前回までは、「ADHDがもともとはどんな場所に居るか?」について詳しく説明した。この状態を出発点として、個々にいろいろな工夫をして現実生活に適応の努力をしている。(外から見て分かるADHDの姿は、もともとの状態にその後の努力を付け加えたものであり、理解のためには区別しておいたほうが良いと考えてあえて別に説明している)。
さてADHDは(自己正当化型ADHDの一部の人を除き)幸いに「理論的にドライに合理的な見方で現実を認識する」ことが出来る。この認識の特徴は、これまで説明した認知の特徴から、「自分の利害に無関係」で、「特定の人の立場に関係なく非常に客観的で公平」という特徴を持つ。この部分は常に自分を中心とした形で世界を見ているASと大きく違うところであると思う。
さてこの合理的認識で、自分の「出来ないこと」についてはみんな遅くとも思春期頃には理解して、「何とかしよう」と考える。その段階で自己評価は下がっている。初めから、ADHDにとっては「自分が変わらなければどうしようもない」ということは明らかだ。(ただ多数派については場の直感的な理解の部分は想像さえ難しく見当外れのイメージを持つことが多いが)。
また、ADHDは「先入観にとらわれない想像力」を持つ。毎日が異文化理解で、見知らぬ町に来たばかりのような状況では、毎回いろいろな想像を廻らせながら生きるしかない。
私は中学時代までは「他者からどう見えるか」を全く意識できず、情緒的には小学校低学年レベルの子供だったと思う。十代後半に自分が嫌われていることを意識しだしてから、周囲の人の行動を観察し、失敗しない行動の選択について試行錯誤を続けてきた。
44歳になった現在でも「独占したくなる嫉妬」とか「言わぬが花」といった高度な情緒的な状況理解は出来ないため、情緒的には小学校高学年レベルに留まっているだろう。
それでも想像して理論的に説明してみる試みの連続の結果、多数派の行動に関する説明の理論的な仮説の「ストック」が出来上がり、それでこの仕事をしているようなものだ。
だからADHDは根本的に理論的な異文化理解に向いており、トレーニングによりASやADHDなどのマイノリティーと 多数派の「通訳」をすることが可能であるのだ。
>「独占したくなる嫉妬」とか「言わぬが花」といった高度な情緒的な状況理解は出来ない
心情的にもあんまり理解できていないんじゃないかと思います。ADHDである私の友人は、『恋愛感情すら持てない』と言ってましたし、自分自身も初恋がいつだったかと聞かれると答えに困ります。
最近、主婦の浮気がどうのという話題をよく耳にしますが、そもそも浮気の定義が『配偶者や恋人以外の人に気持ちが移る』と仮定すれば、ADHDにとってそれは外から見たら『浮気』でも、本人にとってそうと認識されない、あるいはそういう概念すら存在しない世界に生きているのかなとも思います。
私はこういう種のものは、ドラマや映画、歌の歌詞などから想像していますが、おそらく自分の内面には存在していない感情だと思っています。
だからADHDのパートナーである愛着の強いASの人や多数派の人は、『永遠に片想い』という状況になるのかも・・・などと想像しています。
もうここには書き込みをしない、したくない、と思いましたが勇気を持って『逃げる』のをやめました。
まず、私の書き込みで傷付いた方に心から謝罪申し上げます。
人との距離のとり方が不得手且つ、不適切であることを今回の経験から悲しいけど実感しました。
言葉の不足から、誤解を招く経験は過去にもありました。
しかし、自分を客観的にみたとき、誤解されたまま放置することはASの一人として自分があまりに無責任であると感じたので逃げずに書き込みさせていただきます。
私はこのサイトは、YANBARU先が医師として多くの発達障害の患者さんたちとのやりとりの中から導き出した『意見』や『仮説』について、我々発達障害の自覚がある人間又は発達障害と関わる方がそれについてどう思うか?そして、正直な意見を求めながら、同時に各々自分を振り返ることで『気づき』も生まれ、苦しさを伴うこともあるけれど、それを自分なりに消化し生き辛さにどう対応していけばよいかというヒントを戴ける場所だと思っています。
先生の意見に対して正直に思ったことを述べたり、ASとして受け入れがたい意見の日は悩んだりもしましたが、悩むことで気づきも生まれたのです。
しかし、私は誰かを誹謗中傷したつもりは全く無く、どうして私の正直な意見がそう取られてしまったのか分からないのです。『分からないのに耐える』を実践しようと頑張りましたが、納得できないものは納得できませんでした。
私の信頼できる友達の一人はADHDです。
