ASの人と話してよく感じる話だが、相手の立場から自分を客観的に見ることの根本的な困難さが非常に大きい。加えて愛着の対象の相手には「分かってもらって、受け入れられて当たり前」という発想がある。
これが自己突っ込みを日常的に体験し、言わば24時間自分を責め続けているADHDとの大きな違いだと私は感じる。
ジャイアンにとって中心志向の「中心」は、自分が決して立つことのできない永遠に追いかけ続ける手のとどかない目標であり、ASの場合は「中心は自分の中にある」「はじめから自分は中心に立っている」という違いであると私は思う。
実際にAS的な中心志向の強いケースは、明らかに自分自身の問題を見つめなければならない場面に立つと、「視線恐怖」や「強迫症状」、「被害妄想」などの病的な反応に移行することが多く、私には「意識の上で自己突っ込みが出来ないから」病的な反応へ直行するのか?とも思える。
最近私は本格的な自己突っ込みのあるケースはむしろジャイアンに分類するべきではないかと、分類基準自体を考え直しつつある。自閉的な特徴はジャイアンにも多いし、強迫的なジャイアンは積極奇異型ASと共通点が非常に多く、私がジャイアンに分類しているケースを、「表面上の注意欠陥の問題よりも対人関係の問題が大きい」という表面的な意味で、世の先生方はASに分類することも実際多いだろうと想像する。
分類は所詮分類基準の選び方と優先順位の問題であり、結果的に「そう分類することで現実をより理解しやすい」というメリットで分類基準の良し悪しは判断されると私は考える。
そういう意味では、「自己突っ込み」、即ち「自分の視点を離れてある程度冷静に自分を対象として観察できる」という特性で分類を分けることも重要だろう。
これまでよりも「AS」の範囲が小さくなるが、「自己突っ込み出来るケースはジャイアン」という考えに私は傾きつつある。
タイトルの「ASは~」という言葉で、またコメントを書いてしまいました。
今回の記事を読んで、私にはよく意味がわかりませんでした。
先生の記事を読む時にはいつも、「じっくり」というより「直感的にさっと」読むことが多いのですが、すぐにストンと頭に入ってくる時と、むずかしくて全然わからない時と両方あるのです。
今回の場合、「全然わからない」ということは、タイトルのとおり、私には「自己突っ込みというものができない」からなのかもしれませんね。「自己突っ込み」なるもの自体も理解できていないのでしょうね。ここに書かれている「中心志向」も結局理解できていません。ASってこういうものなのでしょうか。(私が理解力がないだけの話かもしれませんが)
ASが仮にいい医師に恵まれ、このブログのような情報で頑張って勉強したとして、>本格的な自己突っ込み・・・のできるところまで成長する可能性はあるのでしょうかね?
自己突っ込みをするには、突っ込む理由になるだけの自分の落ち度や、到達していない領域が見えている、感じられることが前提になる気がしますが、私はそれを自分一人では見つける自信がありません。見つけたつもりでもフィードバックがないと、ただの独りよがりになっている気がします。
なのでインターネット外でも、インターネットの中でも、そこまでの境地に達したASの先輩を探してきました。
でも私の視界に入るのは、神経質なジャイアン傾向、強迫的なジャイアン傾向、賢いから深入りしないけれど少し依存的なジャイアン傾向ばかりでした。
そういえば同僚が私と会話する理由すら見つけられない職場で、私と口を利いてくれる貴重な存在もそういう傾向のある人が多いです。
AS傾向は私と何を話していいか分からないようです。
何かあったときは、私の説明はAS傾向には通じるのが速いです。
でも私には個人の意志を話に込められていないのかもしれません。意見や見解を求められたら私はその場で考え始めます。だから話す相手のAS傾向に安心感を与えられないのかもしれません。
でもどこまでも仮説です。
検証できる人が検証しないと真実は分かりません。私には見えないから、先を行くASの先輩の手を借りて調べたかったのです。
自分で調べようとした過去もありましたが、他人を怯えさせることにしかなりませんでした。
続けます。
続きます。
ASの成長は、他人を認識することから覚え、他人を自己都合を叶えるためのアイテムツールにしようとする試みをして、次は自分の疲れを自覚し認め、自己都合を緩めて他人も容認するところへ成長し、その次は自分に近い人から見た自分像を知り、改善するか共依存になり、さらに大きな世間様、健常者の視点を知って自分の居場所を自分で決める、みたいな成長がいいのかとなんとなく思ってきました。
前々の記事の
>本人が気にしている「人」は所詮ASが自己完結的自己中心的な世界の中で勝手に作り上げた想像上の他者でしかなく、客観的に存在する本物の周囲の生きた人間のことではない?
