1.受動型ASでは外モードと内モードが区別され、内モードで接する家族と外モードで接する第三者とでは本人像はお互い想像できないまで全く異なるというのが一般的である。
2.内モードでは愛着の対象の家族に対しては、説明抜きで自分を100パーセント理解し、無条件に自分の欲求を全部通すのが当たり前であるという行動パターンになる。この家族のもとでは受動型AS本人は何も嫌な努力をしないでも快適に過ごせると確信する。(これが実現しないのは家族が悪いからだと結果被害的になる)。
これは年齢によらず、このパターンの解決は物理的・現実的な自立しかない。
3.内モードと外モードはよほど病的でない限り厳密に区別されるので、「内モードの姿でわがままであることを見て外モードの社会生活でやって行けないと考える」ことは無意味である。内で激しく暴言し家庭内暴力を振るう状態と、外で緘黙に近く自己主張をしないで穏やかに対人関係を送れることはなんら矛盾しない。
4.子供が受動型ASであると診断された場合には、養育の基本原則は「外モードを成長させる」ことである。友達関係の中で居場所を見出し、ある程度受け入れられている実感をもてれば受動型ASは良好な社会適応が可能である。
5.理の当然として、「外モードの成長」には愛着の対象である親は関与することが出来ず、また効果を直接見ることも出来ない。学校や家族以外の関係の中で本人が成長することにあくまでも間接的に貢献することしか出来ない。
6.内モードでは本人を変えようと働きかけても無理である。親自身のタイプによっては「言語的に説明させる」ことを身に着けさせることは可能であるが、それ以上に家庭の環境での親からの働きかけで本人が変わる事は期待しないほうが良く、また変えようとする必要も無い。
7.内モードでの親への依存関係、要求とわがまま、暴言暴力などは親子の相性によってはお互いに物理的に離れることでしか解消できない。最終的には「寮制の学校に入る」、「18歳で自立する」などの物理的・現実的な自立のみが解決となる。
8.内モードでは外モードの状況をさも苦痛、ストレスに満ちたもののように語るが、実際には外モードの状況では「自己主張を引っ込めてただ耐える」ことはストレスになっていない。「このことを家の場所で親に語るからストレスのストーリーになる」と考えるべきである。
だから親は「単なる愚痴」と考えて「今そういう気持ちな訳ね」と受容的にただ話を聞くだけで良い。外での問題自体の解決は考える必要が無い。(親が外に介入しようとすると本人は抵抗することがほとんどである)。
9.受動型ASの場合で「内モードが全く無かったらストレスで精神的にきつくなる」ことは無いと私(後藤)は考えている。外モードだけで周囲と良好な関係で過ごせれば自己評価が低下する結果にもならない。
従って厳しいケースにおいては、「物理的な親子分離」という現実的な解決策を検討するべきである。
10.受動型ASがひとたび外での不適応をきっかけに引きこもりになった場合には、「外での再度の適応の保障、働きかけ」と同時に「内モードから強制して追い出す」働きかけが必要である。登校支援は「一気に普通のクラスで普通に過ごす」ことを目標とする。中途半端な形の登校はかえって困難となる。
11.このように受動型ASのケアは通常の多数派や発達障害のケアとさえ根本的に異なる形となる。この意味では出来るだけ早期の診断が不可欠であると言える。
今まで現実において知り合ってきた数々の受動型さんに対して思っていたモヤモヤが、少しずつ晴れていくような気がします。
私のACが回復しそうになると、すかさず受動型さんの方が重度のACになってしまう。そんな、苦悩に満ちた長年の謎が、ようやくある程度の理をもって示していただけたと、ありがたい気持ちでいっぱいです。
私だけが悪いのではなかった。そしてそれは、誰が悪いとかそういう事ではなく、ただ、ケアが根本的に異なる形という事だったのだ。
本当に、ありがとうございました。
受動型AS本人から見ても、今回は大きくは違和感ありません。
>「内モードが全く無かったらストレスで精神的にきつくなる」
正確に言えば、ストレスは問題なくても体力的に持ちません。
外モードは、相当いろいろな負荷をかけていますので、1日8時間が限界に近いです。
ただ、内モードは家族がいなくても社会から隔離されていればOKなので、一人でもOKです。
よって、「物理的な親子分離」という解決策はありです。
>「寮制の学校に入る」
上で書いたように、一人の時間が確保できるのであれば、問題ないですが、常時共同生活を求められると外モードが持続できなくなり、問題が発生します。
寮は運用形態によっては、かなりのリスクになることを理解していただければ、幸いです。
(「最近の当ブログのコメントについて」の続きになります)
先生、8.を読んで分かりました!
最近の私のコメントは、「気付かないうちに他者の問題に踏み入ってしまっている」状態だったのだなと。
「のび太の失敗」と捉えなければいけませんね…f(^_^;
あと、受動型AS彼については、結局は突き放すしかないってことですね。
日頃から「言わなきゃ分からない」「嘘ばかり言うので信用できない」とは言ってますが、おそらくこの「意味」を理解してないだろうと思いました。(どうもAS環境下で育ったASのようで、向こうは向こうで「合理性」等が全く理解できないようです)
9.はちょっとびっくりしましたが、例えば長い休み等で「外モードを維持できない状態」が続くと、今度は「(様々な原因を持ち出し)仕事に行きたくない」と言い出すことがあるので、何となく分かるような…
「内モードor外モード」と、白黒はっきりつけてしまわずに「分からない」状態でぼかすのが一番良いってことですかね。
自分に関して言えば、この対応で間違いないように思います。自分の子どもに対しても、この基本原則を基に育てていきたいです。
そうか、自分は内モードを中学時代に捨てて、家族に対しても外モードで対応するようになったから、今のところ周囲とは、ほぼ良好な関係で過ごせているのか。
「内モードが全く無かったらストレスで精神的にきつくなる」ことは無いと、自分も思います。むしろ、親との軋轢がなくなり、ストレスが少なくなったように感じます。
それと…言い忘れてましたが、この記事はとてもありがたかったです。
相手がジャイアンの場合、のび太の私が「人を認知しない」特性から相手を知らず知らずのうちに依存させてしまうことがあるということは把握していたので、まだ気を付けようがあります。(ちなみに、最近弟の彼女のジャイアン連れ子になつかれて、ようやく「カモ」にされるとはこういうことなのかと実感しました。相手が子供だから分かりやすかったですが、大人だと何がカモだか本当気付きにくいですね)
しかし、身近な受動型ASに対しては「どう接することが一番望ましいのか?」疑問でした。
「外」での問題には、やたら首を突っ込まない方が良いみたいですね。(確かに、訊いてもほとんどスルーされますが)
とりあえず暴力等は大丈夫なのですが、相手の「ストレス(トラウマ?)のストーリー」をこちらが真に受けて聞いてしまうと、後々腹が立って喧嘩に発展しやすいような気が…
「単なる愚痴」と捉えることとしま〜す。
夫、実母、そして多分長男がこの受動型ASです。受動型ASの娘として、そして妻として、そして母としての視点から見るとまさに後藤先生のおっしゃるとおりだと思います。とにかく外では我慢して誠実な「いい人」を演じる。家では不実な暴君。もしくはうそつきのワガママ。外の顔を知っている人物からするとクズ化している、という印象です。また外部の人が受動型ASの家での様子を知ると、にわかには信じられないようです。一つ屋根の下に暮らすものは、彼らの落差に傷つき、ルールもマナーも無視の「家での」人間性にショックを受けます。それと同時に悪気がないのも分かるのでとても混乱するのですが、彼らにすれば理屈抜き、当りまえのことでしかないんですね。全く理解できませんが、そうでしかないのでしょう。当事者に外面と内面の落差を指摘すると「みんなそうだ、そうに決まっている」と同じ答えをします。みんなそうに決まっている、という思い込みがASぽいですね。
私の上記コメント、少し訂正しますね。
内モードと外モードを「分からない」状態でぼかす…というより、「(始めから外モードだけにして)内と外の中間のストレスの山を無くす」と言った方が正しいですね。
内→外・外→内に切り替わり「変化する」瞬間がストレスMAXのように見えるので、始めから外モードだけの方が楽なのかな?と想像しています。
なので「内と外の差が激しいほど、中間のストレスも大きい」のかもしれませんね。(まぁ、これ以上考えても意味が無さそうなので、この辺で止めておきます)
>9.受動型ASの場合で「内モードが全く無かったらストレスで精神的にきつくなる」ことは無いと私(後藤)は考えている。
たしかに子ども(積極奇異型?)を見ているとそのように見える面もありましたし、現在もそのように感じる部分があります。(この点、私には何とも理解しがたい部分です。)
一方、(あくまでわが子の場合ですが)外モードが自分の想定から外れてくると、子どもは途端に不適応を起こし、従来あまり機能していなかった内モード=親子関係も破綻した。
・・・振り返りますと、私にはそのように思えます。
本エントリを読ませていただき、“今の子ども”は母に対して、基本的に外モードで接しているのかなと感じました。多分気づかず、内モードに切り替わることも(多々)あるように見えます。
コメント欄を読ませていただいての印象では、ASの方々にも何らかの形(家族ではないにしろ)での「内モード確保」が必要なのではないかと感じました。
家の子どもの場合では、愛着対象である(ように母から思える)同性友人との交流が、内モードの役割をしているのかなと思いました。親の立場からは気にかかる交友関係なのですが、今の子どもにはもっとも必要な関係なのかな、と。。。
↑
思考が飛びすぎでしょうか(苦笑…)
5.8.については実経験上、その通りでした。
6.を読ませていただき、自責の念が和らいだ気がします。
こちらの記事を初めて目にした時と、今日、久しぶりに読ませていただいた「受け止め方」が
変わりましたので、コメントします。
先生。
