「普通」、多数派の形成している「空気」に合わせていて自然な状態となる受動型ASは、結果として「普通」にこだわる人が多い。
直感的には当然の結果のように思える。「特に友達にASをカミングアウトする」ことは非常に大きな困難を伴うようだ。
このブログでも過去に受動型ASと思われる常連のコメント氏が居られ、誇大的ともいえる態度で私をはじめ多くのジャイアン氏の怒りを買ったことは記憶されている方も居られるだろう。
ここまで書いてきた受動型ASの「特定の人への異常な愛着」と「普通へのこだわり」は、二つの平衡点とも言うべきもので、この間に山型にストレスの高い状態があり、「普通から遠ざかりすぎると特定の人への依存に行く」という関係になっていると私は想像する。
受動型ASの普通へのこだわりの大きな特徴は、少しでも普通であることを否定された場合に限り、「自分が普通だ」「自分が正しい」と死に物狂いに自己正当化する行動である。
その結果診断自体も否認するケースもある。
ほとんど人の話も聞かなくなる(この点では躁うつ病の躁状態に似ても居る)ので、この状態になると周囲の人が心配してケアしようにも手がつけられない。
ちなみに積極奇異型ASの場合も、結果として誇大的に周囲に自分の主張を押し付けようとする行動は見られ、表面上は似ているが、「積極奇異型ASは孤立を恐れず自分のこだわりを優先する」ところが違いといえるだろう。
受動型ASは「媚びへつらう」ような行動をしても表面的な普通にしがみつくので、明確に区別できると私は考える。
実はこの「普通へのこだわり」自体が最もAS的な特徴であるのだ。「自分こそが普通中の普通で、ほんの少しも偏ったところは無い」と異常に自己正当化し続ける。世間の全てが自分の主張を当たり前に受け入れるべきであり、その根拠は「自分が普通であるから」というわけだ。
本当の多数派の「普通」は、(私もADHDなので表面上の行動からの想像や実際聞いてみた結果からだが)こういう極端なものでは無く、全体を包む「空気」の中に、50パーセントから前後10パーセント程度の広がりを持ったものとして「普通」があり、しかも「変わっている」「異常」との境界は連続的で、「少し変わっている」「大いに変わっている」というのがあるだけである。
だから「自分が普通」と死に物狂いに力説することは多数派の「普通」の話ではなく、発達障害の問題そのものなのだ。
ちなみに私の知っているいくつかのケースは、現実の世界でこの「普通」に乗り切れなくなると、「うつ状態や躁状態に入り、全く現実否認することで辛うじて不安を回避している」という形になっている。
下手に社会的地位があったりすると、無責任に(たぶん面白がって)おだててはやし立て、けしかける周囲の「取り巻きども」がいるせいで、この異常な状態が長期間続き、一番近い家族などがひどい目に遭い続ける結果になる。
「本当はあなたが変なのだ」と本当のことを忠告しようものなら極端に逆切れしてその忠告した相手を執拗に攻撃し続ける。
答えは前回書いた「有限性の中の不安に自分ひとりで(誰にも丸投げしないで)耐え続ける」もしくは「あっさりしたADHDとの関係の中に妥協した安定を見出す」ことしかない。
これが受動型ASが本当に直視するべき真実だ。
いつも興味深く読ませていただいております。
そうですか、「普通へのこだわり」なんですね。何事も、善か悪か、ゼロか百かという極端な判断をしていると言われます。
自分にとって普通という概念はなんとなく曖昧ですが、居心地が良いのは確かです。
あはは。今になってやっと謎が解けた気がします。
なるほどなぁ。パズルのようだ。
「普通へのこだわり」と言うと意味がよく分からないのだけれども、自分の事で言えば物事の意味・理由・訳・真実・事実へのこだわりと言うのならば分かります。
何故解っていながら何度もASに巻き込まれてしまうのか、と悲しくなりますが、おそらく私の「楽さを求める」部分が悪いのだなあと最近は思います。
