発達障害の依存の問題に取り組んできて、最近感じるのは「幼少期の環境」の影響だ。
ジャイアンの場合は幼少期に溺愛されると、「溺愛してくれる相手への丸投げ依存」という行動パターンを覚え、それを大人になっても続けるために二次的な不適応になる。
受動型ASの場合も同様だ。特に積極奇異型ASの親からの愛着の対象となり、溺愛された場合、その形の依存を「当たり前」として生きていくため、パートナーや自分の子供との関係に非常に苦労する経過になることが多い。
だから、依存が重症なケースには、「幼少期の環境で溺愛されていないか」をきちんと聞く必要がある。溺愛の環境があると、その溺愛してくれる相手との関係で自分自身の衝動統制の原型(適応型)が決まってしまうからだ。
例えばその適応型が「ボーダー様に可愛がられることで自分の思い通りに出来る」となると、成人してもその同じパターンを繰り返して不適応となる。
これはジャイアン型ADHDを基礎としたボーダーであり、実は適応型をリセットすれば完全に治すことが可能だ。
一筋縄で行かないことが多いが、追い込む先は「理由があるから我慢する」という合理的なコントロールで、人に依存するパターンが成人後はどうやっても破綻することをきちんと理解できるようにすることが主なケアになる。
受動型ASの場合も、私は「あなたの求めている幼少期の(多くは積極奇異型ASの)親との関係のような100パーセントの安心を感じることは現実の人生のパートナーとの関係では不可能なんです」と言語的に説明を続ける。
多くの場合「頭では分かりますが納得できません」ということになるが、本人が実際の経験の中で、説明されたことが実際に起こることを繰り返し身をもって体験、確認すれば、「合理的にあきらめる」ことは不可能ではないと私は考えている。
実はこの問題を突き詰めて考えていくと、「最良の養育環境はのび太の天然の母親だった」という不思議な真理に到達する。
「悪意でなく依存させられない」ということが、子供の依存性を助長しない、最良の環境となるのだ。
ジャイアンの子供に対しては「自己責任を突きつける」という意味で、受動型ASの子供に対しては「分からないのだから依存をあきらめるしか仕方がない」という意味で、結果空気が読めず気が利かないのび太型ADHDの母親がこれ以上無い最良の環境を提供するという結果になる。
それくらい発達障害の場合は「甘やかすことが一番いけない」ということでもある。
>ジャイアンの場合は幼少期に溺愛されると、「溺愛してくれる相手への丸投げ依存」という行動パターンを覚え、それを大人になっても続けるために二次的な不適応になる<
母子家庭で母親も病弱で入退院を繰り返していた幼少期。
同居の祖父母おじおばと近所のおじさんおじいさんおばさんおばあさんたちに溺愛されていたような。
でも祖母と母親は時に小生をひどく叱り、手をあげ、家から閉め出されたり、お灸(当時やいと、と言いました)を持って追い掛け回されたり。
祖母や母親を恨んだこともありました。
でもこの子にはこうするしかない、と祖母も母も直感的に感じ取っていたのでしょう。昔の人は経験と直感で子育てもしていましたからね。
うちは貧乏だから高校も大学も公立でないといかせられない、行きたければ自分で何とかしなさい、と突き放したのも一貫した親の方針だったと言えるかもしれません。
向こうにいったらぜひ聞いてみたいものです。
そういえば、母に「自分がやったことじゃんか」と叱られたことがあった。母は正義感が強く正直でお人よしの生活全般不器用なのび太(当時はAC)、のび太ゆえ私に幼少期自己責任を負わすように衝動統制が行われた。叱るときには鬼の形相、怖かった。→「自分がやったのだから我慢して結果を受け入れる」、「責められないために我慢する」
一方父は、私が自分と同じ特性があることから、私を自分の「分身」のように扱った。一番をとることを要求し、褒める叱るといった衝動統制が行われた。また、日常的に酔っぱらって場当たり的に褒める叱るといった衝動統制が行われた。さらに、家を追い出されたり、ドライブ中の山中やサーフボードから海に捨てられる経験をした。暴力も。→「見捨てられないために我慢する」、「褒められるから我慢する」、「責められないために我慢する」
学校では集団生活を営むために「普通」であることを求められ、校則を遵守することや友達の輪から逸脱しないように努めた。(家庭よりも学校で過ごす時間が長くなると、学校環境による影響も大きくなる)→「普通であるから我慢する」
こうしてみると、幼少期にはのび太ジャイアンの図のほとんどすべての衝動統制を身に着けてきたと言えます。これらの適応型すべてをリセットするには非常に時間がかかるものですね。のび太がうらやましい。状況察知能力が低いと多くの適応型を身に着けるには至らないでしょう。
ついでに、のび太母の養育環境は言語的に厳しかった。依存型暴君型父の養育環境は甘やかされ尻拭いされた。実にADHDの養育環境が重要なのか、両親そして私自身をみて思います。
>ドライブ中の山中やサーフボードから海に捨てられる経験をした<
みさんの環境は想像を絶するものがあります。小生なんか可愛いほうかも。
>「見捨てられないために我慢する」、「褒められるから我慢する」、「責められないために我慢する」<
そうだったのですか。多くのこどもたちがそうなのかもしれません。(ウチもそうかも!?でもウチはだらしのない旦那が嫁に怒られたり突き飛ばされたりすることが最大のアレかもしれませんが)
小生は「これ以上貧乏になりたくなかったら自分で頑張るしかない」「自分で食べていくには嫌なこともやるしかない」という強迫観念というか一種の洗脳状態が幼少期からあったように思います。
まあでも考えたら。
厳しかった母も祖母も小生も、少しでもどこかのび太的なところがあったからなんとかなったのかも、という気も少しはあります。
「ドライブ中の山中やサーフボードから海に捨てられる経験をした」