大変わかりやすく書かれていますのに、当時はよく理解できなかったようでした。
下で、とんちんかんなことも書いています。(もっとも、今も・・・かもしれませんが)
子どもは18となり、2年前とは変わってきています。
成長したことにくわえ、親子ともども、様々な被りものが剥がれ落ちてきたのだと思います。
子どもから「本来の自分とは一部異質な考え方」(私の「優位に立ちたい感」)が抜けてきて、
こちらの記事の項目がしっくりくる、受動型らしい人に見えてきました。
私にも子どもにも、AC的な部分が含まれる(ていた)と考えられますが、
少なくとも私の場合、はじまりは「自分の受け止め方」の問題だったのではないか、と思えます。
一部の感性が鋭すぎる、あるいは文字通り「少数派」の独自な受け止め方をする。
自分にとって正当な受け止めであるから、当然にそれに沿った反応をする。
悲劇のはじまりは、自分にとっては正当な感性が、多数派から支持されないことだと、今は思います。
(もっとも私は、多数派は「多数である」だけ、その言動に正当性があるとは考えていません)
子どもは徐々に自分のペースを取り戻し「外モード」が機能している(?)ようです。
たまに私が感じる「家庭生活上の違和感」は、私にとっては大切な感情でも、
子供には迷惑なオーラで、たぶん成長にも不要なのだろうな、と改めて思い直しました。
とはいえ現状では、同居の継続に困難を感じる場面もあります。
時機を見て距離をおく選択については、なんというか「素直に」「ポジティブに」考えられそうです。
「物理的距離」がそれぞれの自立への道、あるいはジャイアン親なりの「愛」。
この思いは多数派的には「愛」とも表現できますよね。
「ジャイアンと積極奇異型AS」のコメントからこちらのコメントまで、観察分析などを自分の解釈を入れずに行う超直感モードを使ったので言葉が出てこず、回復するのに少し時間がかかりました。(以前は回復するのに数カ月といったところで、これでも早くなった方なのですが)
以下、一般的ではない話になります。
創作を連載していた頃の話ですが、創作モードと、編集者とのやり取りを行うこの世のお仕事モードに移行する(変化する)中間地点のストレスがものすごかった事を思い出しました。(結果、深夜しか仕事ができない)
いろいろ考えた結果、「初めから中間地点である境界周辺モードにしておけばストレスが少ないのではないか」と思い立ち、数年が経過しています。
そして当時、遠距離でお付き合いしていた男性(たぶん受動型さん)からは、「いつまでそんな事をしているんだ」と最終的にキレられましたね…(遠い目)
今朝のコメントを、投稿・クリックしてから気づいたことがありました。いつも「行動を起こしてから気づく」のが、私のパターンです(しょんぼり&でもまた立ちあがる)。
内モード=家族モードであるならば、ASさんに内モードは不要ということですね。書き込んでいるうちに、“受動型”のASさんにとって外モードが良好であれば、外モードだけでうまくやっていけるということ、何となく(私なりに)つかめてきました。
ASの子を持つ親として「子どもの外モードを成長させる」姿勢を忘れずにいようと思いました。積極奇異型への対応について受動型と異なることなどありましたら、いつかブログ上でご教示いただけたらうれしいです。
積極奇異型ASの私の場合~(外モード成長編)~
■人間関係において、自分の心身を損なうほどの大きなストレス
を回避する事を良しとする。(いろいろな実体験を少しずつ通して対人的距離の取り方を少しずつ学ぶ)
■自分の行動と言動、経過した事象を定期的に振り返り、「どんな事が起きて今こうなっているのかを自分で把握する習慣」を身につける。(発達障害専門の良きアドバイザーまたは相談員をつけると良し。そして、ベッタリ付き合いはしないと双方が合意の元取り決めると尚可)
■自分と同じ、または似たような趣味の合う同じタイプの人とだけ友達付き合いする事から少しずつ脱する事を目指す。
…とりあえず、こんなところでしょうか。また思い出したらコメントしたいと思いました。
“自分で”考え“自ら”行動に移す努力をする
↑
さらにコメントを読ませていただいた印象です。問題が生じているからには、たとえ未成年でも「自ら気づき自ら努力すること」・・・親は手出しをしないと再認識しました。
家の子の場合は中1以来、成年のサポーター・アドバイザーは(無論親も含め)受けつけません。同年代のコミュニケーションから糸口を見出そうとしているよう・・・これもまた依存なのでしょうか。
本音を言えば、大人の力も利用してほしい。その方が効率がよいし、私自身も把握できて都合が良いから。
いや、それは違う。やはり「自分で糸口をつかむこと」が大切ですね。『自分で』に、価値があるのだと思い直します。
私の胸中の万感は、自ら「当然だよねーるるちゃんがんばってるねー」と大切にしつつ、子に対しては「ああそうなんだー」と受け止め、「手出しをしない」。改めて心に留めました。
(とはいえ思わず手出ししてしまう時もあり、憮然としてしまう時もあり・・・^^;)
おかげさまで、私の「親としての土台メンテナンス」の好機となりました。
内モードと外モードの中間のストレスをなくす・ぼかすという
ことについてです。
子どもを見る限り“内モード=自分の世界確保の必要=そのため家族またはそれに代わる存在が必要”に見えます。
成人した子どもが外モードでやっていくという姿が、少なくとも現状からは想像できません。
これは、今、思春期だからなのか?
子どもが受動型ではない、からなのか?
私の捉え方・認知の問題なのか?
あれこれ考えているうちに、成長=自立すれば自分の世界を自分で確保でき、“外モード”または“ストレスの少ない中間モード”で生きていけるようにも思えてきましたが。。。
ちょっと気にかかってしまいました。
↑
これぞジャイアン親の余計なお世話!かと思いつつのコメントです。
私が中学生だった時の事を思い出しました。
中1、中2の時の担任は、それぞれ誠実で誠意のある信用のおける男の先生だったと思いました。しかし、中3の担任は私の不登校が長期になっているにも関わらず、「あなたはしっかりしているから大丈夫だよね?」と私に念を押し、内心唖然としている私よりも、当時起こっていたクラスの問題事に視線をシフトして行ってしまいました。
中2の後半から中3の話ですが、教育委員会から調査のために学校に来たという知らない人から校内でいきなり呼び出されたり、校長から配られたらしいアンケート的要望紙を書いて提出してと誰か(覚えてない)から言われたり、私は始終、生徒として応対的には従順でしたが、まぁ~こんな不抜けた人らに私の何がわかると思っていたものです。
ちなみに校長の要望紙には、「3年時に一緒のクラスになりたい人を3人まで選んで書いてください」というような項目があり、「友人に順位をつける事」に私はとても苦しみました。
その他の話として、「親が見つけてきた、親に似たタイプのカウンセラーのところに強制的に連れて行かれた」事があり、その時言葉には出さなかったですが、私はとても辟易したものです。
私が唯一、「しまった」と思った事は、成人後に心療内科に通うようにしてから、抑うつ神経症の診断下で、薬(抗うつ薬と抗不安薬)だけを飲み続けてしまったという事です。私が飲んだのは9ヶ月くらいでしたが、医療関係者の親などから「薬漬け」を指摘され、私もよく考えてみたものの、「私は何か、私の中の大事なものと引き換えに薬を飲むことにしてしまったのではないか」とふと思い至ったものです。本当はそこで、薬を飲む他に「考えること」も一緒にやっていかなければいけなかったのではないか…と。今だからきちんと言葉にできますが、当時はここまでハッキリとは言えなかったと思います。
「自ら、”行動”に移す努力をする」事に気づいたのは、こちらの後藤先生のブログで長い間学ばせていただいたからですね。
私が何かしらの事件事故、犯罪などに巻き込まれなかったのは単なる幸運なので、親としてはその点に気をつけてくださったら有難いと思いました。
私の世界は、文筆家の池田晶子の言葉で鮮明になり、私の世界に一番近い、児童文学の高楼方子の物語に親しみを覚えます。
自分の世界を確保するために、家族またはそれに代わる存在を求めても、私の場合、いろいろな体験の結果、総括として「それが叶わない」事が自分の中でよくわかっていますので、今では特に求めなくなりました。
今も自分の人生に対しての答えは出ませんが、「きっとこれでよかったんだよね」と思いながら日々を生きています。
初めまして
沖縄在住、小6の息子をもつの母親です
息子は小1の時に発達障がいとさ診断されました
「それぞれの歩幅で」のやんばる先生のことを知りブログにおじゃやましています
やんばる先生の献身的なお仕事には頭が下がります
私達母親は、「世間に適応すれば病気になり、適応しなければ引きこもりや反社会的になる」「親が楽になるということは本人がその分苦しいということですよ」をこころして子どもを育てなければと思います
今、息子は思春期を迎えようとしています
ですが、心を閉ざすことなく元気に過ごしております
感謝です
たくさんの苦悩はありましたが、いえ、これからも苦悩はあるとおもいますが
乗り越えられるられると信じております
強い私に変えてくれたのも息子です
息子の存在に感謝です
今日、メールさせて頂いたのは、やんばる先生に講演会と絵画展のご案内でメールさせて頂いております
琉球新報で毎週一回掲載されている「おひさま日記」をご存知でしょうか
発達障がいの双子の女の子の日常を母親が描いた6コマ漫画です
その作者の講演会とそのモデルになっている双子ちゃんの絵画展です
まずは、親が理解し、親がかわらなければ、子ども達は救われないきがします
天才児ひなとかのんの絵画展
~バッタと鳥と妖怪と~
「おひさま日記」のモデルで、幼少から絵を描くことが大好きな広汎性発達障がいの双子「ひな」と「かのん」。二人の個性豊かな絵画約50点を展示します。発達障がいの子どもたちの才能あふれる独自の世界観を感じてください。
開催日:2013年9月20日(金)~27日(金)
時 間:午前10時~午後5時
場 所:琉球新報本社1階ギャラリー(那覇市天久905番地)
入場無料
「琉球新報」で好評連載中の6コマ漫画!
