多数派は、合理的思考も用いるが、それと同時に「周囲の人との非言語的な場の雰囲気を通したやり取り」によって「協調と合理性の総合」のような複雑な解答を常に直感的に把握し、それを行動指針とする。
その結果「微妙なバランス」や、「義理と人情の葛藤と調和」のような極端でない「中庸」の複雑な世界が現出する。
ジャイアンは上記の非言語的なやり取りのうち、「受信」のほうだけの能力を持ち、かたや合理的な思考は徹底的で、非人間的なまでに頑なに筋を重んじる。
「強迫的なジャイアン」は合理主義の権化のような生き方となり、「人間的」な複雑な要因は無視されて、理として非がある場合は救いのない場所に自分自身を追い込むことになる。これが(合理主義一点張りの)自己突っ込みである。
「依存型ジャイアン」 はかたや非言語的なやり取りだけの能力を発達させ、合理的な思考を捨てたスタイルだ。徹底して場当たり的に周囲の有力者の顔色を見て合わせて生きる。何の一貫した「理」もない。
ジャイアンの問題点はこのどちらかの極端に行ってしまうことだと思う。ADHDでは働きが鈍いといわれている前頭前野の働きは、この合理的思考と周囲との協調を大きく総合する能力なのだろう。
依存型ジャイアンの人が努力して合理的思考を身につければ、結果として多数派に似た状態となりうる様に思うが、実際はリアルタイムの「やり取り」までは難しいだろうと想像する。
逆に強迫的なジャイアンは、もともと非言語的な部分を使う習慣に欠けるため、大人になってからトレーニングしようとしても困難だろう。
依存型ジャイアンが非言語的な依存性から回復すると、結果として正反対の強迫的なジャイアンに移行することが多いのは、発達障害独特の極端な経過ということなのだろう。
ADHDには「矛盾」でしかない「理」と「情」の間の関係を、複合的・総合的に捉え、周囲の人との協調を軸に微妙なバランスでコントロールするのが多数派であるとすれば、多数派の世界はADHDから見てあまりに複雑、あまりに微妙で理解は絶望的に思える。
私自身、最近自分のバランスの悪さを考えていたところです。
ホントに極端な自分。
多数派の方は、きっと中庸な考え方が出来るんだろうな・・・と考えていたところでした。
先生・・今回のコメントは出さないで頂きたいのです。というのは内容が私個人の情報を書いてしまわなければお伝えできないものだからです。
実はお客様(多分、多数派)から怒られました。商品が在庫切れの為に尋常ではなく怒っています。継続利用をしていて、その商品でなければお客様が困る物で、うちより安い店が他に無いという背景です。在庫切れには訳があって、アメリカは未曾有の大混乱。今でも穀類の高騰から仕入値は高騰しています。でも市場は縮小=一般の人が価格高騰で買えないので、メーカーは商品が売れず、値下げも出来ず、とうとう最後の手段・商品を作ら無い・製造制限をしています。なので私達卸は買えない又は高値で購入・数量制限を受けています(でも販売価格は値上げせず身を削って頑張ってます)在庫切は他にも仕方の無い理由があるのですが・・私達だって売れるのだから商品を用意したいのですが出来ない物もある状態です。
とにかくお怒りで「随分と大名商売ね!」の言葉から私達がウハウハで儲けてると勘違いしている事を想像します。
でも・・私は在庫切れのことを怒っていると気がついたのは電話を切った後でした。
挨拶が足りない・在庫無しで迷惑かけても一言の手紙も添えてない(代替品発送に)・電話でごめんなさいしか言わない・と怒られたので何を怒っているのか分からなくて、更に怒らせてしまいました。
この脳の為に私達夫婦は人を雇えず毎日が戦争のように体を酷使して働いています。
「スタッフ不足でも無理をして頑張っている」などとつい本音を言ってしまったのいけなかったのでしょう(怒鳴られて我慢出来ませんでした)
私には多数派のように丁度良く気持ちのケアをするなど到底出来ないように思え、また、情けなくて落ち込んでいます。
いったいどうしたら多数派を怒らせずに済むのでしょうか・・
在庫が無いのだから怒鳴っても出てこないのに(合理的な考え?)と私なら思ってしまう・でもそれは無責任で胡坐をかいている事なのでしょうか・・
最後に「もう、どうでもいいわ、買う(代替品を)から送りなさい」と怒鳴られました。いったいこの人は実のところ何を怒っていたのでしょうか。
今頃気がつきました。
未来も過去もいまここにしかないこと。
今ここで、ひとつ何か具体的なことをすれば