自分の「普通」を宇宙一正しいと主張するために、徹底して「情」までも投げ捨て、独自の理詰めでAS氏に攻められたときは、分かっていても辛いものですね。
やはり、我儘な私は自分の責任を全て背負い切って生きるしかないのだろうな、と、ADHD母子家庭母として感じています。
いつも記事をありがとうございます。
先生、お身体ご自愛くださいね。
先生、つぶやかせて下さい
私は、少数派の中の少数派だと思っています
この人生は、サバイバルです、20代の頃は真剣に
無人島で暮らせて行ければと 空想する事で救われていました。
この魂とは、一生付き合って行かねばなりません 私もいい大人です、自らに対してもですが、苦悩しながらでも、やはり明るい未来を子供達にみせて行きたいと、そして何かの形で協力して行こうと思っています。
ありがとうございました。
受動型ASさまにお願いがあります。
uさまが受動型ASだとすると、非常に書きやすいのでちょっと利用させてもらいます・・(仮定ですっ)
受動型ASの方がもし
この・・・
「明るい未来を子供達にみせて行きたいと、そして何かの形で協力して行こう」
と思った場合、ちょっと踏みとどまって考えてもらいたのです。
極端に例えるなら・・
女性が嫌がっているのに、「愛」というプレゼントを持ってよってくるASストーカー男のように、
拒絶されて→ 暴行 → ターイホみたいな経過になってないかどうかということ。
特に理詰ASの方はまずいのです。
「暴行」を「ロジック」をつかって行使するので、自分の間違いに永遠に気づかない。
職業や立場によって振舞うべき姿が決まっている状況でないがきり、
基本は、「人が嫌がっていることはしてはいけない」ということを分かってもらいたいのです。
分かっててもやってしまって後悔したり、トラブったりするのが人間ですが、
ど~~も、受動型ASの人は「してはいけない」ということが分かってないような気がして・・・。
「ジャイアンの躁うつ病」という過去の記事と比べながら読ませていただきました。
私は自分のことを依存型ジャイアンだと思っていますが、このところの受動型ASに関する記事を読んでいると思い当たることがとても多く、やはり受動型ASなのだろうかとまたわからなくなってきました。
>自分こそが普通中の普通で、ほんの少しも偏ったところは無い」と異常に自己正当化し続ける。世間の全てが自分の主張を当たり前に受け入れるべきであり、その根拠は「自分が普通であるから」というわけだ。
こういう思いがひどく強くなった時期がありました。
自分が「普通」と思っているパーツを装着していた時には、たとえ実際は場になじめていなくてもとりあえず人の中に自分から出かけていくことが何とかできていました。そのパーツを失くしたり自分から捨ててしまったりして、「普通じゃない」「意味不明な」人間としての中身が剥き出しになってしまったと感じたら、もうどうにもならなくなりました。その時は自覚できませんでしたが、不安でたまらなくなったのだと思います。必死で新しい「普通」を探して身に纏おうとしても上手くいかず、それでも「私は普通だ」と思おうとし、周りにもそれを認めるよう求めていました。たぶん非言語的にです。
忠告の言葉をかけてくれた人もいましたが、自分には関係ないことのように聞こえ、頭の中を素通りしただけでした。
この傾向は今も続いています。私は自分が「普通」を欲しがるのは中心志向からきているのだと思っていましたが違っていたのでしょうか。
なかなか理解を深められない自分にもどかしさを感じています。それでも考えることをやめずにいられるのはこのブログで気付きをいただいているからだと思います。(気づくのが遅すぎましたが。)
いつも考えるきっかけを与えて下さってありがとうございます。
先生 この場を提供して下さってありがとうございます。
私は最近まで、無意識に他人 家族を含めて自分の都合の
