自閉症の診断基準には、「他者への関心が乏しく」というような表現が必ずあるが、ASの人本人の主観的な訴えや、それに基づく行動を見る限り、ASの人が他者への関心が乏しいとはとても思えないことが多い。むしろ人を気にしすぎて無視出来ないことがASの辛さであると私は考えている。これはどういうことだろうか?
私は主に知的障害の無い言語的に表現できるASの人から話を聞く事が多く、聞いた内容から考えると、ASは、「人を非常に近く感じる」ということが認知の特徴ということになる。
言葉を文字通りに受け取ったり、AS的な独特の受け取り方をするではあるが、本人の証言を聞く限り「人を気にしていない」ということとは程遠いように思う。
もしかすると、自閉症圏の人は「人が気になる、人に関心がある」ことになっていない!ということか?。本人は自覚的には非常に他者に関心があるのだが、自分の観点から以外に物事を見ることが出来ないので、本来の(多数派流の)「人に対する関心」になり得ていない、という意味か?。
本人が気にしている「人」は所詮ASが自己完結的自己中心的な世界の中で勝手に作り上げた想像上の他者でしかなく、客観的に存在する本物の周囲の生きた人間のことではない?
そこまで考えれば、確かにASも自閉症と同様に(多数派流の)他者への関心は「非常に乏しい」という意味にはなりはする。ただし「相手(多数派)側から見た基準」であるので、非常に乱暴なものであることは注意が必要だろう。
例えば、この中には「多数派と同じような状況察知が出来ない」というケースの他に、「多数派に合わせる必要自体を認識しない」というケースも当然含まれてくるだろう。この2つは私には非常に大きな違いがあると思える。
対してADHDは、主観的にも他者への関心が乏しい。 確かに多数派と似た情報の認知は表面上可能ではあるが、目に見えない「空気」までは察知は出来ず、また重要なことは自覚的な関心自体が乏しいことだ。この意味でははるかに「自閉的」である。
もともと言葉を発するのが困難な自閉症の人を外から見て作られていることが元であるからかも知れないが、本人の訴えを聞く限り、「ASは周囲の人に関心が無い」というのは当てはまらないように私は考える。逆に関心がありすぎて苦しんでいる人が多いというのが私の臨床的な実感だ。
受動型ASには確かに自閉症に通じるところがあります。
自分の価値観が人と違うがあまり、人と接していると疲れるというのが実感です。
そして、疲れが一定限度を超えると、対人センサーをOFFにする。その状態は他人から見ると、人に無関心であるように見える、だろうと思います。
受動型ASとなる人は、対人ストレス耐性がそれなりにあるので、何とか社会生活ができますが、自閉症診断になる人は対人ストレス耐性が低いため常時対人センサーがOFFになっていると考えれば説明がつきます。
自閉症の人も対人ストレスを感じさせないカウンセラー(自分と同じ型のAS?)相手であれば、心を開かせることもできる、ということではないでしょうか。
「人を近くに感じる」は受動型ASの場合は、ある程度以上相手を理解できないと、こちらが行動を取れない、という解釈になります。
そうでないと、社会的な価値観と違いすぎるため、社会生活ができません。
人を近くに感じないと、社会生活ができない、と考えればいいでしょう。
未診断ですが、支援組織の代表に指摘されたアスペルガー当事者です。
確かに、人を無視できない体質です。
孤独は嫌い。いつも共感されたいと心のどこかで思っています。
初対面の人とは、すぐに親しくなる。
まるで、前からの知り合いのようだと初対面の人によく言われます。
以前、子育て支援の相談員をやっていた時
他の相談員には言わない突っ込んだ事を
来所者によく相談されました。
でも、年賀状は一枚も出しません。
学生の時の友人で、未だに交流のあるのは一名のみ。
知り合いは多いのですが、こちらから連絡を取ることは滅多にありません。
友人と会って話すと疲れ果てるのです。
疲れずに話せる人もいますがほんの数人。
自分が自閉症圏内にいるとわかって、面白いです。
先月、トニー・アトウッド博士の講演会に行きましたが、わたしの事をトニーが知っているのかと思ったほどアスペの特徴として挙げているのを聞きました。
私は、体裁を気にしない自分の性質を強みとして
誇りを持って二児の母親であり主婦として生きています。
学生の頃は教室に独りで居るときが最も集中して勉強したり、考え事ができました。
一人でも自分以外の人が居ると途端に計算ミスが多くなったり、文章問題を考える事ができなくなったりしました。
外出して人気の多いところへいくととても疲れます。車で出掛けていても他の車が全てメモリー上に乃っていく感じで頭がパンクしそうになり疲れます。
メモリーにのっている情報をハードディスクに移すスピードが遅いのではないかと思います。物覚えは悪いです。
はじめまして。
夫とは大学院生の時に結婚しました。夫の就職が決まって別居になったあたりから、コミュニケーションに齟齬を来たすようになり、ここ数年は「ひょっとして夫は精神に問題を抱えているのでは?」と思うようになっていました。
このサイトに出会って、夫はASかも・・と思いました。また、私自身にもADSDの傾向があるのかも・・とも。今、過去のブログを一番最初からひとつずつゆっくりと読ませていただいています。
自分自身の中に、夫との関係を再構築するだけの愛情が残っているのかは、自信がないですが、とりあえずは、これまでのような、多数派向けのコミュニケーションをやめて、少数異民族とのコミュニケーションを心がけてみようと思っています。
とは言っても、私自身が少数異民族の言語を習得していないので、このサイトを参照しつつも、文化人類学者のように、フィールドしながら言語を覚えて行くしかないのかなぁ・・という感じです。
気が重いのも事実。でも、子どももいるのでとりあえずは頑張ってみようと思っています。
いろいろなASの方がいらっしゃると思うので、自分自身に限っての例しかお話できませんが。
私の場合「人を気にしすぎて無視できない」というのは確かですね。「孤立型ASのスタイル」が居心地がいいのも、「人に気を使い過ぎる脳だから」ではないかと思います。
>ASは「人を非常に近く感じる」ということが認知の特徴
という先生のお言葉が、以前は実感としてよくわからなかったのですが、最近は「自分の人に対する感じ方は確かにこうなのかもしれないなあ。」と思い始めています。
2人の子供の子育てを長いことやってきて、一番苦痛だったのは「保護者会」でした。現在は2人とも成人したので、保護者会から解放されて、私自身がのびのびした自由を味わっています。
保護者会では保護者が自分の子供について1人づつ順番にコメントしなくてはなりません。バカ正直に言いたいことを言うと後で子供の不利になって、本人がクラスで居心地が悪くなるだろうと考えると、差し障りのない、つまらないことを
言うしかなくなるのですが、これが歯がゆくてなりませんでした。
ではこのブログのようにざっくばらんに本音が話せて、自分と同じ興味のある人が集まっている場所なら長居できるかというと、やはり脳がだんだん疲れてくるので無理なんですね。人の好き嫌いに関係なく、「人に必要以上に気を使ってしまう脳」なのは確かです。
最後に一言「他者に対しては非常に関心があります。」
今回も長居しないと思うので、もうひとつだけコメントしておこうと思います。
私のように「孤立型AS」の家庭生活はどうなっているのか。
まず、私の主人はADHDがかった多数派のような感じがしますが、「趣味人間」なので、私にあれこれと言ってくることなく、私にとって「空気そのもの」のような人なので、救われているのかもしれません。ただし、私が好きな「人間とは」「自分とは」「ASとは」のような深い話は全くできません。
息子はASだと思いますが、主人と似た趣味人間で、やはり私にとって空気のような存在なので、気を使いません。
娘はASで、もと強迫性障害で、現在は重症化して統合失調症になっています。彼女は繊細で、ASに関する話などが大好きで、私と2人でよくAS話で盛り上がっていましたが、最近はあまり脳を使わせると、本人の疲労になるので、おたがいに空気のように接するようになってきました。
つまり私の家族はみな「空気」状態で、それでいてなんとなく仲が良いので、おたがいに疲れずに存続しているようです。
他者を近く感じるか,そうではないかの軸と,
他者に関心を強く抱くか,そうではないかの軸は,
ある程度独立していないでしょうか。
あるいは,前者が一次的で,後者は二次的に現れるもの,であったり?
※ひさしぶりにコメントを書いてみましたが,先生のフィルタリングを通していただけるかどうか(笑)
>あまがえるさん
あまがえるさんは、ASなのですか?
あまりにも自分(たぶんジャイアンADHD)と対照的なので面白いです。
自分は、前にも書いたことがありますが、過集中状態になると、周囲がどのような状況であろうと、周りの音が全く聞こえなくなります。声をかけられても気がつかないこともよくあり、返事が上の空になることも度々です。
ですので、仕事も、ざわざわしたオフィスや、喫茶店などで適当に気を散らしながら、ここぞというところで自分を追い込んで過集中でやるほうがうまくいきます。
ブース型のオフィスなどで独りぼっちになると、逆に自分から気を散らしてしまいうまくいきません。
自分の場合、気が散っているのが通常なので、人の顔もおぼえられません…
私もASは人にとても関心がある
と思っています
音楽の世界では
人の評価に過剰に敏感になる
という形で現れます
結果
ASの方達は私に
誰誰がどこの演奏会でどーだったこーだった
という噂話を延々となさいます
私はこれが苦痛
ADHDの私にとって音楽とは自己表現の手段でしかなく、なので、自分の思いをどう伝えるか、が最大の関心事です
だから、極端な話、お客様の反応が芳しくなくても、ある程度伝えられた!と思えばそれで満足。また評価の為でなく自己表現の為に頑張る
対してASは評価の為に頑張るので、頑張った割りに評価が低いと
頑張ったのにわかってくれない
となる。それはある意味自分を中心とした他人に対する関心だからではないか?と思う。
また、評価してくれる人に流されやすい。
評価しない人とは仲良くしたがらない
結果
井の中の蛙となる
また他人の意見を丸のみし、受け売りすることがあり、ADHDの私からすると
自分の意見はないの?
と思うことがある
とてもASは他人に関心がある
と思う
ただあくまで基準は自分。自分が良いものは良い。他人の基準が存在することさえしらないように見える
今頃、前の記事にコメントして時期はずれですみません。
一つ大きな疑問が起こってきたものですから。といっても他の方にとってはどうでもいい自分自身だけの問題ですけど。
(ジャイアンさん中心のブログにいつまでもASがうろうろしていることに、だいぶ気を使い始めている時期ではあるのですが)
私は今まで「孤立型AS」と名乗っていましたが、本当の「孤立型AS」ってこんなにおしゃべりじゃないのかしら、こういうブログに出てこないものなのかしらと感じたのです。
私は結局「積極奇異型」で、だけどエネルギーがすごく少ないので、疲れると引っ込んで、「孤立型」のスタイルを取って、エネルギーを充電しているだけなのかもと思ったりしました。
だとすると「中心志向」というのがあるはずですね。これがあまりピンとこなかったのですが、子供会や学校の委員会などでも、人の上に立つのは大嫌いなのですが、裏方で、こまごまと企画の段取りを考えたりすることは結局よくやってきましたね。秘書みたいな仕事とか。前に先生がおっしゃっていらした「オモテではなくウラの中心志向」ってヤツでしょうか。もちろん好きでやっていたのではなく、押し付けられて嫌々だったのですが、いざやり出すと中途半端では嫌で結構一生懸命やってしまったような気がします。
今の私は純粋な積極奇異型でもなく、純粋な孤立型でもなく、混じっているのかもしれません。
何型がよくわからないので、今度からただの「AS」と名乗ることにいたします。
積極奇異ですwAS
私は、1人が大好きだ。
まったく苦にならない。
てか快である。
孤独は嫌いだけど、1人が好き。
これは、誰かと同じ空間にいても、
1人の空間を維持できることが必須である。
てか、そうじゃないと物凄いストレスになる。
特に疲れてくる時なんか、
本当に癒されたい。=1人になりたい。
今めっちゃカラオケしたい!
はぁ?
そんな友達のKYな誘いに、なんだよ!
って感じ。
てか金ないとかほざいてたくせにマジ
イライラ!
もちろん断った。
もう1人の時間が欲しい!
