歩に行きなさい。そのほうが犬は喜ぶ。いじくるといじわるになるからしてはいけない。」
と言っておりました。
人間をなでるのは違和感があってどうも変です。
ということは
母はジャイアン系ですが、意識的にも非言語表現を断とうとしたかもしれない。自分が苦労したその部分を。
全て私のせいにすることで、失敗や成功や社会的な評価を私のものにしてくれようとしたかもしれない。
そうして子を社会へ参加させようとしたかもしれない。
放置することで自分から子を守ろうとしたかもしれない。
なあんて。
だから!
全部お前のせいだから!と私に言うってことは!
さっさと全部自分との関連付けを行え!
ということですね!
すいませんすいません
以前に何度かメールでご相談させていただいた者です。
わたしが自分自身のことでしらずしず悩み、後藤先生にお話をきいていただいていたりするうちに、奇妙な人物と交際して、複雑性ptsdに何年もくるしむというおもわぬ事態になってしまいました。
あまりに理不尽な虐待とフラッシュバック、強烈な身体症状に耐えられず、二年ほどまえに自殺未遂をして、奇跡的に生き返ってからいまようやく麻痺とともにほんの少し落ち着きをとりもどしつつあります。
その奇妙な人物については、そのひとの書いた手紙やエピソードから、精神分析の先生やお医者さんから、自己愛性パーソナリティー障害かアスペルガーだという判断をききました。
そこで、その人物がわたしの家族にかかわったことで、わたしの母と姉におこった狂気のような状態、というのも、ストーカー化した彼の味方にわたしの母と姉がついて、泣いたり叫んだりしてわたしを憎しむ、という信じがたい異常な状態が一時期つづきました。
ある種のマインドコントロールだろう、とか、母と姉の心理的な欠如部分にそのひとがぴったりはいりこんだのだろう、とかいう説明を受けましたが、いったいあれはなんだったのかといまだに混乱してしまいます。
後藤先生はいったいどうお考えになられるでしょうか。
のび太と依存ですが凄い問題です。
私も親から買い物を頼むが最初の頃は良いですがだんだん、外に出ると「帰りに○○を買ってきて」、「人に押し付ける」と馬鹿らしく嫌になりましたよ。 親の言い方で「一つの訓練だから」と言うが当事者から見たら子供扱いで見る親のやり方に許せないです。 短気&完全主義である父親は嫌いです。何回でもケンカします。父親は嫌いです。上から目線です。 私と兄弟と奥さんと親戚から敬遠される。 父親は、無視されると攻撃的な言葉&暴言などになります。留意点です。治そうとすると口でこんな言い方だから、年齢(60代だから)などの言い訳です。父親は認めない性格なのでアスペルガー&ADHDがあります。
後藤健治先生などからブログなどでメッセージを発信してほしい。 研究してほしい。
(すみません先生、最後に一言謝罪させて下さい)
これまでのコメントの中に「追い詰められている・助けて欲しい」と言った内容のものがいくつかありましたが、その中には「ストーカーが私への嫌がらせでコメントしたもの」もありました。(「切羽詰まってるわりに何が言いたいのか伝わりづらく、かえって余裕すら感じる」印象のコメントです。ちょうど二つ上↑のコメントのように)
HNはコロコロ変えていても、微妙に私のコメント内容やコメントするタイミングに被せてくるので間違いないと思いますが、このストーカーはよほど先生のことが好きで「先生に愛着がある」のですね。
私が先生に当ててコメントするのが気に入らないらしく、嫉妬心から私を攻撃するのでしょう。
なので私がこのブログを去ればストーカーのコメントは無くなると思います。(私もストーカーと離れられてせいせいします)
先生、お騒がせ&自分のせいでコメント欄荒らしてしまって、申し訳ありませんでした。
先生には「周囲に気を遣いすぎず、もっと自信を持って奔放に生きなさい」と教えられた気がします。
本当にありがとうございました!
それでは今度こそ…(⌒∇⌒)ノ””
あのーところで先生私は道産娘さんをブーストしたんですがまずかったですか?
では質問は無いものとして進めさせていただきますと、
私の人生はASでない依存型の人に非常に縁があります。私はチャチャを入れられるということは大嫌いに育ったんですが、どうしても依存型の人は何かしてくるので振り切らねばなりません。しかし良いカモ人生は変わらない。そのことに長年苦慮しておりました。
そこで私に利用出来るものは私でしかないのでこれを利用し、つまり私の面倒を見てもいい衝動と良いカモとしての重力を利用して依存型の人のスイングバイ効果をねらい、有意味の世界へ放り出そうというそういう大ざっぱな計画でやっていこうかと思ってます。
比喩が分かりにくいですか?なんとなくつかんでいただければ本望です。
具体的な方法?それは人の状態を見て・・
この記事の内容とは関係なくて申し訳ありませんが、ちょっと失礼します。
ネットでのハンドルネームの使い方についての厳密なルールはないので、基本的には自由に使われていいと思いますが、今回感じたのは、私自身は「一貫性」というものを重視するタイプだなと改めて自覚しました。
そこで、私がこのブログで過去に使っていたハンドルネームをここでお知らせしておきたくなりました。誰のためでもなく自分のためです。
初期から2011年5月12日まで、「黒すりごま」というHNで投稿しておりました。
その後、1年、間を空けて2012年5月13日から「アメジスト」というHNで投稿を再開しました。
ハンドルネームの細かい変更は、完全に独り言の場合は、ほとんど問題にならないと思いますが、横レスで他のコメント者とからむことが多い場合は、場合によっては「混乱を引き起こす」可能性があると思います。リアルほどではないにしろ、相手のイメージをある程度考えて関わりますので。
でもこれはあくまでも私の感覚からの感想で、皆さんに押し付けるものではありません。
>アメジストさん
パソコン壊れておりましたので遅くなりましてすみません。
アメジストさんは黒すりごまさんだろうと思っておりました。
何故わかるのか私にも分かりませんが。あまりにも字を見過ぎなんでしょうか。でも私には字しかないですし。
ASの人は他動詞を使うとか、見所はあります。
ところでアメジストさんの解釈は私の実際とは違いましたのでお知らせしておきます。
スイングバイのほうのコメントは私のこれからの人生で私が良いカモとなった時の対策をイメージしたものです。
今までの人生では対策が無かったもんですから。何故そうなるかも分からなかったし。
こちらのブログ上でやることではありません。
私には道産娘さんと関わり続ける意思はありません。
自己診断という仕事も終わり、先生を応援したい気持ちはありますが、言いたいことが出尽くせばいずれ私のコメントは減ります。
ふつうのスイングバイで惑星と探査機の関係性というものはありません。惑星は公転しているだけです。探査機が惑星を利用するだけです。
探査機は先の目的地に向かい自ら途中の惑星から離れていきます。
惑星のほうから探査機に近づくことはあり得ません。
詳しくはJAXAのHP等でご覧下さい。
そして今までの私の人生において私とASでない依存型の人の関係がこれにぴったりだなと思い、私を惑星、依存型の人を探査機に例えました。
私は不謹慎な人間ですので不快になられた方には申し訳ありません。
スペースシップ2号さんのようにとってなおかつ笑っていただければそれで本望です。
