さて今一度ASの話に戻ろう。ADHDについて書きながら、ASの人が「頭で分かっても納得はできない」というあたりに参考になる説明の方法が無いか考えていた。
そこでひとつ、私にはかなり複雑な作業になるのだが、「ASから見た多数派」という観点から考えてみようと思う。
幻想1.多数派の人は、お互いに、「ASが考えるほど厳密な意味での」理解をし合っている。またそれが可能である。
これはADHDの場合と同じで、幻想だ。多数派同士は(ASの世界での表現をすれば)、「表面上の対立が無い振りをしている」 にすぎない。だから極端なはなし、(AS流には)「多数派は全員嘘つきだ」ということになる。ちなみにこれは多数派だけでなく、「有限の人間には不可能な業」であるのだが。
幻想2.多数派の人は、「ASの人が体験しているほど明白な意味で」、自分のこと、相手のこと、自分のしている行動などについて「分かっている」。「分かって行動している」。
このように体験して生きているのはASだけで、実は世間の多数派は、ADHDほどではなくても自分のことや自分のしていることなどに対して、「分かっていない」。
あいまいにしか分かっていない状況が多数派(とADHD)には当たり前であり、あいまいな理解からとりあえずの場当たり的な判断を積み重ねてみんな生きている。
だからAS的に言えば、「世間のAS以外の人は全て優柔不断でいい加減で、無責任である」ということになる。実はこれはASが不可能なことを自分にも他者にも要求しているだけであるのだが。
圧倒的多数の人々がASと全く違う認知の世界で生きていることを理解しよう。当たり前のことだが、そういう状況の中でAS流の表現をすれば「大げさ」となるのは十分に想像でき、また時には「脅し」とも受け取られることになる。
「他の多数の人が見ている世間は自分と全く違う」ということを想像することは多少役に立つと私は想像する。
「大げさ」で「脅し」になるかも知れませんが、ここでは自分の気持ちに正直に書いてみます。
「嘘つきが多い」事を当然と認めてしまえば、「有限の人間には不可能な業」として諦めてしまえば、人間として生きる意味がない。人間は知的な存在なのだから、努力を続ける事で相互理解が可能であると思う。
「分かって行動」しなければ、自分のすたことに責任が取れない。だから分かって行動すべきであって、それをしない事自体が無責任である。分かったと思って行動した結果、それが間違っていれば考えを改める必要があるし、相手のある事であれば謝罪しなければならない(謝罪できる)。
ASにも不可能な事と言うが、それを可能とする努力をしており、そのために苦しんでもいる。苦しんでもなお、その努力の先に相互理解と行動への責任を伴った「ユートピア」があるような気持ちでいる。
「圧倒的多数の人々がASと全く違う認知の世界で生きている」ことは、先生の記事と皆さんのコメントで理解し始めたし、それに配慮して(合わせて)行動することが、この現実世界では必要な事も分かって来た。それでもなお私にとっては、「悲しい現実に直面した」という位置付けであり、多数派の上に立ったものの見方を拭い去る事が出来ない(自己評価が下がってない)(この高慢さが今度のトラブルの原因になると自分で予想しています)。
以上、他者に配慮せず、自分の感覚を正直に書きました。
現実社会では、自分なりに「多数派」を観察したことによる知識で幾らか上手く乗り切れるように“大人になってから”なりました。このサイトの記事及びコメントで、その知識や理解は更に増えましたので、もうちょっと上手に生きて行けるのではないかと、自分自身で期待しています。
また、ADHDの方や多数派を理解するために、思いつきで場当たり的に行動してみたり、分からない事は分からないと保留する、といった試みも始めています。それが“精神的にとても楽な事”に正直驚いています。反面それには、無責任だと感じる心の痛みも常に伴ってます。
私なりの意見ですが・・。
幻想の1の
>「表面上対立が無い振りをしている」にすぎない。だから極端な話(AS流には)「多数派は全員嘘つきだ」・・・