「おひさま日記」著者・森山和泉さんによる特別講演会
「今のつまずきは将来の糧」
開催日:2013年9月23日(月)
時 間:午後1時30分開場 午後2時開演
場 所:琉球新報本社2階 多目的ホール
入場料:500円
※講演会へは公共交通機関または「レキオ駐車場」をご利用ください
主催:琉球新報社
お忙しいところ、図々しいメールで失礼致しました
コメント欄を読んでの感想です。
自分で考える自由を
自分で試行錯誤する自由を
自分で失敗する自由を
自分で決める自由を
そして「時間」を
・・・子どもから奪ってはいけないと思いました。
これらすべて、私自身が大切に思っていることだったはずなんですが。。(あらぁ?と苦笑)
おとなって、ひとから大切なことを、気づかず平然と奪っちゃったりするものですね。。。(ため息&自覚の上書き)
「子どものモードは、子どもが自分できめること」
自分の方向性が、より明確にできました。
ありがとうございます。
お金にまつわる話です。
中学時の不登校の経過もあり、私の視点で言えば学力と情緒不安定の問題で、高校進学時はお金のかかる私立学校になってしまいました。
自分の名義での奨学金も借りましたが(いまだ返し終えていない…頑張るしかない)、とにかく「親のお金を無駄にしない強迫症状」がやたらと進行し、その後成人以降、そして発達障害診断後の3年が経過するまでの医療費は、自分のアルバイトで稼いだお金の中から全額出していたという経過があります。
私の中で、「わざわざ自分の身体を壊すために働きに出ている」という事は明白だったのですが、ジャイアン親、そして家族の理解がある程度の段階にまで達するまで、私は地獄の底でした。
私の中で、不登校が許されたという記憶はありません。許されていたとしても、それは義務教育中の出来事だけです。
高校ではAC的な女子同級生2人に3年間つかまって、最終的にはそれぞれから、私には本当にどうする事もできない事でキレられたり、AC的な女性教諭からは女子会のような教育を受けたりと、いい思い出はなかったです。
高校は欠課数ぎりぎりで卒業したものの、徐々に穴だらけになっていく自分の記憶と、自己同一性を失っていく感覚に、明らかに自分は何かおかしい(病んでいる)、これで社会に出たら私は即死するだろうという直感だけがあり、なんとか致命的な危機は回避し続けました。
もしもこれで家から放り出されていたなら、文字通り、野垂れ死にしていたと思っています。
…重たい話で失礼しました。
後藤先生には、本当に感謝しております。
>受動型ASがひとたび外での不適応をきっかけに引きこもりになった場合には、「外での再度の適応の保障、働きかけ」と同時に「内モードから強制して追い出す」働きかけが必要である。
私は積極奇異ですが…ACの頃、専門相談員との会話の中で、「私には、なぜいちいち人の承認が要るのか?(人への承認を求めてしまう自分についての疑問…なぜ??)」という事についてふと思ったことがあります。
もしも「外での再度の”適応”の”保障”」を示されたら、私の場合、私の自己決定という部分を大事にしている感じが無い。私なら、かえって胡散臭すぎて、たとえばその人が私を騙すためにとか何らかの魂胆をもっているのではないかと疑ってしまうと思います。
(”適応”って、どこからどこまでを? ”保障”というのは保護し守ること、という意味か? 適応について保護し守るから「内モードから強制して追い出す」働きをかけ、本人に内モードを使わせないようにする、と、そういう事なのか?? 私なら、あまりに幼児扱いされすぎて、かえってなめられているのかと内心キレるところです。とは言っても、いまだにみっともない姿を身内に時々晒してしまいますが、肝心な部分、なぜ内モードを使ってはいけないか、内モードを使う事がどれだけ幼い事か、(場合によっては、使う事は罪に匹敵しそうだという重たい自己突っ込みが走ります…)等々、そのくらいの分別ならつきますと相手に憤慨しそうですね…。まぁ憤慨する事自体、幼い事であったりするわけなんですけどね……(五十歩百歩、団栗の背比べ…遠い目))
私の担当医からは「外での再度の就労適応範囲についての分析」なら頂きましたが…。就労への緊張や落ち込みが強い私に、一般論として、「今は不景気だし、ふつうの人でもいつ勤めている会社が倒産するかはわからないよ(勤められるかどうかはあなた次第でもあるし、また運でもある)」と、淡々と、答えの出ない、世の理(事実)を諭されましたね。
(注:実際の話、最近、兄の嫁が勤務する会社が突然閉鎖される事が決まり、今まで私よりも給料や勤務条件が良かったはずの兄嫁は、後2か月以内の閉鎖にあわせて来月には解雇される運びとなりました。本当に人生にはそんな話があるんですねと、今更ながら答えの出ない世の理に驚いています。)
周りから見ると、内モードと外モードなのだろうけど、本人からすると「地」か「演技」かなんですよね。
「地」が社会で受け入れられないから、外では「演技」をする。
ただ、それだけのことです。
だから、3.のように「地」がどうであろうと、社会上では「演技」で普通にやっていくことはできます。
「外モードの成長」は演技力をつけることですが、
・演技の精度を上げる
・演技の幅を広げる
の2通りあります。
どちらにしても、現状に満足して努力しないのが受動型ASなので、困らない限り対応しようとは思いません。
子供が困っているから、といって親が手出しをすると、対応方法は全く身につきません。
また、同じ環境に長くいると、特定の対応方法でうまくやれてしまうので、成長が止まります。
・社会に出した状態で放置する(家の中で放置も意味があります)
・社会に慣れてきたら、強制的に環境をリセットする
ことが必要です。
こういう面からは、一貫校は向かないです。
小学校・中学校・高校・・・ と環境がリセットすることにより、演技の幅が広がります。
同質的な子供が集まりやすい私立校よりも、多種多様な人が集まる公立校の方が良いと考えます。
複数の演技が出来ることによって初めて、応用ができるのです。
一つや二つの演技ができるだけじゃ、応用が利きません。
応用って、複数の項目で正しい=真理である、ということなんですよ。
私は「地」か「地を出さないか(演技ではないが、完全に地でもなく、ただ地を出さない状態)」ですね。
私の場合、対人的距離を測り、最低限の自分のパーソナルスペースを確保し保持するために、このようなスタイルが身についたものと自分で一応推測します。
私の場合、現状に満足するかしないかは自分次第であり、「もしかしてあんたは安易に満足して堕落しようとしているんじゃないのか?」という突っ込みが時折自分に入りますので、私の場合、「自分が努力するタイミングは大体自分でわかる」のですが…。
私の場合、同じ環境(職場)に長くいる事に初めて成功しているのかもしれませんが、モチベーション維持のため、自分の考え方を変える工夫や発想の転換を自分で自発的にしていかないと続かないと考えています。
そして、特定の対応方法でうまくやれてしまうのではなく、「特定の対応方法でうまくやれていると思っている私自身を、実は容認してくださっている人が増えている(あの人(私の事)はああだから変わらないし、仕方がないよと諦めの感じで思われる等)」のではないかと推測しています。よって私は堕落する。そして、かえって私の応用が狭まり成長がほぼなくなる。
…とりあえず、こんなところでしょうか。
コミュ障で言葉が出ない、緊張する、会話しても楽しくないで、一問一答で数秒で終わり
まともな雑談ができませんがASやADHDと関係
ありますか?医者はADHDぽいとのことですが・・
私が今もずっと試みているのは、「地」を適切に「表現」する事です。
例えて言うなら、「手話」というものに近いのかもしれません。ですが、「地」をすべて完璧には表現しきれない、という事は自分でよくわかるので、「地」を表現できるようになったところだけ「表に現して」います。
私がやっているのは、「演技ではない」んです。
ちなみに…地の表現の精度を上げたり、地の表現の幅を広げるのは、正直疲れるのですが、私の場合、他人の感情や表情、そして今ここに至るまでの過程における「…今、ここが大事!!」という場面に遭遇する事があるので、その際には自分でもよくわからず頑張ってしまいますけどね。普段は、たまたま表現できるようになったところだけ大事にしながら暮らしています。
「出過ぎた杭は打たれない」というのは、「他人をあきらめさせる」という事でしょうか。
職場の職員(他人)が、私をあきらめ(ようとし)た時の表情や雰囲気、伝わってくる感情は、私にはなんとも形容しがたく、私の気持ちまでもを暗鬱とさせますけどね。
私の職場はチームプレイの仕事です。私の人柄(地)を普段から少しずつ「仕事仕様」として「表現」しながら働きつつ、双方向の、報告、連絡、相談を、少しずつ確実に積み重ねながら、休憩時間には少しだけ「雑談」というものに参加する。たとえ私にとっては苦行であっても、そう感じる自分の発想の転換が大事ですね。そういう事を経る事によって、職場のチームプレイというものが、徐々にスムーズになっていくらしいのです。かなり、本当にかなり、驚きです。「ああ、多数派の世界は、こういう風に回っているのか?!」みたいなね(笑)
医療職は母曰く、「立体的に物事を見れなければいけない」そうです。表面的な対応や応用をいくつ複合させたとしても、おそらく医療ミスや医療事故が起きるでしょう。厳しい世界です。
先生が少しずつ書いてくださっている受動型さんの特性を読むと、AS的な共通の特性の他に、積極奇異とは違う部分があるということがよくわかります。
積極奇異の私の場合、「内モードを成長させた」ような気がします。
自分の自己肯定感を低下させずにギリギリのところで保ちつつ、永すぎた自分の思い込み(AC)を少しずつ自分で見抜き、どうすれば自分を損なう事なく良好な生存ができうるのか。
私は自分の「内モード(地)」を、「内モード改バージョン(地から手話モードへ成長…というか発達させました)」にして、その状態を外側に出している(外モード)にしました。
今、私の「内モード(地)」は、ほとんど使っておりません。
たしかに私の人間関係は、良好だと言っていいでしょうね。
「外モードを成長させる」とは、このような感じかと、積極奇異型的にはそう思いました。
こうやって整理されてみると、「受動」は後天的なものと思います。
外モードの時に主体性を要求されると、今でもパニックになります。
外モードの時は受動型ですが、内モードでは必ずしも受動型ではありません。
外モードで主体性を発揮する、と内モードに変わることになります。
一度は、主体性を要求されて内モードに変わったのでしょう。
もう覚えてはいませんが。
そして、主体性を出せ、と言われて出したのに、拒絶されたのだろうと思います。
そうやって、外モード(受動型)は作られていくものです。
そう考えると、受動型ASの診断は意味があるもので、社会に出た時には外モードを貫かなければならない、また主体性など出す必要はない、ということさえ本人が理解していれば、引きこもりにならなければいけないほどの大きなショックを受けることもない。
一歩間違うと、積極奇異型ASに同類と思われて同じように要求されて壊されてしまうんです。
内モードで社会とかかわれるのは、私の経験では2つのケースです。
・受動型ASが多数の集団
部活は囲碁将棋部だったのですが、この集団は発達障害、特にASである方が普通で、受動型ASの比率も一般より高いので、こういう集団にいる時は外モードは使う必要がありません。地でも集団から疎外されないからです。
・集団の中で一定の評価を築いているケース
こちらは常時内、というわけではなく、ときおり内モードを出しても問題にはならない、という程度です。
自分が集団を率いないといけないケースでは、自分の判断が必要になり、またそれを支持してくれるという条件が揃いますので、そういう時だけ内モードになります。
トラブル対応になると人が変わる(実際は地を出すだけ)、というのは受動型ASでは良くあるでしょう。
以前「受動型ASストーカー」の件でお騒がせしてしまいましたが、そのストーカーは「一方的に私の生活を覗き見て、それを(このブログの)コメントに載せていました」
始めは全く気付かず、「自分と似たような人がいるんだなぁ」としか思っていなかったのですが、ある事がきっかけで発覚しました。
ASは想像力が欠如しているため「言語的に説明」すれば分かってくれるだろうと信じ、「部屋で一人で過ごす時、常に誰かに視られているかもしれないと怯える人の気持ちが分かる?あと、人様のブログに私の(覗き見た)生活を書き込んで、嫌がらせ以外の何者でもないよね?」と言い、「私が嫌がっていることはこれで分かったよね。だから次同じことをしたら『私に対し嫌がらせをする敵』とみなします」と言い放ちましたが…結果は同じことの繰り返し。