これは、私自身は覚えていませんでした。30代で自己探求として母に聞いたエピソードです。20代でボーダー様になっていたことの説明がこれによって成立しました。幼児期から児童期前半のエピソードは解離という自然な防衛機制を使って適応してきたのですから、覚えていなくて当然なのですよね。
きっと暴君ジャイアン父からすれば、子どもが気に食わないことをしたから罰としてこのようなことをしたのでしょう。父は甘やかされて育ったがために思いどおりにならないと暴力で威圧したり、アルコールで現実逃避する人でした。子どもが思い通りにしてくれれば自分がお山の大将でいられます。お山の大将は自分の感情や考えどおりにしつけを行いました。
父は私の依存相手でした。依存しなければ生きてはいかれませんでした。生活力などない子どもが家を追い出されずに生きていくためには、橋の下から拾ってきただの生かしてやっているだの言われても黙って耐えて、その親に取り入るなどして依存するしかありません。とくに自衛隊に入隊していた過去があり、暴力が人を殺傷することができることを知っていた人でしたから、余計に取り入ることで生かされようとしたのだろうと思います。
ただ、私には救いがありました。それは学校で学ぶことでした。「先生」が好きでした。言っていることやっていることが一貫していて温かい。やってできたことを褒められる。適切なご褒美が返ってくる。親とは違う。だから学校が今でも好きなのです。
ジャイアンを甘やかせ尻拭いをすることは、父のような人をつくることです。欲求をごり押しして獲得する、何をしても許される、そのような学習をさせてしまえば、ジャイアンは横暴を働くようになります。祖母は父の酔っぱらい状態での失態(食べ物や火のついたたばこを投げた)を、「あらまぁ~、この子ったら」と苦笑したことを覚えています。そのとき私は中学生、この人(祖母)は何を考えているのだろうと思ったものです。自己責任を負わすことなく育てられたのだということがわかるエピソードでした。甘やかすのではなく、しっかりと自己責任が取れるようにしつけていかなければならないのです。
>ジャイアンを甘やかせ尻拭いをすることは、父のような人をつくることです。欲求をごり押しして獲得する、何をしても許される、そのような学習をさせてしまえば、ジャイアンは横暴を働くようになります<
まさにその通りだと思います。
小生の母と祖母は、親戚(おそらく別所帯だった別のおじ。娘3人を残して愛人つくって隠し子つくって、その愛人にも見捨てられてどこかに逃亡)を見て同じ匂いを小生に感じ取り、あんな人間にしてはいけないという強い意志から小生を厳しく育てたのではないかと今になって思えます。
そしてそれ以上に厳しかったのが養父でした。
小学生のとき、母と小生を引き取ってくれたのですが。
自分でおこづかいとお年玉を数年間貯めて、どうしても欲しかったステレオ(高度経済成長期の若者の三種の神器)を買おうとしたら母はオッケーだったのですが、養父は「ステレオなんか買って音楽を聴いたりしたら不良になるから認められない」と。(高齢でかつて海軍で米軍と戦い、戦友がそばで死ぬのをみた体験があるのも関係したかと)
大学入るまでモノラルのラジカセで我慢させられました。ラジオの曲をカセットテープに録音して。(若い人はわかんないだろうなあ)
高校で軽音楽のクラブに入ってドラムを叩こうとしたら、やはり不良になるということで友人が入っていた運動部に替えさせられました。
暴力は振るわれなかったのですが、徹底していました。当時はやはり恨みましたが、大いに感謝すべきなのかもしれません。
私には娘がいますが、幼少期からかなり警戒していました。
幼稚園で自分が転んで膝をすりむいて痛かった時に、ギャーッと泣きわめきましたが、「自分が転んだことが原因で膝が痛い」ということが理解できなかったようで、一緒に遊んでいたやさしい男の子が「〇〇ちゃん、大丈夫?」と心配して駆けつけてくれた時に、本人は内心「痛いのはお前のせいだ!」と思ってしまったらしく、「ウギャーッ」と怒ってその子を押しのけたそうです。
4才の頃に私と娘はよく口ゲンカをしました。私は「こんなに怒るお母さんなんていない方がいいね!」と皮肉まじりに言ってみました。私の息子は甘えん坊で、この言葉を言ったら
「うわあ~ん」と泣いて私にすり寄ってくるタイプなので、娘の場合もそんな反応を予測していました。すると何とその予測は裏切られ、娘は急に冷静になり、非常にクールに「そうだねえ・・・でも他にいいお母さんいるかなあ」と答えたのです。
この時私は「この子は育て方を間違えると怖い」と痛感しました。
その後、娘は9才の時に強迫性障害になりました。主人が単身赴任が多かったので、私がつきっきりで薬物療法と行動療法を一緒にやって、強迫行動はだいぶ改善してきました。
そんな時に単身赴任中の主人が帰宅して、主人は娘を溺愛していたので、うっかり「僕は〇〇の奴隷です」などという禁句を娘に言ってしまったのです。その途端、娘のわがまま爆弾に火がつき、いつも治療であれこれと指図する母親が邪魔になり、「お父さん、お母さんと離婚してよ!」と命令しました。
主人がいない時は、私のアドバイスを聞いて生活すると症状が楽になるので私に忠実だったのに、父が自分の奴隷だと悟ると態度が豹変したのにはびっくりしました。
その言葉を聞いて私は娘を一つの部屋に閉じ込め、「あんたがそんなんじゃお母さんはもう死んじゃうよ~」と畳をバンバンたたきながら泣きわめきました。その様子を見て娘はようやく正気に戻り、「確かに今お母さんが死んじゃうと私が困るかも」と気がついたようです。
今だから笑えますが、当時は地獄だったエピソードは山ほどありますが、現在は25才の娘と私はベストフレンド状態です。
「甘やかすのではなく、しっかりと自己責任が取れるようにしつけていかなければならないのです。」