私の人生においては今までもそうでしたがこれからも、自分の必要なことをするだけで、それは直接誰にも関係ありません。二次的には関係します。そして人の考えは私には読めません。
それを惑星がただ宇宙で公転する様に見立てました。
(続くです)
(続き)
もし依存型の人が離れていかない場合、離れていくように何かしら別の建設的な目的を持たせる必要があります。また怒るということは自分の求めているもの守りたいものを知ることが出来る良い機会です。
それを目的地に向かう探査機に見立てました。
比喩としては離れ過ぎ、大ざっぱ過ぎるかもしれません。
人間ぽくもありません。
しかし私にはぴったりなので。先生のロケットの比喩も。
目的を持った探査機がいい角度で惑星から離れていけばスイングバイは成功となります。
私の実際の人間関係はプロのジャイアンとのび太で出来ていますのでこれを維持していきたいと思っています。
これまでの流れをまとめてみますと。
私はこちらのブログへ自己診断をやりに来た。
道産娘さんは以前から私をASASと言ってうるさい。違うと言っても聞かない。自分のいいような答えを欲しがるこういう人は、私に嘘をつけと言っているのだと私はみなす。穏便にしようとモヤモヤしたが、キレてしまいJETからのび助またJETになり、関係無いが死体となりhiroに至ります。
道産娘さんのコメントを参考にしたのは最初だけです。
根拠も示さず思い込みで曲解して言ってくるのがほんとに嫌だった。
こちらの記事にあるようなことです。
孤立型AS記事での私のコメントへの曲解も解せない。
ここにいない孤立型さんの話だと言っているのになにがすみませんやね。
それも他記事のコメント欄で。あり得ない。
それを何事もなかったかのようにするASの人も分からん。
ただ愛着というのはそういうものらしい。
他者の争いが嫌だというのも感情移入が無いからではないかと思う。
ジャイアンの躁うつ病のメカニズムもうなづける。
また何故道産娘さんは、私が指摘してから自分をのび太と関連付けるようになった?さんざん人の診断をしている間分かっていなかったのだろうか。解せない。誰かに言われるのを待っていたのだろうか。ずっと指示待ちだったのか。
依存というのは「合わせて欲しい」「合わせさせて欲しい」ということか。
スイングバイは必要無いかもしれない。私は合わせられない。
>道産娘さん
道産娘さんに指示を出してあげます。指示待ちの人だから。
全て断れ。
謝って終わりにするな。
謝れなかったことを人生に持って行け。
先生は記事に関係無くても、どこまでもコメントを載せてくれるだろ。
それも断ってみろ。
自分に合わせてくれる人を求めているうちは依存なんか治らん。
hiroは終了いたします。
hiroさん
コメントありがとうございました。
>穏便にしようとモヤモヤしたが、キレてしまいJETからのび助またJETになり、関係無いが死体となりhiroに至ります。
上記の記述、正直に書いてくださり、嬉しかったです。私は全員が別人だと思っていました。
hiroさんが、自分のことをより深く知ろうと思って、このブログに来ているのは、私と一緒だなあと改めて思いました。
hiro様、唐突なコメントで大変失礼いたします…
アメジスト様の『返し』を拝読し(←表現、間違った使い方しているかもしれません…)
今更ながら『ああ、自分もきちんと文字で伝えないと伝わらないんだよな、そりゃそうだろう…』
と思い至りました。
エントリー「孤立型AS」でのコメントを再読いたしましたら
わたくしがJET様のつぶやき的なコメントに触発(インスピレーション)を受けて自己分析がさらにすすんだことをコメントしています。
しかし
そのあとにJET様が追記的補足的なコメントをされたその内容には
『自分なりに感じ取ったものがある』にもかかわらず、わたくしはそれを何も返し(反応)ていませんでした。
…改めてお伝えさせてください。
>written by JET
/ 2013.06.10 22:01
での、
>私誰にもからんでないですよ
…はい、そのことはこのコメントを拝読した時点で
すでに(少なくとも)わたくしには通じていました、
それよりも前の補足的なコメントで…既に理解していました。
ああ、ここの誰のことでもなく身近な人のことを指してコメントされているんだな、と。
けれど……
わたくしが、そう理解していますよということをきちんと文字で伝えていなかったことが
もし
モヤモヤさせてしまっていたり、あまりいい心持ちにならなかった要因であるなら
申し訳なかったです、…すみませんでした。
改めて。
あのコメントはひとつの自己分析の切り口になりました。
それは本当に感謝です、…こんな場で(コメントの流れで便乗のように)お伝えするのも
『よろしくないこと』なのかもしれないのですが(だとしたら…何の謝りにもなっていませんけれども…(謝))
JET様、そしてhiro様のまっすぐな言葉が私の中の言語化につながります。
ありがとうございます。
蛇足(?)的に。
わたくしも同一人物だとは思ってもみませんでした…知れてよかったです。感謝です
hiroさん
誤解されたままだと気持ち悪いので、いくつか申し上げておきます。
>道産娘さんは以前から私をASASと言ってうるさい。違うと言っても聞かない。自分のいいような答えを欲しがるこういう人は、私に嘘をつけと言っているのだと私はみなす。
「うるさい」と思っていたのですね。
適当に受け流してるものだと思い、全く気付きませんでした。
不快にさせてしまい申し訳ありませんでした。
ちなみに、根拠は示しましたよ。
「石が悪い発想」「詩的象徴的表現」「人(特にジャイアン)へのこだわり」等が、JETさんのコメントから伺えましたから。
決め付けるつもりはありませんし、違うなら違うで構いませんが、ご自身が「依存的&無責任」なことを言っていることには気付いて欲しかったです。(余計なお節介でしたね)
孤立型AS記事の時は本当に私の早とちりで、JETさんより、ちひろさんのコメントの「傲慢・卑怯」という単語から関連付けて「私のことを言っている」と勘違いしてしまいました。
驚かせてしまい、申し訳なかったと思っています。
(続きです)
>また何故道産娘さんは、私が指摘してから自分をのび太と関連付けるようになった?
これは間違いです。
(他記事で悠々とさんからもご指摘ありましたが)この記事を読むまでは、私は自分をジャイアンだと思ってました。
合理的なのび太が依存的な性格に育つ等あり得ないと思ってましたから。
ところがこの記事を読んで、養育環境、衝動性が目立たず受け身で自分から動けないところなど、何から何まで自分に当てはまっていたので、これはもう間違いないだろうと思っただけであり、JETさんに合わせた訳ではありません。
ただ、後々「道産娘さんはKYだからのび太じゃないか?」といった発言や、ガス無しライターのエントリーでFさんの同僚を「お姫様症候群のジャイアンでは?」と指摘されていたのを思い出し、「やっぱりJETさんて鋭いよなぁ」と思いましたよ。
>全て断れ。
謝って終わりにするな。
謝れなかったことを人生に持って行け。
先生は記事に関係無くても、どこまでもコメントを載せてくれるだろ。
それも断ってみろ。
お断りします。
「全て断れ」って「ASのように極端な発想」ですね。
理由もないのに断ることなんてできません。
(最後です)
相手が誰であろうと、「悪いと思ったら謝る」「ありがたいと思ったら感謝する」
ただそれだけです。
敵味方や狼的同族意識、また人を見て(志向して)言うことを変えるなんて芸当、私にはできません。(それこそ面倒です!)