(たとえば部屋のゴミを1つ拾えば)、
いまここで変化がやってくること
(もうそのゴミに悩まされる事はなく、
ほんの少しだけれど部屋がきれいになる。)。
なぜ多数派の人はコツコツ努力したり、
毎日少しずつ練習等できるのか、
やっと理解できました。
私はいっきにきれいになるのが掃除だと思ってました。
ですからいつもいつ来るか分からない波を待って
ゴミ部屋で悶々としてました。
波がきたらあっという間に片付くからです。
でも疲れ果て、
しかもすぐまた元に戻るので、
掃除が大嫌いでした。
たぶん、もうゴミ部屋とはお別れできそうです。
時間が空いたら目の前にあるゴミを捨てる。
トイレに行ったときに、その場でトイレ掃除をする。
お風呂に入ったら、床を洗う、鏡を拭く、道具類を整えるなど、
できることをひとつする。
少しの変化が、やがてきれいな部屋になると見通せるようになったからです。
何十年も苦労してきましたが、
やっと多数派の人の行動のひとつが理解できました。
すぐ変化させられる「今」という時が、
少し楽しくなってきました。
中庸、に近づいてきたのは、30代に入ってからのような気がします。それまでは、とにかく人と違うことをするのが方針でした。(ある意味、依存型ジャイアン的?)
人と違うことをするというと個性的というポジティブな印象ですが、自分の場合、そのときそのときの自分の周りにいる人と違うことをする、という意味でした。
みんなが国立理系をめざすなら、自分は私立文系。
みんなが就職するなら、自分は進学。
みんながMacなら自分はWindows(研究室では世の中とは逆にMacが主流だったのです)。
みんなが研究職になるなら、自分は就職。
みんなが大企業なら、自分はベンチャー。
……………
ざっと上げても矛盾が感じられますが、自分の中では矛盾ではなくて、以前と方針が違うのは、「自分がより大人になって、マトモな判断をできるようになったから」だと、信じていました。
そして、そのときそのときで大変自信を持って意思決定しているのですが、判断基準が自分の外にあるため、自分はからっぽのまま…表面的な威勢とは逆に、自分のなかみのなさを感じて自己突込みでつらい状態でした。
30歳を過ぎて、まわりの価値基準とは無関係に、「自分にはこれしかない」と思えることをがんばって、それで評価を得て、それからは、少しは、いろいろな価値基準を相対的に見ることができるようになってきた気がします。
ADHD的自己突っ込みあるいは「合理思考」からすれば、世の中のいろいろな「価値」はみなそれぞれ矛盾を孕んでいて、一貫したものなどありはしません。だから逆に、徹底してそれらを相対的に見ることで、それぞれの時と場所における「中庸」を見出すことができるのではないかと、そう今は思っています。
結局、多数派的「中庸」とは程遠いわけですが、多数派になることは永遠に無理なので、自己流でみつけた「中庸」を周りに提示することで、無用な衝突や、嫌な思いをすることが減ればそれでいいかなーと。
その程度だから、依存型ジャイアンに目をつけられると、たちまちぐらついて精神不安定になってしまうのですが…
なるべく「中間」を探るように、日々努力しています。
調子が悪い時はどうしても極端な思考に戻ってしまいがちですが、
現在の処方薬が自分にマッチしているようで、
以前よりずっと楽に生活出来るようになりました。
0か100 白か黒 の世界は殺伐としていてとても生き難いということを知りました。
それでもその世界の方が「まっすぐな正しさ」だと思えるのです。
そしてその世界でものびのび生きられたらば、
すなわち、自分の思うとおり、自分の理論で生きられるのであれば、それこそが自分にとっては「私らしい生き方」のように思えるのです。
頭では現実にはありえないということ、
わかっているのに憧れを持ち続けているのです。
中庸のるつぼ。
そういう環境に今のわたしはいます。
そういう環境にいると
「中庸」なんて言葉自体たいへん「グレー」であり
その語感の「ちょうどよさ」とはうらはらに
世界の90パーセント以上を含むものであると思います。
いいとか悪いとか言うことではなく。
YANBARU先生がおっしゃりたいこととは違うかもしれませんが。
自分が人づきあいにおいて「極端」と思うのは、例えば、「別に好きでもない人、関わりたくない人とは目も合わせない、一切会わない」と決めてることなんかがあります。
「セールス(今どきなら振り込め詐欺?)の電話に巻き込まれないためには、一言もしゃべらず電話をすぐ切れ!」などと一般的に言われてますが、それに近い感じがします。