私は父が酔っぱらってよく泣いていたことを覚えています。彼自身、職場での不適応で苦しんでいました。彼もまた、ジャイアンの特性である衝動性に悩み、空気が読めないことで裏切られる体験をし、依存性に悩まされていました。甘やかされた養育環境だっただけに衝動統制のしかたを身に着けてこず、中心志向でお山の大将になりたがって、大将になれない自分を否認することによって生きていました。
最期の手記には「娘が良くやってくれた」と残していますが、私はほとんど見舞いには行っておらず、母が毎日看病していました。この人は最期まで、看病してくれた母の存在を「利用」としてしか見ていなかったのだと思いました。これが、ジャイアンを甘やかすことの真実だと、私は思います。
Paul Carpenter さん
>大学入るまでモノラルのラジカセで我慢させられました。ラジオの曲をカセットテープに録音して。(若い人はわかんないだろうなあ)
私もラジオをラジカセで録音したことがある世代。夜にこっそりラジオを聴いて録音していた高校生時代(受験生)を思い出します。たしかCDシングルが聞けたような・・・。子ども時代はレコードで「泳げたいやきくん」などを聴いていた気が・・・。20前半はイーグルスなど好きだった気が・・・。そういえば、中学生で好きになったアーティストにあこがれてこちらに出てきたのだっけ。澄みきった声、青空、海。これでも青春時代があったことを思い出します。けして音楽をすることは「不良」じゃないわよ! と当時の表面的な見方の人に言いたい。音を楽しむのだから(^_^)v (屁理屈娘の名残か)
「弟が生まれる前、おじいちゃんもおばあちゃんもお父さんも、皆あんたの言うとおりにばかりするものだから、私はこれではいけないと思って一人で必死になってあんたに逆らっていた」と成人してから(おそらく依存型ジャイアンの)母に言われたことがあります。(受動ASの)父には「育て方を間違えた」と言われました。
子供の私は小さな暴君だったのだと思います。母にかわいがられる弟二人に暴力をふるい、嫌がらせをしていました。当時はいじめの自覚はなく面倒を見ているつもりでいましたが、いじめ以外の何でもなく、家族の中での1番のポジションを奪われたことに対するうっぷん晴らしでした。外でうまくやれないことのやつあたりでもありました。
そんな酷いことをしていながら、自分では「親の言いつけを守る面倒見の良いできたお姉ちゃん」のつもりでおり、「一生懸命がんばっていろいろ我慢している良い子」だと思い込んでいたのだから我ながら呆れます。現実はその真逆だったというのに。
いじめや虐待のニュースをみると身が縮みます。
やっぱりジャイアン話が盛り上がりますね。
自分で転んだのに人のせいにする子の話。我が家のジャイアンもあるあるです。小学校の授業参観でつみきを紙の上に置き、その形を鉛筆で写し取る、という授業をやっていたのですが、手先が不器用で上手に出来ず、くやしそうに顔をゆがめたかと思うと、横に立っていた私を見て「ママのせいだ!」と攻撃。それ以来注意してみていると、悪いことは他人のせいにして自己完結している様子が見て取れます。
めったにないけど、本当に人のせいで物事が上手くいかなかった時はとてもうれしそうです。
不器用なのをカムフラージュするために、学校の課題をやらなかったり、悪ぶったり、楽なルートを模索中に思えます。方向性がそっちじゃないだろ、、、と伝えていますがどうなるんでしょうね。夫という悪いモデルがいるのでなるべくそうならないでほしいな、とは思います。
天然のび太、ですか。知り合いにモデルがいるので、ジャイアンにはそのように接してみます。気がつかないフリ、ああ、楽しそうです。
ADHDの方に質問したいのですが、
抱きつかれたり身体に触れられることについて、
苦手ですか?それとも大丈夫ですか?
私は自分からする時は良いのですが、
相手からくっつかれるのが生理的に苦手で
極端にそれを求める受動型ASの娘を受け入れてやれず苦しんでいます。
娘も傷ついていると思うのですが、
ただ、私であれば一旦相手に拒絶されたら求められなくなると思うのですが、
(娘は自分の内面からのアクセスしか興味が無いからか)
拒絶にへこたれることなく何度でも日常的に求めてくるので
しんどくて仕方ありません。
これも結果的に娘への衝動統制になっているのでしょうが、
応えてやれない自分にも疑問を感じてしまいます。
スキンシップが苦手なのは相手に取り込まれるのが嫌だという意識からなのかな?とか
自分でも意識的でなく生理的に受け付けないのでわかりません。
これもADHDがゆえなのでしょうか?
ここでの質問はルール違反とかありますか?
もし適切でないのであれば削除して下さい。
ちいべこ様
私はASなので参考になるかわかりませんが。
子供が小さい時はスキンシップはバッチリOKでした。
できるだけ抱っこしたり、おんぶしたり、頬ずりしたり、手をつないだりしました。
例のちびっこギャングのような娘も、赤ちゃんの時から小学生まではスキンシップを盛んに求めてきて、私もそれに十分応えてあげることができました。
ただ、娘がだいぶ大きくなってから、すごく珍しく「おかあさ~ん!」と手を広げて私に向かってきた時は、本能的に手をクロスして「バツ!」と叫んでしまいました。娘はそれを見て笑っていました。
あれは何だったんでしょう。何だかスキンシップをしたくなかったのです。
私の感覚としてはキタキツネだったか何かの動物が、子供が小さい時は一生懸命育てるけれど、ある時期に何かのホルモンの分泌が切れると子供が寄ってきても蹴飛ばして自分から離そうとするみたいですが、あれと似ているように思えました。
現在の私はスキンシップホルモンは切れているのかもしれません。
ジャイアンADHDとしましては(小生だけかもしれませんが)
自分からは触ったり抱きついたりします。こどもにも「その他の方」にも。
しかし触られたり抱きつかれたりするのはちょっと苦手かもしれません。特にあまり好きでない相手からは。(当たり前?)
