多数派を観察することは、同時に多数派との比較の形で自分自身のADHDとしての脳の働きの特徴を具体的に理解することを意味することはこれまで書いてきてお分かりだと思う。
実は多数派に対しての仮説が積み重なってくると、「とても合わせては居られないくらい違う」ということが分かる。私の場合はそうだった。そもそも求めていることが根本的に違い、「合わせる必要性があるのか」という疑問も生じてくるほどだ。
その段階ではじめて、「(多数派を見据えた上での社会全体の中での)自分なりの生き方」の方針を決定することが可能となる。
「多数派はこんな人たちで、自分はこういう脳の働きを持ち、こういう違いがある。だから自分はここまでは多数派に合わせて生きるが、ここから先はADHDらしく生きる」。という自分なりの生き方の方針を定めることが重要で、コーチングの短期的な目標となる。
私はこれまで20年以上の観察結果から多数派について多くの仮説のストックを持ち、多数派の行動についてある程度の予測が出来る。だから多数派に合わせて生きようとすればある程度は出来るとは思うのだが、そうした場合のストレスが大きすぎて実際にはADHD丸出しの線で生きることにしている。
私の「偏屈者宣言」はそういう意味での私自身の「ADHDの脳に合った生き方」である。
http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/henkutu.htm
>多数派について多くの仮説のストック
そのストック読んでみたいです、ぜひ。
私は自分が多数派だと思っていたので(多数派だけどだらしがなく人に迷惑をかけてしまう、でも元気だけはある人間だと。)、そのようなストックは皆無です。
また私と関わりのある人達が本当に多数派なのか、それすらわからない感じが…。
でも今までは、無意識に多数派に自分を合わせようとしていたと思います。自分のみならず、家族にも強制していたのかも。
だから生きづらくなったのかなとも思います。
でも、「常識、世間の目」を叩き込まれて育ったので、自分を出すような行為はむずかしいです。
私も自分の仮説を立ててみました。
私の仮説1・・・『多数派は、一対一であるときに限り本音に近い意見を言うが、それはADHDが考えるところの本音とは微妙に異なる。また一対一で言うときの意見は、秘密だよ、と断りがなくてもこれと同じ意味合いを持ことが多い』。
仮説2・・・多数派の求める人付き合いは『その場、その時、表面上の対立がなければ良し』であり、また『期間限定』であることが多い。実際私は『役員活動期間が終われば、(表面上)どれだけ親しくしていた相手であっても、殆どの関係は終わる』という現実もいくつか見てきた。
仮説3・・・しかし『親友』という言葉があるように、『本当に気の合う相手』とはこの限りではない。つまり『親友』と『便宜上の友人とは、はっきり分けて考える』。
仮説4・・・多数派のいう『親友』には、個々の基準があるときが多い。
これらが当たっているかどうかわかりませんが、もしそうだとすると、理解はできても実行するとなると、かなり苦痛が伴うだろうと想像します。
でも、多くの友人を望まず、本当に気の合う、自分が信頼できる人だけを友達として、それで良しとするなら、べつに『便宜上の友人』は必要ないかな・・・とも思えます。(人間関係のみにおいては)
・・・考えたのだけど、私は99%、ADHDで生きていいと思う。
若干『多数派風』にアレンジを加えたところで、元がADHDなんだから、結局何をやってもADHDにしか見えないように思えてくる。だったら、変な悪あがきはやめて、潔くADHDで生きたほうがいいと思う。
残りの1%は、多数派に対する配慮と言うか敬意というか、そんなところかな。
こんにちは。
ADHDの私にとって、いつも参考にさせていただいています。
実際、発達障害に関して、一番納得しました。
さて、未診断なのですが、
まるでADHDの専門書から抜け出たような友人がいます。
その友人に先生のサイトを紹介したんです。
そしたら、「偏屈者宣言」に共感し、
自分は会社員に合わないと納得し
自分に合った本当にやりたい仕事をしようと、
収入が半減以上する事、
過酷な生活になる事を覚悟の上で、
会社に辞表を出しててしまったんです。
しかし、今までは疲れきって死んだようになっていたのに、
(実際、鬱病までなったこともあります)、
イキイキとした顔になりました。
これも、先生のおかげです。
ありがとうございます。