JETさんからの鋭いご指摘で、自分の気付かなかった一面に気付かされたこともあり、感謝の気持ちはありますが、これは「依存」でも無ければ媚びへつらって合わせている訳でもなく、正直に「お礼」を申し上げているだけです。
それは先生や他の人達に対してもそうです。(もしかして、JETさんは先生に愛着があり、私のことが邪魔なのかしら?だとしたらご安心あれ。すぐにずらかりますから)
最後に「先生はどんなコメントでも載せ続ける」とお思いなら、「それは甘い」と思います。
みさんが退場命令を出された時は「彼女を止めるため、そうせざるを得なかった」のでしょうが、Paulさんの時は、うっかりするとそのままスルーされそうな雰囲気でしたよね。
でも先生は、彼の「共依存正当化発言」を見逃さなかった。
私達のコメントを、毎回目を光らせて厳しくチェックしてるんだと思います。(なので投稿時はいつもビクビクしてます)
こちらのエントリーを読んでから、これは一言書かなくてはならないと強く思い(初めて!)数日言葉を探していました。
まず前提として、私の理解ではのび太と依存のエントリーではのび太とそれに依存する人たちの話、のび太と依存2では依存的に暮らしているのび太の話…です。
さて、ジャイアンに関係するエントリーでコメントした事がありますが、私はAS母に依存するのび太でした。
なぜ依存的になっていたかを今考えると、「現実的な必要」を自分と結びつける事が出来なかったからだと思います。
子供が成長していくにつれて、解決できる「現実的な必要」は増えていきますよね。
その時必要な、「現実的な必要」に対応すべきなのは自分だという自覚(エントリー内では自己責任とあります)が私には決定的に欠けていました。
私の養育環境は、”AS環境”と言い切るほど極端なものではなかったと思います(KEIさんちに近い雰囲気)。
主に①母の溺愛②私の判断が遅いために他人が待ちきれずカバーする…といった方法で尻拭いされ続けていました。
標準的な発育では必要ないためか、自覚を促すために言語的サポートをしてくれる人はいませんでした。
自覚がないまま成長すると、受動的に他者を利用しつつ「まあなんとかなる」と思い込む…つまり結果的に依存するようになります。
(つづく)
ただ、私は依存的なのび太の存在はそんなに大きな問題ではないと思っています。
なぜなら第一に、そこには必ず依存させたいと思っている存在があり、依存して不幸になるのはむしろのび太自身だけだからです。
依存状態では、行動の動機が純粋な好奇心と「人からの要請」のいずれかしかないと思います。たとえそれに慣れたとしても、必要でないと思っている事を要請されるのは相当ストレスです。
(「人からの依頼」であれば必要を認識できる可能性がありますが、依存状態ののび太ほど使えない…気が利かないし話聞いてるのかわからないし…ヤツはいないのでそうそうないでしょう。)
私の母は嫌々でも実行させて、褒める・報酬を与える等の方法を好みましたが、全く納得できず反発的な感情を抱き続けてきました。
第二に、「現実的必要で行動する」「自分がやりたいことに必要だから行動する」というパターンを再インストールするのはのび太にとってそんなに難しい事ではないと思っているからです。
そもそも「現実的な必要」を感じる経験を得にくいせいで依存的になっているので、それが出来るようになれば比較的容易に脱出できると思います。
慣れるのに時間はちょっと必要かな…。
私の場合、「現実的な必要」に自分が対応していいのだと知った時戸惑いましたが同時に新鮮な感動を覚えました。自分がそんなことをしていいと知らなかったんです^^;
また生活の中にちりばめられたたくさんの小さな工夫に対し、誰かが「必要」に応じて解決策を考えた結果だと知り敬意を感じました。
先生は放置がいいよと書かれていますが、じゃあなんで放置がいいかって言ったら①「現実的な必要」を感じやすいし、②それに対応するのが自分しかいない状況を作りやすいから、だと思いました。
方法はなんでもいいんですが、この2点が大事です。
(つづく)
最後に、エントリーでなんだか違うかもと感じた部分についてお話しします。
“特に興味が無い嫌なことの場合、「誰かが声をかけてくるのを待つ」という行動パターン”というのは、依存的であるかどうかとは関係ないと思います。
この時のび太としては単純に「現実的な必要」を感じていない(永遠にやる気が無い)か、「現実的な必要」を感じているが興味が無い・やりたくないために先延ばししているだけだと推測します。
のび太じゃないADHDさんと違う点としては、自分の立場や状況に応じた動機付けが不得意なところです。社会生活が長くなれば、合理的な動機付けもできるようになると思います。
「待っている」ように見える場合…もしかしたら昔の私のようにやる気はあるのに判断が遅いだけかもしれません;;
とにかく初期ののび太の世界はもやもやとしていてよくわからないことが多いです。ルールブックを読んでわかった気になる…なんて器用なことはできません。(なんで?と思い続けるうちに忘れます。)
体験したことと、言葉で教えてもらったことを上手に組み合わせてやっと定着していきます。
もし期限があって待てない状況で代わりに誰かが対応する場合、「待てないので私がやるけれど、こういう場合はこういう対応が必要」と教えてもらえたらとても…いいなと思います。面倒でしょうけど。
長くなりました。これで終わりです!
このコメントに関しては、お役に立てることでしたらお答えします。ありがとうございました。
私は多数派の人達とは深く関わったことがなく、知り合いのほとんどが受動型ASか依存型ジャイアンなのですが、何故多数派に興味を示さないのか分かりました。
どうやら「表面的」「石が悪い」という考え方の人に惹かれるようです。
特に相手が受動型ASの場合、何か揉め事があった際「悪いのは自分だ」と原因を特定しやすいからだと思うのですが、これもAS環境に慣れきってしまったからなんですね。
「自分のせいだけど仕方ない」といった感じで、自己評価はほとんど下がりませんが、モヤモヤとしたものが常に残っていました。
「あなた(私)が悪い」と指摘して貰えただけで、KYで周囲の状況が分からないという不安を回避し、自己突っ込みをごまかし続けていたのだろうなと、今は思います。
よく、自分の意思とは裏腹に「ドM」に見られていたのも頷けますね(苦笑)
…少し訂正します。
元々「石が悪い」という考え方の人と関わることで、「この人は自分の責任を自覚できないんだな」と割り切ることができ、何を言われても腹が立たないというのもあったかもしれません。
ただ、「合理性を重視せず、他者の考えに依存的だった」ということはよく分かりました。
もう一つ!
最近、自己愛性人格障害でAS(おそらく受動型)と診断された男性と知り合いました。
最初は暴力的で非言語的に相手を動かすことしか考えておらず、こちらが質問しても嘘やごまかしばかり。
以前の私なら言い返すのが面倒で、そのままズルズルと流され続けていたでしょうが、今回ははっきりと言いました。
「いつも私の反応を見ながら機嫌をとったり、コロコロ言うことを変えるから信用できない」と。
怒って逆上するだろうか、それとも、また心を閉ざしてしまうだろうか…と内心ヒヤヒヤしてましたが、意外にも「じゃあどうすれば良い?」と冷静な答えが返ってきました。
とりあえず「できないものはできないし、分からないものは分からない」と伝え、いくつか約束して貰ったところ、今のところきちんと守ってくれてます。
おそらく彼は「(私が)冷たすぎて物足りない」と感じていると思いますが、何となく私の考えていることが伝わって理解してくれたのかもしれないと思う出来事でした。
自分自身がジャイアン型で子どもがのび太型です、恐らく。
放置が大切、という部分、すごく耳が痛いです。今後、どこ
まで放置できるかが、鍵なのかなあ、と思うのですが難しい
ですね。まだ小学生なのですがほっておくとのび太型は
社会的活動を全くせず、(小学生なのでしなくても当人は
困らない)勉強も全くせず、次の日学校に持っていかなくて
はならないものにも頓着しない、宿題もしない、それを
放置してもいいのでしょうか?ごみをゴミ箱に入れない、
ものを片付けない、なども含め、これをさせるようにする
のは「しつけ」ではないのでしょうか?それもこれも「本人
が困る」まで放置すべきなのでしょうか。確かに何度
言っても上記のことをしないのび太型は本人が困ってない
からいくら言っても自分からはしないのだな、とは常々
感じてはおりました。
本当に難しいですね。もしかすると私が「放置」の範囲を
間違えているかとも思いますが・・・。
最新記事を読んで思いましたが、結局のび太型の私もジャイアン連れ子と同じように「再インストール」が必要ということですね。
