私はASの人をサポートする方針が正直なところ分からなくなっていた。何故なら「愛着」が出てくるや否や合理的な解決は不可能となり、「叩き切る」という選択肢が存在しないために(ADHD的な)現実的には解決方法が見つからないことが多いからだ。
別の言い方をすると、「本人の中の問題は解決不能」ということになる。どんなに辛くて身体症状が出ていても「こだわりと愛着の矛盾」には答えは無く、「大変ですね」と言うしかない。
いろいろ考えあぐねた結果、結局私はASサポートは「現実世界との調整」しかないと言う結果としては当たり前の結論に到達した。
最近書いた「許可制カミングアウト」もそうだが、ASの世界認知は人と世界が近すぎるために、「結果的に周囲の他者や世界を思い通りにするしかない」という自己中心性があり、それをストレートに指摘して現実世界との共存を可能にする環境調整は必要ではある。
「本人の中の問題はどうにもならないので、外の世間との共存の部分でサポートする」ことを考えるのが、あくまでも結果を重視するADHDの治療者としての可能なスタンスとなる。
特に積極奇異型ASの場合には、「世間からメジャーな待遇を受けるために多数派に大いに妥協するか、自分のスタイルを変えないで行ける狭い世界を探すか?」という究極の選択を本人に突きつけることが環境調整の出発点となる。
「世間からメジャーな待遇を受けるために多数派に大いに妥協するか、自分のスタイルを変えないで行ける狭い世界を探すか?」という選択、ずっと考えてます。
意識したのはここに来てからですが、その前からそれなりにその2つの間で調整していたような気が…
私の場合は高い自尊心から、ここは世間に(多数派に)合わせてやっとくか!に近い感じがあるのですが、合わせる合わせないを自ら自由に選べるが故に何ら問題を起こさずにやって来た気もします。
例えば、許可制カミングアウトの話だと、私の現状を周囲の人が正確に理解できるとは思えないので、カミングアウトしようとは思わないのです。ASに限らず、自分のスタンスや生活スタイル全般で。思えば、パートナーには私を理解してもらおうってのが無理でしたかね、残念ですが…
先生、シンクロしています。
私、あるワークショップ(自己の内側を探る内容)に参加しました。
その中で自分が、人や状況に「私の思い通りに変われ!」と言い続けてきたことが分かりました。
変わらないんなら、私は服従するか犠牲者になって、おまえに罪悪感を与えてコントロールしてやる、できない時は引きこもってやる、と言ってることに気づきました。
人間関係においては、母との関係のような、密着して、自分の感情か母の感情か分からないドロドロべたべたの関係しか知りませんでした。母以外深く付き合った人がいないのです。それはとても重荷で気を使わねばならない反面、責任や自己選択から逃避できる関係でした。
今は一人で気楽です。ですから人間関係は割に合わない、しんどいものというイメージしかありません。
でもどうももっと楽な人間関系もありそうな気がしてきました。
もっとシンプルで、もっと距離、空間があって、もっとドライな関係。
たぶん私はひとりがいいと言いながら、実は人よりずっと多くのことを相手に要求していたんだとわかりました。
人に求めていなかったら、変われとは思わないし、引きこもったりしないですよね。
求めるものが満たされないから、不安、不満いっぱいになって引きこもっていたんです。
私はひとりが好き、人なんてどうでもいいは大間違いでした。でも今まで気が付きませんでした。
YANBARU先生、今年も大変勉強させていただき、生きる道筋を示してくださり、本当にありがとうございます。
来年もご健康とご多幸をお祈りします。
自分のスタイルを変えないで行ける狭い世界を探す派です。
というのは大多数に迎合するとコミュニケーションが生まれとても疲労し社会的にまともに機能しなくなるからで、一人であればまともに思考し行動出来るにも関わらず、社会へ受け入れられるよう迎合して思考力が低下し慢性的に疲労し社会的に行動出来ない自分になって苦しむことを選択する意味が全くわからないです。
つまり選択肢として迎合はないと思います。
「結果的に周囲の他者や世界を思い通りにするしかない」という自己中心性に気付いてからはそれを態度に出さない様にしています。
ASが許容される社会やASを許容する他者であったら良いな程度で、今はあるべきとは強く思っていません。他者や世界が自分の思い通りにならないことは理解してきており、合理的でない誤った願望というところは気付いています。
それでも外出や家に家族が居るととても疲れます。もう存在や影だけでも疲れる感じ。
とりあえず引き蘢って生きていけるだけの経済力がなんらかの形で保証されれば一人が良いです。社会参加させるのが治療ではないのでは?
