前回のミミさんの書き込みは「ADHDのコーチング永遠のテーマ」と言っても良いような大きなテーマなので早速取り上げましょう。
1.ある同好会に属する数人(女)が部屋に集まりました。
私は先輩を家に送る予定だったので一緒にいました。
2.同好会について話している間に、その場にいない1人の女性をターゲットにした悪口がはじまりました。皆仲良くやっていると思っていたので、私は驚きました。
3.私はその悪口を言っている人に悪い思いはないですし、いい年した大人が他人の悪口で盛り上がるって不思議だと思いながらずっと黙っていました。
4.「特に関係者でもあるまいにあなたたちが責める理由にならないだろう」というような話も含めて口撃は30分ぐらいは続きました。
ADHDの感想
「社会勉強というか、カルチャーショック感が強かったです。
他人に向かって人の悪口言っても問題は解決しないと思いますし、本人に言って何かしらの解決に持っていけばよく、
もし本人に言えないなら解決不能として黙っていれば良いと思うので、結局 他人に人の悪口を言うのは無駄だと思うのですが、どうして多数派は他人の前で別の人の悪口を言ったりすることがあるのでしょうか。(それともADHDの人でも言うのでしょうか?」
ADHD関連
ブログ上コーチング③「陰口」
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私も陰口で痛い経験が・・・(^_^;)
7,8年くらい前、子ども会の役員をやっていたころに、役員仲間のあるグループ数名で集まったとき、役員メンバーのある人の陰口が始まり、私もついうっかり話をあわせてしまいました。(買出しの車の中だったから逃げようがなかったので)。
とある機会に、その『陰口をいわれていた人』と話すことがあって、『ばらす』つもりはないけど結果的に(陰口の本人に)『ばらした』と同じことをやってしまって、最終的にメンバーの殆どから無視される、という痛い目にあいました。
しかし今は、その陰口を言われていた人とも、(当時は険悪だったけど)今は街中で合っても話せる仲になっています。
不思議なのは、当時の子ども会の会長をはじめ、中心的存在だった人数名(そのとき中心になって陰口を言っていた人たち)とは今でも、気まずいとまで言わないけれど、どこか避けられているような、よくわからない変な雰囲気を感じて、合っても避けてしまいます。
その数名のメンバーの1人は、実は最近まで近所に住んでいたのですが(今は引っ越してしまった)近所にもかかわらず、私は『なんか避けられてる??』感じが否めませんでした。
その人が中心になって、当時近所の人と生協の共同購入をしてたのですが、私はお誘いがかからなかったし、生協の職員から訪問勧誘もあって私は個人宅配にしたのですが、さすがに気まずかったです(^_^;)
別にそのグループが嫌だったのではなく、一度もめた人、というのもあったし、相手から自分も避けられているようだったので、仲間に入れて、というのが言いにくかっただけなんですが・・・。
以来、グループというものが怖くて、役員活動もおっかなびっくりです。今でこそ『他の人と自分の脳の働きの違い』がわかったので、すぐに感情的になって反応しないで、自分なりに『状況分析』ができるようになったので、ちょっとだけ怖くなくなりましたが・・・。
陰口は、下手に話を合わせると『一緒になって言った』とみなされるので、ホントに要注意です。
先生の『仮説』と合わせて私の経験の『状況分析』をすると、結論として私は『(多数派流に言うと)陰口などの大事な話をする時に、いてはいけない相手』というふうに見られているのでしょうか?