何かウラがあるのではないか、隠れた意図があるのではないか、とついつい疑う習性があるように思います。
ちいぺこ様(追記)
ASが何度も登場してごめんなさい。
ちいぺこさんの初コメントを読み直させていただいたところ、
ちいぺこさんは「典型的のび太型ADHD」お嬢さんは「受動型AS」とのことですね。
すると先生の記事にある
>実はこの問題を突き詰めて考えていくと、「最良の養育環境はのび太の天然の母親だった」という不思議な真理に到達する。「悪意でなく依存させられない」ということが、子供の依存性を助長しない、最良の環境となるのだ。
という条件にピッタリ合いますね。
ご自分ではいろいろと葛藤なさりながらも図らずも最良の養育環境をお作りになっていらっしゃるのかもしれませんね。
発達障害の養育の世界は奥が深いなあと改めて思います。
う~ん・・私はPDD-NOSということになってまして子供もいないんですが・・
私も触れるのははだいじょぶですが触れられればやはり「何か用?何の意味?」て感じになります。非言語コミュニケーションが無いということでないかと。私は自分から触れるのはただ触れたいだけで、交信(?)まではしてないなと思います。
触れたり触れられたりすること自体が好きってことも無いような・・
(動物は撫で回すんですが・・)
ひとつ体験を思い出したんですが、幼児の頃母と間違えて見知らぬ女の人に抱きついていて、ふと顔を見ると別人だったので驚愕し過ぎたことがありました・・
私は今も母には触れられないのはそのせいかなあと思います。
私の母の話なんですが、母は私と正反対でとにかく社交好きです。今は86才ですが、しょっちゅう友達や習い事仲間や親戚と電話や手紙で交流し、プレゼントを送ったりもらったりが楽しくてしかたない様子です。
だから母は多数派なのかなと思っていましたが、家系からいうとAS系の可能性が高く、母の父は神経質で結核菌を極度に怖がる強迫性障害っぽいところがありました。
母が私や弟を育てた頃のことを思い出すと、結構クセがあったなと思います。
やたらに外面(そとづら)が良く他人とは社交的なのですが、私たち子供にはすごく厳しく、本人は躾と思っているのでしょうが、どうも心のイライラをぶつけるかのように私たちの手や足をよく叩きました。
私たち姉弟はちょっとヘンテコでしたが、全体的にはおとなしい方で、叩かないと全く言うことを聞かないタイプではなかったと思います。
小さい時に母がそばに来ると反射的に「ぶたれる!」と思って身構えてしまうクセがついていたことも思い出します。
この間、何かのきっかけで私の中に小さいフラッシュバックが起きて、突然、同居の母に「お母さんは小さい時にぶたれて育ったの?」と聞きました。母は「全然ぶたれたりしていないよ」と答えました。私は「じゃあ、何で私と弟をあんなにぶってばかりいたの?!」と問い詰めました。
母はあまりに急な質問で、内容もデリケートなので、おろおろしてしまい、「う~ん、よくわからない」と要領を得ない返事しかできません。
今さら年寄りに詰め寄ってもしかたないのですが、しばらく私は鬱憤をぶつけてしまいました。
甘やかさないことは非常に大事ですが、体罰は心にしこりが残りやすいかもしれません。
(先生こんばんは。承前ですが)
(・・と思ってたらめずらしく夢に母が出てきました。その母はしかしよく見ると私でした。)(遠回りして交信。オカルトではありませんよ。認知が遠回り。他のPDD-NOSの人で、夢で自己ツッコミする人がいました。面白いです。)(関係なくてすみません。)(のび太の適応型として「やれるところを見せるために頑張る」というのがあるように思うんですがどうでしょうか)
お返事ありがとうございます。
アメジストさん
ASの方はやっぱりスキンシップを大事にするのでしょうね。
娘に素直にしてやれない自分からすると、
思いきり出来るアメジストさんがうらやましいです。
そうすれば娘もきっと満たされるのでしょうね…
娘に申し訳ないような、自分の大人げなさが情けないと思う日々です。
JETさん
>非言語コミュニケーションが無いということでないかと。私は自分から触れるのはただ触れたいだけで、交信(?)まではしてないなと思います。
触れたり触れられたりすること自体が好きってことも無いような・・
(動物は撫で回すんですが・・)
同感です。
おそらく私がスキンシップから受け取ったり放ったりする感情よりも、
ASの娘にとってはもっと意味をもたせているような気がして、
私には受け取りきれない、得体の知れない感情があるのような気がして
いるからスキンシップしたくないのかもしれません。
自分から求める時は自分の一方的な感情なのでOKということなのかも。
ADHDの私にとって非言語的な表現に嫌悪感があるのかなと思いました。
色々な気づきを頂いて、ありがとうございます!
>それくらい発達障害の場合は「甘やかすことが一番いけない」ということでもある。
小児科で「ASかADHDの傾向あり。だが薬や特別な養育が必要なほどではない」と診断された息子を持つ母ですが
学校現場は、残念ながら「甘やかし」の方向へ指導しているように思われます。
小学校時、息子は宿題忘れと持ち物忘れの名人でした。
そんな息子への先生方の指導は
「お母様が代わりに時間割を用意してあげてください」でした。
個人的にはそんな指導はそれでなくとも言い訳番長で他罰的な息子を増長させるだけだと思ったので、先生からは恨まれましたが「代わりにやってあげる」ことは一切しませんでした(他のフォローはしましたが)。
また教師をやってる知り合いに
「教科書とか忘れたら周りに迷惑をかけるのはわかるが、宿題忘れは本人が困るだけじゃないの?」と聞いたところ
「一番困るよ!成績がつけられないじゃない!」と返され、
ようは児童より自分が大事なのよねー、と思ったというのもあります(後にこれは誤解とわかりました。彼女は高校の先生でしたw)。
現場としては楽をしたいのだろうな、とは思いますが
「お母様が代わりに」という指導はなんだかなーと思います。
自分の娘に対するスキンシップ拒否反応が何故かと掘り下げていて
思ったことが…
ASの娘の求めるスキンシップが妄想スキンシップだから
受け入れたくないのではないかと思います。
私なら相手が拒否したら、多分もう自分からは求めない、
というか怖くて求められなくなります。
ですが、娘は満たされるまでいつまでも求め続け、
仕方なく私が渋々応じると、渋々だとは伝わっているはずなのですが、
取り合えず満足そうなのです。こちらの都合はどうでも良いのです。
何事も平等と合理的思考がはずせないADHDの私としては
娘の一方的な妄想スキンシップでは
自分が道具のように扱われているような感じて嫌なのかもしれません。
ADHDとASのどうしようもないズレなのでしょうか。
このことでどちらかが二次障害にならないように
他の方法での愛情交流を心がけたいと思います。
さかもとさん
そうでしたか。学校教育現場を経験した身として、なかなか発達障害に関する理解および教育は一足飛びにはいかないものだと思いました。できれば、小学校段階で忘れ物を少なくするような方策を保護者の方と一緒に考えながら進めていくなど、できればよかったですね。帰りの会終了後に翌日の持ち物を確認させることや、登校前に持ち物を確認させることを日常の癖とすれば、自分のするべきこととして定着したかもしれませんね。
それと、小学校と高校では児童生徒の発達段階が違うために教える内容が違いますから、高校教員は一般的な高校生と照らして返答したのでしょう。高校教員は小中の義務教育段階とは違った見方をもっています。義務教育(小中)は憲法で「教育を受けさせる義務」があると謳われているともに「教育を受ける権利」を保障しているのですが、高校は義務教育ではありません。高校では、義務教育を終えた人たちが高校での知的な(現代社会に必要な)学習を必要とする場であることから、進学や就職を前にした段階としての評価がなされます。(もっとも、高校進学率95%以上、1970年半ば以降横ばいであるのですが)
私は教育現場を経験して、この人たちには「知らない分野がある」という事実、それはまた、「私の知らない分野がある」ということを思い知らされた事実でもありました。その知がそこに留まっている、それこそが互いに距離を置き、他の領域を侵さないという暗黙の了解とともに、つながることを拒絶してきた結果だと思えるのです。
話がそれました。私は、教育をするという職業を選択した人すべてが「楽をしたいから」という姿勢とは考えにくいと思います。たしかに教員の中には楽をしたいと考えている人がいるでしょう。教員でなくても企業組織中でそうした人がいるでしょう。医療現場でもいます。もちろん、母親業に対して「楽をしている」と思っている人もいるでしょう。そういう人がいることは事実ですが、その業界(家庭)すべての人がそうとは言えないのではないでしょうか。現場(家庭)に入ってみなければわからないことって非常にありますしね。しかしながら、発達障害のお子さんがいる家庭では「育て方が悪い」だのなんだの言われることも多いですからね。「貴方になにがわかるのさ」と言いたくなる気持ちもわかるし。。。
ついでに、自分のことになりますと、あまり覚えていないのですが、習慣として確認をするということをしていなかったように思います。それを強制された覚えもありません。焦って取りに帰った記憶しかありません。忘れたという報告をすると叱られますから、報告しなかったことも多くあったと思います。それだけに成人してから大変でした。
できるなら、子ども時代に確認をすることを癖づけたいものですね。成人に至ってからの恥や罪意識はつらいですよ。
忘れ物って、ASにとっては結構ショックな出来事でした。
図工の工作の材料で空の牛乳瓶を持って行くことになっていましたが、学校に着いたら忘れたことに気づきました。私は大ショックで次の行動を考えることもできず、グスングスンと泣いていました。(情けねえー!)