私のコメントで傷付いたとおっしゃる方と、私の友達は違う人間であるのに、私は同じようにフランクに話してしまいました。
嘘や社交辞令が苦手ですので、言葉足らずで誤解を生じさせてしまいました。
ここに心からお詫びを申しあげます。
私にとって一番辛いことは、「誹謗中傷した」と非難されることより、「本音でものが言えなくなった」方がダメージが大きいです。
これも誹謗中傷と判断されるのならば、削除お願いします。
HIKARIさんへ
まず、勇気を出して書きこんでくださってありがとうございます。
私が誹謗中傷と書いたのは、他のスレッドでも書きましたが『相手に対する最低限の配慮を』というニュアンスで書きました。
もしもここに書いてあるコメントが私に対するメッセージも含まれているとしたら、私が非常に遺憾を感じたのは言葉ではなく、あなたが実際に取った行動についてです。
あなたは『ADHDの尻拭いをさせられるのが怖い』と書きましたが、先日は私もあなたの尻拭い(・・・とは、実際思っていませんが)をしました。今も実は少し怖い気持ちもありますが、それで自分の行動を制限するのはいやなのでブログの更新も、コメントの書きこみも復活しています。恐らくこういうところが『ADHDが得してる』ように見えるんでしょうね。でも実際はギリギリのところで思いきっているだけです。
尻拭い自体は構いません。お互い様ですから。でも、いい機会だと思いますので、もしよろしければ私のブログから私書箱にメッセージを投函してください。そうしてくだされば、今回のことについてきちんと説明します。ただ、伝えられるかどうかの自信はありませんが。
『誹謗中傷発言』について少し補足します。
実はASの人とのコミュニケーションするとき言葉を選ぶときは、こちらとしてもかなり『頑張って選んでいる』状況なのが実際のところで、『誹謗中傷』という言葉も、実は私の苦悩の中から生まれた言葉の一つでもありました。
『調和・協調』を大事に考える多数派の人達は、基本的に対立したくないから、相手に対する言葉をかなり上手に選んできます。だから多数派の言葉はそのままでは受け取らず、その中にこめられた相手の配慮を汲み取り、またそれに対して配慮で返すことがルールになっています。それは『協力しあっていかないと生きていけない』ということが、恐らく認知それ以前の、遺伝子レベルで分かっているからとしか思えないです。
対してASは、多数派に比較すると『そのまま』なのでわかりやすい分、その人独特の意味合いが加わるので、多数派のそれに比べると(前も書きましたが決して侮辱ではありません)時として『大袈裟』な表現が多く、言葉のままにしか受け取ることができないADHDはかなりダメージを受けます。
ADHDは多数派ともASとも違う、独特の文化なのでしょう。だからどちらにも迎合しがたく、結果として一人になることが多いです。もともと他者の不在=ひとりという認知の世界に生きているのだから当然の結果なのですが。
『ひとりの強み』はそのまま、『ADHDのマイナス面』とイコールなのかもしれません。
お互いの理解のためには、本音でものを言いあう事が必要だと思っています。相手の言った事が自分にとってダメージの大きい言葉であっても、それを好意として受け取り、自分の中に取り込み、自分を修正してゆく。そこに意味のあるコミュニケーションが生まれると思っています。
(先生が言われた「ASに通じた」と言うのは、そういうことかも知れません。)
でも、それを(自分が受け取るのは別にして)相手にしてはダメなんですね。と言うか、相手との関係や状況にもっと注意する必要があるのですね。私は、多数派の「対立しない」事を重視する点も、詰まらない感覚として受け入れがたい気持ちがあります。
そして、ADHDの方は更に繊細な感覚と言うか、「調和を大事にする」部分をお持ちのようなのですが、まだ感覚として掴めておりません。ASの「大げさな表現」と言うのも何がどう大げさなのか分かりません。個人的には、事実を事実としてオブラートに包まずに話している感覚なのですが。そして実際に、分かり合うためにはそれが重要だと意識してやっています。
良く「正論は人を傷つける」ので「注意する必要がある」と言いますが、もう一歩踏み込んで「感じたことをそのまま伝えることが人を傷つける」ことにもっと気を付けなければならないと思い始めました。AS以外の方には、それは常識なのかも知れませんが。
marioさんへ
自分について私自身、お答えするまえに反省をたくさんしないといけないと思うんですが、取り急ぎここだけ回答します。言葉が足りなくて申し訳ありませんでした。
>ASの「大げさな表現」と言うのも何がどう大げさなのか分かりません