先生のおっしゃる通り「内モードを変えようと働きかけることは無意味・無駄」だということがよく分かりました。
何らかの措置をとろうと思います。
あの時は、お騒がせして先生のブログを荒らしてしまい、申し訳ありませんでした。
私は今現在、「大体こんな感じ」という曖昧さを大事にして生きています。
ACを過ぎた今、強迫的にモードの切り替えをする事がなくなったからです。
これからも「無理せずあせらず」を胸に抱いて生きていこうと思っております。
(上記↑の私のコメントに、ASの方々が過剰反応していないことを祈っております…って、今さらですね)
「敵と見なします」という言い方も、AS環境の影響を受けているからかもしれませんね。
基本的に言い方がドライで非言語表現が使えないので、「(ASに対し)わりとはっきりと断定口調で言う」ことが多いですね。
まぁ、相手には「私が不快に思っている」ということさえ伝わればそれで良いのですが。
「後天的な要素でASの型が決まるのでは?」という疑問は個人的にとても興味があります。
私のAS身内は弟だけは積極奇異型で、あとは全て受動型なので「何故弟だけ積極奇異??」と不思議に思っていました。
…おっと、あまり話を広げると先生に(絡んでいると)誤解されそうなので、また自分の考えがまとまればコメントしようと思います。
この記事の本文は、読めば読むほど私の兄のことを書いているような記事だと思いました。
兄は、自分の嫁さんと、自分の母親の意見などを受けながら、無条件には自分の欲求を全部通す事ができず、毎回苦悩しているみたいです。そしてドラマの「半沢」に超ハマっています。(私にとっては、登場人物が苦悩する表情がリアルっぽいな…と驚く以外にハマりどころはないのですが。)
私の家族の正体ですがこうなりました。父(故)積極奇異型AS、母ジャイアンADHD、兄受動型AS、私積極奇異型AS、弟孤立型AS、妹ADHD(タイプ不明)。
母の話によると、兄は小学生の頃まで、てんかんの薬を飲んでいたようです。弟は成人後に心臓の検査を受けたことがあります。私は今のところ精神的なもの以外の持病は発症しておりません。
上記↑の私のコメント「後天的な要素でASの型が決まるのでは?」という疑問についてですが、「自分自身の発達障害について考える」という、このブログの主旨から外れていますね。
なのでこの疑問に関するコメントは今後致しません。
また先生のブログを荒らすところでしたね。(中々気付けないところが悲しいと言うか、情けないです…)
失礼致しました。
「半沢」は私と良く似ています。
表面上はかなり違うので、受動型AS以外からはそうは見えないかもしれませんが。
「受動型ASの受験生が勉強しない理由」でいろいろ書きましたが、「親の敵」という理由があるなら、受験勉強や出世競争に参加する可能性はあります。
この理由があるために、表面上はかなり違って見えますが、私も同じ環境だったら、似たような形になったでしょう。
ここに書かれている養育は社会的適合をしていない受動型ASに対してですが、「半沢」を見ればわかるように、一旦社会適合した後に強制退場させられた受動型ASもかなり多いはずです。
きっと、その後に反社会的行動を起こす人も。
普通に受験勉強をして、出世競争に巻き込まれてしまうと、価値観の違いから叩かれる対象になってしまいます。
ここで書かれていることで社会適応はできるのですが、継続的に社会とかかわり続けるためには、「倍返し」ができる実力が必要なんです。
「倍返し」できない場合は、競争に負けて出向になったり、無実の罪を押し付けられて強制退場になります。
先のスレでも、受動型ASが共通して「自分から攻撃することはないが、相手からやられたら反撃する」と主張しました。
これを別の言い方をすると、「やられたらやり返す、倍返しだ」となり、これは受動型ASのもっとも基本的な価値観なんです。
現実は、こんな派手な展開ではないです。
普通は課長クラスなら相当な武勇伝もあるはずなので、支店長クラスともあろう積極奇異型ASor多数派男性が負かされる可能性のあるような相手に罪をなすりつけるようなことはありません。
現実は、もっと弱い相手に罪をなすりつけるので、それで終わってしまいます。でも、それじゃドラマになりませんから。この部分だけは作り話ですね。
自分を敵に回したら怖いよ、と見せ付けるために、上司にはむかうのは時々あります。(当然勝算100%です)
こういう社会で生きるための知恵を子供時代に習得できるか? は受動型ASが社会で生きていくための重要事項と思います。
「半沢」は結構そういうところがリアルに描かれているんです。
>だから親は「単なる愚痴」と考えて「今そういう気持ちな訳ね」と受容的にただ話を聞くだけで良い。
私は、高校の時に同級生だった彼女に対して、ここが難しかったです。
「彼女が自分で意識的に問題をぼかした(と私の方からは見えた)」「単なる愚痴」を「いつまでも続ける」から、「積極奇異型ASの私が彼女の愚痴を受容的に聞いても、彼女の愚痴はいつまでもエスカレートしていくだけ」だったんです。
やはりここは、彼女の世界(つじつま合わせ)に対して、馬鹿正直に、身も蓋もない現実の言葉で返し続けたら良かったのかもしれません。
彼女は私の言葉にいちいちショックを受けたそぶりや、いじけたそぶりをしていましたけど、実は私は知っていました。彼女の世界が完全に崩壊するくらいのショックは、実は彼女は受けてはいないのだという事を。
私が自分の人生に責任を取り、そして受動型さんとの距離を取るには、これからも、美しくも何ともない、身も蓋もない現実の言葉で対応した方が良さそうですね。
半沢直樹は、銀行員になった経緯や仕事上の価値観からはジャイアンとは思えませんでした。
でも「倍返し」の気持ち、自称ジャイアンの私には明確にあります。自分に理解ある上司や頭取に止められても大和田を土下座させるところ・・・怒りの感情を制御できない面のある自分もあの場合、土下座にこだわるだろうと思います。
近藤が大和田に唆されて半沢を裏切った料亭のシーン。視聴者的には弱い人・やな奴と思いましたが、現実に自分が近藤の立場だったら、半沢と大和田、どちらについた方が有利かで判断してしまうような・・・
そういえば自分、大海に浮かぶ切れ切れの木片を飛び移りつつ、今まで何とか生き延びたような半生を送ってきたような・・・踏んでも沈まぬ木片を選ぶ勘だけが頼りだった気もします。
我ながら、なんという刹那的な!
兄は、近藤が大和田に唆されて半沢を裏切った料亭のシーンで、興奮気味に「わかる?この葛藤」と言ってましたね。
(…兄よ、ごめん、全然よくわからなかったよ…。ほぼ全話録画しているみたいだけど、兄とジャイアン母以外、うちの家族は繰り返して見る人いないと思うよ…。)
葛藤・・・そうですね、近藤は葛藤しているんですね。
コメント欄を読み、気づきました。
自分は“葛藤”はしないな・・・私には「すべき思考」がしみついていて葛藤はせず(この場合、友情をとるべきでしょ!)ただ、どちらが有利か迷うのみ。
そういえば、子どもは葛藤していたのかもしれません(私にはよくわからない、相反する価値観の間で)。
同居人は葛藤自体を持たない感じがします。葛藤の前段階で割り切っている、または葛藤を要する状況を避けて生きるタイプ。
・・・人は葛藤してもいいんだ。
(すみません!当エントリからは外れたコメントになってしまいました)
兄嫁さんが、ボソッと私に話してくれた言葉が忘れられませんね。
『今、ウチは、ドラマの半沢を中心に家が回ってるんです…。』
兄嫁さんの表情は、かなり微妙で複雑そうな(そして多少疲れてみえる)表情でした。
ドラマを見ていて、近藤の葛藤は守る家族があるための葛藤だと私は見ましたが、兄はどうやら自分の人生にドラマを重ねて見ているようでした。まぁ兄の性格上、「俺が中心の俺様ステージ」にできないと、すねたり落ち込んだり機嫌が悪くなったりするので、私はいつもこんな顔( ̄- ̄)で兄のハマリ事に付き合っています。そして、いつもは決して私の本当の感想は兄には伝えていません。
(…ちなみに、私の10年間を知らない兄が、私の事を「評価している」「ケジメをつけないと」と言いやがった際に、後日ブチ切れたりはしましたが…。兄嫁さんは、「評価しているじゃなくて、すごいと思っている、でしょ!」と兄をフォローしてくださっていましたが。。)
私が「全然よくわからなかった」と内心維持しているのは、「兄の思っている事を100%はわからないよ」、という私のスタンスを維持するためです。
(…兄よ、私と兄嫁さんは、レ・ミゼラブル派なので、ドラマくらい自由に見さしてください…)
母も兄も悪人ではないので、それぞれの特性を大まかにつかんだ今となっては、兄の事は、母と兄嫁さんに任せるとして、私は時々、褒めたりおだてたり直球で意見を物申したり、無償のボランティア(素人肩マッサージ)をする事で、なんとか家は比較的穏やかに回っています。
(兄は、この間まで兄嫁さんと「半沢ごっこ」で盛り上がっていました)
(それでもどうしても兄の中で納得できないところがあるらしいので(主に自分の仕事の事で)、兄よ、後は自分でがんばってください)
「単なる愚痴と捉える」について。
これが中々難しいですね。
つい真面目に話を聞いて、一緒に「解決策」を考えてしまい、後でそれが無意味だと言うことに気付かされる…このパターンに陥りやすいです。
真に受けないよう気を付けようと思います。(と言いつつ、すぐに忘れて同じ失敗を繰り返すんだろうな…責任を擦り付けられないよう本当気を付けないと!)
(…もしかして、上記のコメント↑してる時、過集中だったのかな?)
少し冷静になって考えてみましたが、受動型ASの「石が悪いという発想」って、この記事の「結果被害的になる」のと同じですよね。
「元々自分の責任を自覚できない」ので、相手に発言の責任を求めたところで無意味ということでしょうか。
何だかモヤモヤとした気持ちが残ります。
まぁ、仕方が無いので「相手が自分の責任を自覚できないのは(過剰反応・被害的な認知等の)特性故であり、それが原因で私に責任を押し付けることがあっても、それは私の責任ではなく、相手の責任なので無視して良い」これからはそう思うことにします。(そう考えないと身が持ちません)
丸投げ依存されても気付けない「ジャイアンのカモ」とは別の意味で厄介だなと思いました。
こんにちは、
今日、素敵な人に出会いました。
この方は、小さい頃から忘れ物がひどくて一日に二回も家に戻る。これが毎日、
お母さんもおばあちゃんも誰にも怒られた記憶がないそうです。
また、学校が嫌いでしょっちゅう休んでいたけど、これも誰にも怒られた記憶がないそうです。
小学校、中学校の先生や友達の顔や名前もおぼえていなくて、困った事はしょちゅう、だそうです。
高校生の時、「大学に行きたい。」と思い勉強して、大学の時は一度も休まなかったそうです。
この方のお仕事は、ケアマネージャーです。
プラスの生き方をしている人なんですね。
失敗した時は、
「又、やっちゃった~。笑」いつも誰かが助けてくれる。
何か言われても、カチンとこないんだって!
ここがスゴイと思いました。
謙虚で、優しくて、困っている人には惜しまず助けて
これが周りに助け人がたくさんいる訳だったんですね。
出来ない、理解して欲しい、と要求するのではなくて、まず、自分から、誰かに優しくする。
いつも、ニコニコして優しく話しかけてくれる。
まず、自分から!なんですね。
私は、反省しました。出来ないことを数えて、嘆いてばかり、誰もこの辛さわかるわけない。と思っていたけど。これが問題!!
自分で自分をダメにして、いたんだ。
上手く行く方法は、感謝すること。
誰かに優しい言葉をかけること。
ニコニコして笑っていること。
難しくはない。
心がさびて、頑なになっている時はできない。力を抜いて、自分に優しくして、あげたらいいのかな~!
と、思いました。
プラスの生き方、子育てもニコニコして遊びのなかで学ぶのかな?
盲導犬は、充分愛されないと盲導犬になれないそうです。
だから、自分が自分を嫌ったり、さばいたり、しないで。
まず、自分を大切にして愛すること、認めること。そのままで、全然OK!!
ゆっくり、歩いてみます。
長くなりスミマセン。
ずっと以前に、後藤さんにメールをして、ご親切に
返信をいただき、心の落ち着きを取り戻しました。
(その節はありがとうございました。)
精神科医 後藤さんから見て、今の世の中は、
どういう事が問題とされ、(たとえばブラック企業など)
なぜ 企業の中では人が暴力的に振る舞う人が擁護され、
弱者が生き残れないか?
・・・
等の問題については、後藤さんには関係のないこと
でしょうか?
