ASから見ての譲歩の可能性を細かく探る作業を続けよう。
前回と同じことになり、これはここまで読んでこられた大方のASの方が頭では理解できると思う譲歩の第一歩は、「自分は完璧を求めても、人には求めない」というところだろう。
個人個人の生き方については、「認知のゆがみ」等と言うべき事ではなく、もとより本人の選択であり、それによって本人が辛いことになったとしても、他者からどうこう言うべきではないと思う。
だからASの人が本来人間には不可能な完全を求めていても、それは本人のスタイルとして尊重されるべきことだろう。
ただそれと、「だから当たり前に他者にも完全を求めて良い」こととは違う。他者と関わる次元は、本人一人の世界とは全く違う事情を考えねばならない。
だからASの人がまずやってみることは、「自分について求めることと、他者について求めることを分ける」ということになる。
例えば、「ASから嘘つきや努力不足と見えても、多数派の生き方については一個人の意見として異論はあっても、その通りにならないからと言って相手を責めない」ということになる。
極端な話、「嘘つきでも不完全で努力していなくても相手の選んだスタイルであれば尊重する」ということになる。相手が選んだスタイルへの尊重をし続けられれば、多数派やADHDとの共存は可能だ。
逆に、その「完全を求める」ところを共有できる相手であればこの問題は生じない。その場合は、自分がそういうスタイルであることを言葉で明示して、万が一それに合わせられる人が居なければ、潔く孤立の道を選ぶということになる。
この場合選択するのは相手の方であるということになる。
YANBARU先生
『認知のゆがみ』発言への指摘ありがとうございました。
少し自分自身について書きますが、私はどこまでが『自分の認知の歪み』で、どこからが『これは自分の生き方のポリシーの部分』が、未だによくわかっていません。だから何もかも『間違っている(認知のゆがみ)』のように見えてしまう状況に陥っています。多分『自分という元々のキャラクター』がきちんと見極められていないからだろうと仮定しているのですが・・・。ASの人の話に横から別の話をして失礼しました。また自分のこのような状況ゆえのコメントでの失礼を、どうかお許しください。
『相手の生き方を尊重する』ことは異文化共存のためには重要だと思います。そして、実はこれこそが一番『双方のすり合わせが難しい』と思います。相手によりすぎても自分によりすぎても、関係としてはバランスが悪くなりますから。
自分としては『無理無い形で夫の生き方を尊重している』つもりですが、夫のほうはどうなのか、確認していないのでわからないです。
ただ私が夫に一番求めたのは『裏表のない正直さ』であり、『信頼できる相手』であるということです。本当は、だからそれ以上を求めてはいけないのだと思ってはいますが・・・。
ASの人へ。
>万が一それに合わせられる人が居なければ、潔く孤立の道を選ぶということになる。
私が、ASの人の好きなところは(夫のこととも重なりますが)、『信頼できる人』であるというところです。若干思考的に窮屈に思えたりするところもあるけれど、(今の)私にとって『本音と建前がない』ことがなにより安心できるからです。だから、少々こだわりがあったり、思考的に同調しがたい部分があっても『ある程度は理解して、尊重しよう』という気持ちになれます。
そうですね・・・だから『完全な理解』とか、あとは、漠然とした表現になってしまうけれど『ASならではの思考』を100%求められなければ、私は(ASの)夫は自分にとって一番のパートナーだと思います。