(その1)
これは自分に限ってのコメントです。
子供の頃は自分は普通だと思っていました。友達付き合いもし、ロマンチストで、ムードに弱く、「親友」なんて言葉が大好きでした。
高校の頃から、マイペースに目覚めました。
大学に入って、瞑想(坐禅)を始めたら妙に自分に合っていて、どんどんマイペースが強くなりました。
それでも両親が私に普通を望むので、人のコネで都市銀行の外為係になりました。
さすがに銀行では浮いていました。多数派と自分のギャップを強く感じ始めました。
またまた両親が私に普通を求め、私は反発はありましたが、体が弱く、キャリアウーマンで一生生きる自信もなく、結婚して専業主婦の道へと進みました。(このあたり非常に主体性がなく、自分でも情けないのですが、エネルギーがなく虚弱なのでしかたがありませんでした)
※(その1)の名前が「黒」になってしまったかもしれません。黒すりごま(AS)です。
(その2)
二人の子供ができ、子育てには燃えました。二人ともAS的だったので、二人が集団生活に順応できるように、私も必死にサポートしました。静岡県のある都市で14年間暮らしましたが、子供会活動が盛んで、親が異常に熱心なので、それにも必死に合わせました。成り行きで「子供会長」の役を我が家が押し付けられた時も受けて、1年間に10以上もの行事をこなしました。(今思い出すと寒気・・・)
そうこうしているうちに下の子が高校を卒業し、ようやく子供関連の社交が終了しました。この時の開放感は非常に大きなものでした。
その少し前からやんばる先生のブログを見るようになり、自分がASであることに気づき、今までの自分の半生を深く納得いたしました。その後は私の昔からの友達との付き合いも年賀状だけになりました。
娘が最近統合失調症になったこともあり、親子ともひっそりと家庭で暮らすのが自然になった今日この頃です。年を取るとともにAS度が増しており、人にできるだけ迷惑をかけず、世の片隅で静かに暮らしていきたいという気持ちが強くなっています。
この世での寿命は精一杯全うするつもりですが、もし「輪廻」というものがあるとしても、もう生物には生まれたくありません。地球上だったら「石」、宇宙だったら「星のくず」にでもなりたいです。(特に「うつ」気分で書いているのではなく、淡々とした気分で書いています。)少なくとも私は自分がASだと自覚できてから、おかげ様で不幸ではない生活を送れています。
KYさんの発言の
>人や状況に「私の思い通りに変われ!」と言い続けてきたことが分かりました。
変わらないんなら、私は服従するか犠牲者になって、おまえに罪悪感を与えてコントロールしてやる、~、と言ってることに気づきました。
・・・に関して、
私は旦那からずっとそんなオーラを感じてきました。
そして、私が耐えられず家を出た今も、旦那は子どもや妻(私)に罪悪感を感じさせるような言い方で関わってきます。
旦那の口癖も、「一人が好き」でしたが、
家族が出て行って、念願の一人になったにも係わらず、
何かと娘に連絡を取って来ます。(「他にすることないの?」…と娘も困惑しています)
結局、
「相手の都合を考慮しない」旦那は「周囲の他者や世界を思い通りにするしかない」という生き方しかできないのでしょうか?