後藤さんは、旧HPの頃から、発達障害の分類をされていて、
自己愛性人格障害ではなく、発達障害等、
独自の見解があるかと思いますが・。
親から精神的、肉体的暴力を受けたか、受けないか、
(親は暴力を振るったことを認めないと思います)
以前、後藤さんは 世の中を賑わした『ホリエモン』
こと 堀江貴文さんの事を
「発達障害」と 表現されていたかと記憶していますが、
彼は、ネット等の情報だと、親から理不尽な暴力を
受けた経緯や、幼少のころ、動物を虐待した等の
地元の人の話があります。
私は、そういう人は もはや 『発達障害』ではない。
と考えています。
**
世の中の親が のび太のママのように、多少口うるさくて
多少、叩く 程度のレヴェルの話であれば、
漫画 『ドラえもん』の ほのぼのした話を
精神科医療で応用されるのも 平和で良いかと
思います。
けれど。。今や 『ドラえもん』では もう
時代錯誤です。
***
後藤さんは 高学歴ですので、後藤さんのレヴェルにあった
患者さまのみを 相手にするのが、私は良いかと
思っていて。
例えば、企業の中で 働く、というのは?
現実的では ないのでしょうか??
**
受動型ASを読んでいると、だんだん、自分のことか??
と思うような気持ちにもなりましたけど。。。
発達障害自体は 何か問題なんでしょうか??
大切なのは、
人間性があるかどうか、
だと 私は思います。
(社会に適応しないのは 適応しない者が
悪いのでしょうか???)
内モードについてしばらく考えていたんだけど、捨てたというのは勘違いでした。今でも間違いなくあります。自分の場合は親に対してだけで、どちらかというと親限定の家族モードという感じです。今、良好な関係にあるのは、ただ単に親と会う機会が少ないこともあり、親と会う時は我慢しているだけです。
中学時代に外でろくなことをしていなかったので、それを親に知られないために我慢することを選択しました。今でも一緒に住んでいたら、毎日イライラしてしまいそうです。子どもへの干渉を我慢できない親の場合は「物理的な親子分離」が有効だと思います。
何がイライラの原因かは、先生が書いている通り、親が外の世界に干渉するようなことを言ってきた時です。つまり、人の言いなりになる一次障害と、親からの自立心との葛藤が原因だと思います。親だから当然、今でも干渉してきます。よくよく考えてみれば、子ども時代から聞かれなければ外での出来事を親に話すことはほとんどなかったので、外に干渉されることを警戒していたのかもしれないです。
友達には、よく愚痴をこぼすので「愚痴っぽい」と言われます。愚痴をこぼしているだけで、アドバイスは特に必要としていないんだけど、友達からアドバイスしてもらうと単純にうれしいし、結構、自分の中に情報として取り入れています。
つづき
親からのアドバイスはうれしくないので反抗するけど、実は、同じく取り入れているので、言うことは無駄ではないです。アドバイスする親の立場からしたら、言うだけ無駄だと感じるかもしれないですが、無視しているようで、よく聞いていて、外では親のアドバイスに従って行動していたりします。
結局、高校受験も、親が希望する高校に入れるよう、必要最低限な勉強をして学力を維持していました。親の言いなりにはならないぞ!という姿勢を見せながら、実は言いなりになっていて、そんな自分が嫌だったことも親への反抗理由として挙げられます。
自分の場合は親への反抗と言っても「分かってるから言わなくてもいい」と怒鳴ったりする程度でした。親から何か用事を頼まれると、幼いころは素直に従っていたけど、親の言いなりになっていると親の要求がエスカレートしていくことも学習しました。
やった方がいいことは分かっていても、わざとやらなかったり、いちいちブツクサ文句や屁理屈を言いながらやって、やりたくない気持ちを全身で表現していました。そのうち親があきらめて面倒な家の用事を頼まなくなり、家の中では努力もせずに快適に過ごせるようになり、結果としてやりたくないことを親に丸投げしてしまったわけです。自分の性格的な要因もあるんだろうけど、反抗の理由から家庭内暴力に結びつくことは考えづらいです。
つづき
結婚や就職など、人生に関わる選択だけは「親の言いなりになった」という事実を一生背負うことになってしまうので「自分で決めたい」という意思が強かったです。そこら辺に口を出されたら徹底的に反抗して、望まない結果になるかもしれません。
外では、人の言いなりに動くこと自体は経験にもなり、周囲とのトラブルは少なく、ストレスにもならないんだけど、問題なのは生まれ持ったコミュニケーション能力の低さと、いじめなどをして人を貶めることでしか自分の優位性を表現できない悪意を持った人間がどこへ行っても必ず近付いてくること。
悪意のある要求には自己防衛のために相手が誰であろうと徹底的に反抗し、模倣からはじめてコミュニケーション能力を鍛えました。「やられたらやり返す」というのは、後天的な対応です。保育園の頃はやられっぱなしでした。子ども時代から悪意のある人との接し方を学ばずに社会に出れば、たちまち餌食になってしまうので、悪意を見抜く目と対処法を子ども時代から養うことは不可欠だと思います。なるべく早い時期にいじめを経験しておくのも、逆にいいかもしれないです。
過去を振り返って上のコメントを書くまで、人の言いなりになっている自覚は全くありませんでした。全ての行動は、自分で納得して選んでいるものだとばかり思っていたけど、行動の半分程度は、悪意が感じられない限り、人の言いなりになっていたことに気付き、唖然としています。脳の特性に合った依存的な生き方と言えばそれまでだけれど、胸を張って「人の言いなりになって生きています!」とは、ちょっと恥ずかしくて言えないですね。
人の許容範囲に合わせる=人から「やるな」と言われる、または同様に感じられたことをやらない。「やってほしい」と言われる、または同様に感じられたことをやる、というのは、必然的に言いなりになるということなのか。ガックリ(lll´+д+)。
私自身「相手が嫌がっているから止める」というのは、ADHDの私からすれば「合理的」ですし、ADHD以外の人なら「謙虚に相手の気持ちを考えている」と捉えますので、「イコール言いなり」とは思いません。
「悪意」に関しては、KYの私には判断が難しいので「(悪意の有無に関わらず)相手が嫌がっていることを知っていながら同じ事を繰り返した時は、ダラダラとこの関係を続けた自分の問題(責任)として、相手を突き放す」等、ある程度基準を設けることにしています。
個人的に「自分の考えを主張する」分においては別に構わないと思いますが、何て言うのか…「自分の意見を受け入れて貰うことを前提に、(何かを隠れ蓑にして)誤魔化しながら話を進める」人は、何を考えているのか分からず、怖いのであまり関わりたく無いですね。(例えば「要するに依存を正当化したいんでしょ?」「自分の思い通りに支配したいだけでしょ?」と先走って言いたくなるような、回りくどい表現等。「はっきりそう言えば良いのに」と思いますが…)
ジャイアンの方々は怒りを感じることが多いようですが、私は「信用できない」と思ってしまうことが多いですね。(慣れてしまって割り切ってますが…)
内モードでは親への依存を正当化して、外モードでは人から依存または利用されることを正当化しているんじゃないかと思います。だから、今まで言いなりになっていることに気付かず、外モードでは耐えられるということではないでしょうか。依存の正当化がなくてもストレスにならないんだと思います。
悪意に関しては、「濡れ衣を着せられる」というのが昔からやたらと多いです。子どものころには、「人のものを盗んだ」と全く身に覚えのないことで責められることが何度もありました。家に同級生の親が「盗んだものを返して下さい」と言ってきたこともあります。不良仲間にはめられることもあって、言ってもいない悪口を言ったと言われて、家に殴りこみに来た奴もいました。
社会人になってからは「真面目な女の子をだました」と言って、暴力の専門家が家に来たこともあったけど、友達が自分の名前を使ってひどいことをしていたことが分かり、暴力の専門家に協力して友達を追いこんで、けじめを取ってもらい、縁を切りました。
悪質商法や新興宗教に勧誘されることがやたらと多く、友達に遊びに行こうと誘われてついて行くと、勧誘のたまり場で、変な連中に取り囲まれて勧誘されたことは何度もあったけど、経験上、悪質商法に関する知識は多いので、逆にやりこめて「お前など二度と誘わない」と相手を怒らせるのが爽快で、積極的について行くようになったりして。
上のコメントにもありますが、「現実は、弱い相手に罪をなすりつける」というのが当たり前にあるので、自分は人から弱い相手と見られているのは間違いないと思います。「自分を敵に回したら怖いよ」、と見せ付ける行動はやっています。自分の場合、上司にはむかうことは即、クビに結びつくので、「圧倒的な力の差を見せつける」ことをやります。会社で人の倍以上働いているのは、そのための努力と言えるかもしれません。
そうか、私の場合「(AS環境に)慣れてしまっている」ので、例え「社会に適応しないのは、適応しない者が悪いのか?」という「被害的」な発言を受けても、AS被影響症候群にはなり得ないですね。(ただ、依存によるストレスで思い悩むことになると思いますが)
この記事には感謝しております。
受動型AS本人が自分の問題を自覚できず、(家庭内暴力等)周囲の人を攻撃してしまう場合「周囲の人を助ける」しか現実的な対処法はありませんから。
被害的なら被害的で、それも受動型ASの特性なので仕方が無いと思いますが、ご自身が誇大的で無茶苦茶な要求を相手にしていることは「自覚」して欲しいと思いました。(自覚できないから被害的になるのでしょうけど)
ちなみに、私が同じような被害的発言をしようものなら…
「お前は何様だ?」
「何れだけ偉いんだ?」
「思い上がるな!」
と、自分に対して突っ込んでいると思います。
それと、私が「ADHDらしく自律自尊の精神を保ちながら生きる」ことを目標とするように、受動型ASは「現実的な社会適応のために外モードを成長させる」ことを目標に生きるのだろうと、勝手に想像しています。
9.の
>「内モードが全く無かったらストレスで精神的にきつくなる」ことは無いと私(後藤)は考えている。
が気にかかっていました(今も気にかかっています)。
ちなみにACでないADHDなら、内モード不要で生きていけそうなイメージです。(私は最近、精神的には一人で生きて行けそう、というより一人で生きて行きたいと思えるからです。)
いやこれは、外モード不要ということなのかな?
または、ADHDは使い分けしないということかもしれません。
ADHDさんは幼児のイメージ :自分の場合は「私が私がっ!」「これはこうだからっ!」という感じ。
この点、積極奇異型ASさんも似ているところがあるように(私には)思えます。
受動型ASさんは、乳児のイメージ :“ふぇ~ん”と泣いて「何とかして」と主張し、周囲が察してくれるのを待つ、みたいな感じです。(あくまで私見です。)
または
・内モード = あなたが必要モード = 要求モードに帰結
だから、内モードは不要というか、時により有害(特に思春期以降の親子関係には)なのかなぁ、などと思えたりしますが。。。
あ〜分かった!