図工は午後の授業で、忘れ物に気づいた母が昼休みに学校に届けてくれました。泣いている私を見て、「あんた!何泣いてるの!」私「あ・・・・」
今思い返すとかなり過保護でもあったわけですね(冷や汗)
>できるなら、子ども時代に確認をすることを癖づけたいものですね。成人に至ってからの恥や罪意識はつらいですよ<
みさんの仰るとおりだと思います。
小生は毎日のように「あれした?」「あれカバンに入れた?」と母親祖母に言われてもよく忘れ物をしていました。
そのうち頻度は減っていったように思います。
親が直接手を出して手伝うのはよくないが、声で確認させるのはいいんじゃないでしょうか。
あと嫁はこどもたちに「週刊予定表」を自分で作らせ、前日寝る前に必ず確認させて忘れ物などに対処させています。
ちなみに先日、朝早く出張に行こうとして玄関を出るそのときに背後で嫁の声が「新幹線のきっぷもった?」。
助かったわ~謝謝。
話は変わりますが、以前お話した知人はさらに酷い状況になっています。
小生からみれば発達障害の2次的うつ。又聞きでは家庭状況にも大いに問題がありそう(もしかしてカルト?尼崎事件系?関わらないほうがいいのか)
発達障害などおそらく考えてもいない主治医に表面だけ診られて大量処方。本人も強く希望するらしく悪循環。
すぐに抗うつ剤の副作用でないかと思われるそう状態。
そして薬効が切れてくればまたひどいうつに。
薬を増量されてまたハイに。
そして数日後突然休んだり。
医療費がいくらあっても足りない、と他の知人にこぼしているそうです。
小生は相談されたわけでもないので、ただ見ているだけ。
あんまりです……
>それくらい発達障害の場合は「甘やかすことが一番いけない」ということでもある。
いまだに、どこでACになったのか記憶が断片的ではっきりしないのですが、小学校中学年まではボーダー型ジャイアンだったかもしれません。
幼い頃イタズラ等をした時に、嘘をついて乗り切ってきたことが何度もありました。
(一緒にイタズラをした友達に「やれ!」と脅されてやったと、親の前で泣いてみせたり…本当は私が誘ったんですが。)
小三の時にイタズラがばれて、自分の担任と被害者の担任からこっぴどく叱られてからは、「泣くこと」と「嘘をつくこと」に罪悪感を感じ、かといって「嘘をつくこと」をやめられなかったので、仲の良い友達にも自分のことはほとんど話さず、ずっと相手の聞き役に徹してました。
自分を偽り続けなければならない(さらけ出せない)虚しさと、相手の話に関心を示しながら聞き役に徹することで衝動をコントロールできた安堵感…この繰り返しだったと思います。
もしACにならなかったら、自分の虚しさと向き合うことなく、相手をコントロールすることに終始してたかと思うとゾッとします。
(…前回の続きです)
ジャイアンの衝動ではなく、家の中で威圧的なジャイアン母に鬱憤が溜まっていて、外でイタズラしてただけかもしれません(汗)
母は鬼母の娘タイプのジャイアンで、専業主婦として強迫的に家事をこなし、立派に家庭を切り盛りしてました。
母から褒められたことはなく、基本的に自分達には無関心だけど干渉はされてたので、何事も言われる前にさっさとやってました。
当時、受動型AS弟(情緒障害?)が神社のお賽銭を盗んだり万引きをしたりと荒れていて、また怪我も絶えず、母はしょっちゅう学校から呼び出されていましたが、私はそれが嬉しかったです。
きっと(KYで)自分が干渉されずに済んだからだと思います。
(ちなみに、受動弟は今ではすっかり落ち着いて、真面目になりました)
いまだに好きなことがわからないのび太の私から見たら、ジャイアン母のたくましさや凄まじい行動力は今でも憧れますが、高圧的で思慮の浅い言動に、子供ながらに傷ついていたかもしれませんね。
特に積極奇異弟はそうだったかもしれません。
そう言えば、ASの場合は情緒障害の経過を辿ると、現実的な考え方で精神的にたくましく成長する印象がありますね。
そうか。
のび太は状況察知能力の低いKYであるから、状況察知能力の高いジャイアンが不快に感じるような発言をすることが日常なのだ。それに加え、その発言がジャイアンにとって不快から衝動的な言動に移す「引き金」になっていることがわからない。だから、相手が悪い、相手が暴れる、といった結論になってしまうのだろう。
これは父と母の日常的なやり取りだった。互いが「相手が悪い」と思っていた。中高時代、私は実はあきれていたのだ。のび太AC母になぜ離婚しないのだと不満を抱いていた。貴方が勝手に父のお世話係をするからでしょ、父は父で思い通りにならないと相手のせいにするのだから勝手にさせたらよいでしょ、と思っていた。私は母のお世話行動とそれによる「相手が悪い」発言、そして父に暴力を振るわれると「母さんが悪い」と泣く姿を見て、慰めつつも内心では冷めていた。お互い様でしょ、と思っていた。
このような見方はある意味で冷淡である。情緒障害型は「叱られないために」衝動統制するのであるから、叱られないために衝動統制をしない且つそれでいて叱られて自分が悪いというのび太AC母を、自業自得ではないかと思っていたのだ。今でものび太母(ACからは脱している)と話すと、状況察知能力が低いことからこちらが不快になるような発言をするため、極力距離を置いている。もちろん悪意があるわけではないのだが、無神経すぎるのは勘弁と思う。
のび太のお世話行動は、依存的な人を引き寄せる。そして、お世話行動を無意識に継続させれば相手の依存性を助長させる。のび太はそのからくりに気づき(もっとも状況察知能力が低いから気づきにくいとは思うが)、自分がそうさせているのだと理解し、自身のお世話行動に依存していることから脱しなければならないのではないかと考える。
そう言えば…
状況理解能力が高くて損得利益に敏感な母は、平気で「他人を利用する」し、また世間体も気にするタイプだったので、「(外では)自分を良く見せたい」という風にも見えましたね。
私が「そうまでして私達が憎いのか?」と言えば「悲劇的のヒロインを演じている!」と返し、弟達を庇えば「まあ〜良いお姉ちゃんだこと」と嫌味を言う感じで、当然理屈も通じないので「養って貰っている身分だし、仕方ない」と大人しくしていました。