私の場合、合理的思考は保たれているので「人からの要請」→「現実的要請」に…ということですが、欲が少ないので「好きなことを見つける」方が難しかったりします。(生活面での合理的なこだわりはありますが)
例え「人からの要請」であっても、自分で合理的に考えてある程度納得させることが可能なので「言いなりになって依存している」という感覚はあまり無かったですね。(親に対しては「未成年で親の管理下に置かれているため、言うことを聞くのは当然」と、思春期までは納得してました。思春期以降はのび太ACの傾向が強かったですが)
自分の依存性を自覚して納得した以上、やる事は決まりましたので、あとはジャイアン連れ子と共に「成長」して行きたい…と言いたいところですが、ジャイアン連れ子は受動型AS弟の(かなり弄くり回している)多数派的しつけが大きな弊害ですね。
私一人が合理的に説明したところで意味が無さそうなので、もう諦めて、後は病院で発達障害と診断されるのを待つ方が良いのかもしれません。
いや、大人になって自分自身の問題を自覚できないから、やはり今から自己責任を身に付けさせる必要があるのか…
連れ子(5歳)は私と違って多動や衝動が目立つので、衝動を実現するために冒険させれば、すぐに自己責任の考え方は身に付くだろうと思いますが…ネグレクト寸前の放置環境は難しいですね。(もう一度受動AS弟に言ってみますが)
話は変わりますが、ジャイアン連れ子と自分の幼少期の頃と比べてみると「大分違うなぁ」と感じ、新たな発見があって面白いです。
例えば「非言語察知能力の鋭さ」等、「構ってくれそう」とか「口煩そう」とか…一瞬で見破ってその人の膝の上に座ったり、距離を取って離れたりするのでついていけませんね。(自分のどんくささがよく分かります)
「人を見る」の意味が大分分かってきました。
あと、ジャイアンお母さんから「受動AS弟が家の中で(多数派流非言語的方法で)厳しく躾ている」と聞いていたのですが、連れ子の反応を見ると、弟よりお母さんの前だけやたら大人しかったような…
サイコパス?とまではいかなくても、家の中ではお母さんの方が口煩いかもしれませんね。
(続きです)
ちなみに、お母さんからも「状況察知能力の鋭さ」が伺えました。
正直、全く空気の読めない私にとって「何を持って鋭い(高い)と言うのか?」よく分かっていなかったのですが、彼女を見て理解できました。
彼女の場合、世話好きでとても気が利くのですが、「手を出して良い状況か」までは考えられず「困っている人を見ると、放って置けずすぐに手を出してしまう」印象がありました。
おそらく多数派や空気の読める受動ASは、「手を出して良い状況か?」まで察知してるのだろうなと想像しています。(一歩間違えると「でしゃばり」と捉えかねないので。まぁ、あくまで想像ですが…)
「放置が良い」となると、合理的に説明して我慢させるというのも、場合によっては有害になるのかな?
どうやら私の言い方も「管理型共依存」になってしまいそうなので、余計なことは言わないようにします。
記事に関係無い内容になってしまい、申し訳ありませんでした!
自己認識について一部納得できない部分があり、しばらく考えておりました。
>のび太は本来ドライなADHDなので、例えばADHDばかりの環境で育てば、いくら他者が仕事を放置して帰っても「私の仕事じゃないから」と平気で放置して帰れるようになるはずだ。
思春期以降は「人は人」と割り切ることができず、上記のように「他者の仕事を放置して帰ること」ができませんでしたが、学童期はわりとドライに人は人と割り切ってました。
それで気付きましたが、学童期は「情緒障害でドライな性格だったのでは?」と思いました。
ジャイアンの情緒障害と違い、元々KYで衝動が目立たないので回復しても分かりにくそうですが、学童期は(先生がそうだったように)楽しいことが無くても「こんなものなんだ」と平気で乗り切ってましたし、自己突っ込みで苦しんだ記憶がありませんでした。
思春期以降は、情緒が回復したと言うよりは、常に何かを我慢し「納得できない」状態に悩まされていました。
KYの部分で自己評価も若干下がりましたが、それ自体はさほど問題視しておらず、暇さえあれば「自分を納得させる言い訳を考えること」に終始していましたね。
(続きです)
なので「本当にこのタイプののび太だろうか?」と疑問に思っていたのですが、情緒障害(AC)になる以前の性格を考えるとよく分かりますね。
確かに自分からは動かず常に受け身でしたが、相手に振り回されることはなく、やりたくないこと・面倒なことはしなかった記憶があります(苦笑)
情緒障害になってからは真面目で手のかからない良い子と言った感じで、思春期まで何の問題も無く過ごせました。
人間関係においては、(元々KYののび太型というのもあり)この時は「無視されても気付かない」状態でしたが、情緒障害から回復した後は「無視されてるかもしれない」と必要以上に不安になることが多かったです。
とは言え、基本的に受け身で自分から人と関わらないのに無視される理由があるだろうか?と合理的思考は保たれていたため、それほど自己評価が下がらずに済んだのかもしれませんね。
「適応に強迫的」という部分はのび太ACと同じですが、現実的要請タイプののび太と違い「人から必要とされたい」という気持ちが強く、その反面、私自身の「欲が少なくて人を必要としない」性格との矛盾に、常に悩まされていたのかなと考えています。
(さらに続き)
…という訳で、私の自己分析の結果は
小三から中二まで→「のび太AC(情緒障害)」
それ以外→「このタイプののび太」
で、落ち着きそうです。
思春期以降はACより、(ADHDとして納得することに対する)先延ばし・楽をし過ぎ(依存)による鬱状態が目立っていたのだと思います。
(情緒障害から回復後)他者から奇異な目で見られることがあり、特に受動ASから非言語的な嫌がらせをされたこともありましたが、それに対しては「言いたいことがあればはっきり言えば良いだろうし、それで私が悩むのはアホらしい」と無視していました。(非言語なので確かめようがありませんし、何より関わるのが面倒でした)
ただ、過去にドライなのび太型らしき人と数名関わったことがありましたが、やはりAS環境の影響を受けた自分とは違うなと思いました。(個人的に、私も含めのび太型の人は、考えながら話す時に上↑を見ながら話す人が多いなぁという印象があります♪)
ドライなのび太は皆「誰に対しても公平・平等で正直」であり、「この人達には深読みして考えなくても良さそう」という安心感がありました。
ただ、ドライで人を必要としないため、浅い付き合いでしたが。
(最後です)
それと、周囲のASの人達を見ていると、ドライなのび太型への態度と、依存系のび太である私への態度が違うと感じましたが、これは何となく理解できました。
おそらく私自身、(主に仲の良いASに対して)相手に同調したり共感したりする素振りを見せ「私はあなたの味方です」という雰囲気を醸し出していたのでしょう。
最初は無自覚でしたが、私とドライなのび太型の人とを比べてみた時、ドライなのび太が始めからストレートな表現で話すのに対し、私の方は「相手が過剰反応しないよう、やんわりとした遠回しな言い方」をしていることに気付きました。
なので自分の気持ちを的確に相手に伝えるため、時折ストレートな言い方になると「味方だと思っていたのに裏切られた」と、相手のASに過剰反応されるのだなと思いました。
まぁ…これ自体は私の依存が原因なので、相手が過剰反応してキレられても文句が言えない部分もありますが、それに一々反応して「相手の言いなり」になっていたら、それこそ身が持ちません。
なので「現実的要請で楽をしない生き方」を目指し、相手に振りされる隙を与えない人間に成長することを目標に頑張りたいと思います!p(^-^)q
あと、「自分のやりたいことに必要だから行動する」について。
中々やりたいこと・好きなことが見つからないので、難しいですね。
今は周囲の発達障害らしき人達の行動パターンを観察しながら、「この言動にはこういう意味(や理由)があるのかな」と考えながら相手の気持ちを理解するのが好き…と言うか楽しいです。
もちろんこれは、ADHDの「一方的な理解」ということになりますが、今まで周囲の人達の顔色を伺って依存してきた時間を、自分の納得のいくように使いたいという欲が出てきたので、これで良いのだろうと考えています。
例え周囲の人達が過剰反応しようと、私自身、ADHDの「自己責任」の考え方に納得できてしまうのは、「自由を愛し、孤独に耐える不屈の精神が自分にも備わっているからだ」と前向きに捉えています。
「面倒臭いと思うことはもったいない」
この考えをモットーに、直ぐに「ムダだ」と諦めずに何でもチャレンジしていきたいですね。
ちなみに、今頃になって気付きましたが、すでにジャイアンになってしまった連れ子に最近記事の内容は意味が無さそうですねf(^_^;
ADHDの第2原則の記事も期待しています!
