私が表面上「高尚」な言葉をなるべく使わないようにしようと考えて居るのは、ジャイアンの得意の「自己正当化」で問題をごまかし見えなくして自分自身をも欺く状態に陥らないためだ。
ジャイアンの脳が「自己中で自分の欲望だけに忠実な野良猫」で「人を必要とはせず利用する」ことは事実本当のことで、この世間的表面的には「醜さ」である事実を直視することは私は実は「高尚」なことだと考えている。
このことを高尚で美しい別の言葉で言い換えたら、どんな表現でも直ちに重大な欺瞞となることを理解して欲しい。
(このように書くことは「居直る」ためでもなんでもない。直視から目をそらし、表面的に高尚な言葉にすがって「否認」に逃げ込みたい人には「不都合な」見解かもしれないが、そういう方はここを閲覧しないほうがいいだろう)。
こういう直視への努力、潔さなどはジャイアン型ADHDの救いの根拠である「合理的な思考」をフルに使うという意味でもある。「愛情」「哀れみ」などの表面的に高尚な言葉での自己欺瞞は、結局「ジャイアンの優位に立ちたい中心志向」から来る「エゴ」の働きを巧妙に覆い隠している自己正当化、まやかしに過ぎないことが非常に多いのだ。
さて合理的な思考は、この「自己中な野良猫の事実」の直視から出発する。まず最低この事実を「誤魔化してしまわない」、「見つめ続ける」ことが大事で、その上でこの事実を前提にどのような現実的な努力が可能であるか、冷静に考える作業に移る。
私はそのためのキーワードとして「尊厳」を考えた。ジャイアンは自己中な一方で一面は厳しい合理的な自己突っ込みにさらされており、ある意味「ずっと思春期」のような感じで、自分の生きている意味や、人とのかかわりなどについて突き詰めて考え続ける。その発想が生きる死ぬかの「尊厳」に近い側面を持っているので、理解しやすいと考えた。
「自己中な野良猫」から出発した他者とのかかわりについては今後少しずつ展開して行こうと思う。
”自分自身を合理的に直視する”のが出発なのですね。
厳しい合理的突っ込みが繰り返される性格では、辛い事かもしれませんが、そうした上冷静に考える作業に入る流れがあるのは救いかと思いました。
手に職を付けるのに似ていると思います。腕を上げていくためには自分にとって望ましくない原因を直視する事が避けられないと思います。その上で対策を考える作業に移るという流れです。
生きるか死ぬかの尊厳にも共感を覚えます。世界最高のものでないと作る気さへしないという感じです。これに嵌っては先へ進めません。
想像するしかないジャイアンの苦しみ、それは人を利用した結果がことごとく人に嫌われる因果応報になって返ってきて、その結果の正体が分からないということでしょうか。
学ばないと自分が人に対してずるいことをした、裏切ったことが分からず、どこまでも利用相手が悪いという認識にしかならない、愛想をふりまくなど人を“キープ”しておくことにうとくて、次ぎに困ったときの利用要員をなかなか補充できないがADHDのため、全てを一人でできず人に頼らなければならない局面も出てくるので、弱点のある者の弱みに卑怯にも付け込まねばならないという、さらなるリスクも負う・・・ということでしょうか。
しゃにむな“我慢”だけして済む問題ではないでしょうね。
特性として持っている物には、容易にあらがえないのはASも多数派も同じですね。
ASも心身を壊しながら、ときには人の道も踏み外しながら“必要”を求め続けないと、生きる理由も無くします。
私は定期のイベントのように、頭の中にスイッチが入り(インターネット外の人に入れられることも。)、私が必要とされる人、必要とされたかった話題、共同作業、遊び、私を見て欲しかった人達を執拗に数え上げ始め、繰り返し未練を叫び続け、もう一度私を構うように脅迫したい台詞を頭の中に書き続け、それを添削し続けるなどなどのフラッシュバックが起こります。
多数派であれ、全ての乳幼児は依存心、それも養育者を離さないように共依存を求めるかのような本能行動をします。それはお年寄りにも形を変えて起こるようですね。
明日からやめろ、“我慢”しろと言われて、やめられる人はいませんよね。どこかで読んだ文ですが、明日から食べるなと言われてもお腹は空く。人間はそういう罪深い生き物なのですね。
だからジャイアンも“我慢”ではなく、最後は「尊厳」を重視することに意識を向けるのが支援であり、自らも自分の意志で向かうことが、自分に対する救いということなのでしょうか。
>想像するしかないジャイアンの苦しみ、それは人を利用した結果がことごとく人に嫌われる因果応報になって返ってきて、その結果の正体が分からないということでしょうか。
・・・私は、AS小父様とAS弟に対しては、徹底的に「相互利用」の立場を貫いていますが、別にそれで嫌われた覚えはありませんよ!?
(それとも私が鈍いの?)
AS父とAS元彼には、確かに「利用」した結果「嫌われ」ました!ですが、向こうASにも、「こっちに愛着することで何らかの自我に対する利益を得ようとしていて、それが満たされなかったから嫌った」面はあると思うけど。(私も、もちろん「共依存」した結果、「利用を”愛情&可哀想”と自己欺瞞した」んですけど。)
自己の「尊厳」を我慢すると、すぐ「愛情&可哀想=相手に対する間違った救い」の誤魔化しに陥るから、それが大切なのは同意見ですが。
>さて合理的な思考は、この「自己中な野良猫の事実」の直視から出発する。まず最低この事実を「誤魔化してしまわない」、「見つめ続ける」ことが大事で、その上でこの事実を前提にどのような現実的な努力が可能であるか、冷静に考える作業に移る。
「自己中な野良猫」ならぬ「自己中な飼い猫」である自分を直視するのは、本当に辛い・・・
「生活保護」が嫌で、「父の経済力」を利用している今の自分が、現実的に自立するにはどうしたらいいのか。心構えの問題も無論、ありますが、自分からSSTを身につけないと、社会でやっていけない事実はある。
それでも、少しずつでも自分から動き始めれば、手を貸してくれる(という言い方が甘ければ、「教育」の手間暇を惜しまない)人が、大勢いるのには気づいて来ましたが・・・
自分の醜さを直視するのは、苦しいけど「現実的努力」に確かに繋がります。
(トピずれだったらごめんなさい)
自分の依存的なところを見つめるのは辛い、母がいなくなって解放されて楽だけどやはり身を切られるように辛い、
あるいはAS元彼に去られて辛い、そういう気持ちを頭脳だけで「あれは良くなかった」と割り切ることの危険性を感じます・・・
醜い自分を、「醜くない」と否認して陶酔するのは良くないが、泣きたい時は思い切り泣いた方がいいと。・・・自分の感情を頭で統帥して、否認してしまうと後が辛い。泣けなかったら、大声でも出した方がいい、と言うアフォメーションは本当だと思った。
・・・物事を「否認」している人と言うのは、ある意味強い・・・
そういう人は、誰かと大抵強烈に「共依存」して引きこもっているか、大勢の人を強烈に「コントロール」して偉ぶっているのだが、どちらにせよ勝手な哲学を打ち立てるのが上手だったりする。
市井の人と言うのは、大抵世間に適応するのが精一杯で、そこでたまに「善意」を発することもある・・・(「善意」という言葉もちょっと高尚すぎかなぁ、「金」に見合った「労働」にほんのちょっと勝手な”正義感”が加わるとでも言ったら、この場にふさわしいか。)
なんか、そんな事をちらっと考えました。