「ASと想像力」でも書いたが、ASの人の思考には、「可能性が直結して必然性になる」という特徴がある。単純な人間の有限性の認識が困難なのは、この思考の「逆が」関係しているように思う。
「有限であると認めれば、生きる意味が無い」という思考には、よく見ると、「有限であると認めることで、改善のあらゆる可能性を断念することになってしまう」という飛躍がある。
有限であるとは、「100になる可能性を断念する」というだけであり、40から60へ向かう努力は当然するべきなのだが、ASの人には、実際には40とか60のレベルで努力するに当たっても、常に「100になりうる」という保障が必要なのだろうか?
有限性を認めることは、努力の可能性を開くことであり、誰も努力の可能性は否定していない。ただ「100は不可能」という前提で努力するかどうかの違いだ。
ADHD(である私))にはもともと「100」は非現実的なものだ。目の前にある現実から、「少しマシになるかどうか」が一番の関心事であり、そのための努力は当たり前だ。
100が不可能であればこそ努力するのだと思う。相手を理解することの困難さを理解して努力するのと、「理論的には完全に理解することが出来るはず」と断定して努力するのとでは、努力の中身が違ってくるのではないだろうか?
有限性の認識とは、「100を捨てる」だけのことだ。90へ向かう努力は否定されない。無理やりにゴールのほうから全てのことを考えるのではなく、目の前の現実から出発しようというあくまで現実的な発想をしているというだけのことだと思う。
もとよりこの内容は、本来一人ひとりが選ぶべき自分のスタイルの領域の話であり、私が書いていることも、「私の異論」でしかない。ただASの人がAS以外のひとを理解するのに役に立つ可能性があると考えて書いているだけだが。
完璧主義ってことに通じているのかも。
最近、実母がASだろうか?と思うようになって
きたのですが、
その母は、私にいつも100を求めました。
それが普通の環境で、素直にそのまま育った私自身も
やはり100しか知らなかったです。
数年前までは、60ぐらいの自分を人間失格としか思えず、
挫折の人生。生きる希望が見いだせず苦しく思っていました。
それから100ではないのに、どうして自分が褒められるのか
評価されるのかも不思議に思っていたのですが、
他人を指導する仕事に就いて初めて、
小さな努力も評価される対象にあると、やっと気づきました。
特に、このことを私に気づかせてくれたのは、
いつも前向きなADHDの人達です。
不確定な未来に対して果敢に挑んで行く人達が多い。
失敗を恐れず、努力が実らなかったとしても、
苦にせず(表面上だけかもしれないけど)
さらにチャレンジする直向きさが、私にも自信持たせてくれた気がします。
『100』は求めても現実的には無理。
しかし100が期待できないからもう絶望、と思うと私は何もできなくなる。何もしないということは、可能性自体をゼロにすることになる。だから、たとえ1でも望みがありそうなら、それに掛けて、1の可能性を、たとえば5や10にするために私は努力をしようと思う。そういう努力も十分有意義だと私は思う。
私は、ADHDに限らずAS以外の人はみんなそう考えて生きていると思う。
どうしてだろうと考えると『僅かな可能性でも掛けていたい、信じていたい』というだけだと思います。
お互いの理解にしても、実際見ていると多数派の人もそんなにはわかっていない。言葉の意味の理解にしても極端な話、50程度だったりすることもある。それでもそれを(多数派流では)100の理解としていることだって現実にはある。これは私にとって驚きの事実でした。正直(私からすると)『・・・こんな程度だったのね』という感じでした。愕然としたというか。(いい意味で)
>ADHD(である私)にはもともと「100」は非現実的なものだ。目の前にある現実から「少しマシになるかどいうか」が一番の関心事であり、そのための努力はあたりまえだ。
こういう風に考えられたら私はもう少しマシになっていたかもしれません。
今までの私は「少しマシになる程度なら、努力の成果が見えない・・やる意味があるのだろうか・・?」という考え方があったと思います。
よく「コツコツと努力することが大切だよ」と教えてくれる方がいますが、私にとってその「コツコツと努力」すると言われた途端、少し苦しさを感じてしまうのです。
努力するからには他を犠牲にしてまで努力をしてしまうほうなので、「少しマシになる」ことを目指すのはとっても物足りないような気がしていました。
でも、自分が変わらなければいけないということがわかっていますので、「結果優先」ではなく「今日より明日」を目標に生活してみようと思います。
YANBARU先生のブログは、自分を見つめなおすことができます。少しマシな私になれるような気がしてます。
先生、ありがとうございます。
>特に、このことを私に気づかせてくれたのは、
>いつも前向きなADHDの人達です。
こんなに励まされる言葉はないです.心の奥底に灯がともるようです.
少しへこたれていましたが、この先もずっと頑張ろう...と思うことができました.
自覚がないASには、どれほど努力しても評価されない、理解は得られない、時には敵だと思われることもある.そういう諦念と覚悟を持たねば... それでも進むんだ...
いつもそう言い聞かせつつ、そこに希望がなければ前に進めない、やっぱり分かって欲しい、分かることで互いにいい方向に進んで行きたい、と心から願っている自分を認め、赦せる気がしました.
こちらがASを理解し、寄り添おうと思うほどのものを求めることはできくても、yanabru先生がおっしゃる「前提」、100でなくても努力に意義があることや、自分と違う他人が決して敵ではないことを、言葉ではなく姿勢と、そして至らないではあろうけれど結果をもって、解ってもらおうと思います.
でもASの人の『100を求める』精神は悪くないと思います。(相手に望まなければ)私はどうしても現実性を優先に考えて、『100』を最初から諦めて、現実的に手の届くところから・・・と考えてやってきたことが多いので、結果として妥協ばかりの人生になっていたような気がするからです。
どんなに非現実的なことでも、望みをもつことが大事というときはあると思います。ただ、それに固執しすぎることとは別です。理想は理想として持ち、実際、望みをかなえようとするときは、やはり届くところから着実に手をつけて1歩1歩100に近いものを目指す。それが現実的であると思いました。
「可能性が直結して必然性になる」
今回の説明、とても良く分かりました。確かに100を目標にした場合に、それ以外の目標点を考えない事が私にはあるかも知れません。(全てにおいてではありません。例えば仕事などでは意識して現状の50を60にする努力をしています。)
ただ、50を60にする努力(現状から出発して少し引き上げる努力)を認めれば、最終目標が90であれ100であれ問題は無い筈ですよね。
あ、人との相互理解については、100%の理解は完全に断念する必要がある事は分かります。自分についてすら、100%は分からないのだから。(でも現実問題として、100%に近い相互理解を欲している私も未だに居ります。)
読解力がないのか、いつも何度読んでも「むむむ。。。?」となってしまいます(笑)
完ぺき主義という事だとすると、旦那はまさにそうでした。
「おれは仕事では完璧にやってるんだから、お前も家の事を完璧にやれ!!」と何度言われた事か。
共働きだったんですけど。。
そういうかたよりの脳だってわかっていればもうちょっと対処のしようがあったのかなと思うと少し残念です。
marioさんへ
『100%に近い相互理解』を求めることは素晴らしいことです。ただ『保証』を求めなければいいだけです。
相手にはそれを求めないで、自分の生き方として、一生掛けて、『100%に近い相互理解』を探求することを目標にするのなら、それに共感してくれる人はきっといます。
人は誰でも、あえて言葉にしないだけで、全てを分かり合えることを心に描いているのだと、最近思うようになりました。