少しでも関わってしまうと心情的に巻き込まれてしまって、おせじを言ったり愛想笑いしてしまったり、そしてやりたくもないことを「うん、いいよ」と言ってしまったり、ということになるのが嫌なんです。
いやなことを言ってくる相手に、愛想笑いもせず「それは違うと思う」と淡々と言える人ってかっこいいなーと思いますが、自分は、その場では???ともやもやしながらも相手に合わせて、家に帰ってからとか3日後に、「こう言えばよかった」「次はこう言ってやる」と反芻するタイプなので、最初から接触を可能な限り少なくすれば、自分の意に反する結果にはなりにくいです。
ちょっと話がずれてきますが。2,3年前まではこの人好き、とかこの人とは関わりたくない、とかすら自分ではっきり意識していなくて、だから行動も伴っていなくて、(嫌いな人に会ったりしてた)楽しいとか嫌とかの感情もよく分からなかったです。
それが、ここ最近、会いたくない人に会わなければいけないときに頭痛薬や胃薬を飲んだことがあって、「嫌なことを嫌と自覚できるようになったなんて、すごい進歩だ!!」と感動しました。
そして、好きな人や気が合う人と一緒にいると、「幸せ!!」「話が合って楽しい!!」と思えます。昔はこんなことを思ったこともなかったなー。(プラスもマイナスも全体的に感情が無かった。)ずいぶん(どういう方向にか分かりませんが)成長しました。
多数派はすごいです・・・。
>その結果「微妙なバランス」や、「義理と人情の葛藤と調和」のような極端でない「中庸」の複雑な世界が現出する。
心から思っていないお愛想でも、お世辞でも、先方をその場だけ安心させるためなら何でも直感的に解ってしまうことがすごいです。
表情すら普通にコントロールできます。
後で自分がひどく不利な立場に置かれることが分かった話題でも、それを相手が理解していなくて考え無しで話していたら、悪気無しをすぐ察知して、相手を一瞬も睨むことさえなく話を終われます。
時々、ついていけません。
私は自分が不利をこうむる事態は、ことによっては放置するととんでもないことになるので、仕事に集中していればいるほどその場で青くなります。
私の不利は、たぶん真性のジャイアンとは異質な物で、私の気分が悪くなるとか私の評判が落ちるとかよりも、目的を達成できないとか迷惑をかけるとか、目的を自分の責任で変更しなければならなくなるとかのリスクを負うかもしれない事態・・・と言えばいいのでしょうか。ともかくASにとって嫌な事態のことです。
表情の計算なんて、日によっては一日中しなければならないので、計算ばかりしていたら肝心な仕事を忘れます。
全体像が分からないことは、すぐ詳しく質問して事態を正しく把握しなければならない、必要ならメモも取らなければならないことを考えて臨戦態勢を取ります。
私の態度は、一部の女性と多くの男性にとっては、たまらなく相容れないもののようです。
私の都合を言うなら、「これは雑談だけど」とひと言前置きを置いて話をしてくれることで、私は確実に柔らかい態度を取れるのですが、そういう私の特性が、多数派が皆で同じサラリーをもらう“職場”という場所に対する裏切り行為に当たるのかもしれません。
一月に入り、発達検査行って来ました。・・・が、先週電話があり、もっと詳しく検査がしたい、との事で、あさってに又行ってきます。
結果が出たら、又、やんばる先生にご報告させていただきます。
私事で申し訳ありませんでした。
今回の先生のエントリーから、大きくはずれてしまい申し訳ないのですが・・・
私自身、・・・例えば、誰か好きな人が出来て、例えば、母親から、「アノ人はやめた方がいいわよ」・・・などと言われた場合、
ACがまだ残っていた頃は、母親の言葉を否定しながらも否定できない自分がいる・・・
そして、その母親の言葉を否定出来ない自分を自分で攻め続けて・・・
例えばそのような恋愛の話ではなくても、一事が万事その繰り返しだったような気がします。
でも最近ふと思ったのは、私の本当の所の気持ちは誰にも変える事、またつっこむ事は出来ないのだ・・・という事です。
私自身、それに気づいた時点で、本当にACからは、快復できました。
やんばる先生がそのきっかけを与えてくださいました。ありがとうございます。
・・・と同時に、自分の忘れ物の多さに今自分自身、嫌になってしまうほどです。
ADHD(まだ結果待ち状態ですが)が顕著に出てきたように思うのですが・・・