たぶんずっとADHDのACで生きてきました。
ジャイアン親をもっていたんですが、激しい過干渉でADHD的な合理性がほとんどありませんでした。
姉もADHDのACなのですが、あまりジャイアン親の過干渉なく育ち自分でやるのび太だったと思います。
状況理解に乏しいは当たっています。
定型もジャイアンも状況理解ができ、自分に不利有利を感じ取り繕うことができる(ジャイアンは取り繕うことは難しいのかな?)ことも最近わかり、僕が善人に見られるのは状況理解が乏しい結果だったんですね。本当の善人は状況理解をできる中で相手と自分の利益や良心に従って言葉や行動を選択できるという点でADHDのACが善人なのかは疑わしいですね。笑 善人になってしまったぐらいでしょうか。
外から見れば自己中だけど善人ぐらいなんですかね。
ところで僕自身、ACから回復するにつれ色んな場所で喧嘩するようになりました。警察官であっても相手が誰であれ構わず喧嘩します。個体認識できないゆえなんですかね。という意味でジャイアンかもしれない。難しい
「ADHDのACが善人かどうか?」について。
実は私も、以前は疑わしいと思っていました。
状況理解が乏しい故相手の立場に立って考えられないので、どうしても独善的になり自身の考えを押し付けがちになってしまう…もちろん本人に悪気はないので、結果的に周囲からは善人に見られてしまうのだろうと考えています。(ちなみに、定型とジャイアンだけではなく、孤立型?も状況理解ができると思います)
ジャイアンは元々状況理解ができるのですが、(刹那的思考等により)考えきれないだけなのでしょうね。
話は変わりますが、コメント内容を解読するのに4日かかりました。(ぶっちゃけ、ストレートに読み取ると腹が立ってきます…)
なので、「相手が読み間違えて感情的になること」を常に状況理解できるよう、気を付けて貰いたいなぁと思いました(´-ω-`)
※読み取り方を間違えていないことを祈っています。
もうちょっとだけ
のび太もジャイアンも結局機能不全家族出身なんだろなと思います。
ジャイアン母の育った環境も良くなかったようです。
彼女は外から見るとジャイアンそのものなんですが、本質的には弱い人なんだろうなと感じてます。彼女にACの本を送ったことがあるんですが、彼女は変わらないだろなと。このままだと彼女は一人ぼっちになってしまう感じがするけどそれも自分が蒔いた種だと思って静観しようと思います。
彼女にひっついていく定型もいるけど、旦那にDVをされている人とかばっかりで定型の人のいう健全な関係ではないんだろうなと感じます。ただ不安から寄り集まってるだけというか。
あとADHDが対人で摩擦を起こすのはコミュニケーションが苦手ゆえなんだろうなと思います。相手の立場に立って相手のためのことばを選択する能力が低いゆえに摩擦を起こすのかなと。
大学のゼミの教授がコミュニケーションの達人でよくわかりました。
ジャイアン母親には一方的な言葉しか浴びせられてこなかったけど教授は絶えずこっちの心情を感じながらシグナルを送ってくれてたんでADHDと定型の違いを激しく感じてしまいました。教授優しかったな〰笑
(追記です)
上記の私のコメントは、かなり「裏読み」して考えて謎解きした結果であり、普段はこうは考えません。
なお、ストレートに受け取った場合は「多数派やジャイアンと違い、ADHDのACは空気が読めないので善人かどうか疑わしい」と解釈し、「そもそも『空気が読める人が善人』って見方、どうなんだろう〜??」とモヤモヤした気持ちになります。
(以下↓先生へ)
別エントリーでの私のコメントは、特性の違う相手の気持ちを理解する姿勢に欠けると思われたかもしれません。
ただ、私は「自分に悪気は無いのだから相手が悪い」とおっしゃる方に対し、「あなたと私は考え方が違うのだから、あなたがそう思うならそう思えば良い」としか返せませんし、(相手の困難さを理解した上で)今は他に返す術を知りません。
なので「これで良いのかな」と考えています。
先生には、私の「ストレートではっきりとした物言い」のコメントをいつも載せていただき、本当に感謝しておりますm(__)m
以下↓は「言語」についてです。
私が使った言葉を引用するだけならまだしも、「勝手に言葉を入れ替える等して内容をねじ曲げ、それを『揚げ足取りのための攻撃材料』にするのは止めていただきたい」と思いました。
私にとって「言語」は、「他者の気を引く」ための道具でも無ければ、「挑発」や「脅し」、また「他者を言い負かし、自分の主張を受け入れて貰う」ための道具でもありません。
KYののび太型にとって、唯一のコミュニケーション方法です。
ただ、ASD環境に馴れきってしまった「弄くられたのび太」タイプの私は、早いうちから「言語でのコミュニケーションによる理解」が無意味・不可能であると悟り、諦めていたのだと思います。
最近、それがよく分かりました。
「あぁ…これがASDの支配(依存)環境なんだな」と。
積極的に自分の気持ちを「言語化」する中で、「以前はこんなに喋ること無かったよなぁ」と、冷静に振り返ることができ、自分が意外と他者の影響を受けやすい性格であることに気付きました。(ちなみに、自己評価は下がってないのでACではありません)
「できないことはできない」と相手に言うことで、かなり楽になれましたね。
以下↓は他の方のコメントをストレートに受け取り、自身を振り返ったコメントです。(今後は上記のような裏読みはしません)
>ADHDが対人で摩擦を起こすのはコミュニケーションが苦手ゆえなんだろうなと思います。相手の立場に立って相手のためのことばを選択する能力が低いゆえに摩擦を起こすのかなと。
おそらく「価値観の違いだろうな」と思いました。
相手の立場に立った上で、「本当の事から目を背けて気休めを言い、相手を安心させるか」「あっさり本当の事を指摘してしまうか」…きっと上記の方は前者がコミュニケーションの達人だとお思いなのでしょう。
そして後者が私σ(*´∀`*)
前者は「多数派流(定型)のコミュニケーションの仕方」なので、世間ではこちらが「普通」であり「一般的」なのだろうと想像します。
ただ、それを知った上で「だから何?」というのが正直な気持ちですね。
表面的に多数派の行動パターンに合わせて、自分を押し殺してストレスを抱えながら生きていくことに何の意味があるのか?と思いました。
私も過去にACだったことがありますが、「強迫的に周囲に合わせること」に対し常に疑問を感じながら生きる日々でした。
(続きです)
ついでに書き記しておくと、何だか他の方のコメントを読んでいて「一緒にされたくない」と思うのですが、私は「自分の好き勝手にワガママ放題生きるべき」とは思いません。
現実を見渡せば、私の考え方・モノの捉え方が多数派とは異なり、常に「自分が人とはズレている」という事実を見せ付けられる日々ですが、その中で「自分にできること」を見極め、改善するよう努力をするか・諦めて割り切るか等を、一つ一つ選択しています。(最近、些細な事でも「自分自身で選択すること」が一つの楽しみになってます)
こうして振り返ってみると、自分には「普通への憧れが無い」ということがよく分かりますね。
個人的に「(多数派やASDのように)愚痴を言い合ってストレス解消する」という感覚を味わってみたいという気持ちはありますが、自分で考えて納得してしまう性格故、無理でしょう(笑)
ただ、それでも表面的に多数派に合わせて「(うわべだけでも)一緒に愚痴を言い合いたい」とは思いませんので、「情報程度」に聞き流してあまり同調しないように気を付けています。(同調すると自身に突っ込みが入るので)
「ACと合理的思考の違い」について。
※元々ゼロか百しかないASDさんには想像が難しいかもしれません。
【AC】ただただ「自分が悪い」と思い込ませる。