正確に言えば『本当はこうだったのかも』と自分なりにわかったとき、私の感覚としては『だったら、ここまで言わなくても・・・』と感じることがままあったからです。そう思ったとき、なんだか振りまわされた感覚になるんです。具体的にどのコメントかということは、もしかしたら批判に受け止められるのが怖いので、もしもそうと希望があれば書きます。
yurinさん
ぜひ書いて下さい。私は批判も受け入れますし、今、それを強く知りたいと思います。他の方にも「批判に受け止められるのが怖い」のであれば、メールでもかまいません。が、ASは批判に強いのではないかと思います(これは私の考えです)。
いや、一般的に私は(AS者は?)批判に対して思ったことをしっかりと反論するので、それが再びADHDの方を追い詰める(振り回す)のかも知れませんね。
今回はyurinさんが実際に感じたことなので、私は批判できない(受け入れられる)と思います。
marioさんへ
ASは批判に強いです。自己評価が下がらないのはこのためだと私は思います。個人的な例だと、私は夫と口論になってもまず勝てません。『違うと思う』といえば『違う』と私が言ったことに対して反論され、だんだん『追い詰められてくる』という感じ。もうただ頷くしかない・・・。最近はそこまで行かないうちに話を反らすとかで乗りきってますが、難しいです。そういう体験があるので、ASに対して突っ込めない弱さがもともと私はあります。
『大袈裟な表現』で気が付いた例を一つだけあげておきますね。ADHDについて『ああはなりたくない人間像』というのがありました。私はこれを最終的に『ASの誇り』だと受け止めました。
理由は、ADHDにはなりたくない=私はASで良かった、という図式。最初は皮肉かなとも感じましたけど、皮肉を言い合って果たして相互理解になるのか、とも考えなおし、しばらくして『もしかしたらAS流の表現かも?』という発想に変えました。だったら『私はASでいるほうがいい』と言えばいいのに。・・・そう思いました。
あと一つ『ゼロ百では絶対ダメ』と言ってるのではなくて、『ゼロ百で考えないほうがベター』ということを言ってるだけなんですね。
どれが誰のコメントか忘れましたが、思いつくだけあげてみました。
ただ、思うのは何事も『完全には説明しきれない』ことをわかってほしいです・・・ASは完全を求める傾向を感じるから、どんな質問が来てもきちんと説明しきれる自信が無いと言えない。夫も『完全に分からないと意味が無い』ようなことを言うんですが。
・・・やはり略図と細密画の違いでしょうか?
HIKARIさんへ 2
私のほうも表現が適切でなかったことを反省します。
ただ『誹謗中傷とはどういう事ですか?』と質問してくだされば答えられる範囲で答えるつもりではいました。
一方的にたくさんの言葉を語るよりも、少ない言葉から意見を述べるほうが、結果として良いコミュニケーションになるかも、という私の期待がありましたが、私のほうも『わからなければ質問してください』というひとことが抜けていたのが良くなかったと反省しています。
私が一番気になったのは、『理解して許す』と言われたことです。なんだか『理解する』ことや『許す』ことを強要されたようで気分が良くなかったのは事実です。
もし何かあれば質問してください。
yurinさん
やはり反論で追い詰めてしまっているのですね。今はそれが分かりますが、納得した上で反論を止められるかどうかは未だ自信がありません。
個人的な印象を…ADHD一般ではなく私の妻に付いての印象ですけど…。口論の際、私は「Aは分かった、それは俺が悪かった。でもBは違う」と分析的な反論をしますが、Bの反論を持って全てを反論されていると受け取られているように思います。「謝ってない」とか「私の感情はどうするの?」とか言われてました。逆に妻が謝るときには、私が怒っていることに謝っているだけで、内容に関して納得して謝っている訳では無いように感じます。そんな事はありませんか?(自己正当化型に特有なのかも知れませんし、私の妻の個人的傾向かも知れません)
大げさな表現の例もありがとうございました。正直に言いますと、余り違いが分かりません。だからこそトラブルになるのでしょう。「ADHDになりたいとは思わない。多数派にもなりたくない。ASのままで良い。」と思います。ADHDを貶める目的はなく、単に気持ち(事実)を口にしているだけです。
しかしこれも発見です。良く「発した言葉のありもしない裏を深読みされる」と感じることがあります。相手にどう受け取られる可能性があるかを、AS者は(一般社会では)もっと考えないといけないのかな?難しいですが…
marioさんへ
今、少し時間がないので一部だけお返事を書きます。