「社会に適応しないのは、適応しない者が悪いのか?」って発言、これこそが「(単なる)愚痴」ですよね。
いけない…また真面目に受け取って、他者の問題に踏み入るところでした。
私の悪い癖ですね、無視します。
ちなみに、今はやんばる先生と同じく「内モードは無くても問題無い」と考えています。
問題なのは、100%依存を諦めて愛着を持たない「AC」の状態であり、場所(内・外)は関係無いのかなと思います。(外に愛着が居れば、愚痴を聞いて貰うことは可能ですし)
内モードの愛着からすれば「外モードの成長に関与できない」ため、結果的に「愚痴を聞く」ことしかできませんが、外モードの愛着なら、仕事や社会経験によるアドバイス等、話も広がるでしょうし、何より「内・外の切り替えが無い」ので、家庭等の閉鎖的な環境下での暴力が起こりにくいため、結構良い環境なのだろうと想像しています。
先日、とても久しぶりに専門相談員さん(ハローワーク所属、精神障害者雇用トータルサポーター)に私の話を聞いてもらいました。
親にも私の話を聞いてもらいましたが、どうにもスッキリせず、激怒はしないけれども一人で黙り込んでうだうだ悩み始めた私を見かねて、「相談してきたら?」と親が私に言ったというのもありますが、久しぶりにお会いした専門相談員さんは変わらず朗らかに私を出迎えてくれました。
30分という時間の中で、前回相談した時から今までの仕事の話や社会経験などの話から、私自身が気がついていなかった事や、私が自分でわかった事からのアドバイス等、話が広がり、とても充実した気持ちになりました。
これからも前向きな気持ちで仕事を続けていけそうです。
私が家で兄にしている事は、「そうねぇ…今そういう気持ちなのね。(私にはどうする事も出来ないけど)」と受容的にただ話を聞くという事をしています。
兄は、アイコンタクト的な表情による、表現や繋がりなどを好むので、なかなか大変です。先日は突然思い立ったのか、母が不在の日に、兄のリクエストで食卓に「鳥さし」が並んでいましたが、私はその翌日も仕事だったので、自分の仕事を全うするために食あたりを警戒し、勧めてきた兄に対して丁寧に断りました。(兄は、私という道連れがいなくなった事に急に不安を覚えたらしく、自分から鳥さしのメニューを嫁さんにリクエストしたにも関わらず、自分の食あたりについての不安を嫁さんにこぼしていました…( ̄◇ ̄;))
私は、「ぬれぎぬ」や「新興宗教」は余りないです。
声をかけやすい、というのはあるようで、道を聞かれたり、一杯席が空いているのに、自分の隣に座ってきたり、というのは多いと思います。
この差は、「倍返し」されそうに見えるかどうか? でしょうね。
発達障害を自覚する少し前、「5年後の自分の姿」を聞かれたときに、「5年後どうなるかわからないので、その時の環境に適切に対応するには、自分のあるべき姿など邪魔になるので考えない」と回答しました。
今となっては、受動型ASとして当たり前に回答できますが、当時はかなり勇気が必要でした。
質問した側が、こんな答えを望んでいないことはわかっていましたから。
受動型ASも、人の言いなりにはなっていないはずです。
結果として、他人の言った通りに行動していても、その時には、自分なりに判断して、その人の言っていることが一番最善と判断して行動しているはずです。
親の言うことを聞く機会が一番多いのも、自分を一番良く知っている親が言っていることが一番信用できる、そう判断している。
中心志向がないから、自分の「やりたいこと」「あるべきこと」が行動に反映される比率が低いだけで、行動には何らかの自分なりの判断が入っています。
その判断こそが、受動型ASの人の「意思」になると考えます。
人の言う通りに行動しようが、自分なりに環境に適応した最適な行動と判断したのであれば、決して恥ずかしいことでは無いと考えます。
「5年後の自分の姿」を聞かれたら、返答に困ってしまう。あらゆる可能性があるので、言葉が出てこない。一番初めに頭に浮かんだのが、会社が倒産して別の仕事をしていることで、妻がおかしくなって子どもの面倒が見れなくなったため、コンビニで深夜働いて、子どもと妻の面倒を見るというような未来が見えたけど、多分これは、最悪な事態を想定しているだけだと思う。
よく考えたら、いつも最悪の事態を想定しているような気がする。妻と結婚する時に思ったのが、妻が病気になって家事などができなくなっても自分が全部やって、子どもができたら、妻には自分がいない間だけ子どもを見てもらえればいい、という最悪の将来像を想像していました。妊娠中は実際に家事ができなくなって、食事の支度など家事は全部自分がやっていたけど、想定内だったので何とも思わなかったけど、子どもが生まれて、「子どもの世話ができない。殺したくなる」と聞かされた時は、想定外でした。
自分は会社に行っているので、これだけはどうにもならない。保育園に預けることは自分の親にダメだと言われたので妻が拒否する。自分の親は「母親が世話するべき」だと言って預からない。その後、発達障害についてこのブログで知り、親に発達障害を理解するよう説明して協力を求めても、「甘えているだけだ」と言われて一切の理解を示してもらえなかったため、大変な苦労をしました。
妻の母親は、妻と一緒に住んでいたのである程度、発達障害について理解はあるけど、「離婚したら引き取って面倒をみるから大丈夫」と言われただけで、「孫をたまに預かる」というような発想はないようです。
これは愚痴なんだろうか?事実と考えたことを淡々と書いただけなのに愚痴のようになってしまうのが不思議だ(笑)
すみません、念のため書かせてください。
私が「愚痴」と捉えたのは「社会に適応しないのは、適応しない者が悪いのか?」というコメントをした人に対してです。
始めは、遠回しに先生を攻撃&私への嫌味が目的だろうと思いましたが、後になって「(私の自己責任発言に過剰反応して)自分が迫害されている」と被害的になって愚痴を言ったのだろうと思いました。
なので「言葉通り受け取らず、適当に受け流せば良いな」と判断しました。
まぁ、深読みかもしれませんが「他者の問題」であることに代わりはないので、私が踏み入るわけにはいきませんから。
以上です。
先生、以後気を付けますm(__)m
この記事を最初に読んでから、感じたことや思ったことを言葉にしては消して忘れ、言葉にしては忘れ、を繰り返していました。それも、執着してるわけではなく、感じたことや思ったことが素直に言語化できてないなぁと感じ、パソコンを閉じるときにはそれを忘れ、次にブログを開いて「そういえば」と思い出す、の繰り返しでした。
そろそろ熟成されてきたので、書き込んでみます。いい具合に発酵されていればいいけど、腐敗臭ただよわせたりして。
内モードがなくても大丈夫なのか、についてですが、内モードにある種の安らぎを得ている場合には、これを失う恐怖感があるように思います。と言いますか、思考実験をしてみたところ、えらい怖かったもので。
外モードから得られる自己評価が高いほど、内モードは小さくてもいいのかもしれない、とも思っています。それでも、ゼロにするのはどうなんだろう。傍目から見てゼロでも、気付きにくいところで内モードが残っているようにも思えます。
うーむ、腐敗臭どころか、熟成が足りなかったかもしれません。
それと、これはあえてコメントしておくと、適応しない者が悪いのかとのくだりは、俺には社会に向けた問題提起と読めます。善悪という価値観を加えてしまっているため、それが伝わりにくくなっているだけで。
社会は多様な個性の集合体です。多様な個性を受け入れる土壌があるはずですし、あってしかるべきです。発達障害も個性のひとつですから、社会に受け入れられてしかるべきなのに、実際にはそうではありません。そこで、社会適応させるべく、発達障害者に対する精神科医によるアクションが入ります。
でもそれは、個別的対応に過ぎないものです。真の問題解決といえるのでしょうか。社会の土壌づくりとその維持、拡大こそが、真の問題解決になるのではないでしょうか。あのコメントは、そのようなことを伝えているのだと感じました。
善悪という価値観を加えている点で、愚痴の一種かもしれません。ただ、そこを捨象すれば、あれは社会提言であり、先生をはじめとする精神科医に対する提言であると読むことができる。そう思っています。社会提言ということは、俺に対する提言でもある、と受け止めています。
「5年後」の話は後日談があって、面接官の一人の役員から、後で「それでいい」と言われたのは嬉しかったなあ。
役員クラスにはかわいがられるけど、少し上には煙たがられるのが受動型ASの特徴ですね。
「最悪の事態想定」も受動型ASの特徴と思います。
まあ、少し物の位置が変わっても対応できないくらいだから、リスクを先読みして行動しないとどうしようもないわけなのですが。
当然、普通にうまくいった場合は、リスク想定で動いているので効率は悪いです。
それをもって、愚図だののろまだの言われることも多いわけで、このあたりも療育が必要になる要因といえます。
「半沢」も効率が悪いとさんざん言われていましたよね。
でも、想定外の事態が生じた時には強いです。周りが如何に何も考えていないのか、がわかります。平時は何も考えないのが正義になりやすいのが困り物です。
原発のように、「事故は起きないもの」と仮定すれば、本当に効率いいですからね。
異議を発して、村からはじき出されてしまうのが、受動型ASの運命でもあります。
そのような中、空気を読んで異議は示さず黙ってリスクを織り込んでいくのが現実対応となります。
この域に達しないと社会生活ができません。
内モードについては、前にも書いたと思いますが、0は無理と思います。
ただし、一人でも内モードは成立するので、問題がある場合は強制的に別居させるという対応そのものは正しいと思ってます。
問題提起とは思えないですね。
問題提起なら率直に「先生には、もっと広く社会に目を向けて欲しい」と言えるはずです。
ホリエモンがどうのとか、患者のレベルがどうのとか…正直何が言いたいのか分かりませんでした。(後で言い逃れするために曖昧な言い方をしてるのかもしれませんね。隠れ蓑だと思います)
あと、これは「気付かずに他者の問題に首を突っ込んでしまう」のび太型の私の問題でもあり、「自分の問題を自覚せず、何もかも他人や社会のせいにする人とまともに話せるはずがない。単なる愚痴と割り切る必要がある」と思いました。
もちろん受動型ASの人が全員そうだとは思いません。中にはきちんと自分を見詰め直している人もいるだろうし、先生のブログの内容を理解した上で「依存を諦めることを受け入れられない」人もいると思います。
そういった方達のコメントは参考にさせていただいてます。
「個別的対応」について、私はそれで良いと思います。
一人一人、患者さんによって症状や障害に対する考え方が違うので、その患者さんの生き方に合った治療方法を、精神科のお医者様と一緒に考え、回復することが望ましいと考えます。
自分の問題ですね。
コメント欄を読んでの書き込みになります。
ASの方々のコメントは、とても参考になります。
内モードについては、先生が受動型ASの養育一般論としてお書きになったことを、私の“母”としての役割上の責任感から、「居心地のいい内モードを確保すべき」という考えにとらわれていたように思えてきました。
コメントから、ASの方々は自身の自己評価が安定しているという印象を受けました。
私の自己評価は常に上下していて、振れ幅は結構あると思います。で、なぜ上下するかと考えてみたら、主因は「気分」なのでした。
では「気分」の発生源はと考えると、天候や体調にも起因しますが、“周囲の他者の反応”にも、かなり左右されているるように思えました。
あと、何かに急かされている気分にも、なることが多いです。
速やかに行動しない自分は、「×」のような。
このように考えて、自己評価が安定している(ように私から見える)ASさんの「内モード」と、私のイメージする「内モード」とは、ちょっと違うのかもしれないと思いました。
少なくとも、子どもにとって有益な内モードの提供は私には無理だし、私が用意・提供する必要もないと思いました。
ASさんと私との内モードの捉え方が違うとしても、ASさんにも何らかの内モードが必要とお聞きして、異文化ながらも自分と共通項を見出せたような気がしました。
なんというか、ほっ。。としたというのが正直な気持ちです。
(ここでほっとしてしまうところに、子どもを切り離せていない自分の限界を感じてしまいますが^^;)
以下の書き込みは、先生の記事の内容から離れた、コメント欄を読んでの感想です。
先日、副業での「勉強会兼会議」がありました。
成人してからの私は、このような場では自分の意見を発言するタイプでしたが、今回は「素の自分」に戻りつつある身として、黙ってみました。
「素の自分」は、笑っちゃうほど「他者・講義内容への突っ込み」の連続でした。(たぶん、後で発言しようと思っていないので『自由で開放的な聞き方』をしていたのでは?と思います。)
講義後には、自説を強硬に主張する人、空気読もうよ発言をする人、非言語で自分の立ち位置を表明する人、その他のあいまいな人、などがいました(私から見てです)。
そんな中、私には多数派も(自然にそうふるまえているわけではなく)「空気読むべき」という思考にとらわれているように見えました。
人は「すべき」にとらわれると、「深く考えず、自分の『すべき』に従う」→「社会全体が、そうすべきだからという理由でそうなり、何となく世の中回っていく」ように思えます。
一方、人は自分自身を考えるとき、「他者の言動から自分を振り返ること」しかできないと思います。
ネット社会でもリアル社会でも、意味不明と思われる人々が、事実として「自分はこう思う」を伝えていくことは、多数派や、異文化人が別の視点を持つことにつながると思います。
自分の考えを伝えること、シンプルに伝えること自体が、多様性が認められる社会の土壌を作る上で案外大切なこと、のように思いました。
同時に、人は(発達障害の有無にかかわらず)伝え方のスキルを身につける必要があると感じました。(ああ、すべき思考がここにも!)