私は中2まで「情緒障害のAC」でしたが、この時は感情が乏しく、先延ばしによる鬱や自己突っ込みも無かったため「自分が悪い」と思い込ませることに何の抵抗もありませんでした。(思春期以降は自己評価が下がっていました)
【合理的思考】これは今でも模索中ですが、ただただ「自分が悪い(もしくは相手が悪い)」と思い込ませると、「本当にそうだろうか?」と自分に対し疑問符が生じ、(自然に忘れるまで)その気持ちにとらわれ続けます。(強引に白黒ハッキリ付け、都合の悪い部分から目を逸らそうとすればする程、逃げようとすればする程不安が強くなります。以前の私がそうでした)
※ちなみに、「依存系」の人が場の空気を察して「自分が悪かった」と謝るのは、ACではありませんよね。
何だか殺伐としていて強迫的で、自分でも「気難しい」と感じますが、「見た目(うわべ)だけに騙されない」「衝動のコントロールに他者を必要としない」等良い面もあり、私自身結構自分の性格を好きになれそうだと思います。
「表面的認知」について。
「表面(うわべ)」と言うと「見た目を着飾ることだけが表面的なのだろうか?」と考えがちですが、「金儲けの理屈」等と言った「都合の良い(もしくは悪い)一面だけを見て、それだけで判断してしまうこと」も「表面的認知」にあたるのかな?と考えています。(上記↑の私のコメントも「『自分が悪い』と自身を責める部分だけみれば、表面上はAC様かもしれませんが、意味合いはACとは異なります。」という内容の説明ですね)
「確かにそれもあるかもしれないけど、そればかりじゃ無いよね?」と言いたくなるような話がそうかなと考えています。
上記↑のACの話の続きです。
私は、未だに「自分がストレスによる身体症状や生きづらさを感じている事実」を親のせいにできません。
でも、これはACで自分を責めている訳ではなく、私自身「当時は親も発達障害に対する知識がなく、仕方がなかったから」と考えています。
なので「本人に自覚が無いなら、周囲がきちんと説明して納得させるべきだ」という意見は「確かに」と思う反面、「ご自身の都合の良いように家族をコントロールしたい」という意図が見え、傲慢なのではないかと感じました。
私は「発達障害という見方もある」と説明した上で、どうするかの判断は相手(相手が未成年なら親)に委ねるのが一番良く、あとは周囲の人達が自身の安全を確保することが望ましいと考えています。
「散々相手や周囲に対し文句を言うものの、自らその相手から離れようとせず、共依存状態にある」人達を何人か見てきましたが、離れるよう説得しても聞きませんでしたし、何より「本人が余程強く『脱け出したい』と思わない限り脱け出せないだろう」と思っているため、今は静観&愚痴聞きに徹することにしています。
「見ている人はちゃんと見ている」し、「分かる人にはちゃんと分かる」
これはASD環境から学んだことだと思いました。
わざわざ「私は○○な性格です。」って言わなくても、言動から「気高さ」や「人の良さ」が滲み出るものなんですね。(個人的には「慎ましい」「逸脱した行動をとらない」人が多いという印象があります)
私の場合、欲が少なく「好き嫌い」と言った衝動もあまり無いため、我慢しなくても暴君ジャイアンの様にはなりませんが、その替わり「何をして良いのか分からず、途方に暮れてしまう」のですね。
なので自ら考え、納得し、ある程度「強迫的」に物事に取り組まなければならないと考えています。
広い世の中ですから、「人の良さやか弱さに漬け込む悪人」ばかりでは無く、きちんと普段の行いを見ながら、「決して裏切らない安心感があり、(時間をかけてでも)周囲の信頼を得る人だな」と思っている人間(←私です。気休めではありません)もいます。
そして私自身も、常に「表面だけでは無く、言動から内面を垣間見ている人がいる」ことを考え、「自身の言動」に気を付けながら、目の前の「すべきこと」に取り組みたいですね。
「現実的必要」について。
一昨日、今話題になっている記者会見を観ていて、ふと、自分を振り返ってみたくなりました。
自分は「きちんと忘れないようにメモをとっても、そのメモの存在自体忘れてしまう注意欠陥の持ち主」なので、相手から自分の失敗を指摘された時は「自分が忘れていた可能性」を真っ先に疑います。
こう言った面から、のび太は自己評価が下がり易くACになりやすいのですが、そうならない為には「自分の事はできるだけ自分でして、失敗も自分自身で受け止め、そこから学び、現実に対応していきながら周囲の理解を得ることで、自分自身を納得させるしかない」と考えています。
「被害的な認知の人達」に対してストレートに反論した場合、下手をすればこちらが「いじめの加害者」にされてしまい、後々面倒なことになりかねない。
だから何も言わない。
子供の頃から、特にジャイアンや受動型ASDといった「被害的な認知の人達」に対しこのような接し方をしてきましたが、これは「人からの要請」ではなく「現実的必要」からこの考え方に「合理性」を見出だしていたのかもしれません。
ただ、(AS被影響症候群に似た)ストレスは避けられませんが…
すみません、訂正させて下さい。(「そんな不条理な話がまかり通って良い訳ねぇだろっ!」と言う自己突っ込みが入りました)
先程別エントリーにもコメントしましたが、「相手の障害(被害的な認知)の為に自分が我慢して、何も言わないのはおかしい」と思いました。
「自分が加害者にされない為の現実的な対応」だと錯覚していましたが、これでは言語的なコミュニケーションが取れず、ますますストレスが溜まりますよね。
「何も言わない」のではなく、「依存されないようにはっきり断わる」でした。
話は変わりますが、昨日知人から「最近、話す時に言葉が出てこないこと多いよね?」と指摘されました。
これは物忘れが原因なのですが、注意欠陥の部分が目立つようになったということは、依存や(ACに近い)鬱状態から回復しているということかしら?等と勝手に解釈しております。
「常に自分の頭で考えながら行動してきた結果、ADHDの『自律自尊の精神』が芽生えてきた」のかもしれません。
これまでのように「自分を納得させる為に理由(言い訳)を考える」時と違いかなり気分が楽で、物事をすんなり納得して受け入れられるようになりました。
良い兆候かな♪
実は今でも「自分はまだACが治っていないのだろうか?」と、ふと考えてしまうことがありますが、最近職場で自分と同じタイプののび太型らしき人を見つけ、その人の言動を観察するうちに、この疑問に対する答えを導き出しました。
その人と自分を比べると、まだその人の方がのんびりしていてのび太らしいなと思うのですが、「(うっかり相手に対して失礼な事・否定的な事を口にしてしまった後に)言語的なフォローを入れる」部分が全く同じで、「あれ?この人KYなのに相手の顔色伺ってるよね…」と、妙に親近感が湧くと同時に「そう言えばこの姿『消極的で自信が無く、自己評価の低いAC』のように見えなくもないな」と思いました。
実際は(その人もそうですが)ASDに囲まれて育ったため「相手の過剰反応を恐れて当たり障りのない『言い方』で接しているだけ」なのだと思いますが、私があえて(KYで)ハッキリとした言い方で話すと、相手もフォローするのを止め理屈っぽい部分全開で話していました。(この辺りは「相手の出方を伺うASDの特徴」に似てるかもしれませんね)
「他者を通じて新たな自分の一面に気付く」ことができる等、結構色々な発見があって面白かったです。
もう一つ「強迫的な性格」について。
>自分と現実的な必要だけがあり、「やらなければ自分が困るからやる」という単純な図式で嫌なこと、面倒なこと、興味の無いことを乗り切るパターンを身に着ける
「やらなければ自分が困るからやる」というスタイルは、情緒障害(AC)の頃にすでに身に付いていたと思います。