>私は「Aは分かった、それは俺が悪かった。でもBは違う」と分析的な反論をしますが、Bの反論を持って全てを反論されている
・・・多分、ですけど。
恐らくBの反論のイメージが残って『誤っていないじゃない』となるのだと思います。もちろんBの内容が相手の怒り(または悲しみ)の重要度にもよりますが。
ただ一般的に『謝る』ということは『何が悪かった』ではなくて、相手を怒らせたことや悲しませた自分を、相手に対して詫びる、ということじゃないかなと思うんですよね。
だから謝るなら『俺が悪かった』とシンプルに謝るほうが一般的にはいいと思います。もっとも私の夫もシンプルには謝りませんけどね(^_^;)
うーん。でもうちはこういう時どうかなー?かなり怒ってもADHDの『今しかない』記憶なので、すぐに思い出せません。もし思い出したら具体的に書きますね。
marioさんへ
>私が怒っていることに謝っているだけで、内容に関して納得して謝っている訳では無いように感じます。そんな事はありませんか
そうかもしれないですね。これはこの前に書いたコメントと関連しますので、頑張って少し細かい説明をしてみます。
相手を怒らせた自分の問題や原因はいろいろあるけれど、たとえば原因がAであってもBであっても、またCであっても、怒らせた原因は全て自分という人間に属する。どんな原因であれ、自分という人間がしたこと(あるいは、言ったこと)に変わりは無いということ。
そう考えるなら、Aは私が悪いわけではないが、Bについては私も悪かったから謝る、といわれるとなんだか『言い訳してるよう』とか,あるいは『一言多い』と感じてしまいます。
ただ、『詫びる』ということは自分を否定する意味ではなく、あくまで『自分がした一つの(あるいは複数の)行為について詫びるのだけれど、それをした自分という人間が、相手という人間に対しておわびの気持ちを表わす』ということであると私は思います。
私が謝るときは、理由は何であれ上記のように『相手という人間に対して謝っている』ということになります。
それがASから見ると『ただ怒らせたことで謝っているだけ』に見えるのだと私は想像します。
marioさんへ
>相手にどう受け取られる可能性があるかを、AS者は(一般社会では)もっと考えないといけないのかな?
私がASの人の言葉が大袈裟に聞こえるのはどうしてか、と自分なりに考えてみましたので、もう少し突っ込んで書いてみますね。
まず『大袈裟』というのは他者の実感であって、自分では自覚することができない、ということです。
多数派同士のコミュニケーションでさほど大きなトラブルにならないのは『多数派同士なら、言葉の意図する相手の気持ちが、多数派と言う同じ仲間同士のルールで、いちいち相手に言葉で確かめなくても判断できる』というだけなんですね。
その多数派ルールからASの人の言葉を判断するとき、個人差はありますが若干『意外』とか『ちょっと大袈裟』とか『そこまで言わなくても』などと捉えられてしまう可能性があります。
そこから多数派とトラブルになることは考えられますが、やはりそこを自覚しながら、自分が言ったことに対して『想像以上に相手が謝っているように見える』とか『どうしてこんなに怒られないといけないんだろう』などと実際感じたときに、自分の言葉が大袈裟になってはいないか、必要以上に細かく言いすぎてはいないか、を振りかえるだけで違ってくると思います。
またASの人の言葉表現は、個人差はありますが独特で、また詩的表現であるため余計に『大袈裟』に聞こえるかもしれません。
余談ですが、ADHDは『ずばずば言いすぎる』傾向があります。これも指摘が無いと本人は自覚することはまずなく、『思ったことを正直に言ってるだけ』なので、これもまた多数派とのやりとりでASの人と同様トラブルが予想されます。言葉表現は、発達障害者の大きな課題の一つです。
ただ、多数派ルールを完全に身につけることはまずできないし、大袈裟と思われる表現も、ずばずば言いすぎる表現も『大きなトラブルにならない範囲』ならオッケーではないかと私は思います。努力はしても、ある部分は『これが私なの』と開き直ることも大事ではないかと思います。
>「独占したくなる嫉妬」とか「言わぬが花」といった高度な
>情緒的な状況理解は出来ない
そういうものなんですか?私は先生にADHDのようだ、とご判断いただいているんですが、何度も身を焦がすような嫉妬を経験してきたし(相手を殺してしまいたいほどの!)、独占欲は強いと思います。恋愛とはそういうものだと思ってきました。「言わぬが花」については、比喩や隠喩にまかせてはっきりと言わないから、含みが面白い効果を与えるのに、夫(AS)がたびたび説明を求めてくるので、謎な気分になります。ADHDは詩的なのではないんでしょうか__?