実際私も多数派がそんな風に見えてしまいます。「嘘つき」というよりも、「信用できない」が私の場合、フィットするようです。
幻想2の
>だからAS的に言えば「世間のAS以外の人は全て優柔不断で、無責任である」ということになる。実はこれはASが不可能なことを自分にも他人にも要求しているだけのことだが。
そんな風に感じてました。
私の場合は、数々の失敗の中で「こうすればこうなる」という方程式ができてしまって、選択肢が非常に少ないことが原因なのではないかと思います。
その数少ない方程式は『絶対』といえる程「間違いにたどり着く可能性は低く、自分を完璧に導く『絶対的なもの』」だったように思います。
だから、AS以外の方が優柔不断でいい加減で、無責任に見えたのだと思います。
これは、「理屈の中でしか生きれない人間」「人の失敗を許せない、狭い世界に住むしかない人間」ととられる危険性があるのではないかと思います。
あくまでも、『私の場合』ですが・・。
marioさんのコメントから:
>ASにも不可能な事と言うが、それを可能とする努力をしており、そのために苦しんでもいる。苦しんでもなお、その努力の先に相互理解と行動への責任を伴った「ユートピア」があるような気持ちでいる。
・・・というのは、恐らくAS流の認知の歪みであるだろうと私は考えます。私が知る限りではそのような『ユートピア』は存在しません。これは事実です、と、私も正直に書きます。
認知の歪みの修正は、楽なことではないと思います。それは私も(ADHDの)ACとして幾つか認知にゆがみがあり、それらの修正は決して楽な作業ではなかったからです。
それでも、事実にはありもしない幻想や自分勝手な思いこみなどで、ゆがんだ認知から次第に開放されてくると、自分が楽になり、本当の意味で生きているという気持ちになりました。
苦痛でも、それを乗り越える、または可能な限り修正することは、自分が本当の意味で楽になるために重要なことだと思います。
HIKARIさん
私も「信用できない」と言う表現がしっくり来ます。ただ「世の中の一部には信用できない人が居る」とこれまで思って来たのが「世の中の人の多くは信用できない」と教えられた訳です。(AS的観点でみると)信用できないが、多数派は(つまり世の中は)そんなもんだからそれを許容する必要があると言われると、やはり悲しい現実に直面した気持ちになります。
yurinさん
そのようなユートピアが存在しない事は事実として知っています。それでも近づきたいと思う。その時に考えないといけない事は方法論で、相手(周囲)にそれを求めてはいけない事が分かりました。
自分の行動を良く理解しそれに責任を持つ。勝手にやります。相手にはできる限り「責任を持った行動」を強要しないように心がけます。
相手の理解の努力も続けます。AS的な意味での厳密な相互理解は無理だと分かりましたが、「これは表面的に対立を避けている」とか「これは場当たり的な判断から言っている」と読むのも、相手の理解の一つですよね。
先生が言われる「圧倒的多数の人々がASと全く違う認知の世界で生きている」ことは理解し始めました。「大げさ」にならないよう、「脅し」と受け取られないように表現する事は、その注意はしていますが、未だ充分に分かって居ない気がするし、これから注意し続ける必要があります。
認知の歪み… 自分の認知が歪んでいる事は理解しました。多数派やADHDの方への理解も進みました。ただ、自分が持っている感じ方(認知の歪み?)は修正できないような気がしています。その意味で、私がこれから何を乗り越えたら良いのか、良く分かりません。
HIKARIさんのコメントから:
>「嘘つき」というよりも、「信用できない」が私の場合、フィットする
・・・となると、『世の中の自分以外の人間はほとんど信用できない世界で生きていること』を、私は想像します。
もしもそういう世界が居心地いいのならば、私はあえて『そういう世界こそ現実にはありえないよ』とは言いませんが。
しかしASの人は私には不思議に見えます。自分でも『(その世界で)苦しんでいる』と言いながら、そこから出ようとか、本当の現実を見ようとはしないように見えるから。
