WAISなどの知能検査では明らかな学習障害の特徴は示さず、また文章も比較的うまく書けるのだが、相手は「どこか話が通じていない」と感じるASや高機能自閉症のケースに時々出会う。
「木の絵を描いて」と言われて、「何で葉っぱが無いか?」と聞くと、「木の絵を描けと言うから」と答える。最近話した高機能自閉症のケースで印象的だったのは、「先輩の言うことを
聞かないことが出来ると知らなかった」という発言だった。
これは狭義の学習障害というよりも、社会的な状況理解の障害でASないしは高機能自閉症的な認知の特徴と見なされることが多いだろうが、見ようによっては「連合の学習障害」と
見ることも出来ると感じた。
観念の連合とは、具体的には「連想」のこととも言えるが、「木」から「葉」まで行かない。「葉を書けと言われていないから幹だけ描く」という発想は、「連合の及ぶ距離が非常に短い」という見方も出来る。
だから多数派的な想像、連想の及ぶことを「普通」と考えれば、非常に連想の及ぶ距離が短い、範囲が狭いというのは一種の「学習障害」と考えることも可能だろう。
例えばASや高機能自閉症の人が「空気が読めない」という場合、現象としては「特殊な自分なりの読み方をする」ということになるのだが、その独特の認知と行動はこの「連想の
距離が短い」という認知・思考の特徴から来ていると考えると理解しやすい。
だからADHDの「注意が継続できないから周りの情報を十分に取ることが出来ず空気が読めない」のとは根本的に異なる現象であるということになる。ここがASとADHDの根本的な違いの一つだ。
まさに!穏やかなんだがあの通じなさ加減、、、。
それを見越して事細かく説明してもあんまり聞いてない、
という。説明の意味がないじゃん、、、。
観念の連合の及ぶ距離が短い、、、エピソード。
夫に関して、よくあるのが汚したテーブルを拭いておいて。
というと、拭いたふきんを汚れたままにします。
「汚れたふきんはちゃんと洗ってね」というと水でジャージャーぬらすだけできちんと絞りもしません。
おまけに「洗う」という動作も、なんていうんだろう。
普通はキレイにするために洗う訳なんですが、彼の場合、
そこまで考えが及びません。「洗った」という事実があれば
キレイに汚れが落ちていなくてもいいわけで、風呂場の髪の毛なんかも「シャワーで流した」という事実があれば、実際髪の毛が沢山残っていても気が付かないのか、どうでもいい、と思っているわけです。何のためにそれをするのか?という根本的な事には考えが及ばず、大抵は何もかもやりっぱなしです。
そう言う根本的違いがあるのですね。
僕の場合はひたすら合理的に考え抜いた方が、まだ人の中で自分が判断できる能力を確保できるから、意固地に自己判断してます。
自分と娘と息子はどうだろうと考えてみました。「連想」に関してはどちらかというと普通より連想を広げ過ぎる傾向があって、それで気疲れしてしまう感じがあり、むしろ心理療法や瞑想でその習慣にストップをかけるトレーニングをして、調子が整ったように思います。