自分は、『こんなにしてやった!』という恩を着せるような言葉をよく使いますが、
相手に対しては、『あんなにしてもらった…!』といった感謝の言葉は聞いたこともなく、
『やってあげて、やってもらって、プラスマイナスゼロ』という考えは皆無です。
また、愚痴ってしまいました。
世間一般の人達には分かってもらえない特有の精神的苦痛を説明できるのは、ここだけなので、お許し下さい。
本人に全く自覚がないところが致命的です。
頭の中は、自分のしてやったこと、自分の正しさだけでいっぱいです。
時々自分がしたいので、自分のやり方で人の世話を焼くことはあります。
でも、他人の意向が入り込む余地はありません。
私がまさにそれだった(今もそれな)のでよくわかります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
先生、今年もお世話様になりました。
来年もまたこちらに来させてください。
どうもありがとうございました。
どうぞ良い御年をお迎えください。
>「現実世界との調整」
そう、日々調整作業なのです・・・。多数派が平常心を保って平凡な生活動作や勤務をしている時間、ほぼ常に情報収集と検討、決定、反省、自己嫌悪等々を報われないまま続けます。
切ない作業です。
私も日々修行ですが、障害の自覚をされてまだ日が浅いかたは、この圧倒的な報われなさと非効率さに、くじけて音をあげて身体症状、精神症状を出すのも無理も無いのかなと思うことがあります。
愛着を諦めるて見える見え方で、こんな表現でいいのか分かりませんが、一個の生き物として、他人も身内も根本の救いにならないと、学んでしまうのです。(一時的な通過点なのかどうかは分かりませんが。)人を求めてはいけない、人の中にいるときは、悪意の無い時間の中から粗相を必死で探し、積極的に人と繋がるどころか、謝罪をし、慎まなければならない、そして人に心を閉じてはならない!
・・・というノルマを課せられるのです。
このノルマの消化というか、やりすごし作業?を、私は一人でしてきた環境に仕方なく居ますが、全国全てのASにそれを望むのは実際無理です。先生のような道しるべが不可欠と思います。
強引な空想かもしれませんが
(AS能力+他の特性)×自然体×他者への常識以上の負荷が0の状態=仮想空間
ではないかと思うことがあります。
=「現実空間への適応」の答えを出すためには、( )内は動かせないものなので、他にかけるものを増加するしかないと思うのです。
AS度合いが不幸にして強いASは、いつまで探しても切りが無い夢の愛着対象を当てにすることを、せめて一時期は諦め、自分の自然体を的確に切り捨てることを、泣く泣く覚える必要があることも、もっと広く知られていかなければならない時代が来ると思うのです。
教わらないと分からないことですし、多数派から簡単に伝えられることでもないからです。どうしたって、“幸せ”に答えが繋がらないものは、伝えることが難しい。私もまだ分かっていませんから。
ウーム、サポート受けるAS側が「愛着」問題にケリを付けておかないと「現実世界との調整」支援も上手くいかない、元の木阿弥になるような気がします。
ケリを付けるといのは、愛着関係は>いつまで探しても切りが無い夢<と認識して、パートナーなど特定の他者に私をパーフェクトに理解して受容してもらいたいという願望、気持ちを>切り捨てることを、泣く泣く覚える<ということです。
成人当事者の集まりで、よく同僚や上司など周囲の他人がASを理解してくれない、or、障害者枠で雇用なのでASは承知してくれているが対応してくれないといった愚痴を聞きます。
そこで、周囲にAS・アスペルガーという障害を理解して、その一例として理解して欲しいのか、or、私のこういうところは先天的な脳の障害に因るものということ、それは一般的にASと名付けられている障害ということをわかって欲しいのか?と問いかけます。
返答を聞いていると、どうも、ASを理解してくれれば、三つ組みといったこと同僚や上司などに分かってもらえれば、自分のことを分かってもらえると当事者は思っている、期待しているらしい。障害者枠雇用なら最初からASと承知の上なのだから、それなりの対応をしてもらえると期待しているらしい。