>ADHDは根本的に理論的な異文化理解に向いており
そうだったんですね。わたしは、関東圏で育ち、関西圏に住んでいます。私(ADHD)は、異文化として関西の生活を愉しめますが、夫(東京出身AS)は全く異文化を理解しようともしないし、けなすばかりです。たとえば、東京でならいくらお金を使ってもいいが、大阪ではビタ一文使ってくれるなというわけです(愚痴:こういうことが、私の生活を暗くします。)
夫(AS)が異文化理解に消極的で、育った地域を賛美するお国自慢な行動パターンが、ASゆえのことだったように、私が異文化に理解を示せるのは、ADHDだったからで、倫理的に優れた考えを持っているわけではなかったんですね(苦笑)。
ところで、marioさんの仰っている状況、わが家でもよく起きています。夫(AS)は、「発した言葉のありもしない裏を深読みされる」とよく私に抗弁します。「そんなつもりで言ったのではない。深読みしすぎだ。被害妄想だ。ただ、現状を指摘しただけだ。」というわけです。
marioさんの反論の仕方は、夫と似ています。一つの論点Aについて謝った後、別の論点Bを持ち出し反論をしてきた時点で、私は、次々と逃げ口上を切られ、結局この人は心から反省することはないのだ、と感じてしまいます。
いや、夫の場合は、marioさんとは違っているかもしれません。夫は、はじめの論点Aについて謝ることすらろくにせず、次の論点Bへ話を移してしまうので、まるでDV男のように私の目には映ってしまいます。なぜかというと______
論点が移った時点で、_______本人にとっては、それは単に視点を切り替えたて、こっちにはこんな問題も転がってるよ、と示しただけのつもりでも____私は、話をすり替えられたと感じてしまうわけです。
Aという問題を顕在化させ、せっかく解決に向けようと考えているのに、ここで問題Aの矮小化がなされた、と感じてしまうわけです。そして、そもそも問題Aについて論じているのに、なんでまた問題Bについて持ち出されるのかが私にはわからないわけです。今話し合うべきは、問題Aでしょう、Bについてはまた後ほど、と論点を戻すのに四苦八苦する(苛立つ)ことも。夫の場合、自分の非を認められないタイプのようで、結論として、私が原因で自分の行動が悪化せざるを得ないのだと言ってきます。(ここまでくると、モラハラ・DV系の発言と捉えられるのは仕方がありませんよ、と夫に言うのですが、理解できないようで困っています。)続きます…..
続きです:
marioさんへ:
marioさんの奥さまの仰る「私の感情はどうするの?」ですが、私もそういう要求を突きつけることは多々あります。きっとmarioさんと奥さまの関係とはいくらか違うとは思いますが…..
たとえば、私にとって、問題とは、それは論理的にドライに解決すればいいことであって、感情移入は極力しません。悪い所があれば、それは指摘しあって改善策を考えるのが建設的。
ですが、私の夫は問題が起きると感情移入して、問題を指摘する際に、個人攻撃を含んでいるので、わたしは厄介な気持ちになります。
私は「原因がこちらにあるにせよ、感情を害するような言い方で言われた」ことが、心に深く残り、その感情を害した時の記憶がことあるごとにフラッシュバックしてしまいます。「あなたは、私の感情を害したことをまず謝るべきよ」と言い、相手が感情を害するようなことをしたことを真摯に謝ってくれれば、それは記憶から削除して、解消することができますが、なかなかうまくいきません。フラッシュバックする記憶は、とても生々しいものなので、できれば解消したいのですが。
極端な例なので、marioさんの参考にはならないかもしれませんが……..