いい様にコントロールしていたのかもと気付きがおとずれた時に、それは生まれた瞬間から続いていたのかもと思うとゾットしたのと同時に、ひとつの悟りを得ました それは 人は自分の思う通りには行かないと、もしかしたらあたりまえの事も知らなかったのかと、それからは尽くせぬ業の一端を
果たせてもらった、深い懺悔の思いと生かされていることに
感謝ができる喜びを感じることができる様になってきました
そして、その頃にネットで出会った言葉が
”人生問題に解決方法無し” と言う言葉です
それは心、魂の奥底から出て来た人生へのひとつの光だと
思っています。
先生ありがとうございます 続きは、後日書かせて頂きたいと思います。
「過去に受動型ASと思われる常連のコメント氏が居られ…」
「AS被影響症候群」という言葉を思い出しました。先生が作った言葉でしたよね。
先生が以前 指摘して頂いた
「有限性の中の不安に自分ひとりで(誰にも丸投げしないで)耐え続ける」もしくは「あっさりしたADHDとの関係の中に妥協した安定を見出す」と 私が出会った 人生の問題に解決なしと決着する という言葉 これは 仏教の知恵の言葉だと思いますが 先生は医者と言う立場から そして私は
宗教家ではありませんが、生き辛さを抱える者として、今感じる事は、自らの境遇を嘆くのではなく、それを引き受ける
事によって本来与えられている力が出てくると。
わかった様なことを書いている自分ですが、それでも苦しい時は苦しいですし、悩む時は悩む自分がいます。
そんな私でも応援してくれる、見えないお陰様の存在に 生かされていると感じる今日この頃です。
ありがとうございました。
専門機関でASと診断された後、受動型ASだと自己診断している者です。
どうしても書き込みたくなってしまったので、書き込みさせていただきます。なるべく無いように、と務めておりますが
失礼な書き込み等ありましたら申し訳ありません。
普通へのこだわり、ですか
所謂先生の文章についての「普通」とは少し違うかもしれませんが、私自身完全な値を取る客観とは存在しないと考えつつも、何か、人間に共通した統一感覚というもの、同時に何者にも訴求されない客観を追い求めていた(今も割合そうなのですが)時期がありました
「空気」についても、何だか最近分ったような気がして吃驚した後に段階的な認識をしていたことが回想され、「やはりそうなのか」と思ったりもします。
ただ、ここに一縷の望みがあるような気がするのです
この段階的認識を、できうる限り細かく裁断し、反射的に適応させることができれば擬似的にでもそういう感覚を得ることは不可能ではない気がします
…などと机上の空想に耽るしかない状態です
私は本当に自分が見えていませんでした。今も気づきの足りないことが人よりもたくさんあるのだとは思いますが、以前の私は本当に何も見ていませんでした。言い訳にもなりませんが、自分と向き合う方法がわかりませんでした。
自分の内面や将来のことに目が向きそうになるとどこからか「自分のことばかり考えないで他人のことを考えなさい」と声がします。もちろん、他人の立場に立って他人の気持ちを思いやって行動しろということなのに、私はそこで自分から目をそらし、そのかわり他人のアラ探しを始めます。(=他人のことを考える。)無理やり探し出したアラを指さして、「ほら、おかしい。だから私の方が普通。私は大丈夫。できている。」何とも理不尽なことですが、実際こういう考え方をしていました。そしてそのことにすら気づいていませんでした。
こんな風に自分を正当化して一人では何もできない現実から逃げて井戸の中に閉じこもっていたくせに、自分が閉じこもっているのは、外に出ることを禁じられているからで、自由に外に出ていいならちゃんと外でやっていけるのにとも思っていました。
でも、いざ自分で動こうとしたら本当に何もできず、また閉じこもりました。もう一度外に出ようとして再度壁にぶつかったところでようやく自分の醜さにも気づきました。閉じ込められていたのではなく、閉じこもっていたことにも。被害者ではなく周囲を混乱させてきた加害者だということにも。
いい年をしてようやくです。遅すぎました。
やっぱりわたしはカッコウの雛なのかもしれません。
自分の中から何も湧き上がってくるものがありません。
ずっと気になっていることがあり、どなたかのご意見をいただけたらと思います。(古い投稿なので、ご覧になっている方がいるかどうかわかりませんが…)
「受動型ASは、”普通”に合わせるのが一番ラクでストレスがない」なら、一生、”普通”に合わせて生き続ければ、それで問題が起きない、ということなのでしょうか。
与えられた役割を演じ、ずっとそのまま役者のように生きていられる、ということもあるのでしょうか。
もちろん、ケースバイケースではあるのでしょうが、ほかの方のご意見もうかがってみたくて投稿させていただきました(受動型ASご本人の方でなくても、ご存じの例がおありなら)。
南様、参考になるかわかりませんが、私の息子は受動型ASの軽症の方ではないかと推測しています。本人は高校生の頃に狭義のASの定義を読んで、「何だか自分に似ている、自分の謎だった部分が解明した気がする」と納得していました。
小中学校でずっと学校に通えていましたが、生き辛さは感じていたようです。ある時学校で嫌なことがあって体調を崩し、1週間休んだ時に「無理しないでいいんだよ。適応指導教室というのがあるからそっちに行ってみる?」と聞いたら「こういう落ち込みは一時的だから。学校を抜けて特別な所に行く方がストレスになる」とのことでした。
高校は比較的居心地が良かったようでした。
大学に入ると高校までのクラスという枠がなくなるので1人で行動することが多くなりました。自分から話しかけて友達を作ることが全く出来ないようで「○○は大学では1人も友達がいないんじゃない?」と聞いたら「そう言って差し支えない」などと武士のような返事。
就職活動は面接が苦手でかなりのストレスだったようですが、何とか小さい会社に入りました。会社では高校のように部署の枠があるので落ち着くようです。今後も会社が倒産しない限り、会社に何とかぶらさがって行くだろうと予測されます。
アメジスト様
ご親切に、ありがとうございます。そうやってゆるく「普通」にのっていくパターンがあるということですね。でも無理やり「普通」にあわせていくと、どうなるのでしょうか…
もとは受動型だったはずの知人ですが、度を越したハイテンションであらゆる会合に参加し目立ちたがります。社会参加して賞賛されているのがとてもうれしいみたいです(絶対に一人では何もしません。仲間にくっつきます)が、その一方で、躁病的に活動しているのが疲れると言っています。でももう何年もそんな感じです。あれが「普通」ということでラクなのか、それともそのうちバーンアウトするのかと…。ちなみにその人も「普通」に非常にこだわります。
ちょっと思ったのですが、「完全な、本当の、穏やかな普通」にのるのが難しいから、その代替策として「エキセントリックな人々の間でのみ成立する特殊な普通」に合わせる、ということもあるのかもしれませんね。
南様、お返事ありがとうございます。読みましたよ。その知人の方の例は私には難しいので、コメントは控えさせて頂きますね。
受動型ASではないかと思う人の愛着対象になったことがありますが、その言動には本当についていけませんでした。
思うに、ASの人は一人でいるのが難しい(心細くてたまらない)のだと思います。
本性を出してもいい人(愛着対象)には全力で甘えますが、それ以外の人がいるところではほぼ完ぺきな「大人の常識人」を演出しています。
自分を守るために、必死に「普通」の殻をかぶって演じているような印象を受けました。
それがときどき、躁状態に見えます。
(妙に人当たりがよかったりハイテンションだったりします)
そんな場面では、私は貝のように口を閉ざすだけでした。
下手に口を開くと、またあとで二人きりになったとき何時間も説教されるので、ASの人がいるところでは会話に参加できませんでした。