私の最大の癒しは1人の時間[m:202]
大体誰かと喧嘩になる原因も、
私には限界的に疲れて1人になりたいオーラむんむんなのに、
内心イライラ・・・・
それに相手がKYで居るから、
私が喧嘩吹っかける感じになる。
そうすりゃ物理的にも精神的にも相手が離れるので。
はじめまして。ASかどうかは定かではないですが、おそらくハイパーレクシアだったと思しき者です。自己診断で、AQ40でした。
さっそくですが。
私の夢には知らない人ばかり出てきます(ごく一部の例外:母がたまに出てきます。すでに亡くなっている親戚が出てきたことも何度かあります)。
同僚等が出てくることもあるのですが、その場合、必ず、現実の同僚ではなく、未知の人が、同僚役を演じています。
何故だろうかと自分なりに考えた結果、「生きている上で、現実感がまるでなく、実世界で接している周囲の人たちのことを、他者として認識できていない」からではないかと思い当たりました。
つまり、私は、他者への関心を持っていると自分では思っているものの、実際には、そうではなく「他者への関心が乏しい」のではないか、ということです。
ASの皆さんの夢の共演者はどういったかんじなのでしょうか。
それから、余談ですが、他者から名字で呼ばれたとき、とっさに自分のことだとわからず、「私って、○○という名字なのか・・・」と妙な違和感を覚えます。自分のことも認識できてないのではないかと、心配になります。
自宅はインターネット環境にありません(ネットカフェ月数回程度利用)なので、書き込んでおきながら、長期間消えます。すみません。
それでは失礼します。
りさん、はじめまして。
私もだいたい似たような夢は見ますが、夢とは本来そんなものらしいですよ。
私の場合、夢の中で建物の間を前進していて、姿は見えないけれど特定の人達の気配だけ感じるとか。でも、必ず居るんだと確信していたりします。
会話することは滅多にないです。
私も、他者の情報~何を欲しているか、何を言わんとしているか、どういう状態か等々~を察知するのは鈍いし、遅いです。でも他者への関心が乏しいのではなく、情報処理と、見る聞くの情報伝達も遅くて、トータルな相手の情報を“掌握”するのが遅いのだと思っています。
情報処理と理解も、それをするのが上手な者が解説してくれたり手本を見られるチャンスがあると、とてもスピードアップして助かることがあります。雀の涙ほど少ないチャンスですが。
他者への関心は持っていると思っています。
ただ、私はASが強いADD混じりなので、“自己完結的自己中心的な世界の中で勝手に作り上げた想像上の他者”のほうに寄っていってしまうようなのですが。
ハイパーレクシア、語句はお聞きしたことがありました。検索で意味も思い出しました。外部からの誤解が多そうで、大変そうですね。
ぴよよさん
ありがとうございます☆
よかった…夢とはそういうものなのか…と安堵したのもつかの間、疑問がよぎりました↓
「一体誰にとっての『そういうもの』なのだろう。『多数派にとって』なのか、『少数派側にとって』なのか、あるいは、『どちらにとっても』なのか」(この思考も自閉脳?のなせるワザでしょうか)。
「昨日、(知り合いの)○○さんが夢に出てきて云々」という話を周囲の人(おそらく多数派)がしているのをよく耳にした記憶があるのです。だから、既知の人間の出てくる夢の方が普通なのかなと私はずっと思ってました。
そこで、これは単なる思いつきなのですが、少数派がよく見る夢の傾向があるのではないかと。
(ぴよよさんの、めったに人と話さない、というのもそうなのかも…←勝手な思いつきです、すみません。ちなみに私は夢の中で話しまくってます。それから、どの夢も五感の全てがそろっていて、妙にリアルです)。
私にとっての悪夢とは以下のようなものです。
知らない人たちばかりで、話しかけようとしても名前がわからない。
名簿(?)で名前を調べて話しかけようとするものの、見たこともない難読姓ばかりで、読みようがない。
「何と読むのですか」と聞いても、何と言っているのか聞き取れない。そして、無駄に時間ばかりが経過する。
起きている時に、「全く未知の人」をイメージするのも難しいと思うのですが、そんな面倒なことを寝ている時に何故する必要があるのか、脳は疲れないのか、そんな厄介なことをするくらいなら知っている人を登場させたほうが手っ取り早いのではないのか…と疑問はつきません。
つづきます
つづきです。
それから、ハイパーレクシア。これも勝手に私が言ってるだけで、未診断です。AHA(アメリカハイパーレクシア協会)の挙げる10数項目の特徴にしっかりあてはまってます。ASとADHDの特徴にも自分が多々あてはまっている気はしますが、だからこそ(?)自分がどちらなのかわかりません。
読み書きには問題はないですが、ちゃんと話すことが苦手です(とりとめのないことをだらだらと支離滅裂に話すことはできます)。
誰かからの質問に答えることも難しいです。例:診察室での医者の第一声「どうですか?」。カット中の美容師の「どうですか?」も同様。「どうですかって何がですか」。「元気?」もよくわかりません。ただし、似たような状況でも、それが文章であれば(例えば小説・エッセイ)理解できます。
こういう現実世界での不安な状況が夢に反映されているのかもしれません。
ところで本題の、「他者への関心」についてです。
最近思い出したのですが、数年前まで、周囲の人たちのことを
「この人たちは何かの役を演じているのではないだろうか」と思っていました。誰か(映画監督のような役割の人)に言われた役を演じ続けている。この家/学校/職場も実は映画のセットのようなハリボテで、私だけがそのことを知らずに途方に暮れている、そんな感じで世界を見ていた気がします。
これは自閉脳による思考か、それとも何か心の病による妄想だったのか。
ちょっと気になるところです。
長々と自分のことばかり書いてすみません。
それでは失礼いたします。