私が伝えたいことは、(ASの人に)『あなたの見ている世界はそうだけど、本当はこうだよ』ということだけです。
それは(ASの人にとって)『悲しい現実と直面すること』になって辛いのかな、とは想像しますが・・・。
marioさんへ
>ADHDの方や多数派を理解する為に、思いつきで場当たり的にこうどうしてみたり、分からないことは分からないと保留する、といった試みもはじめています。
私も試みを始めています。
ちょっと苦痛も伴いますが、(相手に合わせ続ける義務に潰されそうになる苦痛)結構いいかげんでも許してもらえることもあるんだなと、少しホッとしています。
でもどうやら、その相手も何故か同じ匂いがします。つまり、多数派ではなさそうです。
相手が多数派だった場合、私の場合は長続きしにくい感じがします。
その場限りでは合わせられるのですが、無理してまで「会いたい」とはあんまり思わないのです。困ったものです。
>yurinさんへ
・・となると『世の中の自分以外の人間はほとんど信用できない世界でいきていること』を私は想像します。
自分以外の人間のほとんどは信用できないというよりも、多数派のほとんどが信用できないという方が私の『幻想』です。
私の周りには、何故か『少数派』が多いことに気がつきました。本能的に選ぶというか、選ばれるというか・・。不思議ですが、居心地の良い処に『多数派』がいないような・・。
>『あなたの見ている世界はそうだけど、本当はこうだよ』ということ・・
深い言葉だと思います。
私の見ている世界は不自然な、自分に都合の良いパズルかもしれません。
苦労して完成したパズルを離れたところから見たとき、おそらく愕然とするのかもしれません。
それが『悲しい現実と直面すること』なんだろうなと想像します。
HIKARIさんへ
>私の見ている世界は不自然な、自分に都合の良いパズルかもしれません。
>苦労して完成したパズルを離れたところから見たとき、おそらく愕然とするのかもしれません
とても深い言葉だと感じました。
『悲しい現実に直面する』、という心理は『現実は、自分が想像していた理想郷ではなかった』というようなものではないかと私は想像します。
実は私にとっても多数派は『どこか怖い(信頼しがたい)人達』というイメージがあります。ただ『そういう世界(人達)もある』と、今は理解して納得もしてますが、やはり同調はできません。
私がASの夫をパートナーに選んだのも、『本音と建前を使い分けしなくてもいい(逆に、そういう事をしない人=信頼できる)』ということだったように思えてきています。
多数派の説明、大変分かりやすいです。
多数派気取りで人の中にはいってゆくときには、モノゴトを
あまり突き詰めて考えないようにしています。
たんなる社交の場で、「もしも」などの緻密なフォローを考えないように。
ただ、、、。定型が嘘つき、という話なんですが、、。
ADHDの強いアスペルガーのように見える夫が一番嘘つきだと思います。
自分を良く見せるために下らない嘘ばかりつくんです。
自分が優位に立ちたいものだから自分の情報をなるべく与えないでちょい嘘ばかりを連発し、知的でミステリアスなフリをする、、、。
一緒に暮らす者でないと、この嘘は分からないんじゃないでしょうか?あまりにも嘘ばかりで。
メッキが剥げ妻に嘘が通用しない今、子どもに自分を良く見せるため(常に優秀で文武両道でモテるなどの嘘)または得をするため(食べ物の数をごまかすためとか)生活のだらしなさを注意されないため、などの情けない理由で嘘ばかりついているんですが、悪い事に、その嘘をチビジャイアンが真似する、という負の連鎖ができています。
「本来、嘘はいけない事だし、チビが真似するから嘘をつくのはやめてくれ」と言っても取り合わないし、嘘なしで生きたことがないんじゃないか?という位彼の発言は小さな見え透いた嘘で固めらているように見えます。
普通、「アスペは嘘つけない」と聞きますが、夫の場合、
他人の嘘を理解できないが、自分はバリバリの嘘つきである。という感じです。
ちなみに夫は未診断(「晴れ時々アスペルガー」というマンガや本に出てくる「夫」にそっくりです)ながら、チビジャイアンはがっつり診断済みです。