>下手に社会的地位があったりすると、無責任に(たぶん面白がって)おだててはやし立て、けしかける周囲の「取り巻きども」がいるせいで、この異常な状態が長期間続き、一番近い家族などがひどい目に遭い続ける結果になる。
>「本当はあなたが変なのだ」と本当のことを忠告しようものなら極端に逆切れしてその忠告した相手を執拗に攻撃し続ける。
「無責任な取り巻きども」がけしかけているケースもあるのかもしれません。
私が感じたのは、受動型ASの人が普通にこだわるあまり、(愛着対象以外の人に)正確な情報提供を行っていないのではないかということです。
友人に話すときに、自分にとって都合のいい部分だけを語り「やっぱりみんなこう言っている」「だからお前が間違っている」という理論展開を行っていると感じました。
それが意図的なのか、普通にこだわるあまり客観性を欠いているのかはわかりません。(その人は「自分はいつも客観的で論理的である」と頑なに主張していました)
その行動がADHDっぽい私には不誠実な態度に見え(恣意的な情報提供で周りの承認を得て、自分の正当性を主張している)、私たちは喧嘩ばかりしていました。
ASとADHDは水と油だと思います。
ASがこういう考え方をするというのがわかっていれば対処できますが、知らないと、異星人と会話しているみたいです。
ASは言語と非言語が矛盾している(感情を理論にすり替える)ので、混乱します。
どっちが本心なのかわからず、私はよくエラーを起こして思考停止しました。
何回「お前はバカだ」「クズだ」「人の気持ちがわからないやつだ」と罵られたことか・・・。
私は、まさにこれだと思いました。
関係あるのかわかりませんが、いわゆる「ネット右翼」の人達の中にも自分こそが中道でニュートラルだということに異常にこだわる人がいるんですよね
>「積極奇異型ASは孤立を恐れず自分のこだわりを優先する」ところが違いといえるだろう。
自分はこんな感じ↑です(多分、孤立型もそうですよね)。
ここが一番受動型の人と大きく違うなと感じますが、やはり「普通」という概念自体が曖昧と言うか…白黒はっきりつけられないものだから、こだわりたいと思ってもこだわれないです。
かなり偏屈な考え方ですが「通知表の五段階評価で全て三(真ん中)を取る事が普通であり、強迫的に三を目指して学力を調整する事が普通へのこだわりなのだろうか?」とか「五があったり一があったりしても、平均が三になればそれで良いのだろうか?」とか。
自分自身を振り返ってみると、「細部にこだわる」「白黒はっきりつけたがる」と言った特性が強く、人間関係においても「大勢の中で空気を読み合うよりも、一人一人の言動や行動パターンを観察し、その意味を考える」方が性に合ってますね(当然、そのやり方だと全体を把握するのに相当な時間が掛かるため、積極奇異のように「仕切る」事は困難です。変化に追い付けず、対応できないかと)。
ただ、思春期の頃は「(周囲から浮く等)過度に目立つのを恐れていた」記憶があります。
受動型ASの方の「“普通”へのこだわり」は、感覚で言えば通知表でオール3というよりはむしろオール5のような気がします。
「井戸の中の正義」というトピックがありましたが、
後藤先生が仰っている“普通”とは“平均”という意味ではなく、どちらかといえば“スタンダード”や“正しさ”…「我こそは普通なり」といったものではないかと私は解釈しています。(御本人が表立って明言するかどうかは別にして)
人間関係においては私の場合、「大勢の中で空気を読み合う関係からは一線を引いて精神的に距離を置き、一人一人の言動や行動パターンを観察したりその意味を考えるという人の事を、早くから見抜き、コミュニティを含めた全体を、遠くから傍観する」方が、圧倒的に対人トラブルに巻き込まれにくいという事を、長い経験から学んできているので、今現在はそういうスタンスを現実の場面で取る場合がありますね。
私にとっては、誰が全体を「仕切る」のかなど、どうでもいい事です。結果的に「仕切る」という事になっているだけで。