親密になった相手だからこそ言えるのが『陰口』とするなら、グループの中に私がいると『私たちは大事な関係よね?』という合意を出し合う(陰口を言う=それに合意する)ことができない、というか・・・。
そうなると必然的に多数派から避けられる、ということは、『どこの仲間に入れてもらえない』というちょっと寂しいことになるけど、結果として『多数派流の付き合いのルール(?)の直接被害を受けなくて済む』というメリットもあるのかな。
早速ご説明いただき、どうも有り難う御座いました。
(ブログ上に載せていただいた自文を見ると、
読みにくくて申し訳ないなと思いました)
「ネタ」としての意味しかない、のですか。なるほど、と感じました。
先生が今まで説明してくださった多数派とADHDの違いに関する説明と自分の経験を照らし合わせると、(ADHDと多数派では)話している内容そのものの重要度が違うことをしみじみ感じます。
話のネタにするならもっと面白いことにすれば良いのにと思います。
(連帯感を深めるのに良くない意味を共有するというのは、不思議な感じです。
とはいえ多数派から見てADHDに対して同じように不可解に感じる部分も多分にあるのでしょうが)
私の印象としては、多数派とADHDで、話のネタになりやすいものが違うような気がします。
(多数派)
・人間関係・恋愛
・天気
・愚痴や第三者の話
・電話が長い
(ADHD)
・自分が経験したこと
・「もしも」話
(島と大金を持っていたらどうするか、もし「田舎の家訪問」番組で芸能人が家に来たら、など)
陰口の現場に居合わせてしまったときの対処、
相談させてもらったときは、「逃げ出すに逃げ出せなくて黙ったまま、社会勉強のつもりで話を聞いた」でしたが、
もし次に似たような場面に出くわした時は、先生が書かれている「そういう話は嫌いだとはっきり言う」ということを念頭におきたいです。
どうも有り難う御座いました。いつも本当にありがたいです。
すみません、引き続き追加です。
書き込みした後、たまたま近くにいた母(多数派)に「陰口」がなぜ起こるのかをふと聞いてみました。
母の受け取っている印象は、先生の説明とほぼ同じようなものでした。
直接聞いたものを書き残します。
———————————-
女が集まった場合(職場の人間関係が複雑な場合)
・お互いが衝突するよりも、違う人をダシにしたほうが害が少ない。(からそういう話になることがある)
・何かのきっかけで、たまたまそういう(陰口の)話になった
・内容にたいした意味はない
・場合によっては、(本人や別の人に漏れたりした場合)それが別の火種になることがある
・ストレス発散の為に、人の悪口を言うことがある
深い意味はないけど、ちょっとしたきっかけでエスカレートすることがある、らしいです。
以上ご報告でした。
心当たりありますね・・・・。
私から見ると、悪口を言うだけ言って落ち着いてから、解決策を考える定型発達者さんも居るかなあ、と。
要するに感情を発散して、冷静になってから解決策に進む人ですね。
でもそうじゃなくて、ただ言うことが目的の人も居ますね。
私が不思議なのは・・・・悪口言う事を楽しむ人ほど、他人に悪口言われると根に持つんですよ。
自分はただ言って楽しんでるだけなら、相手もただ言うだけ、楽しんでるだけって解釈はどうしてできないのか?その解釈ができれば怒らなくて済むじゃないか、って思うんですが。
そういえば・・・・鬼門になる言葉が『どう思う?』ですね。
何かよく分からないことを延々と喋ってる人がいて、引きずられて・・・・最後の最後で『どう思う?』って聞かれます。
『こう思う』って正直に言うと、どうも何かが(向こうから見て)間違っていたらしく、えらく恨まれます。
あの『どう思う?』は『私と同じように思うでしょ?』なんですね。
けどそう言わずに、あくまで問い掛けられた相手は自発的な意見を持ち、なおかつその意見が自分と同意見である、という形を取らなくてはならないらしい。
それと、主役が分からないっていうのも火種になります。
誰某のお誕生日会とかなら、今日の主役は誰って分かるんですが。
そうじゃなくて、何故かその場の主役が誰なのか決まってる事があるみたいです。
その主役が誰なのか分からず持ち上げなかったために顰蹙を買う。
それから、そういう場の雰囲気を察して期待される言葉や振る舞いを確実に返せることが人間的成熟だと思っている人には、世間知らず扱いされます。
まあある意味での世間知らずではあるでしょうが。
甘やかされて育ったんだろうとか、苦労知らずなんだろうとか。
(別の苦労をしてるんですが)
そういう人に、目の敵にされます。
嫌なら関わらなければいいのに・・・と思うのですが、こっちが避けてもついてくる・・・・。
なんでしょうか、あれは。
多数派の『どう思う?』とか、(何かで集まった時に)『このあと時間ある?』という種の質問は、突き詰めると『相手がこの集団(のルール)に従う意思があるかどうか』の意図確認の意味があるのではないかと想像しています。
つまり『どう思う?』は『同意を求めるための確認』、『このあと時間ある?』は『私があなたを食事やお茶に誘ってもいいよね?』という念押しの意味。ここでたとえ予定があっても、『(多数派的に見て)絶対外せない用事』でないかぎり、『用事があるから』といって断ると極端な話『裏切り行為(悪意がある)』くらいに受け止められるんじゃないでしょうか?