突然長々と失礼しました。とてもタイムリーな話題だったので。
沢山の反論を頂き、ちょっと面食らってます。ずっと疑問に思ってた事とは言え、認識の差の大きさに驚くばかりです。一つ一つ、私の考えを書いてみますが、ちょっと時間がかかりそう。
yurinさん
> ただ一般的に『謝る』ということは『何が悪かった』ではなくて、相手を怒らせたことや悲しませた自分を、相手に対して詫びる、ということじゃないかなと思うんですよね。
この根本的な認識から違うんですよね。
私は自分の悪かった部分を真摯に謝ります。でも自分が悪く無いと思えば“絶対に”謝る事は出来ません。そう、何が悪かったかを冷静に考え、悪かった部分だけを謝るのです。そうやって、悪い、悪くないの共通認識を持たなければ、何度も同じことを繰り返すことになると思ってます。
気分を害した事に謝られても、原因となった事実への認識が伴わなければ、私には「この問題を先送りするために、とりあえず謝っているふりをしているだけ」ように映ります。「何も反省していない」と感じます。
でも、基本的な考え方が異なるのですね。どうやってこの部分をすり合わせれば良いのだろう。(自分が悪いと思っていない事を含めて)相手の気分を害したことにだけ謝るのは、私にとってかなりハードルが高いです。
逆の観点でも認識が異なる事に気が付きました。妻の言動で私がムカッと来ても、客観的視点から(妻の言動の背景が理解できて)怒りを納める事があります。そんな時に“私の納めた怒り”について追求される事があります。私が消したつもりの自分のマイナス感情を無理やり引っ張り出されるので、これにはかなり辛い思いをして来ました。
この問題、どうやって折り合いを付けるのが良いんだろう…
yurinさん
確かに「言い訳をしている」「何でもっと素直に謝れないの?」と言われます。
> 相手を怒らせた自分の問題や原因はいろいろあるけれど、たとえば原因がAであってもBであっても、またCであっても、怒らせた原因は全て自分という人間に属する。どんな原因であれ、自分という人間がしたこと(あるいは、言ったこと)に変わりは無いということ。
ここ、引っかかったので深く考えました。私のした行為(あるいは言動)が原因であって、私自身が原因なのではない。多分、そう感じてます。問題となった行為について謝り、今度からは同じ事をしないように注意すれば良いと思っています。
怒らせた原因が自分に属するにしても、ひとまとめにしてしまえば、謝って感情的に治まっても、結局何も解決しないし、単に問題を先送りにしているだけだと感じます。
う~ん、ASの緻密図的捉え方とADHDの概略図的捉え方の、違いが原因でしょうか…
月の草さん
私は感情移入しませんし、個人攻撃も多分していないと思います。生じた問題は論理的にドライに解決すれば良いと思います。そんな訳で多分、夫さんとはタイプが異なると思います。
ので、反論の仕方が似ているようであっても、余りコメントする事がありません(夫さんを同一視できません)。
また、素人が言う事ではないのですが、月の草さんは本当にADHDでしょうか?何となく違和感を感じます。YANBARU先生のHPの内容に従って、自己診断し直してみても良いかも知れません。
marioさんへ
この問題は、やはりお互いの違いをじっくり話すことが本当に重要であると痛感しました。このように説明されれば、私の夫の言動も『ああそうだったのか』と理解できます。
違いは仕方無いと私は思います。シンプルに『ごめんよ』と言われたほうが私は許しやすいけれども、相手がそれに抵抗があるのなら私は、相手に対してそれを要望として出すことはできないと考えます。
私がmarioさんのコメントを読んで、AS-ADHDカップルが成立するのに大事だと感じたのは、『ああ、そういうことなのね』とお互いが理解することです。
実生活では、なかなかそういう話を夫婦の話題として持ち出せないことも多いですが、私はここでやりとりすることで夫の本質的な理解が深まり、かなり冷静に話ができるようになりました。とてもありがたいと感じています。
marioさんのコメントより
>月の草さんは本当にADHDでしょうか?何となく違和感を感じます
私はコメントを書くとき、ASなのかADHDなのかをだいたい文章で判断していますが、時々それがわかりにくい人がいます。