思うに、アスペルガー医師が似たような症状の人をまとめて一つのものとした括ったことから始まるわけで、まず個々の当事者がいて次いでASという概念・ラベルがある。だから、三つ組みといったASの理解=個々の当事者の特徴の理解にはならない。手がかりにはなるが、糸口にはなるが、個々の当事者の理解にはならない。しかし、当事者はASという概念を理解してもらえば、自分を理解してもらえて、受容してもらえると考えるらしい。この点が、いかにも「愛着」を根底に抱えるASらしいナーと思います。
続きます
続きです。
職場なら、折衝や交渉、指導といったことは先天的に不得手なので外してもらうとかの現実調整・支援を受けれる、同僚や上司などがおこなう受容がえられるレベルの理解であれば十分だと考えるのですが、話を聞いていると、どうもそれ以上を望んでいる。
愚痴をこぼす方の目標は、どうやら周囲の定型発達者と同じように業務をこなすことにあるようで、それも力点は”定型発達者と同じように”にある。業務をこなすことは定型者と同じにできるが、やり方、その場に合せて柔軟に行うといった定型者のようには無理なのだから、なにせ我々は我流でものを学ぶ、目標設定が間違っている。自分の業務、業務の流れ全体に支障を来たさないように自分の担当業務をこなすといった達成可能なものに変えるべきだと思うが、どうも、発想が完璧主義的だと感じます。自分自身にも完璧主義的対応を求める。
分業体制、社会的、社内的分業体制の下で仕事をしているわけですから、どんな仕事も、人間関係に還元できる。他者に私をパーフェクトに理解して受容してもらいたいという「愛着」願望と私は他者に対し定型発達者のように振舞いたいという完璧主義は、鏡像的であり、通底していると思います。
「愛着」願望を泣く泣く当事者本人が切り捨てるなければ、「現実世界との調整」支援を本人が受け入れ難いと思います。>自分のスタイルを変えないで行ける狭い世界<でも「愛着」願望で周囲を振り回してしまうのではないでしょうかね。
これは、大きな間違いかもしれませんが、
以前仕事の関係で聞いた講演会で、
分かっているけれど、できないのがADHDで、
分かっていないから、できないのがアスペルガー
という内容がありました。
私は、自分(ADHD)の特徴はよく分かるんだけど、それでも対人関係が上手く結べず、そんな自分に強烈な自己突込みがはいります。
しかし、旦那は「自分は全く悪くはない!」という人なので、ウチの場合ASだなんて微塵も思っていなくても、本来の特徴からか『自分を理解してもらえて、受容してもらえて当然』と考えているようです。
ASの人は、自分がASだと自覚しても、生活の中で自己突込みは入らず?、気が付くと相手を責めている傾向にある気がします。(職場の同僚も…)
私は、自己突っ込みばかりで、自分自身を責めまくり存在を消してしまいたくなります。
>人や状況に「私の思い通りに変われ!」と言い続けてきたことが分かりました。
変わらないんなら、私は服従するか犠牲者になって、おまえに罪悪感を与えてコントロールしてやる、~、と言ってることに気づきました。
これ、AS特有のものではないと思います。定型の多数派も同じですよ。
違うのは
>『やってあげて、やってもらって、プラスマイナスゼロ』という考え<が皆無という点ではないでしょうかね。
私は、自分が納得がいったことだけをしています。ここの書き込みなどを見ますと、多くのASはそうではないかと思います。自分が納得のいかないこと、やり方では実行不能という方が的確も知れません。
自分がそうだから、他者もそうだ、納得のいかないこと、やり方はしないと思っている。他者は基本的に自分と同じとして他者を理解することライク・ミー Like Me 原則と言うのだそうですが、この原則はASも定型の多数派も同じ、ただMeが違うのですよ。
定型の多数派の方などは、納得できなくても、「相手が望むならやってあげる」ということが実行可能ですよね、相手に「貸しを作る」ことが可能。これが、ASは自分が納得がいったことだけをしますから「相手は納得して、相手が自分でやりたかったから、実行した」と受け取る、つまり「借りを作った」とは解釈しない、できない。
