AC、人格障害関連

現実感とは

 私は小学校の頃から、仏教の「一切は空」とか、現実はただ思い描いただけのものじゃないか? といった考えを、非常に「リアル」に感じていた。
 別にわざわざ宗教の教えにしなくても最初から当たり前じゃないか、と思っていた。
 その頃は情緒障害で「離人症」の状態であったため、実際冷たい水の中にずっとつかっていて、ガラス越しに世界を見るような感じだった。
 
 28歳を過ぎてから、情緒障害から回復してみると、私は煩悩の塊のようなジャイアンに戻った。とりわけ妬みと僻みは救いがたく激しく、「自分が上に立っていて当たり前」とか、「問題が起こるのは相手が悪いから」といった発想が当たり前にずっと「前提」されている。

 私が「中心志向の自己突っ込み」と呼んでいる異常に誇大的な感情は強烈にあり続けているが、しかし同時にこれらが根拠の無い思い込みであるという認識もあり続けていて、苦しいだけでそれが生きている実感居はならず、実は「空は空」であると今でも感じている。

 「現実感」とは何か? 世間では人との交流で得られる生き生きとした体験から得られると言う。
 しかし私は時々運が良いときに瞬間的にそう感じることはあっても、それ以外の時間は他者との情緒的なつながりを実感できない状態で生きている。
 ADHDの人が訴える「空虚さ」はこういう種類のものであると私は考えている。

 まあ全然別のものではあるが、ゲームでも何でも「モノとの関係」で集中しているときは充実感はあるにはあるが、この充実感には必ず終わりがあり、運にもよるので、ずっとある種類のものではない。

 多数派の人は、「自己」意識も衝動コントロールも、「空気」との密接な関係の中で行われており、言わば「共通の空気にプラグイン」した状態で生活実感が形成されているのだろう。
 ADHDは対人個体認識の障害のためにその「プラグイン」が出来ず、かえって周囲の多数派の人が「空気と連動」しているのを見て自分が疎外感を感じる。

 だから多数派の「生きている実感」は当然「空気」の中に居る感覚であるはずで、それ自体はすでに主観的なものではない。
 「間主観的」という言葉があるが、複数の人がプラグインしていること自体が実感に関係している。
 多数派の空気の主体は、みんなで10円玉を動かすゲームのように、特定の人ではなく、全員が少しずつ参加して空気が構成されるが、意識されない部分もある。

 ADHDには最初からこの「空気にプラグインした実感」は無い。依存型ジャイアンの人は一方向の受身的な参加は可能であるが、「同じ現在の空気に参加している」という形にはならない。

 多数派の「プラグイン」は双方向で、パソコン同士とか携帯電話同士のネットワーク、(ネットゲーム?)のようなものであると私は想像しているが、依存型ジャイアンは一瞬一瞬の状況に受動的に反応しているだけで、自分自身が起こしたアクションと次の「状況」の間が意識の上で切れている。(意識されない形でも切れていると私は想像している)。

 私はADHDのケアには、「表面的で分かりやすい派手な目標」を設定することにしている。
 「その目標に向かって突っ走っている」という形で現在の自分の「立ち位置」を確認できるからで、その突っ走っている最中はある程度の充実感を味わって実際高いパフォーマンスを実現できるからだ。

 逆に、「先延ばし」状況のように、ADHDが実力を発揮できない状況は、直感的に書けば「自分の立っている場所が分からなくなっている」というのに近く、この現実感のレベルの混乱の状況なのではないかと考えている。


関連記事

  1. ジャイアンの依存性
  2. ジャイアンは感謝を要求する
  3. 発達障害は結論を要求する
  4. DVの加害者と発達障害
  5. 依存型ジャイアンの「弾ける」時
  6. ジャイアンの教員
  7. コーチング②ASの可能性
  8. ある院長の物語

コメント

    • はすのはな
    • 2011年 5月 23日

    たった今まで「私は相手を馬鹿にしてしまっているのだろうか」とか、「相手こそ私を馬鹿にしているのだろうか」というジレンマに陥っていました。怒りのようなものが沸き起こり、「苦しいのはアナタだけではない!」と叫びそうになっていました。この記事を拝見して、我に返ることができました。感謝します。
    「現実感」や「生きている実感」は人との交流だけではなく、美しいものを観たときや、心地よい音楽を聴いたときや、美味しいものを食べたときなどにも得られるものではないのでしょうか。一方で人との関係については、当事者の方が疎外感を感じることも確かに多いのだろうと想像できます。その中で「孤独」を感じ続けているのでしょう。
    「共通の空気」も程度はさまざまです。きれいごとしか言わない人、自分を偽っている人、人を見下している人、それぞれの思惑がそこに働くからです。ある意味“自分に正直に”突っ走ることができる当事者の方を少し羨ましく感じてしまいました。

