ジャイアンの基本的な不安定さは合理的な部分とエゴの部分の根本的矛盾から来る自己突っ込みの終わることの無いぶつかり合いから来ると私は考える。
実際、この状態のまま生きていくのは苦しい。そのために、ジャイアンの他の説明しにくい特徴は「この矛盾の表面的な解決」という意味を持つのではないか?
まだはっきりとイメージを確立し切れていないが、「依存型ジャイアン」は自己突っ込みが少ないようだ。自己突っ込みの代わりに、実際に他の人に突っ込んで黙らせたり、逆に「全面的に信頼」してぶら下がる形になる。
私はこう想像する。積極奇異型ASや、別のジャイアンに依存して、一番のこの人から認めてもらうことで、「一番の人から見て一番」であれば、それ自体自分がすがりつくステータス(岩山)足りうる。
この場合ジャイアンの死に物狂いの努力は、「ある偉い人から見て自分が一番の場所を獲得するのにはどうしたらよいか?」という方向に向けられる。
その意味では、「ASの愛着の対象」としてかけがえの無い重要性を持った立場は、依存したいジャイアンから見て垂涎ものであると思う。ACの場合には「不安を打ち消せる」ということだが、ジャイアンの場合は「自己突っ込みから逃れられる」というように目的が少し違う。何が重要かは依存している相手が決めてくれるから、自分は責任を負わずにすむ。「この人が決めたことでこの人の責任」だからだ。
忠実な部下であったり、「弟子」であったり、「信奉者」であったりするが、大きな特徴は、「弟子の中で一番」であらなければならないということだ。自己突っ込みの代わりに依存対象である「マスター」からのいちいちの評価に一喜一憂し、「マスター」に気に入られ続けることに死に物狂いの努力を続ける。
「岩山の頂上で叫び続ける」のと比較すれば、「強いマスターにぶら下がる」のはいくぶん「社会的」な生き方といえるが、依存は明らかに「対等な立場からの理解」とは違って一方的な関係であり、ステータス(岩山)にすがりつく構造は同じだ。
YANBARU先生へぜひおたずねしたいことがあります。ジャイアンにとって「愛」とはなんでしょうか。自己愛、恋愛、夫婦愛、家族愛、親子愛、友愛、隣人愛、弱者への愛、性愛、精神愛などいろいろありますが、そもそも愛って何なのか、おそらく多数派にとっては(想像に過ぎませんが)無償の自己犠牲精神が代表的な愛なのではないかと思うのですが、ジャイアンにとっての愛ってなんだとお思いでしょうか。ちなみに自分は砂漠の山の上で咆えまくるライオン的性格も強いものに頼る依存心も両方持ち合わせているようです。
今回のお話から、娘は依存型ジャイアンと思われます。娘はおとなしく見えるので想像しにくいのですが、話を聞いてみると本当は第二位の地位がほしいといいますし、ジャイアンのわたしに依存状態です。
娘の不安定さは依存しているジャイアンが役不足だからかもしれません。大好きなアニメキャラは優秀で切れ味抜群のASっぽい人ばかりです。そんなASが実際に現れたら、夢中になると同時にしゃきっとするのかもしれませんね。
この記事を読んで私もジャイアンなんだなと再認識しました。
ジャイアンのACなので性質が悪いのだと、自分でも思いますが、自分のした行為が正しかったのかどうか、常に自己突っ込みをしています。
「間違っていた」「失敗だった」という結論は、「だから自分は駄目なんだ」というさらなる自己評価の暴落につながるんですよね。
だから、「あの人が言ったとおりにしたんだから、間違っていなかった」と思うことで、なんとか自己評価の下落を食い止めています。
だから、自分はトップに立つことは出来ない人間だとつくづく思います。
自分自身が間違っていたと結論を出すことは、「断腸の思い」とでもいいますか、おそらくACでは無い方には想像がつかないほど、身も心もズタズタになってしまうからです。
「時には自分の非を認めることが大事」ということは痛いほど、誰より分かっているのに、自分の非を認められないジャイアンな自分が本当に悲しいです。
ジャイアンでなくてもAS全般に通じる話かもしれないと思いました。
私は、自分の非と自分の尊厳は別だということが分かるまで、途方もない年月をかけました。
社会人になる二十歳までに分かりたかったです。
自分の人格とか、尊厳が否定されるかどうか100vs0でしか考えられない時期がとても長かったので、今でも言葉足らずな言い方で私の失態を指摘されると、「ダメ部分」の把握に長くて一日かかります。
私を指摘する人も、すべて完璧な健常者とは限りません。
私ほど適応に困っていないだけで、いろんな傾向の人間がいますから。
だから、発達障碍について勉強してきた私のほうが我慢して、頭の中で足りない言葉を足して大急ぎで納得へ向かって猛ダッシュします。
無理して生きているわけじゃない。
傲慢に生きたいわけじゃない。
話を整理しないと分からないだけなのに。
自分は傲慢なのか、傲慢じゃないのか、それを知るために黙々と一人で考察し続けることも苦行でした。
誰かに手伝って欲しかった。
こう望むことも傲慢なのか、誰もそれを否定できなかった。
自分の価値観をどうしていいか、分からなかった。
