私が今回リーレンツを読んでいるのは、多数派の「空気」による衝動統制について考えたいからだった。
あるADHDの相談者が「自分だけルールを知らないゲームの中にいる」という表現をしていたのが印象的であるが、空気が読めない我々発達障害(特にADHD)は、「空気」という密で リアルタイムな情報のやり取りを伴う多数派の非言語的なコミュニケーションから置いてきぼり を食い、どうしようもなく取り残されているというイメージを持っている。
このイメージの逆の帰結は、「多数派は非言語的な膨大な情報を瞬時に知覚し、意味を判読して 瞬時にその状況へのベストの対応を考えて行動している」ということになる。
これはADHD側からの想像の結果であり、実際の多数派の世界はちょっと違うのではないか? と私が考えたことがこの本を読み始めた理由だった。
ADHDは「意識」のレベルで頭の中に理論を組み立て、いちいち意味や合理性を考えながら ひとつひとつの行動を自分で考えて導き出して行動する必要がある。
これは空気が読めないことの「結果」として自分で考えるようになったわけであり、その イメージから多数派を想像はしにくいだろうということだ。
私は多数派を観察したり多数派に実際言語的に問うてみたりしながら意外に感じたのは、 「そこまで多数派の人は空気の中身を自覚していない」「(行動は出来るのだが)言語的に その理由や意味の説明を求めると出来ないことが多い」ということだった。
その結果は、「多数派の人は考えて導き出して選んでいるのではなく、空気から逆に自動的に コントロールされている面がある」ということだと私は考えている。
多数派は我々の知らないルールを知っていて意識して行動しているというよりも、そのルール を体で覚えていて無意識に整然と集団行動を行うことが出来るということだ。
だから、それが正しいかどうか、合理的かどうかは実は多数派の世界では問題にならない。
努力して意識化して考えようとすれば個別の問題ごとに考えることは可能であるが、全ての 問題で常に考え続けていることは「無い」と考えたほうが事実に近いのではないかと私は 想像している。
その、「無意識に集団行動する」という部分のイメージが、先に書いたニシンの群れなど をコントロールしている「無名の群れ」の行動様式であったりすると考えると、理解しやすい。
いくつかのコメントで指摘していただいた「中心志向型ジャイアンの怒りに多くの依存型ジャイアンがぶら下がって集団的にリンチ的な攻撃を行う」ことは私もたびたびあると思うけれども、それが 「首謀者」という形で目立ってしまうところ自体が発達障害であるということだと思う。
これと上記の多数派の行動のイメージは全く別のものなので、注記しておこう。
>多数派は我々の知らないルールを知っていて意識して行動しているというよりも、そのルール を体で覚えていて無意識に整然と集団行動を行うことが出来るということだ。
確かに多数派の行動には無意識的な自然さを感じることが多いです。
私が気づいた多数派の一面の印象は
・人に親切にしたい欲求が強い
・雑談が好きである、重視する
・こまめに贈り物をし合う、次に会った時には必ず贈り物の お礼を言う
・冠婚葬祭を重視する
・お墓やお仏壇を重視する
・ご先祖を大切にする
・飲み会が好きである、重視する
どれも人間社会を円滑に運営するには重要なことのようで、どれも私にはニガテなことです。でも多数派の皆さんにはだいぶ助けられて生きていると思います。
発達障害の人はこれまた個性的でおもしろく親近感を持ちます。
多数派にも少数派にもそれぞれ困った人、怖い人はいますが、人間は誰ももともと完全ではないという前提で捉えています。
それから最近は多数派と少数派の区別があまりよくわからなくなってきています。自閉症スペクトラム的にグラデーションとして捉えるとみなどこか少数派の要素を持っているような気が・・・
これは私のイメージですが、
多数派と当事者の方々の間には隔壁のようなものがあって、お互いの立場を想像するには自分なりの考察を掘り下げていくしかないのかもしれません。
先生がおっしゃるように、その場の「空気」が正しいかどうか、合理的かどうかはあまり問題になりません。大事なのはその中身ではなく、空気をよんで同調するというか、自分の身を守る擬態や保護色のような感覚が近いような気がします。
そう考えると空気を読めない方々が非言語的なコミュニケーションから置いてきぼりを食ってしまうという状況は想像できます。(その中身の程度はさまざまであっても)それ故に傷ついた事も多くあったのだろうと。ただ、私の知っている当事者の方はそれでも自分の信念を貫こうとする強さを持っています。
今、私にはその隔壁が重い扉のように感じられます。このブログを拝見しながら様々な事を想像し、時にはノックもしてみますが扉は開きません。もしかしたら一生かけても無理かもしれない。それでもあきらめないでいようと思います。