・・・ちなみに自分は「黙り続けて参加することに何の意味があるのか」という自己突っ込みを受け、講演者にひっそり目立たぬよう質問させていただき、ひとり帰路につきました。
たまには違ったパターンで行動するのも、悪くなかったです。
あと、受動型ASの方とは考え方が真逆で面白いなぁと感じました♪
私は「社会に文句を言っても仕方が無いので、それよりは自分の出来ることから始めよう」と考えるタイプです。
一個人が社会を変えようと思ったところで出来ることは限られてきますし、「自分を変える方が手っ取り早い」と思ってしまいますね。(ちなみに「お前は何様だ?」という突っ込みの中に「身の程を知れ」という意味も含まれており、その意味でも社会を相手取った発言はできません。あと、これらの合理的な突っ込みによって自己評価は下がりません)
「自分で自分を変えたい」と思う私にとって、発達障害の特性や対処法等を素人にも分かり易いよう説明し、ブログに載せてくださるやんばる先生にはとても感謝しております。(個人的に「このブログの内容を本にして欲しいな」という気持ちがあります)
もちろん社会に対し不満が無いわけではありませんが、(発達障害と診断されなかった身としては)社会に受け入れて貰えない以上自分で自分を変えるしかありません。
むしろ私は「自分にも出来ることがある」と前向きに捉えています。(もちろん、受動型の方達にこの考えを押し付けるつもりはありません)
私にとって、診断されたという事と、社会に受け入れられるという事は、別の問題でした。
私にとって、診断が下されたという事実は、一人一人の人間の集まりである社会とはどのように成り立っているのかを、裏側から見つめ、考えるという事に他なりません。
診断前の私は、自分が思う「あるべき姿」(社会だったり、職場だったり、人間関係だったり)ばかりに終始していた気がします。きっと、体験を知らず、思う事ばかりが先行してしまう頭でっかちな私だったのでしょう。今なら素直に自分の事をふり返れます。
アロマインストラクター資格取得の際に解剖生理学を学んだ時、私が一番苦労したのは、「いかに自分の解釈を手放す事ができるか」でした。この姿勢は、基礎医学における必須の姿勢と思われますが、現在の職場の先輩(おそらく受動型)は、どうやら自分の解釈を手放す事ができないようです。有資格者か無資格者か、経験豊富なベテランか、といった、階級や序列には従うようですが、医療的目線の獲得、という事について、真剣に自分の視野に入れてはいないようです。よって、自分の解釈外となる私の動向(母が、中材業務の事が書いてあるページを薦めてきたりするので、医療的姿勢を視野に入れて働いている私の動向)が「意味不明」となったり「不安」となったり「若干反抗的」となって映るようです。(「先輩」として接しているのでとても大変です…)
ちなみに私としては、先生が「発達障害者が社会に受け入れられるために、自分達に出来ることは何か?」等のテーマに関心をお持ちで、考えていきたいということなら、先生に対し心から応援したいと思います。
きっとこのブログの内容は理解しているけど、それを受け入れられずに「依存させて欲しい」とおっしゃる方も居られるでしょうが…それはそれで(脳の特性故)仕方が無いので、受容的に話だけでも聞いてあげられるよう、私も気を付けようと思います。(ちなみに、ADHDの自己責任論に過剰反応して「迫害されている」としか考えられない受動型ASの方には関わらない方が無難だと思いました。私自身の依存性を考えてのことです)
あと、「自分のやりたいこと」「あるべきこと」が行動に反映されないのは、中心志向の有無が原因ではないような気がします。
私は中心志向がありませんが、のび太型の合理的思考だけでも「あるべきこと」は行動に反映されます。(欲が無いので「自分のやりたいこと」は微妙ですが…)
逆に、依存型ジャイアンやジャイアンACのように中心志向があっても、依存的な性格から「あるべきこと」が分からず場当たり的な行動を取る人もいると思います。
そうか、多分「受け入れる」の意味がASの方と若干異なるのだなと感じました。
私の言う「受け入れる」とは、「私を(多数派ではなく)ADHDだと認めて欲しい。そのために、お医者様にADHDと診断して貰いたい。」という意味です。(ASの方はそれ以上の意味もありそう…と想像しています)
元々「社会に何かして貰おう」という考え方が面倒で、(欲が少ないということもあり)自分の出来ることをこなしていきたいと思うからかもしれません。
「社会は一人一人の個人の集まり」だからこそ、一人一人の意識改革が必要であり、精神科のお医者様一人に問題提起で丸投げするだけで終わり…というのは如何なものだろう?と思いました。
とりあえず私自身は、身内や知人に、成人の発達障害や二次障害のことを話して、少しずつでも広めて行こうとは思います。
それと、医療現場で医療的姿勢を視野に入れて働くというお話、私は素晴らしいと思います。
一人一人が積極的に動いて職場の方々にアピールする姿勢は、私も見習わなくてはいけないと感じました。
受動ASが、本心を言うということは、それは内モードである、ということですよね。
でも、内モードは無くても良いもので、外モードを成長させるのが受動ASにとっての改善への道である・・のならば
この場で本心を言わない事、そもそも内モードであるこの場から離れることが、最善なのかも知れません。
外モードを成長させる場は、社会の中、多数派の中だと感じます。
先生さようなら。お世話になりました。
ここ数週間の先輩の情緒的動向の変動は大きかったです。
まぁ、先輩が、個人的に私の「監督」と「教育」に熱心になる事で、先輩の情緒は安定し、安心するのだろうという結論に至りましたが。(いくら言葉で”他のみんなと話し合って”という建前がついても、冷静に周囲を観察してみれば、先輩が「個人的にこだわっている」という事は明白でしたね…。)ここで私が何か進言すれば、「自分は迫害されている」と先輩は思ったでしょう。
私の自己責任論は、元々偏っている上に、母ジャイアンADHDからの影響もあるので、強迫的な部分が確かにあります。それを私は自分で分かっているので、今回は先輩にも院長にも、誰にも何も言いませんでした。
ただし、(これでいいのかという疑問は残りますが、)最低限の医療ガイドラインは絶対に譲るまいと思いました。
先生、まだ承認前ですが、私が投稿したコメントに「自己突っ込みが入ったと自覚したにも関わらず、そのまま投稿した無責任なコメント」がありました。
ちなみにその時の自己突っ込みは「だったら直接沖縄に行って後藤先生に診て貰い、白黒はっきり付ければ良いだろう?」というものでした。
投稿した後、しばらくモヤモヤとした気持ちが残り「これは何だろう?」と考えていました。
もちろん掲載する・しないは先生の判断に任せますが、発言と行動が伴わない自分の無責任さを、一言お詫びさせていただきたいと思いました。
すみませんでした。
後日談になります。
遅当番の、先輩(たぶん受動型)の指示に従ってやり方を変えてから数日後、早当番の人(多数派)から声をかけられ、朝に残っている器具が少なくなってとても気持ちよく仕事ができるし良い感じだよ、と、とても気持ちのいい感想を伝えていただきました。
この人は、夏に週2回の2か月間フルタイムで働いた際に、早朝からご一緒した方で、その時も「裏で作業をする人(私)が入ると、その分患者さんに集中できてとても助かっている」と私に伝えてくださった事がありました。
私の場合、医療ガイドラインよりも先に来る、AS的倫理感により、強迫的にこだわってしまうところがあるのですが、私の仕事について、全体的、包括的な視点による前向きな感想をいただくと、とても気持ちよく感じますし、うれしいものですね。(人を近くに感じるASならではの話だと思うのですが、)仕事のモチベーションが上がりました。
1.「私のAS的倫理観(こだわり)」 2.「医療ガイドライン」 3.「現場の要望」 とりあえずこの3つが重なる所(落としどころはどこか、という事)を目指して、工夫、改善をしていこうと思っています。
(先走って過集中を使わなくて(爆発しなくて)、本当に良かったです…)
(追記です)
今気付きました。
これが「AS被影響症候群」ですね。
どうして「社会に(発達障害者として)受け入れて貰えない」という被害的な発想になってしまったのか、自分でも不思議でした。
きっと気付かないうちに「視野の狭い、袋小路発言」になっていたのですね。
気付けば修正することが可能ですが、気付かないうちに相手のペースにのまれることが実生活でも多いです。
危ない危ない…(汗)
あと、今頃になって気付きましたが、受動型ASさんが家の中でこのブログを閲覧している時、それは「内モードの状態」であり、それで自然と支配的で愚痴っぽいコメントになるのかもしれませんね。(愛着である先生のブログなので愚痴っぽくなる…というのもありそうですが)
また、私自身も、身近な受動型ASとのメールのやり取りから「メール(文章)だと誤解されやすい」という印象を持ち、自分の考えがきちんと相手に伝わるよう何度も書き直していたのですが、その癖がこの場でも出てしまい、次第に「過集中」&「視野の狭まった袋小路発言」に陥ったのだと思います。
「この場で愚痴っぽくなってしまうのは、ある程度仕方の無いことなのだ」と割り切り、なるべく自分の発達障害についてだけコメントしようと思います。(早くドライでマイペースなのび太に戻りたいです…)
どうやら私は、大いなる勘違いをしていたようです。
「愚痴と捉える」について実生活を振り返ってみたところ、きちんと相手の話を聞いてあげられるので、それについては何ら問題無いと思いました。
おそらく相手の受動型ASさんが「勝手に深読みして過剰反応した」のでしょうね。(メールで喧嘩になりやすい理由も、それで納得できます)
良かった…愚痴と勘違いして受け入れてしまい、またストレスを溜めるところでした。
改めて「相手の受動型ASの問題であり、私は何も悪くなかったのだ」と冷静に受け止めることができました。
先生、しばらくコメントの掲載を止めてくださったこと感謝しております。
おかげで自分の無責任な言動に気付くことができ、また、冷静に「今の自分の状態(過集中)」を把握することができました。
過集中って怖いですね。
合理的思考が失われて、自分の問題と相手の問題の境目が分からなくなる。
そうなる前に「相手の問題」を認識して、「自分は悪くないし、関係無い」と割り切る必要があるなと感じました。
先生、ありがとうございましたm(__)m
札幌在住です。
広汎性発達障害と診断されストラテラを処方されたのですが副作用で飲めなく、薬を飲めないなら他には無いと今は何も進んでおらずとても困っています。
札幌付近で発達障害や境界例に詳しい医師をご存知でしたらメールで教えていただけないでしょうか?