お陰様でACになり、「感知」だけは鋭くできるようになりましたが、後は頭で考えて判断するしかなく、無駄に深読みして自分で自分を苦しめる結果となってしまいました。
なので、全く状況理解のできないのび太も、損得利益だけ解るジャイアンも、自分と同じADHDとは正直思えません。
ちなみに母がそうでしたが、「状況理解能力を巧みに使いこなし相手を蹴落として自分に依存させるのがジャイアン」であり、依存に関してはジャイアンものび太もお互い様だと思いました。
先生、すみません。
多くのジャイアンの人が見てるブログで、「ジャイアンが依存的だ」と断定するようなコメントを残してしまいました。
不快なら削除してください。
>多くのジャイアンの人が見てるブログで、「ジャイアンが依存的だ」と断定するようなコメントを残してしまいました。< 道産娘さんのコメントは当たらずとも遠からずではないかと。 言うだけ言ってあとは丸投げのジャイアンお得意の言動はある意味超他人に依存的です。 毎日反省させられることばかりです。言うだけ言った後で。
養育環境について考えてみました。
父は真面目な会社員、癌家系で祖父母は胃癌で父が10代のうちに亡くなる。父も人生3分の1は癌で闘病。伯母(父の姉・看護師長)が親代わり。高卒を気にして勉強家で、喜怒哀楽が激しく易怒性。今考えれば非常に多動で・・ADHD寄りではないか。
母は元看護師の主婦。結婚退職直前は精神科。15歳で看護学校に入り自立。非常にしっかりしている。人付き合いは上手いが社交的ではない。ADHD・・ジャイアン寄り。
二つ上の兄、今は化学系研究員。いじめは無い。ADHD。
私は概ねのび太かと(汗)感知に自信はありません(汗汗)
私はACだったというよりはサバイバーに近いです。
先生の記事や皆さんのコメントを読み母の様子の理由が分かりました。そして父は母の向こうにいる遠い存在でありました。
家は父の病により生活の困窮もあり、子らは粛々と自立しました。
私のWAISプロフィールは言語・動作同値で下位の最大差は14。出来るのは無意味課題。符号記号が低い。学校では美術しか出来ないので職人を目指した。(職人は喋らなくてもいいし←思い込み・しかし類友でその点楽ですよ)ずっと修理リフォーム係。生産的な建設的なことならいいですよね???
ま労使交渉が決裂したので、無職エア大学生頑張ります。頑張りません。
道産娘さん
>多くのジャイアンの人が見てるブログで、「ジャイアンが依存的だ」と断定するようなコメントを残してしまいました。
>いまだに、どこでACになったのか記憶が断片的ではっきりしないのですが、小学校中学年まではボーダー型ジャイアンだったかもしれません。
のび太ジャイアンの図をもう一度見てほしいなと思います。「適応型」の欄右側3つ、すべて依存型ジャイアンと書かれています。「依存型ジャイアン(情緒障害型)」「依存型ジャイアン(ボーダー型)」「依存型ジャイアン(暴君型)」
次に、「病的になった場合のパターン」を見てください。中心志向型ジャイアンから依存型ジャイアン(暴君型)までのすべてのジャイアンに、「~依存」と書かれていることがわかりますか。
ADHDには依存性があるといわれています。依存性といっても、物質に依存する人もいれば人間関係に依存する人もいます。ADHDの依存性は、脳の神経伝達物質および受容体関連の不具合によるものです。やんばる先生が「依存型ジャイアン」と呼んでいるのは、人間関係に依存する傾向(関係嗜癖)がある状況察知能力と実行能力の非対称がある(ジャイアン型)ADHDのことです。よって、道産娘さんの「ジャイアンが依存的だ」と断定するようなコメントは、脳の機能障害から見て当たりであるのです。
「嘘をつく」、私にもありました。それは、依存相手である親に「叱られないため」か「マイナスの評価をされないため」であったと思います。親に見捨てられないためにこうでもしないとならないと必死になっていたのですよね。それが「適応型」となります。
そうでないと許されない、認められないという親子関係は、つまりは親が子どもに依存関係を持ち込んでいるからです。親の依存を含むその要求に、初期の子ども自身の状況察知能力(おそらくその時点では損得だけではない状況察知ができる能力)をもって要求を察知し、これに応えようとする実行能力を発揮します。それが「依存関係の成立」となります。言葉を発することができない発達段階からその依存関係が形成されます。それが、徐々に子どもの生育の中でどの領域での状況察知能力を発揮していけばよいかを自然に獲得し、養育環境の中で研ぎ澄まされていくのでしょう。だからこそ、養育環境が非常に大事であるのです。
>多くのジャイアンの人が見てるブログで、「ジャイアンが依存的だ」と断定するようなコメントを残してしまいました。
すみません…あの時少し感情的になっていて、コメント投稿した後に「依存型ジャイアン以外の方も見てるだろうし、失礼だったかも」と思い、謝罪コメント残しました。
よく考えたら中心志向型もジャイアンACも(他人の評価に対し)依存的なんですよね。
失礼致しましたm(__)m
みさん
申し訳ありませんが、パソコンを持ってないのでその図はまだ見てません。
今度知り合いから借りて見てみますね。
ちょうどその小学校中学年の「こっぴどく叱られたイタズラ事件」が抜毛癖の酷かった時期と重なり、このイタズラを最後に真面目で我慢強くなったので、この辺でACになったのかなと思いました。
低学年の頃、注意欠陥や時間を守れなかった事を理由に先生に叱られましたが、親が呼び出されたり通知表に書かれる事もなかったので、「一度注意すれば守る子供」だったと思います。
幼少期になるとほとんど記憶がなく、母子手帳にも「問題なし」と表記。
元々欲が少なく、ボーッとした子供だったかと。
あと、ACについて気付いたことがあります。
母による「自己正当化型ADHD被影響症候群」が原因だったんですね。
これまで父を悪者にする事はあっても、母を悪く言う事はありませんでした。
祖母(鬼母)と祖父が自分達の借金返済を理由に共働きだったのが許せず、反面教師で専業主婦(しかもかなりの節約家)になったと、子供の頃からしょっちゅう聞かされてました。
この話も依存に持ち込むためだったのかもしれませんね。
先生おはようございます
ADHDの分類にのび太型ジャイアン型のほかに、ドラえもん型がいることがわかりました!