ただ、情緒が回復した直後は「自分は周囲からかなり遅れをとっている…止まっていた時間を取り戻さなければならない。」といった気持ちに駆られ、強迫的に「普通であること(AC)」にこだわっていました。
今はACは抜けましたが、情緒を取り戻したことで常に「(依存による)面倒臭いという気持ち」にとらわれることとなり、この「現実的な必要」のスタイルに慣れるまでは「強迫的な部分」を全面に出さなければなりませんね。
ついでに、その人を見て「被害的な認知の人達に加害者に仕立てられない術」は、やはり「現実的な必要」から身に付いたのだと思いました。
その人にはそういった発想がありませんし、きっと私は、情緒障害故KYで過ごした時間が長かった為「(常に非言語表現に警戒し)現実的に強か・シビアに考えて生きてきた」と考えています。
もしかしたら、妹が、ADHDののび太かもしれません。
家族全員のタイプが分かったのですが、
父(故):積極奇異型AS、母:ADHDジャイアン、兄:受動型ASD、私:積極奇異型AS、弟:孤立型AS、妹:ADHDのび太、となりました。
今はAC、抜けたんでしょうかね、妹は。昔は論理思考によって、主に兄と私との距離を取り、(兄弟の中でも、弟の事だけは違ったようで、弟の後を追うように高校進学を決めた妹でした)、私のうつが悪化してからは、主に私の世話を焼く、という形で私に助言してきたりしています(論理思考は健在です)。そして、母をどこかで警戒しているようです。
おそらくは「人からの要請」という形で動いているものと思われます。
妹は現在、県外で学生をしていますが、私の方の、継続的な訓練による論理思考の習得と、精神的現実的な自立に伴い、「現実的な必要」という形に少しずつ移行しているようです。
「AC」について少し訂正致します。
思春期(中2)までACで情緒障害だったというのは間違い無さそうですが、思春期以降、情緒が回復してから再びACになったというのは違うかもしれません。
情緒が回復したことで突如「面倒臭がり屋」な性格が表面化してしまったため、「それまで当たり前にこなしてきた事に対し多大な労力と時間を必要とする状態で、適応に強迫的だった」ことは確かなのですが…私の場合、非言語的なコミュニケーションに振り回されたことで「他者への不信感」が強くなり、そこから(対人恐怖症・強迫神経症等の)不適応を起こしたのかな?と考えています。
学童期の頃からすでに「人間は本音と建前の生き物であり、平気で嘘を付き、陰口を叩く」という事実に気付いてましたが、これを自分がするのは物凄く抵抗があり、かといって自分の思い通りに振る舞うこともできず、常に「周囲の人達からどう思われているか」気になるものの、「聞いたところで本心を言うとは限らないので、聞くだけ無駄」と考えてました。
おそらく、私と違いACを経験していないこのタイプののび太は、(ストレスにさらされながらも)上手く多数派に順応してる人が多いと考えています。
「(対人恐怖症・強迫神経症等の)不適応」について、正直、妹はどうなのかな…? と思ってしまいました。
妹は学童期はじめの頃に父を亡くし、機能不全家族になった事によって、「姉への不信感」から「母への不信感」または「家族への不信感」になったと思われますが、「周囲の人達からどう思われているか」というところまでにはいかなかったと思います。
基本的に、用事でも何でも「仕事(当たり前にこなす事)として、黙ってこなす」という風に見えますね。
ただ、当時(特に中学から高校にかけて)は「家族への不信感」からか、自分の感情は他の関係(自分独自の人間関係)の場面で出す事があるようでした。「自分の気持ちを家族に話すだけ無駄」と考えていたのでしょうかね。
人間関係では、「自分の友人のアドバイス役」になる事があったようです。
高校進学時は、弟が卒業した学校を追う形で志望校を選びましたが、進学後に学校を変えたいと言い出しました。
色々な事情や母の意向で叶わず、留年しましたが、卒業になるまで同じ学校に通い続けました。(私から見ても本当にすごい精神力でした…。)
現在(成人後)は、適応に過剰に強迫的というわけでもなく(と言っても、面倒くさがりな部分はあるようで、兄や母から時々突っ込まれています)、私の体調はどうかという「様子見」はしますが、過剰になりすぎる事もなく、きちんと言葉で語り合い、時によっては自分の心情も自分から明かしてくれますね。
(もちろん100%ではないですが、私にはこれで充分です。なぜなら、1人の人間として、私を信用してくれているからです。)
(そういえばこの間帰省した際、私の家に泊まった時、「(もうこんなに夜も遅い時間になったから、)そろそろ恋バナをしよう」と脈絡もなくいきなり言い出しました。(私:キョトーン、目がパチクリ、でした)。その後、「あー、やっぱムリ!」と自分が言った事に自分で自爆していましたが、クールな妹からそんな言葉が出てくるとは思っていなかったので、正直びっくりしました(笑い))
ふと思ったのですが、「走る」と、体調がよくなるのでしょうかね?
妹は時々「今日は走ろうと思っている」と言って、走ったりしています。((受動型ASD)兄の「走る」とは違う様子です。)
妹が実家に帰省した際には、庭の畑(家庭菜園程度の広さ)の草引きをする事があります。本人曰く、「やる事がないから」だそうです。
趣味は洋裁で、この間は実家で飼っている愛猫にと、自分で調達してきた色々な布きれを使って、猫の首に巻くタイプのコスプレセットを作ってきていて、いろいろ着せ替えしては写真を撮っていました。(ゴスロリ調のカチューシャタイプや、漫画に出てくる泥棒のほっかむりの唐草文様タイプなど。そして、サラリーマンのYシャツ襟に、ネクタイセットの物まで作っていました。最後はお笑いに走るようです。)
自炊の調味料系にこってみたり、飲料系の茶葉に凝ってみたり、掃除の汚れが落ちるのが面白い(重曹やクエン酸にこってみたり)、母の教育で各種の栄養群や環境ホルモン系に気をつけるというのは昔からあったので、現実的な生活(自炊や家事など)については、私よりも現実的に考えて実行しているようです。
実家の母に電話してくる傾向から考えると、「自分で下した選択に自信が持てない」「失敗を少々過剰に怖れる」というものがあり、「まずは行動してみて、そこから少しずつ考えればいい」という傾向の私とは、比較的気楽に話せるようです。
ジャイアン母や、受動型ASDの兄と話している時には、「すぐに、正しい成果(姿)を求められる」と感じているのか、閉塞感?(あるいは強迫的なもの)を感じているようです。
(夜間学生をしているので、昼間はどういう生活をしているのか、貴重な学生生活を自堕落に送っていたり、趣味に費やして、無意味な生活ばかりしているんじゃないか、など。)
現在に至るまでに、留年したり浪人したりしているので、進学時は「自分は周囲から遅れをとっている…」とは思っていたようですが、「止まっていた時間を取り戻さなければならない」とは思っていないようですね。
現在は、私の経済的現実的な自立が進んでいる事もあって、自分が実家に戻って来なければならない事態になる確率が減った事については「よかった」と言っており、(自分が墓守をしなければいけないなど、何かしらの責任感があり考えているようですが、なるべくなら面倒な事態を回避したいという考えもあるようです。それと実家周辺の雇用賃金が低い事もネックの1つの様です。)、自分の進路について、現実的具体的にいろいろと考え中のようです。
すみません…「AC」についてですが、強迫神経症や対人恐怖気味だった頃は、まだ抜けてなかったかもしれません。
どうもこの頃(思春期)は「他者への不信感」「先延ばしによる鬱」「(注意欠陥・周囲とのズレにより)日々作られ続けている不適応感」といった、ありとあらゆる感情がごっちゃになっており、はっきりACと断定できません!(←これが「自爆」にあたるのかしら…こんな風に「言うことがコロコロ変わる」のはしょっちゅうですね。だからこそ「事実確認」が必要になってくるし、受動型の人とは違う意味で「安易に他者を責める」なんてことはできないんです)