    • milky-fanky
    • 2011年 5月 24日

    夫が典型的なジャイアンで、悩んだ末にここにたどりつき、救いをいただいています。
    でも、「過集中」や「愛着」こそ感じないものの、私自身にも自己診断でASやADHDに当てはまるなあと思う部分はあり、これからの人間関係で気をつけようと思う事しきりです。
    また、先生のおっしゃる「現実感」について、自分の感覚としてはとても理解できる部分があります。
    私は子供の頃、「死ぬのがイヤだ」「怖い」という人々を見て「何が怖いんだろう」と不思議でした。「死」は「今物を感じたり考えている自分がただ消えてなくなる事」と思え、怖くも嫌でもなかったのです。
    同時に「自分」という物が何かぼんやりとした輪郭のはっきりしない存在で、そのぼんやりした「自分」を通して見える世界もまたクリアでない、というかぼやけた世界でした。
    それが変わってきたのは、社会人になり、仕事を通じて上手く行かなかったり、ダメな自分、実力不足の自分をひしひしと感じ、クビになったりもしながらもなんとか自分のやりたい世界でふんばり、7,8年経ってようやく認められ始め、自分で納得できる自分になれたと感じ出した頃からです。
    明確に自分の輪郭がはっきりと感じられ、世界もクリアになってきました。
    先生のおっしゃる「現実感」を持って感情を感じられるようになった、と思います。そしてそれは、「人を愛する」という始めての感情を運んできてもくれました。それまで愛していると感じていた事はただのエゴの変形だった、と。
    これがなんなのか、私にはわかりませんが、「現実感」は「愛」につながる気がします。

    • うにゃ
    • 2011年 5月 26日

    現実感を強く感じられるのは、非常時で過集中に「なり放題」のときですね。
    後々禍根を残すのは十分経験しているので、「サブエンジン」を心がけてますが。
    「プラグイン」は私(合理的強迫的ジャイアン?)にとって手段です。
    目的は、
     情報を得る。
     趣味の合う人と共通の話題で盛り上がって楽しい時間を過ごす。
     自分の目的を達成する方向へ相手を誘導する。
     などなど。
    でも、どうしても「プラグイン」したくない時があり、集団から離れてしまいます。
    「プラグイン」したくない時とは、
    「『誰か』の一方的な仕切りに従って行動し、『誰か』の期待通りの反応(面白がる、褒め称える等)しか想定されてない」場合であり、
    集団からハッキリと浮いてしまいます。
    正直、「仕切る者+それにのっている集団」は塊にしか見えなくて嫌悪します。
    わたしにとって合目的性が無く、予定調和がくだらないから嫌いなんだと思います。
    例えば、学園祭などの学校行事、「女子」の集団行動、社会人になってからの呑み会。
    だから、オオカミ的同族意識の強い人とは、まるで水と油のようなのに、「溶け合う」ことを要求され続けて関係が破綻するパターンを繰り返しているのか。
    これを書いていて、自分と多数派(とAS?)の境界線が、一部ですがハッキリわかりました。
    外から見た自分の偏屈さを自覚できました。

    • トモス
    • 2013年 10月 14日

    こんばんは、やんばる先生。
    たった今、ぼくはこのエントリに書かれている内容と全く似たような状況にありました。ぼくが好きな作家さんのブログにコメント書いたんですがさっそく多数派から攻撃されて「あわわ」と感じたんです。
    ぼくは他の人のコメントをたいして身を入れずに読まず作家さんとぼくとの一対一を想定してコメントを書きます。それはどのブログでもそうですしここでも同じです。
    あと、ぼくはオリジナルの意見こそ意義があると思っているので他の人と似たような意見ならコメントしません。ところがそこのブログでは多数派のひとたちは皆似たようなことを延々とコメントするんです。まるで砂漠に砂を撒く行為のようにぼくには感じられ、ぼくはオリジナリティある感想を書いたんです。
    そしたらあるひとはぼくを想像力ありすぎと意見し別の人は想像力なさすぎと非難しました。このエントリで言えばぼくはプラグインしなかったので早速排斥する力が来たのだと思いました。まさに「特定の人ではなく、全員が少しずつ参加して空気が構成される」という状況が実感されました。これだから多数派に混じって感想述べるだけでも怖いんです。

    • 182
    • 2014年 4月 07日

    どうもちゃんと「生きて」いる気がしないってのは、多分、中学生くらいからずっとあります。
    「色即是空」とか、「何をそんな『普通』の事をもったいぶって言うのか」と思ってましたし、水槽の内側から世間を眺めてる感じは、強くありましたね。
    高校生くらいが一番酷かったと思います。
    でも、個人的にはACとか、情緒障害とか、離人症とか、そんな大袈裟な話でなく、単純にその頃ある決まったパターンの夢をよく見ていたんです。
    それは、夢の中で私が何か失敗をするんだけど、こんな失敗、嘘だ!これは夢なんだ!と思うと本当に目が覚めて、あぁ良かった本当に夢だった、というものです。
    こんな夢を頻繁に見ていると、その内、本当に本当の現実も「この世界も、もしかして夢なんじゃ?」と思う様になります。
    それで、運の悪いことに、私は子供の頃溺れて死にかけたことがあったので、「実は、私はあの時本当に死んだんじゃないか?この世界は死後の夢なんじゃないか?」と、結構、真剣に考えてました。
    本当の事を言うと、今でも「私は本当はもう、あの時に死んだのかも」って思う事があります。
    非常に、場当たり的で、今日より先のことは考えない性格は、この「生きている現実感のなさ」から来ていると、確かに思います。
    普通の人ではできないと思う様な隷従も「どうせ現実じゃない」という考えが、すごく深い根底にあって、できる気がします。
    全く逆に、恐ろしく前向きで失敗を想定してない様な前進力も、ここから来てると思います。
    「他者を感じられない」=「生きている現実感がない」って哲学的ですね。
    人間の「生」って他者によってはじめてきてい規定されるって事でしょうか?
    この世界にたった一人であれば、その「生」は「無」に等しいって事ですね。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP