私がここで試みているのは「説明」だ。ジャイアンの認知と思考がどういう仕組みになっているか? 私なりに自分自身やこれまでに出会ったジャイアンの同類の人たちを思い浮かべながら、まず「どう考え何をしようとしている行動なのだろうか」ということを理解することがここで進めている記述の意味であり、その理解はそれぞれ読んだ人が自分自分の理解や家族、近い人の理解に生かせればいい。
たとえば表面的にうまく行っている人はジャイアンならではの問題に悩むことは無いだろうか? 私の場合は「否」だ。表面上結婚もして仕事もして収入もあってそれなりに評価もされても日々自分のジャイアンの醜い心理に苦しんでいる。
「相手によって自制ができるか否か」などは実に表面的な話であり、本当に自分にとって大事な場面で自制ができないのがジャイアンで、その面は通常表に見せびらかしていないので、それこそ表面上つくろうことは簡単なことだ。自分が優位に立った立場であれば簡単に「仏」にでも成れる。
ほかの人のことを云々するのは止めにしましょう。読んでいる本人にしか分からない大事なことを私はここで伝えたい。自分の醜さの理由、メカニズムは何か? まずはそれを理解することが出発点だ。
「どうしたらいいか」という対策はどんな方向のものであっても、ともするとジャイアンのお得意の「自己正当化」の一つでしかないことが多い。
3歳でもジャイアンは言葉だけで「ごめんなさい」を言うことができる。それでそれ以上咎められないことを学習すれば。
「私にははだめなところがある」と声高に言い続けることは果たして反省と言えるだろうか?
ただそれこそ否定的な記述に感情的に反応したジャイアンの「自己正当化」に過ぎない可能性だってある。
だから安易に「どうしたらいいか」に行かないことがまず大事なことだ。何が起こっているかをまず理解する。
本当の反省は自分自身に対して冷静に分析を続け、理解できた理論的分析をひとつずつ積み上げていくこと、大事なことはその作業から安易に外に逃げて出ようとしないことだと私は思う。
ジャイアンの分析の本当の必要性は黙って読んでおられるジャイアンの方々にあると私は思う。
(家族や関係者の場合は別だが)ほかの人のことはいい。
醜い自分の心理の理解を自分自身のその後の人生に生かせるか否かを考え続ける。そういう孤独な作業が「反省」だと私は思う。
初めまして、こんにちは。
いつもブログを拝読させて頂いております。
今日は不思議に思えた事がありましたので、質問させて頂きたいと思いました。
先生はジャイアンであるご自身を自ら醜い存在と規定していて苦しくなりませんか?。
私はこちらのブログやホームページに照らして考えるとジャイアンかも知れないと考えますが、自らを貶めて生きても幸せな気持ちには到底なれませんでした。
自らを醜いと貶めている先生は、生きていて幸せですか?。
生きていて幸せかどうか。その前に、己が何をもって幸せと感じ、幸せと認められるのか。
まずは己を知ることだと先生はおっしゃっているのではないでしょうか。
己を知った人は、ジャイアンだろうとそうでなかろうと、強くなる。まずはそこから目指そうと、先生は教えてくれているのではないでしょうか。
毎日毎時間反省しても悔やんでもまた同じようなことを繰り返し言ったりしたりしてしまうのは本当に辛いし自分に対して腹立たしくなります。
ジャイアンであってもノビタであってもいろいろな失敗を何度も繰り返しますよね。
でもそのときその失敗を次につなげるチャンスと考えてつなげることが出来るか、サルでもできる反省にするかは当人にかかっているということだと思います。
醜い自分の心理についてはその人自身の心の中で起きることですが、そこから逃げないこと、でも自分の障害は見つめていること、そして、自分も周りも許すことが大事になってくるのだと思います。
ADHDを持っている人は、失敗でセルフエスティームが簡単に低くなり、どんなに周りが君は大丈夫だよといってくれても根本的なところでそうじゃないと思う自分がいるかもしれない。けれど、そんな自分も自分。そのまま受け入れて反省をチャンスに変えることに努力をしていくことなのではないかと、子どもを育てていて感じています。
経験をしたこと以外身につかないのがADHDだとしたら沢山の成功体験、失敗体験から一つ一つ学んでいくしかない。だから多数派より発達に時間がかかる。でもゆっくりでもすこしづつでも学べるからこそ発達障害というのではないでしょうか。
>ckw様
多分私へのレスを頂いたのだろうと思われましたので、勝手ながらお返事させて頂きます。
私は際限無く繰り返される自他からの人格否定が続いた私自身の人生を振り返り、かなりな部分で自己を見つめ続けて参りましたが、自身を含めて誰の事でも同じですが、「人が人を否定し貶める」視線や視点の先に幸せがあるとは感じられませんでした。
ジャイアンが生来「否定を恐れ嫌う」ものであれば尚更、ジャイアンの資質の否定から入るのは逆にジャイアン自身を傷付け追い詰める結果を招くのでは無いか?と考えます。
人は幸福になる権利を有して産まれて来る事を前提にするなら、障害の有無や障害の軽重やその性質を問わず、やんばる先生ご自身ですら、ご自身を否定する必要は無いのでは?と思い、やんばる先生に質問しました。
やんばる先生の幸せが自己否定にあるのなら、私はそうであるとのお返事でも構いませんでしたが、やんばる先生の幸せはやんばる先生ご自身が知っている事とも思われます。
寧ろ私はやんばる先生への質問を通して、
「やんばる先生はご自身の生まれ持ったジャイアン的資質を十二分に活かし、既に充分に他者を生かしている。
ジャイアンとしての過去や評価はどうであれ、既にご自身を貶める必要は無いと思われます」
とお伝えしたかったのかも知れません。
私は、現在、アルコール依存症のため、私の実家に私と旦那さんと子どもをつれ、住んでいるものです。
私は、やはり、自責の念や劣等感また、を持つ人とそうでない人がいるように感じます。感じない人たちは個々の属する集団においてその集団、集団で合理的に考えて自分の身のわり振り方をわかって適応することができるのだと考えています。ただ、ADAD(ジャイアン)は自己に対して鋭い突っ込みを入れるので自分が今おかれた集団の状況で自分を有利にいかせる方法を頭の中でわかっていても、完全主義?(自分に厳しいので)それができなく苦しむ、または集団においてこのようにしたらよいとはわかっていてもできない。
しかし、やはり、自分に厳しい立場でなければわからないような人間の究極的ありかたえを本質的にとらえらることが
できるのは、自分に、厳しい人にあたえられた、険しいではあるが本来人間があるべき姿にに感じられます。
ただ、自分の醜く感じられるが、自分の理想としている生き方を常に照らし合わせ毎日、毎日を目をそらさずに生きる。
自分に自己に対する独立宣言をし自己を創造するには、人間として生きていく上での最高の生き方にも感じられます。
ある人との関わりでボロボロになり、自分がそこまでになってしまった過程を理解するのに幾つかの書籍を読み、そこでモラルハラスメント・自己愛変質者・ダブルバインドのこの3つが、それまでの過程を理解するのに納得出来るものでした。
私は自分がどのタイプかはわからないですが、自己正当化ADHD&ACにも近い気もします・・、
ボロボロになる前までは、どこかおかしいと感じながらも、その人に認められたいと頑張っていた気がしました。
ボロボロになってから、やっとその人を憎みました。今でも許す気持ちにもなれない。この感情が醜いと自分でも思います。
自分の醜さに目をそむけない・・、そうですよね。
そう思いながら、まだまだその相手を許せない自分。
許せないだけでなく、油断出来ないと感じてしまう。私が元気に活発に活動したと知ったら、またその相手が私を何かしらの形で潰しに来るんじゃないかと思ってしまう。。こういう心理は統合失調に近くなってるのか・・。。葛藤はまだまだ、続きます。マインドコントロールから抜けない状況にも似てるのでしょうか・・