大きな話になってしまいますが、この重い扉を超えてお互いが真の理解を得られるようになれば、きっと人類は進歩した、と言えるのではないかと考えています。
経験上多数派の合理性に対する鈍感さを感じていましたが、上記の説明はなかなか事実を言い当てているのではないかと思いました。
無意識に集団行動する=自分が不利にならないように行動できる
私にはこう見えます。
例えば(その集団のために)明らかに改善するべき問題があっても、相手の立場が自分よりも上の場合には多数派は意思表示をしないです。
その問題を指摘してくれる(多数派から見たら)KYな人を利用するだけだと思います。
自分の意思はないのか?とあとで個人的に確認するときちんと意思はあるのです。
”自分の意思はある。でも集団の中では相手に(立場をわきまえて)合わせることができる”
これが >努力して意識化して考えようとすれば個別の問題ごとに考えることは可能であるが、全ての 問題で常に考え続けていることは「無い」
という行動なら理解できます。
でも行動として理解できたとしても、私から見るととても不思議です。
そして「美味しいとこ取り」に見えます。
多数派の人は個人的に付き合うと無害だし良い人が多いです。
でも集団の中の多数派は嫌いです。
なぜ多数派が空気を読めるのか、少数派が空気を読めないのか。
その差を作る要因は「状況理解」と「想像力」の「低さ」にあるような気がします。表情を読めないということもあるかな。
自分の立場・その場に対する「状況理解」
人から自分がどう見られているか、または相手の心情に対する「想像力」
言葉とは違う(建前・お世辞等)相手の心情理解のための「表情の読み」
というか少数派の問題となる事の大体の事は、これらがあれば解決できるような気がします。
これらがオウトマチックに多数派は入ってくるということなんでしょう。
>多数派は >全ての 問題で常に考え続けていることは「無い」
そう、これなのです。
この結論そのものが、私は憎い。
この現実そのものが、憎い。
母親は「仕方が無いと思いなさい。」という意見です。
思えない。ただひたすら、憎い。
宮崎アニメ「千と千尋の神隠し」に出てきた、「カオナシ」って見た瞬間、「多数派の事だな」って思った私は悪意的なのかしら、、、。
いかにも発達障害的な考えなんでしょうけど、なんか多数派ってつまんね、と思っちゃう事が多いですね、、、。
残念なのが少数派と付き合うとソーシャルスキルがイマイチで、「迷惑千万」な人に遭遇する確立が少し高いのが惜しむらく、。連日、夜中に電話してきてグチを延々しゃべったり、、。でも、打ち解けるのがとても早いのは魅力。
認知のゆがみを修正し、自己評価を高め、ソーシャルスキルを身につければ、むしろ魅力的なのが軽度発達障害なのかもしれないですね。
多数派と依存型ジャイアン、どちらも人にぶらさがって行動するので、何が違うのかと思う事があります。
なんとなくですが、多数派の人はより多数の人間がいる方にいくので、あまりおかしな人がトップにいるグループにいる可能性が自然と少なくなってくる。
でも依存型の人は小さいグループで暴君の手前みたいなカリスマジャイアンに熱心に言う事を聞くので、なんだかそこだけ異様な感じの集団になる。
なので、自分で判断できないときは多数に流れる、というのは安全な生き方なのだと思います。
それを思うと小さいグループで中心志向のジャイアンを一生懸命持ち上げて面倒見てもらって楽に生きている依存型ジャイアンが、一番問題な気がします。
彼らがいる限り、共依存が解消せず、中心志向のジャイアンは頂上から下りてくる事はできません。
ADHDは一人で才能を生かして生きていく、というものだと私は思うので、依存型ジャイアンはわからないように中心志向型の足をひっぱって自分がラクをしている、一番ずるいんじゃないかと思います。
こうしたら自分の為になるのに、とか、
ここでこうしておけばうまくいくのに、
とわかって、そう考えています。
考えているのに、どうしてもそうできないことが多いです。
ある程度状況把握できるのに、
「でも嫌だ!それは変だ!私は嫌だ!」になって、
結局せっかくの情報を無駄にしてしまいます。
あるいは「ああ言ったからこうしてもいいんだ。」と先生の言葉尻を掴んで極端なことをし、
後で「でも、それってしていいのか?」と言っていた自分もいたなぁと気が付いたり・・・。
また、全く状況把握できてなかったことを
後で知って呆然とすることもあります。
多数派の人が、事も無げに主張を変えたり、態度を変えたりするのを見て、
私は要領のいい人だと憤慨します。
憤慨しながらも、うらやましくてうらやましくてしかたありません。
私もあんなふうに自分の考えにとらわれずに生活できたら、もっと楽だろうになぁと思います。