道産娘さん
もう一つ気になった個所があります。
>当時、受動型AS弟(情緒障害?)が神社のお賽銭を盗んだり万引きをしたりと荒れていて、また怪我も絶えず、母はしょっちゅう学校から呼び出されていましたが、私はそれが嬉しかったです。
神社のお賽銭を盗んだり万引きをしたりというエピソードですが、ADHDの反抗挑戦性障害(ODD)、行為障害(CD)ではないかと言う気がするのです。それだけ彼が理解されなかった体験が積み重なり、このようなことを引き起こしたと考えられます。貴方が辛かったという養育環境下で、彼は貴方とは違った形で表現していた、ということだろうと思います。
みさん
受動型弟に関してですが、万引きや盗難は思春期までにおさまり、それ以降はすっかり落ち着きました。
当時近所に悪ガキグループがいて、その子達といつも一緒に悪さをしてたのですが、一度トラブルを起こして母がその子達に注意し、付き合いをやめさせると落ち着いたので、(AS的に)その子達に振り回されて悪さしてたのだと思います。
ちなみに、状況理解はASで一見多数派と変わらないのですが、愛着(恋人)との別れ際や、職場環境の変化等でストレス症状の蕁麻疹が出たり、不注意で事故を起こしたことがあったので、おそらくASだと。
ただ、子供の頃からボーッとしたところがあり、不注意から怪我をすることが多かったので、注意欠陥はあるかもしれませんね。
自分の性格をよくわかってるらしく、(安定志向で)ストレスを溜めないよう日々気を付けてるので、今のところは大丈夫でしょう。
あと「感知」についてですが…
以前「感知と察知と反応」という記事に、「のび太ACは感知はできるが察知と反応に失敗する」とありましたよね。
以前の私がそうで、今も遠回しな言い方(嫌味や皮肉)や溜め息等、限定された非言語表現だけに過剰反応して、不安になったりイライラすることがあるのですが、きっとこれはACによるものでしょうね。
(特に母の前だと強くなり、たまに罪悪感もあるので。)
「察知」の仕方が思い込みに近い被害妄想だとわかっているので、なるべく「反応」しないようにしてますが、これがのび太の二次障害なら、ACから回復すれば「感知」もできなくなりますよね?
それとも、これも「適応型」として残り続けるのでしょうか?
夕べはついに未成年長女が準家出状態。
1時間くらいして戻るも嫁とのバトルはおさまらず。
小生は火に油を注ぐのを避け準傍観状態。今朝もおさまらず。
嫁いわく「パパとこの馬鹿娘2人で住んだほうが案外うまくいくんじゃない?」
やめてくれ~ジャイアン父娘2人の生活なんて考えただけでもぞっとするわ。
子どもが欲しいセレブに養女に出したろか、と真剣に思う今日この頃。刃傷沙汰になる前に。
どう考えても父親の悪いところを遺伝子増幅させているみたい…..
JETさん
ドラえもん型!
ほんとですか!いますか!特徴など気になります。
おしえてください。
道産娘さん
弟さんの件、何とも言えないけれども、ADHDはもともと反抗挑戦的になりやすいもので、特に思春期までの男の子が逸脱行為をする集団の下っ端となり、指示に従わなければ痛い目に合うという序列の下で法に触れる行為を行うということが見られます。それにしても離脱できてよかったですね。自分の性格をよくわかっているということは、受動型ASとは異なるのではないかと思いますけれども。
「感知と察知と反応」について
「感知」は感じるというレベル、「察知」は感じて察するレベル。たとえば熱いヤカンに手が触れて、 何か熱いか冷たいかがわからないが刺激が感じられた(感知)、これが前者、何か刺激を感じてそれが(熱いと自覚するか否かにかかわらず)危険(察知)だ、これが後者、手を引っ込めた(反応)。
「のび太ACは感知はできるが察知と反応に失敗する」というのは、自分のことを言われているのはわかるが、それが自分に対して心地よいものか危険なのかがわからない、そのためどうしたらよいかがわからない、といった状況だと思います。
それに対し、「無視されても気づかない」情緒障害は、「感知」自体ができなくなっている状態で、もともとは「感知」はできる能力を有しており、何らかのきっかけがあって「感知」できなくなってしまったという状態です。
そして、道産娘さんのエピソードですが、「限定された非言語表現だけに過剰反応して、不安になったりイライラすることがある」とのこと。これは、自分を脅かす事態と察知しているがために、「不安になったりイライラする」という神経学的な反応(何が自分を脅かしているかの検討(思考)がなされていない段階での身体的な反応)が起こっています。つまり、(相手の)限定された非言語的表現が自身を脅かすものとして、自分の意思とは関係なく身体が反応してしまっている状態で、条件反射的に反応してしまっているのです。
それはなぜか、「限定された非言語表現だけ」がキーワードです。幼少期に「限定された非言語表現」により脅かされた体験があるのだと思います。まさしく「傷」というべきもので、きれいに薄ピンク色になった傷でも触ると痛みを伴う感覚がある、そういう状態で、条件反射的に手を払いのけたり守ろうとするのです。でも、受傷した時の状況と今とでは状況が違うよ、あのときは体も小さくて大きくて頑丈なものにはかなわなかったのだよ、今は大きくなってかわす力も備わっているよ、そのかわす力を育てようよ、これが認知の発達および行動変容にかかわってきます。やがてはその傷も、自分を構成する一部として機能し、ふと気づけばそんなこともあったなぁと涼しい風が吹く、そんな感じになります。信じて進みなされ。
Paul Carpenterさん
娘さんは「過干渉」から逃げたくて逃げたくて仕方がないのですよ。家にいれば尊厳が保たれないから家出して逃げる。「馬鹿娘」という(態度で示す)親を目の前にして、娘さんなりに自己の尊厳を求めて家出するのです。いいではありませんか。