『どちらかわかりにくい』人は、恐らく二次障害などで本来の姿(障害)がわかりにくくなっているのだと私は考えます。
月の草さんはもともとはAS、LisさんはもともとはADHD・・・ではないかというのが私の印象です。もちろん印象ですが、本来の姿がなんらかの原因で変えられてしまうことは、当事者にしてみれば本来の障害よりも、二次的な問題で苦しむ部分があるわけですから、ときに倍以上の苦しみになります。また二次障害を取り除かないと、本来の障害(自分)に向き合うことが難しくなったりもします。
成人発達障害の大きな問題点だと思いました。
ええっ!!いつも夫に馬鹿にされ、叱責され、なすすべもなくダラダラと生きてるわたくしがASー。高等生物にいつでも憧れているので、かなり嬉しいかも(^^)
思えば、いつでもmarioさんのように冷静沈着で、クールに私の間違いを指摘し、軌道修正してくれるような人に惹かれてしまうんですよね。たとえば夫と別れても、私はまた同じようなストイックな人に人に惹かれてしまうんだろうな、と、今日は台所に立ちながらしみじみ考えてしまいました(^^; つまり、依存したいというか。自分の考えに自信がありそうでないので、軌道修正の必要を感じてるわけです。そのくせ、口を出されたくないとも思ってるんだけど。つまり、“認めて欲しい”だけかもしれませんね。
認めてくれる相手が、ストイックな人であればあるほど、自分の自信に繋がる___裏付け・後押し?___ASに惹かれるのかも。______独り言ですみません(^^;
yuurinさん>
そうかもしれません。二次障害は、けっこう持っているとおもいます。ADHDのACというふうに言われます。
yurinさん。
私も、AS-ADHDカップルにはお互いの理解が必要な事を、ここでのやり取りで強く感じています。
ここでADHDの視点を得たからこそ、最近の妻との(離婚回避のための、妻にとっては離婚のための)話し合いでは、妻の言っている事を理解できるようになって来ました。妻の気持ちを引き出せるようになって来ました。
それでも合意には程遠いのですけど(^^;
> 44歳になった現在でも「独占したくなる嫉妬」とか「言わぬが花」といった高度な情緒的な状況理解は出来ない
たまに執着や独占欲もあるし、嫉妬もする事があるんだけど、自分的にはADDだと思っていたのに混乱してきました。
軽くAC入ってオタク系ですけど、依存による執着みたいなのを錯覚してるだけなのかもしれないが、それでも「独占したくなる嫉妬」の感覚は判るし起るわけです。
ASの説明を読んでも自分のことだと共感できないけど、ADHDの方はかなりよくわかります。
なんでADHDだと理解できないんでしょう?
今まで1.5の関係以上を構築できた事はほぼないですけど、
物を集めたり執着する事はありますよね、はたして相手を物と同じように平原でとらえているせいで(惚れた理由は異なれ、好きと言う感情が違うようには感じられない)執着が出来ているだけなのでしょうか。
この特別な人を求め興奮している自分が居て「相手は自分にとって必要」だと思っています、しかし、この感情がどうなのかを考えていくと、「ASの自閉症としてのほとんどのこだわりよりも優先する程」だとは思えない。
二次元のキャラに惚れたのも、「理解されること」を求めたよりも(当時はACとしての理解されたい要求の自覚はなかった、ADDからくる人との違いゆえの自己評価の低下はあった)何か惹かれる部分があった&「否定されない」ゆえと思います。
marioさんへ
>それでも合意には程遠いのですけど(^^;
恐らく、気持ち的に理解できない部分はたくさんあろうかと思います。ここでの『合意』というのは、たぶん気持ち的な共感という意味も含まれていると見えましたので。
恐らくADHDの奥さんとは恋愛観や結婚に対する考え方も異なっていると思います。一部メールにも書いたことがあるかと思いますが、より多くの当事者の意見が聞けたほうが参考になると思うので、改めてこちらにも書きますね。
特に恋愛の部分では、私と、私の唯一知るADHDの友人(女性です)が語るところから察すると、情緒的にはそんなに豊かなものを相手に対して抱くことはなく、また相手に期待もしないといったところです。良くいえばとてもクールでドライ、言い方をかえれば幼い、というイメージです。(その恋愛がたとえどういう形態をとっていても。)
わかりやすく例えれば友達の延長、・・・という感じかな?