この概念が私にはしっくりきたのですが、最後までこれしかできないとしたら、もしかすると私にはもう何を勉強しても付ける薬は無いのかもしれませんね。
それで当たっているのかどうかも、まだ分かりませんが。
ASには自己つっこみも立場の認識もできないように感じます
TPOをわきまえる
ということができない
例えば
童謡
由紀さおり姉妹が歌うのは綺麗だが、それをふつーのピアニストがレストランでひいたら場違いというもの
赤とんぼなど弾かれてはただでさえ景気悪いのに、どんな気持にお客様はなるのか?
更にさんぽなど弾き子ども達が歌うと喜んだりする
おいおい、ここは歌声喫茶ではありません
静かにお食事したい人もいるのに。
それをやんわり注意しても
童謡すきだし歌は良いものだから
の一点ばり
私も赤とんぼ好きだけど弾く場は考える
そして更に注意すると
反省しているのに、まだ注意するのはしつこい
と逆切れされたりする
反省してても改善されたように相手が感じなければ、いつまでだっていわれるものだと思うけど?
そんな訳でASとは全く話が通じないと思いはじめています
今回の先生のエントリー、私には非常に納得できました。
>実際にAS的な中心志向の強いケースは、明らかに自分自身の問題を見つめなければならない場面に立つと、「視線恐怖」や「強迫症状」、「被害妄想」などの病的な反応に移行することが多く、私には「意識の上で自己突っ込みが出来ないから」病的な反応へ直行するのか?とも思える。
ジャイアンの我が子は幼児の頃からこんな感じでした。
ADHDも持つASと診断されてますが、調子が良い時は
ADHDそのもので扱いやすいのですが、ストレスフルになると
ASチックになってきて、強迫症状が強まります。
しかし,自己突っ込みしていないかというとそうでもなく
ごく早い時期から『お友達とうまくやれない自分』に
違和感を持っていました。私の怒り過ぎでACっぽくなって
いたのかもしれませんが、喧嘩の原因を聞くと、友達の事も
悪く言うけど、自分の言動も振り返る事ができていたと思います。
中心志向が邪魔して意地っぱりな見かけでしたが。
確かに積極奇異にもとても似ていますが、ジャイアンという括りに
まさにピッタリなのです。
受動型ASとは脳の働きが違う部分があるのを感じます。
ぴよよさんの
>神経質なジャイアン傾向、強迫的なジャイアン傾向、賢いから深入りしないけれど少し依存的なジャイアン傾向
ってのも、なんだかツボにハマって微笑んでしまいました。
私はASの代表でも何でもなく、ただのASの1人なので、あくまで私1人に限ってのコメントですが、以前から、自分の「自己の掘り下げ方」と先生の「自己の掘り下げ方」は根本的に方法が違うなあと感じていました。脳のしくみが根本的に違うからなのか。だから私の文章の中で、私が自分自身で実感している何かをうっかり「万人共通のことがらのように」、先生に向かって「~は~ですよね」のような言い方をしてしまうと、たぶんそれは先生にとっては御自分にあてはまらない内容なんだと思います。
ただおもしろいと思うのは自己の掘り下げ方は全然違う感じがするのですが、到達した先はかなり似ているというか、非常によく理解できる部分が多いところです。(これも私側からしたらの話ですが)
ADHDの方にとっては「自己突っ込み」というのは非常に大切なものらしく、私にとってはたぶん「それと同じような形のもの」は、本当に自己を掘り下げる上ではかえって「障害」になってしまう可能性があります。私が自己を掘り下げるためには「潜在意識」というか「脳幹」の働きを借りるのが必須ですので、「大脳皮質の思考」は邪魔なのです。