自営の小売業ですので、出入りの営業さんに納期や価格などで無理を言って納品してもらうことがありますが、これは明瞭に「借りを作った」とわかるから、営業さんにノルマ達成などで「借りを返す」という感覚はあります。逆に「この間の貸しを返して」という交渉事もできます。だから私の場合は、貸し借りのバランス感覚が皆無というわけではない。この例や金銭のように客観的明示的な場合は、貸し借りの感覚はASにある、働くと思います。問題は、明示的でない場合ですね。
続きます
続きです
過日、定型の娘が友人関係でこのAS親父に愚痴ってきたんですけど、その中で「相手が、これは貸しだよと思っているということが分かるのか?」と問いかけましたら「なんとなく分かる」と言うのです。「なんとなく」ネー、表情などの非言語系でのやり取りです。言語性優位ですので、こういった非言語系は読み取りが極めて下手ですから、「相手が貸しを作った」と思っているのはわからないです。つまり私が相手に「借り」を作ったとか、「この間の貸しを返してもらった」ということには感じられない。
また、相手が自分の希望を聞いて行動する、それは「私は納得できないが、貴方が望むから」という気持ちでパッケージ・包まれた行動です。この構造は、誤信念課題の第二水準、アイスクリーム屋さんの課題と同じリカーシブな構造です。このリカーシブな構造をASは上手に処理できない。第二水準の誤信念課題でいえば、①・全く解けない、②・制限時間一杯でとける、③、検査のように文字で言語で示された場合は解けるが、日常の場面では解けない、といった様々な形があるようですが、とにかく定型の多数派の方などの様には解けない、処理できない。
これは、「私は納得できないが、貴方が望むから」という気持ちでパッケージ・包まれた行動とオンタイムや事後的でも認識できないといことです。「私は納得できないが、貴方が望むからという気持ち」が見えないで、行動だけが見える。その行動は「相手が自分でやりたかったから、実行した」と解釈する。ですから「借り」を作ったとか、「この間の貸しを返してもらった」という風には貸し借り感覚が働かない。
続きます
続きです。
さて、定型の娘の愚痴は、友人が些細な頼み事を何回もするのに、その借りを返す様子がないということで、余りに続くので嫌になったということでした。貸しが多くなって「私のことを便利な道具と思っている?」という利息が付いてしまった格好です。私の相方は、彼女が言うには20年余りもその状態だったわけで、別居、娘から「一緒に住んでいないから、お父さんは、私の保護者ではない。」といわれる形で元利の支払いをしているわけですけど。
私は、娘には友人Aさんにお前の気持ちが伝わっていない可能性があるから、「貸しだからね」とかAさんに明示的に伝えてみたらと言ったのですけど、これは定型発達者、こういった部分は表情などの非言語系でやっている人には言語化すること自体がとても難しいことらしい。
ASは、その人なりに>自分のやり方で人の世話を焼くことはあります<けど、その貸しに、相手から「この間の借りをこれで返すわね」という感じを持つことができないから、AS側としては貸す一方という心理状態になる。娘は数週間、相方は20年だけど、こっちは生まれてからずーとウン十年。相手の笑顔や感謝で報われた気持ちになることはあるけど、貸し借りで言えば貸し方の数字だけが増えていく。娘は友人にイラつき、相方は私を見限ったわけだけど、ASの私は、>『こんなにしてやった!』という恩を着せるような<言動をとったらしい。
貸し借り感覚、>『やってあげて、やってもらって、プラスマイナスゼロ』<という感覚が働いていれば、ある時は、私が服従する側、別の時は相手が服従する側で、なんとかやっていけたと思うのですけどね。貸し借り感覚がない言動と貸し借り感覚が働かない言動は、外見的には区別できない。「相手の都合を考慮しない」言動と「相手の都合が見えないので考慮できない」言動は、表面的には区別できないと思います。相手の都合が見えないので考慮できないこと、貸し借り感覚が働かないことを自覚すれば、多少は変えられるかもしれないと思っているのですが、どうでしょうかねー?