ただ、私と友人のたった2人だけのサンプルなので、断言はできませんけどね。
・・・・
>月の草さん
ASが高等生物という考え方はとても面白いと思いました。たぶんACの部分が、私にはASっぽく見えたのだと思います。
コメントありがとうございました。
yurin様、HIKARI様、mario様
私が「はっきり言う」と表現していることを勇気を出して実行して、歩み寄りの努力が進んでいます。
これを私は「話が通じた」と感じました。話が通じるのはうれしいことです。
月の草様、○様
嫉妬については、「私には無い」ことが言えるだけで、ADHD全体に無いのかどうかは断言は出来ません。男女差があるのかも。出来れば(診断も含め)メールなどであらためて詳しく教えてください。
皆さんよく頑張りました。
コメントありがとうございました。
YANBARU先生へ
結局、『はっきり言う』を実行していたのですね。
『はっきり言った』ことで理解が進みました。
異文化交流ができた喜びがあります。
先生のブログは私にとって『未知との遭遇』で、毎日が発見で、新鮮です。
これからも良い刺激を与えてくださいますよう宜しくお願いいたします。
YANBAARU先生:診断の材料になるように、的確に昔の恋愛のことを話す自信がありません。昔は言葉少なく端的に話ができたらしいですが(友人談)今は全く言葉をだらだらと継ぐだけで、頭の中がバラバラで一つにならない感じなんです。
どのみち私はADHDで間違いはないと思います(ぼうっとした方のADHDです。)見てくださって嬉しいです。ありがとうございます。
>月の草さんへ
コメント読んで、あれ??と思いました。
私は、最初月の草さんのコメントを読んでASかな?と思ってそのように書いたら、やんわり否定されたあと『ADHDのAC』と、ご自身で書かれていたので、他スレッドでもそう書いてしまったんですが、もしも確定診断でなかったならごめんなさい。
で、さきほどブログを拝見しました。ADHD(私)は『完璧にできないからこの趣味はやめる』というよりは、『他のことに興味が移る』とか『単純に面白さを見出せなくなったから』という理由です。完璧や100は元から求めることはないので、この記述に私は『あれ?』と感じました。
ASとADHDの違いは『特定の(?)人に対する愛着』だけなのです。やはり発達障害であるなら診断は大事なんです。ASかADHDかっていうのは・・・・自分自身を知るために。
ブログ見せていただいたので、自分のブログ(ADHDのACであった自分が、過去について書いた日記)のリンクをおいていきます。名前からリンクしていますのでよかったら見て下さい。
yurinさん>
いつもいろいろ気にかけてくださってありがとうございます(^^)。いやいや、先生は単に研究者として少しでも不明瞭な部分を残したままにしておくのはいけないと、仰って下さっただけだと思うんですよ(^^) 先生の診断に意義を挟むつもりはなかったんです。私はどう考えてもADHDのACに間違えないし、他のものになりたくないです(笑)。これでもけっこう気に入ってるんです(^^)
私の考え方に時折皆さんが違和感を感じるのは、多分私がASにとても憧れていて、近づこうとしているからだと思うんですよ(つまり、偽ASにだまされてくださったわけですねー)。
ここは、ASの人にも読まれるとわかっているわけですから、真剣に伝えたいことがある時は、できるだけAS的な言葉の使い方を真似て(気力を振り絞って集中しないとできないことですが)書くわけなんです。特にこのスレッドのA,Bを使った説明はそういう気持ちで書きました。皆さんが「この人変!ASでは?」なんて言い出したのを見て、私はニンマリでしたよ(笑)
夫との会話の中では、常に「つまり、これこれこういうことか?」と要点を適当にまとめられた上(やれやれ)、夫なりの方程式にあてはめて解こうとするわけで、どうやらそういう人たちらしいと、あらかじめわかっているわけですからねー。。。その努力をしないで接すると、ASの人は混乱して動揺したり、空振に終わるだけですから……(苦笑)
私のところへも来てくださったようで恐縮です。また、リンクをありがとうございます。またゆっくり読ませていただきますね(^^)