これまでローレンツの個体認識の考察からADHDの根本的な対人個体認識の障害について述べてきた。
同じ図式を用いて、ASの対人認識の障害について考えてみよう。
私がこれまで接してきたASの人の対人認識の特徴は、ADHDとはまるで逆で、「個体認識しかない」という表現になるだろう。「自分」と「相手」という形で抽象的にイメージ化することができない。あるいはうまく調節できないということになる。
私は80年代に私は京都大学で学び、哲学にも親しんでいたが、当時は「現象学」の全盛であった。
ハイデガーやブーバーの「Ich-Duの関係」と「Ich-Esの関係」という表現が個体認識のことを理解するのに役に立つかもしれない。
Ich-Duとは、一対一の「私とあなた」で、名前がある相手との一回限りの関係である。ローレンツの個体認識に相当すると私は考える。
対してIch-Esとは、「三人称」的に自分と相手を観察する視点からの対人認識である。「抽象的な対人認識」とも表現できるだろう。
私の想像では、多数派の対人認知では、上記の「個体認識」と「抽象的な対人認識」とが同時進行で二つのチャンネルのように機能しており、瞬時の両方の総合的な調整の結果が対人認知と行動となる。
前述のADHDは、抽象的な対人認識だけがあり、「責任」や「尊厳」は理解できるが、それを超えた個別性、個性、「世界にひとつだけ」と表現されるような名前のある人との関わりを認知できないと言い換えることもできる。
私はASの人の場合は逆に、「この抽象的な対人認識ができない」または「個体認識と抽象的な対人認識が相手によっていずれかに固定されて総合できない」ということだろうと想像する。
ASの人の対人認識には、一方で「相手との距離が取れないで振り回される」という特徴と、全く逆に、「理科実験的」とも表現される相手への「物的」な捉え方という特徴が両方とも見られる。
前者は愛着の対象の相手に情緒的に抵抗できず、ベタベタに甘やかしたりする結果になることが多い。
後者は「死んだらどうなるか見てみたいから」等と言ったりする発言がある。人を「八頭身」などの「比率」で見る「対人観察」もASの人は得意だ。
(どちらの場合にも相手の「意志決定の主体」としての「尊厳」は認知できないことが多いのだが)。
この二つの特徴はASの人の決定的な理解されにくさをもたらしているのだが、相矛盾するわけではなく、「愛着の対象であるかどうかによってはっきり固定的に分かれている」と説明すれば理解しやすくなる。
つまり、愛着の対象に対しては「個体認識」だけとなり、それ以外の相手には「理科実験的」になるということだ。一人の相手に対して両方の捉え方が共存することがない。
愛着の対象に対しては、その場その場の情緒的な関係だけで行動が決定される。たとえば「共依存のイネイブラーになっているので厳しくしなければならない」といった「抽象的」な自分と相手の捉え方は出来ず、「断れない」という結果になる。
愛着の対象以外には、言わば「モノと同じ」捉え方で、合理的な思考のトレーニングを経れば抽象的に「尊厳」を理解して結果的にADHDと同様の行動をすることになる。「混じることがない」ので、本当に露骨にモノ扱いになることが多く、相手は傷つく。(これはジャイアンも同じだが)。
「個体認識」の捉え方だけとすると、一対一では何とか機能するが、3名以上の集団となると、価値観の違いや他のメンバー同士の情緒的な対立などの非常に複雑な状況となり、行動を決定できないほど混乱することが多いだろう。
AS特有の社会不安障害様の症状や視線恐怖は、この「個体認識と抽象的な対人認識の混同または取り違え、調整困難」などと考えれば説明も可能となると思われる。
会話する人数が3人以上になると複雑で辛いです。それはチャットでも同じです。多数で話をするのは苦手。どうやって会話を回すのか、どんなことを言えば良いのかさっぱりわかりません。
>愛着の対象に対しては「個体認識」だけとなり、それ以外の相手には「理科実験的」になるということだ。一人の相手に対して両方の捉え方が共存することがない。
シンプルではなく、複雑な感じがしました。愛着の対象であるか、ないかで両極端に分かれてしまう感じが不思議です。
自分はどうだろうと振り返った時に、正直よくわかりません。
時間軸が大混乱してしまいました。
私は主婦チームの世界から離れてもう半年です。
夫と別居してずいぶん経ちます。
もどらなければいいのに、まだ渦中いるような気分になってしまいます。
ネットでイネイブラーを調べました。