全ての変化に追いつく、対応する、というのは、あきらめた途端に「できているかもしれない」状況になりました。
おそらくは、「(自己中に)細部にこだわる」事を捨てる事によって、多少の柔軟性を獲得したのではないかと思われます。
「白黒はっきりつけたがる」事も、「自分の中で、自己流に白黒はっきりつけたがる」事をあきらめる事によって、社会の中で、多少の、人間的信頼を得る事ができるようになりました。特に職場などでは「自分の中で自己流に白黒はっきりつける」ための言動や行動を行うと、職場内の人間関係は悪化したり壊れたりするだけであって、巡り巡っては、私個人にとって良い事など1つもない、という事を学ぶに至っています。
思春期の頃は「(周囲から浮く等)過度に目立つのを恐れていた」記憶がありますが、何をどうやってがんばってみても周囲から浮くし、目立ってしまう事自体は全く変わらなかったので、「目立つ事を恐れる事を、あきらめる」に至ります。
私の場合、自分のこだわりを一部あきらめる、一部捨てるという事によって、獲得する事があるという事になるようです。
「我こそは普通なり」
中々難しいですね。
まだ「平均値」の方が理解しやすいかもしれない。
例えば…教室の中に「運動が得意・苦手な生徒」「勉強が得意・苦手な生徒」「面倒見が良い生徒」「単独行動が多い生徒」等、様々な性格や行動パターンの生徒達が居て、その中で平和的に(当たり障りの無いよう、無難に)やり過ごす事が「普通へのこだわり」かな?と思ってました。
「均衡を保つ」とでも言うのかな、周囲の受動型の人達を見るとそう思えます。
「井戸の中の正義」については、常に「自分は自分、他者は他者」と割りきっているからか、そう言った発言はあまりしません(自分自身に対して「自業自得だ」と突っ込む事はしょっちゅうですが)。
他者に対して「おかしい」と思うことはあるけど、私自身もかなり変わっているという自覚があり、他者の考えを押し付けられる(矯正される)のが嫌なので、私自身も他者を矯正しようとは思わないですね(なので「こだわりを通す」か「我慢して相手に合わせる(←妥協や諦めとは違います)」の2択になりがちです)。
常に「自分と相手は違う」という考え方だからか、「自分こそ正しい」と口にする事は滅多に無いですね。
通知表の話ですが、五段階評価を見て、5を取る人もいれば3を取る人もいて、1取る人もいる。
「人の能力とは色々である」。それこそが「(世の中の)普通である」という考えをしていますが、
やはり、他タイプの人とは、捉え方だったり考え方が違いますね。
道産子さん
すみません、私の中で色々ごっちゃになってしまっていたようです。
↓以下振り返りを…
私は教室ではなく、家庭での受動型の方をイメージしていたのと、受動型の方を(生徒ではなく)採点する側の教師として想定していたのだと思います。
オール5云々は成績それ自体よりも、強迫性の強さの度合いについて言及してしまったのだと思います。
おかしな横槍を入れてしまい、失礼しました。
>「こだわりを通す」か「我慢して相手に合わせる(←妥協や諦めとは違います)」の2択になりがちです)。
追記ですが、この場合の「我慢して相手に合わせる」とは、あくまでも「(服従ではなく)我慢」ですから、相手の要求が甚だしくなれば我慢するのを止めます。
そういえば、別記事に「人に良く思われたい」とありましたが、私自身はそういう発想はしません。
結果的にそう見られるということは分かりますが、私の場合は「自分の言動が他者にどう影響を与えるか」常に考えて行動しているので、たとえば「自分の言動が他者に『攻撃』と受け取られ、モラハラの加害者として訴えられるかもしれない」と考えた時、「自分の身内が加害者家族になり、迷惑をかけるかもしれない」と不安になります(AC的ですが、多分ASのままでACなのかと。愛着への愛情というより、関係無い人達を巻き込んで迷惑をかけることで借りを作りたくないという気持ちに近いです…微妙ですが)。
