私はこれまで「ADHDとASはどこが違うのか?」を中心テーマとして考え続けてきた。
私自身ADHDとして、自身の他者への無関心さ、自己中心性、「上から目線」への過剰とも言える反応(怒り)、その結果としての中心志向の自己突っ込み(ジャイアン的な諸特徴)に私自身苦しみ抜いてきた。
また私の母に見られる救いがたい浅薄な表面的認知、「世間体」と自己正当化にしか関心がない特徴も同じADHDの一つの特徴として考え続けてきた。
私が「ジャイアン」と呼んできたものはこれらの情緒的な自己中心性、常に相手より優位を保とうとする行動特性、または常に自分に大多数の関心を引き続けることへの強迫性を併せ持つADHDの姿であった。
これらの一見情緒的で「他者との関係に強迫的になるように見える」認知と行動の特性がASとどこが違うのだろうか、という関心がこれまでの私の中心であった。
今やこの問題の答えは、「ASは個体同士の一対一の個別の対人関係であるのに対しADHDは個体認識が出来ない抽象的な(平等、一般的な人間対人間としての)対人関係である」という結論に達した。
もう一つ、私が「中心志向」と呼んだ優位を求める特徴や表面的な認知などの「ジャイアン」特有の諸特徴が「一次的」な
ものであるのか二次的なものであるのかという問題も私自身の問題として考え続けてきた。
今やこの問いにも結論を得た。これらの特徴は二次的な能力と環境との相互作用で生じるものである。
ここに至って「ADHDは本来一つのもので、能力や経過によりノビ太になったりジャイアンになったりする」という認識に到達した。
のび太とは、「自分に何が有利なのかを見抜く状況察知能力が非常に乏しい」ADHDである。極端には「無視されてもそれに気付かない」。
「天然」と呼ばれる人たちに近い。
WISCⅢやWAISⅢでは「動作性IQ」が低く、特に「完成」や「配列」などが低くなるような能力のプロフィールとなる。直観的、視覚的な状況察知が出来ず、「空気が読めない」といわれるケースだ。
ここで注記するべきことは、「ジャイアンACの情緒障害重症」との区別である。私は小学校で無視されても気付かなかった。
これはジャイアンAC、情緒障害の結果として離人症的に状況察知が出来なくなった結果であったと考えている。その証拠に精神分析のゼミなどで回復した後はジャイアン的な攻撃性が復活してに悩み苦しむ結果になった。
これに伴い一部「ジャイアン」と呼ぶものの範囲を変更することにしたが、それは別に詳しく説明する予定。
またジャイアンがいかにして攻撃性を抜くことが出来るかも別に詳しく説明する。
のび太とは情緒障害(二次障害)の結果ではなく一次障害としてKYな人たちのことである。
対人関係での非言語的なやり取りに反応することが少なく生育でき、また自分で考えるしかない状況に置かれるので、自分なりの合理的な思考を自然に成長させることが可能だ。
学童期の二次障害を回避することさえ出来れば、思春期にオタク仲間の友達に恵まれた場合などは特に診断をつけなくても自分の好きな道を発見してオタク的な生き方で立派に生きて行ける。
(学童期にいじめのターゲットになるなどを回避できれば)ジャイアン的な対人関係の問題を経験しないで行けるので成人後の社会適応も結婚、子育ての適応もジャイアンよりもずっと容易である。
これらを分かりやすく図示したADHDの一覧図を製作中であるが、まとまり次第こちらで説明する予定。
先生や皆さんの文は的確であり、読むたびになる程と、関心します。そして、自身の事、少しずつ分かってきました。
個人的には、多数派の人の意見、多数派はこう考える。
と言った少数派の特性を踏まえた上での適応方法をもっと書いて欲しいです。
私の個体認識の障害は重傷だぁ。はぁ。
ASの方のこだわりに対する苦労と同じく、ADHDの抽象思考もまた、苦労がある。ASが木を見て森を想像することが困難なように、ADHDは森を見るが木を見ることを忘れている。
言われて気がつく、言われる前に自分で気づかなければと反省、その繰り返し。自己評価の低下から二次障害。
実は、言われて気づくのは、そこに木があることだけで、そこに様々な種類の木々があることに気づいていない。かなり表面的で大雑把なものの捉え方をしている。
でも実は、木には様々な種類があることを知っているし、森にもいろいろなタイプの木々が生息していることを知っている。知っているにもかかわらず、目前にするとその知識を引っ張り出せない。実行機能の障害。
「受動型ASの真実」のコメントを書いていて、そのときはわからなかったのだが、かなり注意の転動があったことに気が付いた。指摘された文の締めくくりの部分、これはまさに視点が移っていることを示している。それに、一つのことに対し様々なところから情報を引っ張ってこようとしている。これは私にとって自然な思考形態であるのだが、定型者はこのような思考形態ではない。思考がそこに留まっておれない。注意の転動。