家族との関係が内モードなら、環境や形態でなんとか内モードを外モードにすることはできないでしょうか。夫婦でいうと形式は家族ではない、例えば入籍しない事実婚のような形態など。それともオープンな家庭、例えば常に第3者の目にさらされている家庭など。
受動型ASに「形式」は通用しません。
「入籍」は判断対象にならず、事実「婚」かどうかが重要です。
「外モード」=他人、です。
よって、「外モード」で接して欲しいのであれば、事実上他人になるしかありません。
年1回しか会わないしやりとりもしない、とかなら、「外モード」になるでしょう。
「外モード」は好きだけど、「内モード」は嫌い、というのなら、そのように言うのが一番いいかもしれません。
結婚・事実婚・恋人とかは無理になりますが、友達としては長く付き合っていけると思います。
ちょっと距離を置いた友達、なら「外モード」で接することになります。
環境や形態で変えるのは不可能です。関係の実態を変えるより他にありません。
内モードと外モードについての先生の記事や皆さんのコメントは大変興味深く拝見しました。
私の息子は受動型ASの傾向が強いので、現在、会社で、遠くに転勤になり、アパートで1人暮らしをしているのは、結果的にはプラスになっているのかもしれないと感じています。
息子を理解する上で、このコメント欄の、特に受動型ASご本人の方のコメントはピッタリくるものが多く、理解が深まりました。
私自身は年と共に「孤立型」の要素が強まっているので、どうも外モードは限りなくゼロに近づけて、内モードのみで暮らしたい気分になっているようです。当然、偏屈度もアップしています。世間から見ると付き合いづらい人間になってしまっていますが、年と共に本当に「無理」ができなくなっているのが実情です。
最後に以前にも書きましたが、ASもADHDも多数派も「十人十色」なので、常にそのことを頭の片隅におきながら、発達障害の問題を考えたいものだと思っています。
はじめて書きます。
娘がAS受動型ではないかと、先生のHPに出会い、確信しました。現在、検査待ちです。
私の知っているASの友人は、天才的頭脳を持ち、周囲を驚かすような人です。あっと言う間に数式を解き、ロジック好きで、アリゴリズムが大好き。ですから、まさかうちの子がと懐疑的な気持ちがある反面、障害という意味では納得がいきます。
コメントが多すぎて、すべてを読むことはできませんが、こんなに世の中にはASでお困りの方がいるのでしょうか?確かに病院も専門機関も予約でいっぱいで、年内に診ても頂けません。
生まれてからずっと、こんなに近くにいて、こんなにも愛してるのに心が通じない。そんな障害があるなんて、今まで知りませんでした。今までの苦労や悲しみがたくさん溢れてきます。誰にも理解してもらえず、手を貸してもらえず、なぜそんなに小さい子に説明する必要があるのか?厳しすぎないかと周りに言われながら、近づ離れず頑張って育てきました。あまりにも辛すぎたのか、涙も生活の合間、合間、途切れ、途切れに出てきます。
娘は現在中学生ですが、そろそろ限界に近づいてきました。私だけの理解では彼女を救うことはできません。
先日、娘と一緒に先生のHPを読みました。一緒といっても一方通行なのですが、勝手に読み、早口で何かを言っては自分で納得しているようでした。
彼女はまだ、離れて住むという選択肢をしりません。私は以前より、離れて暮らすことが彼女の最善であると考えていました。まさに最善の方法なのですがASではないかと考えた今、離れて暮らし、社会に適応させることよりも、好きなことに没頭させ、生涯続けさせてあげた方が、彼女にとって幸せな結果が生まれるのかもしれないと、そんなことも考えます。ASとはつまり、人間の新しい進化の形ではないかと思うからです。ただし、それには監視する人も必要なのも確かです。
彼女にとっても未来にとっても新しい時代がくることを祈っています。
「自身の子育ての振り返り」と「先生のブログで学ばせていただいたこと」から、母の立場・視点に立っての自分の見解を書かせていただきます。
子どもが感じる母親の呪縛は(発達障害の有無にかかわらず)、母親自身が想像するよりはるかに強力だと痛感しています。自身も娘として、自分の母親から有言無言の呪縛を受けているわけですから、気づきにくくて当然とはいえましょう。
私が危惧を覚えるのは、一見常識的(明らかに犯罪的な虐待などのケースではない、という意味の常識です)にみえる母親の言動が、「まだ未熟だから」「子どものために」「提案しているのだ」「良かれと思って」「大人が心配する行動は取るべきではない」「あなたをよく理解している親のアドバイスは正当だ」などの妥当性のありそうな言葉で、実は子どもを無意識のうちにがんじがらめにしている(可能性のある)現状です。
母親の(無意識による)呪縛が強い場合、子どもに病的症状が発現することも、実は少なくないのではないかとさえ思えます。
子どもの人生は子どものものです。「社会適応」であれ「好き放題に生きること」であれ、親が選んで「させる」ことではなく「子ども自身が選択すること」だと思います。
思春期以降の子どもに対して(精神面で)親ができることは、「親自身が自立すること」だけです(あえて断言します)。
・・・と、今の私は思っています。
すみません、先生。
この記事の私のコメントについてですが、きちんと記事の内容を理解せずにコメントしていた部分があったので反省文をm(__)m
孤立型ASと合理的ADHDのカップルの記事にもありましたが、基本的に私は「引きこもりたければご自由にどうぞ」という、相手の意志を尊重した「自己責任」の考えです。(受動元カレに対してもそうでした)
私自身、よほどストレスを感じない限り「物理的に離れる」という発想にはならないため、「気付かないまま相手が引きこもることを容認してしまい、成長を止めてしまう」恐れがあるなと思いました。
「物理的な親子分離」という現実的な解決策・引きこもりになった場合の「外での再度の適応の保障、働きかけ」等が必要であり、本人に責任を認識させるために、ただ放置するだけでは「引きこもりを長引かせることになり、本人のためにならない」ということですね。
こればかりは「人は人」と割り切るわけにはいかず、周囲の人間が「内モードから強制して追い出す」働きかけをしなければならないということに今頃になって気付きました。(ジャイアンのカモとはまた違う意味で依存させてしまうところでした…危ない危ない)
そうか、最新記事の内容って、この記事の私のコメントにも通じる部分がありますね。
中々「被害的な認知の人達」を相手にするのは大変ですが、このブログに辿り着き理解が深まったのもまた事実です。(それまでは、人をバカにしてからかうのが好きなのだと本気で思ってましたから。中にはそういう受動型ASの人もいたかもしれませんが)
最新記事、ありがたかったです。
「理解はするけど(個人的な)配慮はしない」って、「理解イコール即受け入れるというASの認知は個人的関係では依存になってしまうため、通用させてはならない」ということだと、私自身は受け取りました。
なので「出来ないことは出来ないとハッキリ言う」ことが必要なのでしょう。
「公的でなければならない理由」は、「公平・平等や責任の認識を重んじるADHD」の私にはよく分かります。
この記事のコメントでは、お騒がせしてしまい申し訳ありませんでしたm(__)m
先生の考え方に負担を感じることは無いのですが、自身の経験から「こうした方が良いのでは?」と思うことは幾つかあるので、またメールしようと考えています。(ちょっとディープな内容なので、コメント欄には書けません)
一次障害と二次障害のコメントにこだわっている間に
ここのコメントが賑わっていて
読んだら案の定自分の思考もウズウズしてきて
言語化する次第です。
(一次障害と二次障害のほうにはまた後で言語化し忘れたことの補足コメントをしたいなぁと考えている最中。)
まずわたくし個人の定義(語句の読解)。
「外モード」は職場での自分です。
「内モード」は家に戻ってからの自分です。
…基本ひとり身ですので、記憶の整理と脳の休息に必要なモードですけれど
やはり『素の自分、自分らしい自分』に戻るので
仕事始めはキツイですし
ここんとこ自分が出過ぎて買い物をする時にレジの人に叫んだりしますから、…よろしくないです。
これは内モードになりすぎているのかしら、とか考え中。
(まだ内(うち)外(そと)という区分け(定義)での自己分析をし出したところなので、記事を何度も拝読して思考中です。)
>実際には外モードの状況では「自己主張を引っ込めてただ耐える」ことはストレスになっていない
同意、共感、ええーーっとはい、自分自身の状況とすり合わせるとマッチします。
自己主張も、合わせる相手ありきですので
それを超えてまでしません。
合わせる相手が(状況が)わたくしのアイデアや意見を求めれば
たとえ周囲がざわつくほどのタンカでも切りますし
堂々とプレゼンのプロさながら説得力100%のクオリティで演じ切ります。
(それがわたくしにとっての、外モードでの自己主張。)
求められもしないのに、字義通り『自己を主張したい時にする』としたら
それが愛着だと言ってもいいかもしれない、かなと。(→なのでこの時点で内モード。)
おそらくですが、いいえ、この場だから書けてしまえるのです、(でも気恥ずかしく偉そうでイヤだったりしますが、…って、あーーーウザい自分。)……きっと、出会った上司によっては最強の片腕になれます。
うまく使ってくれさえすれば
湯水のごとくアイデアはわき出ますし、図式化もデータ処理も資料作成もプレゼンもおまかせあれ、です。
(現時点では不可能(実行できていない)ですが、)もし、『ずっと外モードであり続けられるなら』、かつ、そこに上手なオンオフさえ組み込めれば、できます。
きっとそうなればちっともキツくないですししんどくないですし
…いつぞやにコメントさせていただいた、『ロボット』になれます。
究極はそこだと今感じています。
それが一番向いている、と。
(三大欲求が面倒臭いだけだろう、という説も自分の中でありますが。)
(あと少し続きます)
>外モードだけで周囲と良好な関係で過ごせれば自己評価が低下する結果にもならない。
ですので、ここにも同意、共感、マッチします。
こういう場、今特に切に欲しますね。
そうであれば私はロボットになれる。
蛇足ですが
記事の項目の書かれ方から連想しました、
2009年に購入して、未だに職場の自分バイブル(戒め)な書籍です。
自分なりにさらにまとめて考察もいれて文章化しちゃったくらいの、いろんな意味で刺さる一冊です。
明石書店
「自閉症スペクトラム障害のある人が才能をいかすための人間関係10のルール」
テンプル・グランディン、ショーン・バロン著、門脇陽子訳
この記事も
また何度も拝読しに参ります。
職場におけるASD(受動型)の方のコメント、いろいろと参考になりました。ありがとうございました。
ご紹介いただいたテンプルさんの本を取り寄せました。正月休みに息子が帰省しますので、渡そうと思っています。