『仕切る人、仕切られる人』の決定は、暗黙であることが多いですが、言動を観察していると見えてきます。5人くらいのグループなら、その中の2人くらいが『仕切る人』になることが多いです。ただしこの『仕切る人2人』の間にも微妙な上下関係が存在していることが多いですが、これは以外と単純な、年齢順とか子どもの学年であることが多いかな・・・。
多数派の人達は、だから常に普段の会話の中で『年齢』『子どもの学年』『夫の職業、年齢』・・・など、相手にに関するあらゆる情報を入手し、グループ内の誰に従い、どう動くかを(個人差はあるけど)適宜判断しているんだと思っています。
だから発達障害(特にADHD)の人は、『質問にすぐに反応しないで、周りの人がどう答えるかを見てから答える』が、一応の原則だと思います。
ただ、最初に上手く合わせて、グループのメンバーから『仲間に入りたがっている』と受け止められると、後々の『一度の失敗』はまず認めてもらえない、と覚悟したほうが無難です。たとえばそのグループが『学校や幼稚園の役員』などのように、『期間限定』であるなら、1年なら1年、外さないように気を付ければいいけれど、『団地や社宅の主婦仲間』のように、引っ越さない限り永遠に付き合うだろうメンバーは、自分のスタンスをある程度明確にしたほうが、長い目で見ると受ける害は少ないと思います。
ふと思ったんですが、『多数派の人から一度でも”悪意がある”と』とみなされたら、修復は不可能なんでしょうか?
どんなに気を付けていたって『読みを外してしまう』ことはあるし、『一度の(多数派からすると)過ち行動』が、裏切りや悪意に取られると、私の経験からすると『修復は非常に難しい』ということなんです。
やはり、そうなんでしょうか?そうなると『下手に多数派(グループ)には加われない』、という気がします。それって、自分としては、なんだか閉鎖的で前向きじゃないような気がするんですが、失敗したときの修復方法がわからないので、そうするしかない、と今のところ思ってます。
引き続き投稿します。
はっきり言って多数派の人は(私からすると)『過剰に反応しすぎている』と、思います。たった一回の誘いを断った程度で『裏切り』というのはちょっと信じがたい事です。『相手にも都合がある』と考えることはできないんでしょうか?それとも『断る事即ち、他の人に聞かれてはまずいような、グループの内々の情報を漏らすかも?(=スパイ行為に走るかも?)』というふうに、無意識のうちに考えてしまうからなのでしょうか?