私をASではないかという方がおられるが、私がADHDであると自己診断しているのは実生活での自覚症状である。子どもの頃は忘れ物の多さや音読時の行読み飛ばし、課題は期日が迫ってからまとめて集中してやる等<注意欠陥、読みの障害(LD)>、20代までは出し抜けに答える<衝動性>、30代前半までは周囲の遠回しな「NO」や「いやみ」に気が付かなかったなど<他者への無関心>、30代後半からの<攻撃性>、知的労働を始めてからは文章を読んでいるときの過集中と目のすべり感<ワーキングメモリの不具合>、である。最近は、モノアミン系がうまく働いてくれていないんだなぁと思わざるを得ない状況である。
自分の特性を知ろうとすればするほど絶望的な情報と接することになるが、それでも知ろうとする。これはやはりモノアミン系の神経伝達がうまくいっていないのであろうか。-学び‐
とにもかくにも、ジャイアンの攻撃性を抜く方法を知りたいものだ。
書いていてふと思ったのだが、ADHD、ASともに言語野が障害されていると、どうしてもACになりやすく、情緒障害を引き起こしやすいのではないか思えてきた。それほどに「言語」が人間関係を構築するのに重要であり、「言語」の獲得において「個別で適切な」周囲の関わりが非常に大事であるのだろう。私はそれでも訓練する。
二次障害でジャイアン、ACを治癒してのび太に戻った?
何故か分かりませんが、私はそんな感じです。
ジャイアンだった時は過集中を乱用していたので、割と出来は悪くなかったのですが、ACを突然治して以来、急にダメ女そのものになってしまいました!
今でもたまにジャイアンが顔を出しかけている時がありますが、気力が持たずすぐにのび太へと戻ります。
先日も会社前で車に轢かれかけましたし、社内でも完全にKYそのものです。
でも、ジャイアンでギリギリだった時よりは随分楽になったなあと思います。
いつも記事をありがとうございます。
これからも更新を楽しみにしております。
過去ログにも何ども先生が書かれた
「ASは個体同士の一対一の個別の対人関係であるのに対しADHDは個体認識が出来ない抽象的な(平等、一般的な人間対人間としての)対人関係である」
という言葉の、自分なりのイメージがつかめなかったのですが、今やっと分かったようなきがします。
ADHDの方はなぜ「あなたは何者か?」という純粋な疑問としての問いかけをしないのだろう・・
そう思ったのがそのきっかけでした。
ASの方は砂漠のなかのたった一粒の砂である私を見つけて欲しい、そして見つけたいと感じているとするのなら、
ADHDの方は他者とはゴビ砂漠かサハラ砂漠か・・・程度の認知しかもっていない・・とういうことかな・・と。
ADHDの方は敵か味方か?利用できるかできないか?そんな「他者」しか存在していない。
だから「他者」にたいしての想像力が欠如して、そしてこう思う。
「問う必要はない。なぜなら分かっているから」
のび太と自分を思ってきました。
今回の先生のエントリーとても興味深いです。
いくつかの箇所で理解できないでいます。
自身が何者であるかが、また判らなくなりました。
私の場合は自分の不利に対して気がつくのが大概遅いです。
ですが、気がつかないわけではありません。
一言言われた言葉をあれやこれやと(長ければ5年位も考え続けたり・・)
考えた末に・・「ぇえ~?私あの人にそんな失礼なこと言われてたの????」などと辿り着いたりします。
なので、時すでに遅しで、言い返せない場面がほとんどです。
そして怒りも決して穏やかではありません。
もうひとつ、判らない点があります。
状況察知能力の違いとは即ちIQ全般の違いということでしょうか。
それとも「動作性IQ」に限ってということでしょうか。
というのも、隠れジャイアンであると思っていた友人がいます
積極的に自分の意思を通さないので”隠れ”と思いましたが
今回のカテゴリーで見ると完全にのび太です。
やりたいことが判らず、生活が困難なほどに動作性に問題があり・・
でも、ジャイアン母と積極性を除きすべて共通点がある人です。
とすると、非積極型のジャイアンがのび太ということになってしまって
自分の解釈が間違えているような気がして、解らなくなりました。
ゆうやみさんへ。
これを読んで失礼したなと思いました。すみませんでした。
あはは。ゴビ砂漠かサハラ砂漠か。。。
いやいや、ゴビ砂漠かサハラ砂漠のなかの一粒の砂と、ここのコメント者のなかの一人と、大幅に違うのよ。
おそらく、「問う必要はない。なぜなら分かっているから」になってしまうのは、この「場」を共有しているから。このなかにいるのだということはわかっている、という状態で、なんとなく以前関わりを持ったような表現のニュアンスが伝わってくるから早とちりしてしまうのです。
先生のHPのADHD関連、「ADHDとアスペルガー症候群の比較」の対人関係の欄に、一緒にいることがすべてとありますが、そのような性質があることも影響していると思います。とくに情報が錯綜し、脳のプログラムが混線していると余計に早とちりの傾向が強くなるような気がします。
にしても、ひどいですよね。反省。
間違った。訂正します!