「イネイブラーの本当の顔」というタイトルのページに私がいまいた。私の人生の問題はやはり愛着のせいで発生しているみたいです。
昔のASの方の印象的なコメントを憶えています。
「心配するな。ASは愛着者からしか嫌われない」と。これは本当にそうだと感じます。
夫との小さな鎖を切ったのは、夜のツタヤの前です。レンタル品をボックス入れて外にすぐに出たのです。その距離15メートルあるかないか。出ても外で待ってるはずの夫がいない。探して見つけてた夫からの第一声は
「お前は俺を愛していないのか!」でした。見つけるのが遅かったからです・・・たぶん。
何百回も呪文のように言われました。
「俺は愛してる」「お前は愛が足りない」と。
浮気しながら「愛が足りない」という夫のおかしさ。仕事用ワンルームを女と一緒に購入したのに「愛が足りない」という夫のおかしさ。
夫に背を向けてひとりで家に帰ったのは、目が覚めはじめた理性がそうさせたのです。不安と恐怖の中で一つの鎖が切れたのです。
今までそんなことすらできないほど私は夫に支配されていました。
でも・・・
あれからずいぶん経って今は違います。
夫がクリスマスに手づくりでチキンを焼きピザを焼いてくれてるというのに定期練習だからと外出し、10時には帰るよといっておきながら10時30分に帰り、楽しく食事させていただきました。彼は後片付けまでしていまいた。
月に数回しか帰ってこないのに。
愛着がなくなったら女王様です。
さっき夫から電話がかかってきました。
夫「年末の掃除すすんでる?」
私「いいや(だってネットしてるし・・)」
夫「無理しなくていいよ。正月に倒られたらいけないし。」
・・・・
リアルで足の踏み場なない家です。
・・・・
現在、立場が逆転し、夫が私のイネイブラーとなっています。
過労死するくらい働いて、家庭にお金をいれて、たまに帰ってもじゃけんに扱われて、そして家は散らかってる方がいいらしい。
人間関係は不思議です。
部屋の掃除をするためや、子供を教育するために私が離婚する必要性はあまりないし、既婚者と知って関係をもつ女がその後どうなろうとしったこっちゃないし、誇りをもって仕事をし、過労死するなら問題なし!もう仕事と私に尽くして死んでくださいって感じです。
(病気になったらさっさと離婚しそうです)
でも・・・
これでいいはずはないので、とりあえず大掃除かんばります。
多数派とASの人の個体認識は同じなんでしょうか。
多数派とASの人のベクトルは「他者」に向いてるんですが
多数派は自分とは人格が異なる他者を前提とした個体認識で
ASは自分の中だけで完結する他者を前提とした個体認識な気がします。
翻って、ADHDのベクトルはあくまで「自己」で
そこが決定的にASや多数派の人とは違う気がします。
多数派の人達はすごいことができるんですねぇ。
それも自動制御に近いとは・・・・・。
どんなにがんばっても多数派になれなかったはずです。
もっと早く知っていたら、あれほど自分を苛むこともなかったのに・・・・。
知らないまま死ぬよりはずっとよかったですが・・・。
noriさんの「多数派とASのベクトルは他者に向いている」が「ADHDのベクトルは自己に向いている」という言葉、興味深かったです。
私は30年前から坐禅をしていますが、坐禅は完全に「外に向いているベクトルを内側に向ける作業」だからです。
坐禅を続けた結果、変わったことは
・ロマンチスト→合理的・現実的
・なよなよ・優柔不断→ドライで瞬間的判断でバッと行動
・過去や未来を思い煩う→今この時のみに集中
・ASの特徴(愛着)を残しながらもベクトルは他者から自己へ向きを変えた
等です。
現在考えている仮説は
「ASや多数派の一部の人に坐禅や瞑想は向いていて、実行するとADHD的になる」結果、ACから抜けやすくなるのではないかというものです。
以前はACだった分、多数派の中に目立たず埋没していたような気がしますが、ACから抜けたら変人さが増して多数派からは遠ざかった気がします。でも心はびっくりするほど楽になりました。
愛着は今もありますが、愛着の対象とそうでない対象の区別が曖昧になり、以前よりもADHD的に公平になってきたと感じています。
愛着は本当にエゴだと思います。
私は今「現実」に苦しんでいるのでなく自分の「エゴ」に苦しんでいるのですから。
私は夫に愛着がなくなったのではなく、新たな悪魔のようなコントロールの手法を痛みから学んだだけです。
時限爆弾の時は刻まれている。
どう生きたらいいのか分からない。
・・・・あ。
仏教はすごい。答えがあった。真理はこれだっ!!