ここらへんはホントに『認知の差』なのでしょうが、多数派の人にも発達障害にはない『多数派流の変なルール』があるのは間違いなさそう・・・です。
はじめて、ここに書き込みます。
アスペルガー症候群の私の場合は、このようなことに巻き込まれた場合は、陰口を受ける人が自分の嫌いな人でなければ、なんでそんなことを言うのかと話に割ってはいり止めそうです、そして周りからきっと知らないところで顰蹙をあびてきたのだと今になって分かる気がします。
または、その話をそれなりに聞いてしまい納得でもすると、その理解が膨れ上がるように気になり、周り以上にその人を意識してしまい、その後その人と話がしにくくなったりしてしまうようなことさえあります。
その上で、このようなことを経験する中、一番驚かされるのは、陰口を言っていた本人たちは、その陰口をされた本人と個々の付き合いでは、何もなかったように普通に振る舞い、付き合いを継続できることです。
はじめまして。
ASの診断を受けたsoltです。
よろしくおねがいします。
ASの私の場合は、このようなことに巻き込まれた場合は、陰口を受ける人が自分の嫌いな人でなければ、なんでそんなことを言うのかと話に割ってはいり話を止めそうです、そして周りからきっと知らないところで顰蹙をあびるのだと今になって分かる気がします。
または、その話をそれなりに聞いてしまい納得でもすると、その理解が膨れ上がるように気になり、周り以上にその人を意識してしまい、その後その人と話がしにくくなったりしてしまうようなことさえあります。
その上で、このようなことを経験する中、一番驚かされるのは、陰口を言っていた本人たちは、その陰口をされた本人と個々の付き合いでは、何もなかったように普通に振る舞い、何も変らずに付き合いを継続できることです。
子供の頃の記憶を辿っています。
陰口を言った友達が、何事も無かったかのようにその子と平気で遊んでる姿に怒りを感じたことを思い出しました。
「矛盾」している・・と。
初めての投稿です。よろしくお願いいたします。
十年ちょっと前、私は女子高に通っていました。
そこで学んだこと、感じたことを書きたいと思います。
女性っていうのは、政治家のように派閥を作って集団生活を過ごすようです。{男性もこういうことってあるのでしょうか?}
様子を見ていると、やはり派閥内では、陰口で仲間意識を高めたり絆を確かめている感じがしました。
正直、私は陰口はおろか、グループ行動に自分の時間をとられるのが嫌。
そこで私がとった対策。
それは、ボーイッシュと呼ばれるようなキャラになることでした。
派閥関係なく個として人と対峙する私の傾向が、人には平等感を与えるようです。(特に、女性には小さな違いが差別を感じさせ、不満を募らせる要因になるようです)
その気質プラス、極力陽気な人間になることです。
その場で陰口が始まりかけても、自虐的なネタ(『自虐』っていうのがミソ)を織り交ぜ笑わせ、話を変えてしまう。
クラスという団体では中心的立場になり大変ではあるのですが、派閥に入らず気ままに人と付き合えるのは楽です。
気をつけなければいけないのは、自分の振る舞いが「優等生」とか「偽善者」ととられないようにすること。
そのためには、ガキ大将というか男の子っぽく(同性としての優劣を感じさせないため)、自分の駄目っぷりをネタにしながら陽気に振舞う。
すると、自然とあまり私の前では陰口はなくなりましたし、私の場合は、これで楽しく女子高生活は過ごせました。
なにより、社会人となった今でも、このキャラで、苦手な局面を乗り切れています。
陰口はそれ自体『その場に居合わせた人達の間の、共通の話題の1つ』で、内容によりますが『こういうことはしてはいけないよね?(しないよね?)』という、グループ内のルールを約束し合っているんでしょうか?
だから、『そういうもの』と割り切って聞いて、『絶対ばらさない』という原則さえ守れば、もし聞いてしまってもそんなに恐れるものではない、ということでしょうか?
ただ、それがエスカレートして、学校などでは『いじめ』にも繋がりかねないのが嫌ですね・・・。
なんだかイヤですよね。
「私ちょっと用事が~」と言って席を外したら
今度は私の陰口ネタで盛り上がるのかなぁ...と思いました。
聞くのもあまり好きじゃないし、ネタにされるのも...
でも私ネタの場合、私自身はその場にいないので耳に入らないだけマシなのか?とも考えます。
きよさん、素晴らしい。私もそれが出来たらどんなにいいだろうって思います。
でもそれって疲れませんか?私には、どういう行動や言葉が『優等生や偽善者に見える』のかがよくわからないので、実際どう振舞っていいのかさっぱり見当がつきません。
確かに、集団に属さず自分のペースで行けるというメリットと、孤立しないで、周囲から攻撃を受けないメリットを上手く両立できます。しかしそのために、結構な精神的リスクを背負っていらっしゃるのではないでしょうか?