早とちり→早合点(よく聞いたり、確かめないうちにわかったつもりになること)
早合点をして、情報が錯綜しているなかで脳のプログラムが混線し、別の人と混同してしまった、です。
いわゆる直観で動いてしまうADHDの特性ゆえですね。
ジャイアンは
愛情不足から
愛情飢餓と承認欲求をもったadhdなだけな気がします。
攻撃性も親に対する憎しみが残ってるだけでないでしょうか。
ちなみに、ここでは「依存型ジャイアン」と書かれてますが
ジャイアン的な人(定型も含めて)は、小さいことから無関心で育てられてる人が多く、なんでも自分でしたがるのだそうです。
でも、心の底の依存心が非常に強いそうで、反動形成でよく「独立、独立」ということが多いそうです。
ありのまま大切にされたadhdがジャイアンになるとは
思いません。
ちなみに定型の人も愛情飢餓に陥ったら
ジャイアンみたいになる人もいれば、のびたみたいになる人もいて、それはその人の特質によって変化すると
ある有名な心理学者の本でよみました。
内向型だとリストカットするけど、外向型だと暴走族に入るみたいな。
ちなみに、ここでは「依存型ジャイアン」と書かれてますが
ジャイアン的な人(定型も含めて)は、小さいことから無関心で育てられてる人が多く、なんでも自分でしたがるのだそうです。
でも、心の底の依存心は非常に強いそうで、反動形成でよく「独立、独立」ということが多いそうです。
発達障害の場合は親も発達障害で愛情を受けにくい環境で育つゆえに
司馬先生が言うように「ジャイアン・のび太症候群」と言われるほど、「なりやすい」障害なのではないかと思います。
うちの子はADDですが、まさに言語性が非常に高く
動作性がとても低く(平均すると130位ありますが)
KYで動作が遅く字を書くのが苦手で小学校の時は
とても苦労しました。私もADD知るまでは
スパルタで育てチックも出ました。
小学校の時は嫌がらせにあったり苦労しました。
今は私立の男子校でオタ仲間を作り青春を
満喫しています、
部活(オタク系)や委員会で活躍する息子を見て
成長したなと感じます。
ただ根本的なところでKY、物忘れ・・
悲しくなるほど治りませんね。
どうして裸足で学校へ行こうとするのか、
かばんを持っていかないのか
テストの途中で寝てしまい半分白紙とか。
投薬も考えてしまいますが
それ以外の症状はなく、私立で守られた環境で
成績もまあまあで理系を目指しており
友達に囲まれ幸せそうに見えます。
のび太とジャイアンは有意味の世界で合流するんでしょうか?
のび太とASは無意味の世界で、
ジャイアンとASは非言語表現の世界で、
それぞれ。
この記事から、私のADHDが「のび太型」であろうという確信はより増した様に思え、将来への見通しも明るくなった様に思えました。
私は、かかりつけのクリニックで受けた知能検査では、動作性IQが言語性IQと比べ相当低く(言語性優位)、小学生~高校生の頃はKYで周囲から浮くかいじめられっ子だったかの記憶が強く、大学生・社会人になってからは「天然ボケ」とよく言われております。単純なのですが、まずこの点で「のび太型」と思えました。また、主治医から結婚生活や出産の事で問題点や禁忌事項などを、現時点で特に示されていないことも、おそらく「のび太型」故なのでは…!?と思えるところです。
私にとって前向きになれる情報をご提供いただき、ありがとうございます。