なので「相手が〜だから」「やられたらやり返す」という発想で動く受動型の人達とは根本的に違うと考えます。
私の場合「余計な責任を負いたくない」から言い返さないだけで、「見栄では無い」ですね。
総合すると、現実のお医者さまのところへ行くという事すなわち「他者(医者)の考えを押しつけられる(矯正される)」と考えているという事だな(苦笑)
「生来の自分のままで生きることをあきらめたくない」「(論理的に)正しいか間違いなのかだけにこだわりたい」という「主訴」なのだろう。
私が医者だったり相談員のところに行く理由は、「自分にとっての納得の落としどころ(折り合いの部分はどこか)を探りたい」「まだ自分が気づいていない発想をつかみ取りに行きたい」という、前向きな理由だ。もちろん、定期的に報告しに行くという事では「自分自身の経過を客観的にふり返れる」という、実生活に即した最大級のメリットもある。
現実は流動的で連続性のある場面である。一瞬、一瞬は、予測不可能な、まだ見ぬ未来だ。そこを、広汎性発達障害という視点をもちながら、時に悩み、時に苦悩し、時に疲れ果て、時に奮起しながら、「困難を生きている」。
日々「自分の困難をどう生きるか」「生来の自分のままで生きることをどうするのか」という問いは、馬鹿のひとつ覚えのように声高に主張するものではない。自分の中で、静かに孤独に考え続けることである。
そして、これは特に診断を受けた者なら、体感的実感としてリアルにわかるはずの事。
まさか、こんなに当たり前の事をハッキリと書かなくてはいけないとはね。
最高に、馬鹿馬鹿しかったです。
>私は教室ではなく、家庭での受動型の方をイメージしていたのと、受動型の方を(生徒ではなく)採点する側の教師として想定していたのだと思います。
>オール5云々は成績それ自体よりも、強迫性の強さの度合いについて言及してしまったのだと思います。
正直、何が言いたいのか分かりませんが…こう返すこと(あと、横槍を入れること)に「何か意味がある」ということは理解できました(なので話の内容はスルーさせていただきます)。
「受動型御本人が表立って明言するかどうかは別」についてですが、御本人の中に「明言する」という選択肢が無く、相手に流される形で「やり返す」と考えています。
「(自分がストーカー染みたことをして他者を攻撃していることは棚に上げ)他者に執着され、被害を受けている」と恨み言を言い続ける人に対しては、私にはどうすることもできないので、逃げるしかないと思いますが…
すみません、先生。
私自身はその方のコメントを見ていないので内容がイマイチ把握できないのですが、他の方のコメントを読む限り、どうやらコメント欄が荒れてきているようなので、しばらく経ってからコメントしに伺います。
お騒がせ致しました!
例えば、自分の家族が外モードで他者の頼み事を引き受けて、それを内モードで家族に「丸投げ」してやって貰う…私の場合、無意識のうちに「やってしまう側(丸投げ依存される側)」になることがあります。
内モードの人間は、家族の外モードの姿を間接的にしか知ることができない(こっそり覗きに行って現場を目撃すれば別ですが)。
実際は「私がやります!」と言って引き受けたが、内モードの家族に対しては「相手に押し付けられた」と被害的な言い方をしてしまい、この言葉を真に受けた家族が「いじめられているのでは」と誤解し、苦情を言う…ということはあり得るだろうなと思いました。
ちなみに私は、真に受けてしまった後本人に直接「嫌ならはっきり断れば良いでしょう?」と言ってしまうことが多く、その後喧嘩に発展することが多かったです(「このセリフをASDの私が言うから喧嘩になる」ということは理解できました。多数派やASDのようなフォローができないADHDが同じセリフを言っても、相手は言葉通りストレートに受け取るしかありませんから)。
周囲から「お気楽」と見られるぐらいどっしり構えて、相手の大袈裟な発言をスルーできれば上出来じゃないかな。