『掃除しろっ!!!!!!!』
黒すりごまさんの
少数派多数派関係なくACは内面にベクトルを向けると回復に向かうというのは、すごく共感します。
僕も、adhdだけれどもACにどっぷりつかっていた時はベクトルは外向きでした。正確にいうと、向けれないのに向けようと頑張ってたといった方が正しいんでしょうか。
その理由は、母に感情を大切にされなかったからでしょう。
気持ちを汲んでもらったり、受け止めてもらうという経験は皆無で、自分の感情など無いに等しかった。
多数派少数派関係なくACの人は他人軸で生きがちです。
人からこう思われるか、こう行動する。こう見られるから
こう発言する。八方美人が典型的ですね。
多数派がどういう過程を経て、自律性と成熟性を獲得するか。それは、自己の内面にベクトルを向けてるからです。
自律性を獲得してる多数派の人を観察していると、その人の動機は常に自分の内面にあるように感じます。
「自分がこう思うからこうする」「自分がこうしたいからこうする」といった。
だから、そこに恩着せがましさや相手に感謝を要求することもなくなってくるんでしょう。
ジャイアンの場合、自己に内面のベクトルをどれだけ向けても自己中心性を脱却できない所に苦しさがあるんですが。
(書かないと動けそうもないので・・コメント(?)させてください)
夫は結婚前、100人近くの女性と関係を持ったと自慢したり、バスの座席で「○○○○○」をやらせるようんな男でした。そして私にとって夫婦関係は苦痛に耐えるもの、それが愛でした。
・・・
チームを移ったばかりのある日の練習中、私の噂話を信じたコーチが、パスを受けるために振り向いた私に、非常に強力なシュート性のボールを体めがけて撃ってきました。故意なのは明白でした。それが袖に触れて通り抜けた時、はじけるように頭に言葉が響いたのです。
『フットサルなんてやめちまえ!この淫乱女!』と。
夫と同じ年の「コーチ」の器には信頼と刻まれていますから、ただの人格攻撃か指導かの区別なんでつきません。
「淫乱女」と言ったコーチ(脳内)も無条件信頼です。
このチームに通い続け、過呼吸、声でない、腕震える等となっていき、ようやく自分の問題に気付き、現在にいたったのです。
よく生き延びたな~。
YANBARU先生
新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
先生にとって素晴らしい1年でありますように祈っています。
先生が発達障害者支援センターかNPO法人(成人発達障害者支援.南部or中部)などで嘱託医が出来る事を願っています。
みなさんが苦しんでいる事を助けられるように応援します。
お体に気をつけて下さいね。
いつもブログを読んでいます。
発達障害者支援しているNPO法人で嘱託医を出来たら良いですね。中部の発達障害者NPO法人は、小児・成人に凄く強化している。ここで嘱託医などが出来る事を願っています。 YANBARU先生が中部で診察か嘱託医がやってほしい。 中部の発達障害者NPO法人と連携してほしい。
このままだと、コーチが極悪人にになってしまうので、続きを書きます。
コーチはジャイアンかと思うほど俺様系で短気です。ジュニアの試合の時に、審判の判断にカッとなって椅子を蹴っ飛ばし、退場処分をくらった前科持ち。私にボールを打ち込んだことは気にしているように見えました。
コーチはいろいろ私を気にかけていまいた。
私が道を渡ろうとした時、
「まわりを見ろっ!!!!!!!(怒!)」と注意したり。
「はい。(みんなで)深呼吸して。」と突然言われて、なんのことやらと思ったら、実は私が呼吸停止していたとか。
コーチ運転の車で子供たちと一緒に一泊二日の「合宿」に連れて行ってもらったこともあります。
コーチの職業柄か、監察され、つっつかれ、そしてたくさん優しくされて、「お前は何者か」と問われ続けた気がしました。無理やりこじ開けられた私の心は不安定になり、身体症状まででてくる。素人がカウンセラーのまね事をやって、余計に悪化させた状態だったかもしれません。
それでも私にとって、コーチはとても温かい存在で、私を指導し、包み込んで守ってくれる「父親」でした。
そんな中・・・
奥様、他に袋叩きにされて、ジ・エンドっていうわけです。
>私はASの人の場合は逆に、「この抽象的な対人認識ができない」または「個体認識と抽象的な対人認識が相手によっていずれかに固定されて総合できない」ということだろうと想像する。
はい、もう本当にピッタリくる(脳内に浸透する)説明(表現)です。
後述されている、愛着とそれ以外とでの『対人認識』の差異は
これもまた本当にそのとおりで
…自分なりの語句ですと、人の『扱い方』『距離感(間)』『パーソナルスペース』…
愛着ではない人へのモノ扱いの甚だしいこと、この上ないです。
(以前いくつかのエントリーへもコメントさせていただきましたが、)殺意に排除に思い通りに運ばない時の憤り。
そういう脳なのさと受け入れてもみますが。
わたくしの場合、そんな自分を頭の片隅で見ている(気付いている、観察している)こともありますが
疲弊してくると振り返りさえも鈍くなるように感じます。
最近は、時折「気をつけろ、冷徹すぎるんじゃないか、すんごい誤解を招くぞ」
と
組織ではたらく上での超えちゃいけないラインを意識します。
(でもそのラインも自己判断なので…まー、当てにはならぬのですが。)
…すみません……自コメに補足です。
殺意ほどの情動が動くのは相手が愛着だから、かもしれぬと今更気づきました(バカ)。
もしくは
ACの感情面、愛されたいとか抑圧された子どもが出過ぎている(何でも思い通りになってほしい!私が一番じゃなきゃいやなの!系。)とかetc。
といいますのも
ここに書きながら気がついたのですが
自分のパターンの中には憤りが湧きつつも他者をモノ扱いすることと
本当に研究者並の冷静さだけがあることがあるなぁ、と。
本当の観察者、実験者、冷徹な冷静なただただ仕組みを知りたくて探求する脳の時は
逆に調子が良いかもしれません。
他者を認識せざるをえない現実社会に戻った時がきついかも、と改めて言語化できました。