末尾ながら、先生、皆様によきとしでありますように。
医者と患者の関係では「叩き切る」という選択肢が存在しないのですね。大変です。
元夫を叩き切ってはや何年か、、、警察、司法、親族などの手を借りかなり強引に叩き切りましたが、とっても快適です。
こんなラクをしていいのだろうかと思います。もっと苦労をして成長するべきなのをさぼっているのだろうかとか。。まぁでもそんな器もないので無理をしないことにします。
毎日悩みがないので最近、自分がジャイアンでなくて多数派だったのかという気さえしてきました。
でも昔の友人で空気が読めない人がまとわりついてくるのは、本人が悪質でなく悪気がない分、どうしたものか頭を悩ませます。(叩ききったつもりが切れてなかった)ほんとの多数派の人ならもっとさりげなくかわすんだろうなあ。。まぁACの頃友人になった人だし、ACが治ってきたからこそこんな悩みを持つのだろうと思って、成長した証だと思うことにします。
ヤンバル先生、ヒゲ達磨さん、他コメンターの皆様、今年もよろしくお願いいたします。
>アスペルガー医師が似たような症状の人をまとめて一つのものとした括ったことから
このくだり、しみじみ分かる気がします。
ただ、最近の文献は(色々再燃の域を超えて、本に当たりそうになるので。)読んでませんが、ひと昔前の文献を書いた時は、まだ曖昧な情報が多すぎて、全部書いていたら読むに堪えないほどくどくなったであろうことも、私はつい想像してあげてしまいます・・・。
もっと書きたいことが頭でワサワサ鳴っていますが、当ては無いですがいずれ文に起こせたら・・・。
借り、貸しの概念も、文に起こせばこの通り、決して少なくない量なんですよね・・・。
確かここのブログのコメント? に、ASの養育はお金がかかるという引用を見たことがある気がするのですが、養育だけではなく支援でも、この手間の量、落ちつけながら話すための時間量もかかる、とよく思わされています。
昔の職場ですが・・・。私も自分の特性を今よりもまだ分かっていない時期、もっと分からないなりに真摯に私を正そうと? 教えようとしてくださったベテランがいました。
正しい方法かどうかは置いておいて、よく私の発言を引用して指導してくださったのですが、季節を重ねるにつれて、私が言った覚えの無い言葉が入ってくることがありました。ご説明を遮らないで聞いた後「私・・・言った記憶が・・・」と、おずおずと首を捻ったことがありました。
うっかりでも、そんな深い職業観は言ってないのです。話し相手がいませんでしたから。日々社交辞令。ガス抜きなんて贅沢、人間相手に出来ない環境でした。
今思うに、ベテランは私が不可解すぎて、睡眠時に悪夢を見ていたのでは、と推測してしまうのです。
悪夢のぴよよが、とうとうと生意気に喋っていたのかもしれません。
思い出すたびにただただ、申し訳ない気持ちになるしかないのです。
こんな事例が繰り返されないためには、これから何が文に起こされていかなければならないのか・・・考え事は、ここに戻るのですが。
昨年はこのブログを知って多くのことを学ばせていただきました。
ありがとうございます。
やんばる先生ならびにコメンターの皆さまにとって、今年が実り多い一年でありますようにとお祈りいたします。
AS的母としましては、「自分のスタイルを変えないで行ける狭い世界」を目指すつもりでおります。
AS娘の今後を考えますと、他者とのかかわりを最小限にとどめる生き方=自分がもっとも疲れなくてすむ生き方、と思っています。
>特に積極奇異型ASの場合には、「世間からメジャーな待遇を受けるために多数派に大いに妥協するか、自分のスタイルを変えないで行ける狭い世界を探すか?」という究極の選択を本人に突きつけることが環境調整の出発点となる。
あるアーティスト(芸能界)を注目して見ていますが、上記の選択に悩んでいるような様子が見受けられます。
才能はそのジャンルではトップクラスで、世界にも通用するレベルですが、バカ正直で、ちょっと躁鬱気味で、気分のアップダウンが激しく、人情家な反面、怒りっぽいところもあるので、マニアックなファンも多数いる代わりに、妬みも含めて敵を作りやすいようです。その敵に対しては、非常に神経質でデリケートな反応をします。
時々、「出身地の田舎に帰りたいなあ」というつぶやきもしています。出身地では家族・友達を含め、地元の人々が温かく迎えてくれて、とても居心地がいいようです。
非凡な才能があるがゆえに、東京で、孤軍奮闘していますが、なかなか「孤独な戦い」かもしれません。