うらやましいから憎らしくなるのです。
自分の中でぐるぐる回っています。
今年の1月頃だったと思うのですが
街角の文字ニュースで
「世界初。自閉症の脳をPET画像で確認」と見かけた記憶があります
後に、報道されている映像を写真で見たときは衝撃でした。
そこでは健常者と称される多数派脳は自閉症の脳画像に比べて明らかに明るかった。
あれから、多数派の脳の感覚ってどんなだろう・・って、ずっと想像してました。
私の中では先生の説明される多数派とあの明るい脳の映像がリンクしてます。
逆に多数派が少数派を体験できるでしょうか・・
感覚で・・こんな感じと意識すれば同じような感覚になれるでしょうか・・
両側からともに感覚では疎通はできないのでしょうか
最近では
”コミュニケーション障害…市販薬で改善 芦屋大などの研究チーム解析”
などとネット報道も読みました。
でも、過集中のときの脳の状態はまた特殊なのではなかとも思うのですが。
どうなんでしょうか。
自分の感覚が薄いことは認識できるのに、違いは理解できるのに。
多数派と同じように動くことは無理のですね。
私の場合は頭で組み立てて状況判断している間に二歩も三歩も遅れをとります
今は世捨て人のような生活を選択し、人生で始めて訪れた平穏な日々を快適に過ごしています。
後悔こそありませんが・・
あまりにも悲惨な、あの半生から抜け出すには結果的にこの選択肢しか無かったのだとも思います。
そうか・・。
私は光を探して覗き込んでいたのか。
多数派のブラックホールを・・・。
多数派は無意識に整然と集団行動を行うことが出来る
よく黒板の上に掲げてある標語「協調性・自律」って。。
少数派の子に 黒板見るたび「もう学校に来るな」 って言ってるようなものだと思う。
うちのように支援が必要なタイプにとっても、支援は要らないけど理解は絶対必要というタイプの子にとっても。
少数派の子にとっては「独創性・発想力・個性」を最も大切にする環境がありがたい。。
・・日本では100年かかっても無理だと思います。
>・・日本では100年かかっても無理だと思います。
アメリカでも俺は空気を破っていないかなみたいな発言が時たま見られます
また、アメリカ人は物事はっきり言うのでアスペルガーの人がすごしやすいかといえば、そうでもなく、いじめの対象によくなるそうです
ほかの国はどうか知りませんが、人と人が生活している以上、どこに国も大差はないと思います
今回の記事のテーマとちょっとずれてしまうかもしれませんが一つの仮説を考えました。
日本人特有の真面目で勤勉な気質や昔からの家制度が影響しているためか、日本人の9割がアダルトチルドレン的だという記述をネットで見かけました。
もしそういう傾向があるとしたら、多数派が全員ACから脱却した場合、どんなふうになるのかしらと想像してしまいました。もしかしたら現在の様子とは様変わりになるかもしれません。みんながもっとマイペースに自由に動くような気がします。今ほど「空気」というものが意識されなくなるようにも思います。
ちなみに私は過去はアスペ特有のACでしたが、瞑想や心理療法によってACから脱却したら、ADHD寄りになった部分がいくつかあり、猫的生き方を好んだり、事実に即したことや合理的なことをはっきりと言いたい、先のことを思い煩うより今この時に集中するなどの感じが強まりました。
日本人の多数派も少数派もACから脱却できると、おたがいにもっと自由で風通しの良い交流ができるかもしれないとふと思いました。
多数派が空気から自動コントロールされているのなら、
眼の前にいたあの人は私のまとう空気そのもの。どこへ行っても、振り払っても、別の姿で同じ事をする人が現れるのは私の影法師だから。
自分なりにいろいろやってみましたが、どうしても馴染めませんでした。最後はあきらめて「いじめられる私」を放置し、雪だるまのようにしていました。
これを無責任と呼ぶんですね。
著名な医師であり作家である鎌田 實 さんの著書に「空気は読まない」という本があります。
この本からわかることは、「空気を読むこと」には副作用
として、自分の感情の抑圧、自分を表現する不自由さが
でてくるということです。
話がかわりますが、
僕は多数派の人を観察してて思うことは、(特に女性に)
人の意見や考えに迎合することがとても多いということです。
これは表向き「多数派は共感を大切にしている」かもしれないけど、単に僕は「対立するのが怖い、人に嫌われるのが
怖い」というAC的な部分なような気がします。
それを考えれば日本人はすごくAC傾向をもつ人が多いなという印象です。
僕の周囲の多数派の人は、よく喋ってても意見をぶつけ合います。対立をおそれません。これは自律の証しじゃないのかと思ってます。でも、その多数派の人には一緒にいてて、暖かさを感じます。僕を僕として受け入れてくれる空気を受けます。