推測でしかありませんが、私の「思考」に比べて、ADHDの先生の「思考」はずっと幅の広い感じがします。同じ頭を使うのでも、脳の幅広い部分を使って思考していらっしゃる感じがします。だから「自己突っ込み」というものが有効なのでしょうか。私がそれらしきものをやると頭の表面のうすっぺらな部分しか使わないので、害になる気がしています。
とにかく自分の実感をADHDの方も同じように感じていると錯覚して、「~ですよね」と共感を求めるような言葉遣いは今後避けたいと思います。
自分の経験から、結局、ASの人とは話し合いができないというのは、話し合いが進むとASの人にとって都合の悪い現実をASの人が直視せざるを得なくなるがそれを認められないので(か、ジャイアンに対抗できるガッツがないので??)、病的な状態に逃げる、というパターンで話し合いが立ち消えになるということだと思いました。
夫は軽症?受動型ASと思われる人ですが(その妹はもっとわかりやすく受動型AS)、自分の意思決定に対して「後悔する」ということがぜんぜんない人です。
実際は、主体的に決定したというよりは状況に押し流されて(イチバン多いのが「時間切れ」)決定しており、ジャイアンADHDなわたしにはそういう「誰かに押し切られて決めてしまった」というのは耐えられないのですが、そもそも「押し切られた」という意識自体がなく、どう見ても周りに押されただろーという状況でも、あくまでも自分の意思によって決めたという意識のようなのです。
そして、こちらがそのあたりを時系列で論理的にツメていき破綻すると怒ります。反論するのではなく、黙ってしまいます。
(メチャメチャ詰めたら、「視線恐怖」「強迫症状」「被害妄想」になっちゃうのかも!)
自分は、いつもそのとき最高の選択肢のつもりですばやく意思決定しては、あとで後悔しまくるというパターンなので、彼の鈍牛のごとき?意思決定には感心することも多いのですが(ローリターンだけどローリスク、円定期預金みたいな)、どう見ても先延ばしにしか見えないのに違うと言い張られるとムカつくことも多いです。
(自分もよく先延ばしするけど、「いけないってわかってるのに先延ばし…」と強烈に自己つっこみしてます)
いずみんさんのコメントを読みながら、なにやら笑みが・・!!
と、その前に今年初の書き込みなので、
本年もよろしくお願いしますね。
>自分は、いつもそのとき最高の選択肢のつもりですばやく意思決定しては、あとで後悔しまくるというパターン
・・・そうなんです。
自分では、「最高」の選択をしている「つもり」なんですが、のちにガチョーン!なんですよね。(笑)
で、私の場合は
そもそもが、たいして考えずに直感で動くのが好きなんだと。
ところが、それでガチョーン!
次に上記の最高のつもり・・でまた、ガチョーン!!
ゆえに、AS的に
>ローリターンだけどローリスク、円定期預金みたいな)、
・・・になっていった気がするんです。
でもそれは結局のところ、
>どう見ても先延ばしにしか見えないのに
・・といずみんさんが、おっしゃるように自身でも突っ込みが入る。
最近は、直感人生にまた、照準合わせようかな。。と思いはじめているところではあるのですが・・・。
「分かってもらって、受け入れられて当たり前」
これ、とてもよくわかります。たびたび書きますが、すみません
去年やめた同僚がそうでした。
持病を持っていたのですが、『あきらかに自分自身の問題を見つめなければならない場面に立つと、「視線恐怖」や「強迫症状」、「被害妄想」などの病的な反応に移行することが多く、私には「意識の上で自己突っ込みが出来ないから」病的な反応へ直行するのか?とも思える。』
という状況に追い込まれると
なぜか急に印籠のごとく「持病」が悪化して
哀れみを誘い?