ただ、一つだけ言えるのは「(思春期当時は)自分が納得することにこだわっていた」ということですね。
また何か思い出したらコメントしようと思います。
「走ると体調が良くなる」についてですが、これは何となく分かるような気がします。
私の場合、特に「走る」という行為に固執する必要は無く、例えば「素振り」でも「部屋の片付け」でも何でも良いのですが…要は「じっとして居られなくて体を動かしたい」のですね。
脳の多動で落ち着かない気持ちを(あくまで一時的に)解消するのに運動は効果的です。
家事についてですが、私は結構「合理的なこだわり」があります。
例えば熱いコーヒーや紅茶を入れる時、お湯の温度にこだわったり、ハンバーグを作る時「こうすると型崩れしないから」「こうすると旨味が逃げないから」と、作り方を工夫したり…「プロセス(やり方)にこだわる」面がありますね。
実際にやってみて美味しく出来上がれば、次からも同じ作り方で料理しますが、あまりにも時間がかかるやり方は(面倒だし効率が悪いので)却下します(苦笑)
毎回同じやり方だと飽きるからというのもありますが、「本当に効果があるのか試してみたい」という好奇心もあるかもしれませんね。
「すぐに正しい成果を求められる」というのは、おそらく「結果主義」の考え方故だと思うのですが、私の母も結果重視の考え方で過干渉なところがあります。
ただ、母の「支配的」な性格には慣れていたので、私なら「また始まったか…」ぐらいにしか考えないと思います。(ただし、親に学費を出して貰ってるとなると話は別で、プレッシャーから強迫的になるかも)
私もそうですが、このタイプののび太は一見「ASDやジャイアンに似ている」ようなので、中々判別が難しいかもしれませんね。
「一人の人間として信用しているかどうか」についてですが、ふと、積極奇異弟とのやり取りを思い出しました。
きっとこの考え方もASD環境の影響を受けたからだろうと考えているのですが、以前「依存型ジャイアンの弾ける時」の記事で「私と同じ気持ちになってくれている」とコメントした時、「これが積極奇異の人の理解の仕方なのだ」と思いました。
実は私からすると、それは理解というより「共感」に近い感情ですね。
ただ、相手の気持ちを「共」に「感じる」には、まず相手の気持ちを(言語から)「理解」しなければならない。
積極奇異(と、おそらく孤立型も)の人にはそれが可能であり、「相手に共感するという形で表現する」点が異なるだけで話の内容はきちんと理解しているのだなと捉えています。
「一人の人間として」私は弟に対し接することができているか?と考えると、正直自信がありません(汗)
私は上記↑のように「言動」や「接し方」等から弟の「人格」を見ているだけであり、「(ASDさんの考えるように)弟そのものを志向している訳ではない」ので…
ただ、どちらにせよ相手を「信用している」ことに変わりありませんので、自然と会話は多くなりますね。
少し補足ですが、話している相手がいくら共感の言葉をかけてくれたとしても、実際は立場の違いや思惑の違いなどがあると思うので、私の場合は、「私と同じ気持ちになってくれている(「これは希望的観測」、という余白を、頭の端に持っておく)」という事になります。
私が、人に対して100%完全な理解を求めずにいられるのは、(相手は自分とは違う「他者(一人の人間)」なのだと留意して、なんとか自分の中に客観的な視点を持とうとしていられるのは)、自分の頭の中に、常にこの余白があるからで、(余白を意識して作っているからで)、アスペルガーとしての強迫的な矜持を持っている人にはちょっと難しいと思われます。
まず相手の気持ちを(言語から)「理解」するという点においては、孤立型の方がよほど出来ているとは思うのですが、なんというか、たとえば私の弟(孤立型)だと「相手に共感するという形で表現されても、なぜだか冷たく感じる(情熱が感じ取れない)」という感じになりますね。
「現在の自分の心の機微を、情熱をもって生き生きと語る」という点においては、積極奇異型と受動型がわかりやすいですが、受動型(たとえば私の兄)は自分本位な語り方なので、「相手に共感するという形で表現されても、私の感情や、私が現在思っている私の状況について、無視しているんじゃないの…?」となり、内心ため息をつくことがよくあります。
妹(のび太型)は、弟(孤立型)の就職時の動機について聞きたがっていますが、弟本人に聞くのではなく、なぜか私(積極奇異型)に電話してきます。
家族環境(ASD環境)の影響を受けたからでしょうかね。
妹は「私そのものを志向している訳ではない」のですが、ここ数年はよく話すようになりました。
この間は電話で、私の生活ぶりについて「慎ましい生活だね」と感想を言ったり、「要するにーお互いの(生活や仕事などの)、情報交換をしたいわけですよ」と言っていました。「また話を聞いてもらう事になるかもしれないけど」とも言っていましたね。
私の家族に依存型ジャイアンはいないので、しぐさや雰囲気などの非言語のみを使って、私の自由意思を縛り、私に「NO」と言わせないようにさせ、その関係から脱出する事を禁ずる(私の方がおかしいと、私自身に思わせる)、ダブルバインド(二重拘束)の使い手はいないという事になります。
そこの点だけが良かったと思っています。
「頭の中の余白」というのは「(グレーゾーン・未知の存在等の)ブラックボックス」のことだろうなと想像しますが、私の場合は「悪意の有無」「情緒的なフォロー」等といった「人からの要請」ではなく、常に事実だけに目を向け「現実的に必要か?」考え続ける訓練が必要ですね。(何故なら、人からの要請で動く事は「(極端な話)悪意が無ければ何をしても良い」という考え方を認めてしまうことになり、依存によるストレスに苦しめられてしまうから)
>受動型(たとえば私の兄)は自分本位な語り方なので、「相手に共感するという形で表現されても、私の感情や、私が現在思っている私の状況について、無視しているんじゃないの…?」となり、内心ため息をつくことがよくあります。
これはすぐにピンッ!ときたのですが、私は受動型の人が「私に共感してくれている」とは気付かず、「すぐに自分の話に切り替えて(すり替えて)話すので、私の話をちゃんと聞いてないだろうな」と思ってました。
受動型の人の場合、こちらが振った話とは「全く関係無い話をしている」ように思え、分かりにくかっただけで、これも「共感」に含まれるのかもしれませんね。
参考になりました!
こうすればいいでしょ、と干渉し、なんでも口出ししてくる母ですが、
母に従うということは、母の言う 物語(?)に従わなければ 解決しない。
ほんとうはもっと、要領よく生きれたらよいのですが
でも、自分の考えでは、母の考えと同じ気持ちを 作り出すことが出来ないのですよね。
無理やり母に合わせない限り、母の言う通りに動くことはできない。
だから、なぜ、自分の考えをまげてまで、言うとおりにしなければならないのか。
母は、気持ちだけで、会話をして、周りを巻き込みながら一人で話をすすめてしまうので
周りは母の話が、一人で進めている話だと感じずのっかってしまうので 勝手に話が進んでしまう。
考えがおっつくはずもなく、母の言う通りに動かざる得ない空気に、
やる気がなくなる自分を知っているのに、どうにも出来ない私は成長しなくちゃいけないんですよね・・・。
母には引っ掻き回されるのもあるでしょうけれど、
なぜ自分で納得して行動していることを変えて、
母の言う通り動かなければならないのでしょう。
というより多分ダメな部分で
人に決められることって、・・・嫌な気分になってしまうんですよね。