私にはそんなふうに感じたので、正直にコメントしました。あなたの周囲への気配りは、(もちろん、あなた自身は、社会人として当然とお考えなのかもしれませんが)私には、『非常に過酷な努力』に映ってしまいます。
もちろん、あなたがまったくそのようなリスクを感じることもなく、日々楽しく、精神的にも充実していらっしゃるということなら、無用な心配ということになりますが。
はじめまして、colonと申します。
そんなに陰口を極端に恐れなくても…と思います。陰口、悪口は言った本人がそういうつもりでなくても、聞いた人がそう思えば陰口、悪口になりますし…
陰口、悪口の場合の「どう思う?」は、「グループ内の同意」と規定するより、「言っている本人(またはグループ)への共感(を求めている)」だと思うのです。ちなみに「同意」と「共感」は違うと思います。「共感」は相手が思っていることを認めるだけの作業であって、自分が必ずしもそう思う必要はないと思います。「どう思う?」を「同意」ととらえると賛成意見以外しか言えなくなりますが、共感ととらえれば意見がいいやすいのではないかと思います。
それでも、共感を求めている(ということは”そうよね~””わかるわ”とか同情とかして欲しい)相手に真っ向から「違うよ。○○だよ」と言ってしまったら、相手は欲しい共感を得られない上に批判までされている気持ちになってしまいますよね。ですから、「どう思う?」と聞かれて同意できない時は、先ず共感を示してから意見を言ってみるといいのではないかと思います。「(私は)違う(と思う)よ。(こういう考え方もあるんじゃないかな?私だったら××な理由で)○○だ(と思うんだけど)」という感じで、()の部分を上手く相手に伝えるといいんじゃないでしょうか?
私は随分、このことで悩みました。別に相手を批判している訳でもなんでもなく自分の意見をはっきり「私はこう思う」と言うと、「あの人怖い」「あの人、いい人だけど…いつも自分が正しいと思ってる」って言われるんですよね。ですから相手と違う意見を言う時は、先ず相手の意見や言ったことに共感(“あなたはそれが嫌なんですね””あなたはそう考えてるんですね”など)してから、自分の意見を「でも、自分は××の理由から○○だと思いますが(できるだけに○○だと断定しない、自分は~だと思うという)」と言うようにしています。
これで多少は気が楽になるかと思いますが、どうでしょう?
はじめまして、colonと申します。
そんなに陰口を極端に恐れなくても…と思います。陰口、悪口は言った本人がそういうつもりでなくても、聞いた人がそう思えば陰口、悪口になりますし…
陰口、悪口の場合の「どう思う?」は、「グループ内の同意」と規定するより、「言っている本人(またはグループ)への共感(を求めている)」だと思うのです。ちなみに「同意」と「共感」は違うと思います。「共感」は相手が思っていることを認めるだけの作業であって、自分が必ずしもそう思う必要はないと思います。「どう思う?」を「同意」ととらえると賛成意見以外しか言えなくなりますが、共感ととらえれば意見がいいやすいのではないかと思います。
それでも、共感を求めている(ということは”そうよね~””わかるわ”とか同情とかして欲しい)相手に真っ向から「違うよ。○○だよ」と言ってしまったら、相手は欲しい共感を得られない上に批判までされている気持ちになってしまいますよね。ですから、「どう思う?」と聞かれて同意できない時は、先ず共感を示してから意見を言ってみるといいのではないかと思います。「(私は)違う(と思う)よ。(こういう考え方もあるんじゃないかな?私だったら××な理由で)○○だ(と思うんだけど)」という感じで、()の部分を上手く相手に伝えるといいんじゃないでしょうか?
私は随分、このことで悩みました。別に相手を批判している訳でもなんでもなく自分の意見をはっきり「私はこう思う」と言うと、「あの人怖い」「あの人、いい人だけど…いつも自分が正しいと思ってる」って言われるんですよね。ですから相手と違う意見を言う時は、先ず相手の意見や言ったことに共感(“あなたはそれが嫌なんですね””あなたはそう考えてるんですね”など)してから、自分の意見を「でも、自分は××の理由から○○だと思いますが(できるだけに○○だと断定しない、自分は~だと思うという)」と言うようにしています。
これで多少は気が楽になるかと思いますが、いかがでしょうか?