はなしがいつもうやむやになってしまいます。
また、「中心は自分の中にある」「はじめから自分は中心に立っている」というのは、常にそうで、よくもまあ、なんの根拠もなく(仕事のろくてミスの連発)そう堂々とできるよなあと、関心します。
本当に堂々としていて、弁がたつ・・・不思議な人でした。
不思議なことがあって投稿します。
私は20数年間自己突っ込みとは無縁の生活を送っていました。能天気で受け入れてもらえないということを意識上経験できないほどでした。
それがあるとき数カ月幻聴が聞こえていた時期がありました。その時に激しく軽蔑した声が聞こえました。1度きりです。(それ以外は笑い声や自分にアドバイスする声がほとんどでした)しかしそれ以降その1度きりの声に見張られているという妄想様に発展し、そこから激しい自己突っ込みの日々が始まることになりました。今でも消える気配はないです。
妄想に軽蔑されるのが嫌で自己突っ込みをします。しかし観察できるレベルではなく、ただの否定にすぎませんが。
自己突っ込みは20数年間なくても突如現れることがあるのですね。このサイトを見させていただくまでは自己突っ込みという症状や言葉、それがADHD特有のものであることも知りませんでした。
ちなみに私は発達障害と言われただけで、アスペルガーなのかADHDなのかは聞いていません。
2009年1月の懐かしい記事がひさしぶりに表面に出ていたので読んでみたら、過去の私がコメントを書いていたので「あらら」と思いました。
しばらく前に更年期うつ状態が強い時があり、何だかイライラして攻撃的になって家族に八つ当たりした時期がありました。その時はさすがに自分で自分が嫌になり、八つ当たりされた家族の気持ちを考えると気の毒になり、涙が出ました。ああいう時は「自己反省」「自己嫌悪」という気分が強くなります。
でもその後、抗うつ薬や抗不安薬、女性ホルモンを補うサプリメントを飲んだら、気分が落ち着き八つ当たりがなくなりました。
そして私は二者択一でひっそりと隠れ場所に隠れてあまり人と関わらない生き方を選んでいるので、特に無理することもなく、のほほんとした気分に戻っています。
ということはやはり朝から晩まで「合理的な自己突っ込み」にさらされているジャイアンさんとはタイプが違うということになりますね。
更年期になるまでは一応「向上心」というのが自分の中核にあった気もしますが、今はすべてが疲れやすくなっているので、日々無理をせず淡々と生きるくらいしかできなくなっています。
「自己突っ込み」=「自分を客観的に見る視点を持って自分の行動をコントロールする」ということであれば、十人十色のASの中には「自己突っ込み」できる人がいると言えます。
でも「自己突っ込み」=「自分を攻撃的に責める」という激しいものであるとすれば、ASにできるかどうかわかりません。これは、かなりエネルギーのある人でないとできないことであり、ASは全体的にジャイアンに比べて、デリケートというかエネルギーが少ない感じがするからです。
ASの目標としては、ジャイアンタイプの激しい自己突っ込みではなく、とにかく「客観的な視点から自分を見つめて、ASなりのやり方で、自己を修正したり、向上させたりすること」が向いていると思います。
ASでもADHDでも、客観的な視点を持っていない人に関しては、
私の少ない経験から言えば、子どもだったら、成長とともに客観的な視点を持つようになる可能性が十分あるだろうと思います。でも、成人して性格が固まってしまうとなかなか難しいかもしれないなという印象はあります。ただ、大変な人生経験をしたりすることがきっかけとなったりすると、不可能ではないかもしれません。