だから想念の中ではナンバー2は憧れでした。
安全圏として、憧れでした。
誰にも否定できない、安全な場所。
発達障碍について学ぶ中で、その憧れはコーチを欲しがる物が形を変えたものだと分かって、この憧れに対して失望しました。
私が目指していいものは何も無いんだと。
余談ですが『嫌われ松子の一生』を見て、あんな気持ちこんな気持ちを懐かしく思い出し、切なくなりました。
大人は“医療体制として医師ともカウンセラーとも別にコーチングが欲しい”と訴えればいいわけですが、子どもにとっては、安全圏を欲しがってはいけないという宣告は、心の闇へ向かっていく道にしかならないと思いますね。
この国はそういう子達をどうするつもりなのでしょう。
私は自分で自分の面倒をみられますが、自分で自分を尊敬できません。
それでもときどき、特有の自惚れオーラをだしているようで、それを主人がみつけると、その自惚れが地の底に堕ちるくらいの、きつい突っ込みパンチが入ります。
その他の場面でも、ここぞとばかりに自己主張しても、100パーセント失敗して、その後に待っているのは、自己突っ込みの底なし沼です。
だから、自分を尊敬できないのです。
でも、誰かを尊敬したいのです。きっと自分ひとりでは賢く生きられないと、本能で知っているからです。
自分が尊敬できる人に出会えたときには、嬉しくて有頂天になります。嫌われないように注意をはらい、いつもそばにいたい、そんな気持ちです。その時は、その人は飼い主で、自分は犬くらいに思っています。飼い主に怒られたりしたらショックで消えたくなります。
ほんとうの私は、とても小心者で、いつも心細いのです。
思い出しました、私が飼い主に怒られたりしたら、消えたくなる気持ちですが。「ジャイアンの根本的矛盾」のテーマで、YANBARU先生は、合理的ADHD部分とジャイアンのエゴが突っ込みあうとき、先生は消えたくなると書いていました。おそらく私の「消えたい」も、同じ感情なのかと思います。
うまく伝えられないのですが・・もし、私が自分のなかに、尊敬(信用、信頼)できる自分(飼い主)を実感できるなら、先生のように根本的矛盾が同時に突っ込みあい、消えたい気持ちになるのかなと想像します。
矛盾の度に消えたくなることは、とても辛いことですが、今までのような、妄想→爆発→反省→突っ込みの暴走、という私の悪いパターンから脱出できるような気がします。
でも、どうすることが、何を達成できたら、自分を飼い主にできることなのか、今は掴めないです。
でも難しく考えても仕方ないです。やはり先生の「低い自己評価を目指せ」が、私の特効薬であることは間違いないです。
今回m2さんを攻撃してしまった自分を振り返ってみて、私の弱点がはっきりしました。
なにか納得できない問題が起こると、最初は自分のなかの合理的ADHD部分が対処するのですが、それでも納まらない場合だんだん抑制がきかなくなり(視点を変えられない、そのことばかり気になってしまう)、結局ジャイアンのエゴが爆発する。その後反省モードに入ると、今度は合理的ADHD部分が猛烈に自分を批判して、自己突っ込みの底なし沼へ突入、ということです。
爆発する前に、いつもこの辛い底なし沼の存在を思い出せばよいのですが、そのときは爆発したいのですから、止まりません。そしてどこまでも自分本位なので、爆発のときも自己突っ込みのときも、誰がどんなアドバイスや、賛成や批判をしても、聞く耳を持ちません。我が道を行く状態です。
いつか、ほんとうに直るのでしょうか。自己嫌悪です。
私はYANBARU先生の「裸の王様の最後にでてくるこども」の話が大好きです。自分のなかにも確かに「こども」がいるからです。
今回も、過去も、私のこの弱点が露呈するときは、私としては、ジャイアンのエゴが2割、ジャイアンのプライドが3割、こどもが5割の割合で理由があるつもりなのです。自分のなかにはきちんと。でも結局いつも迷惑をかけて、浮いてしまいます。もう少し、上手なやりかたを、上手な表現方法を、模索していきます。
この記事にコメントすることをしばらく迷いました。「今後はよけいなことを言うのはやめて、先生がジャイアンについての考察を深めていらっしゃることのお邪魔を極力しないようにしよう」という気持ちが強かったのですが、それと同時に「とにかく同じ人間として、私にとっても長いこと『依存』ということは大きなテーマだったから、ちょっとだけお話したい」と思ってしまいました。
私は幸運なことに多くのすばらしい「人生の師匠」に恵まれました。その方々にある時期はとことん依存しました。そして最終的にはどの方とも「訣別」いたしました。ここでいう訣別は「心理的にけじめをつけた、きっぱりとしたお別れ・自立」を意味しています。
表面上は「喧嘩別れのような訣別」もあれば、「自然消滅のような訣別」「おだやかな訣別」といろいろでした。
今心底思っていることはこのすべての訣別が私にとって「最高の宝物」であることです。そしてどの師匠も1人残らず、私との訣別を心から歓迎してくださっていることが確信できるので、本当に有難く思っております。
自分ではわからないのですが、このコメントがピンボケでしたら御遠慮なく削除なさってください。