家出してそこで何をやったとしても自分でその責任を回収すること、自己責任を負うなかで触法行為や金銭トラブルなどは相談に来るようにと伝え、尊厳とは何かを考えさせることが一番であろうと思います。できれば一人暮らしをさせて「生活をすること」の意味を知ってほしいとは思いますが。尊厳を得るために必要な責任、ジャイアンに求められる課題ですから。
そういえば、Fさんも「自分のことはわからない」って言ってましたね。
(あれだけ自己主張してたのになんでだ!?…と唖然としました。)
弟が自分の性格をどこまで把握してるかは謎ですが、ストレスのかかる状況を上手く避けているみたいです。
ただ、私も実際に弟の「外の顔」を見たわけではなく、本人の話の内容からASと判断したので、ちょっとわかりませんね。
ちなみに、行為障害は積極奇異弟の方が当てはまりそうです。
(思春期に恐喝と盗難で簡易裁判沙汰)
こっちも成人までに落ち着きましたが、受動弟同様、家庭環境でのストレスが原因でしょうね。
裁判官の「ご両親に何か言いたいことは?」との質問に対し「(母に)姉と喧嘩しないで欲しい」と言っていたので、弟達の非行の原因は自分にもあったのだと思います。
ただ、責任を感じたところで当時の自分にはどうすることもできなかったでしょうが…
重い話ですみません(汗)
機会がある時に弟達に自己診断するよう勧めてみます。
コメントありがとうございました。
Paul Carpenterさん
準(プチ?)家出ですか。
夜間だと、警察に補導されるかもしれないですね。
とりあえず心の準備だけでも…
みさん。今回もも明快なアドバイスありがとうございます。
ジャイアン小生はジャイアン娘の気持ちがわからなくもないので(切れたときは別として)、まあたまには出て行くのもいいんじゃないの、ぐらいには思っています。基本的に超怖がり(テレビの人が死ぬシーンでは必ず逃げ出して隠れる)なので、危険なことはせんだろうとも。
昨夜嫁いわく「養子なんてなんてこと言うのよっ!最後まで絶対に面倒見る覚悟があるから切れるのよっ!あんたがそんなこと言ってどうすんの。私は怒り切れる役に徹するからあなたは大いに甘やかす役に徹しなさい。でなきゃ居場所がなくなるじゃないのよっ」
あのう。
こどもの頃から親に甘やかされた経験はほとんどないのでどうやったらいいかわかんないんですけど。
とりあえず娘がこちらを無視してもこちらも知らん顔することに。
あーストレスたまるわ。
嫁も長女ももちろんやけど。
じっと我慢の小生と次女のストレスのほうが大きいような気がします…….
ちなみに小生の場合は。
感知と察知はできてもも反応が過剰ないしめちゃめちゃだったり。
感知、察知自体が的外れだったり。そのときの反応はさらにとんでもない方向へ。
やっぱり「砂漠の丘の上でじっとして吼えないライオン」を目指すべきなのか…………
それはそれで最強のストレスだわ~
いびつさん
ドラえもん型の特徴、そうですね・・・
おそらくジャイアン型から進化したと思われますが・・
助けてくれ!と言う人に解決策を取り出します。
爆弾をくれと言われればそれも出します。
それらに対し感知はしません。
好きなこと(=どらやき)をすることのみが目的です。
>ジャイアンの成育⑥稀な理想的環境
で育つと早くなりやすいようです。
道産娘さん。
実は警察に補導されて多少は事件になったほうが本人のためになるだろうと思っていました。今回はそこまで行きませんでしたが。娘も嫁も小生もけっこう追い詰められていたのは事実です。
小生も親だけでなく教師や友人他人にこっぴどく怒られたり廊下に立たされたり殴られたり、などを繰り返し、そのうち少しずつですがそんなことにならないように自分で気をつけるようになりましたし。
また社会人になってから数年間一人暮らしを始めたことも大きかったように思います。みさんも仰っていましたが。生活するということがどれほど大変なことか、よーくわかりましたし。
JETさん。
ご指摘のどらえもん型とは違うかもしれませんが。
話し相手、相談相手がびっくりするような解決策?を提供してびっくりするのを見て楽しむようなところは昔からありますね。
たいがい実現不可能なとっぴな解決策?なんですが、たまにうまくいって喜ばれると図に乗る傾向はあります。
そして次は大失敗とか….
これは単なる丸投げでしょうか。
Paul Carpenterさん
後始末をつけるかどうかという所ですか・・
相手の案件であればPaulさんの丸投げにはならないと思います。実行した人の責任であると。場合にもよるでしょうが・・
ちなみにドラえもん型を観察していますと、相談者に責任能力があるかどうかは見ています。また案件に対して提示した解決策を、相談者が実際に遂行出来るかどうかまでは考えています。実行不能と見れば案件は却下します。(さよなら)
爆弾を希望してくる相談者は責任能力はまず無いと見て、(あればそれでいいようですが)下手をうつか投げ返されドラえもん型が自爆被害を受ける危険がある。自爆リスク(すなわち後始末)を最小限に出来るように画策し爆弾を渡します。不発弾なのかな?いや。
爆弾を渡す目的は、いずれ舞い戻って来る相談者の責任能力の無さを叩くためです。やはりそこに楽しみを見出しているようです。相談者が地道な解決策を受け入れざるを得なくなるように叩きます。おそろしい化け猫です
叩かれることを恐れて戻ってこない場合は、どらやき志向に戻る。
(爆弾=ハイリスク案件の比喩)
以下特徴補足しますと
ドラえもん型は中心志向がどらやき志向になっていますが、どらやきにこだわりがあり相談者はそれで釣ることは出来ない。
言語<動作?? LD ジストニア 不思議の国のアリス症候群などを併発しています。
以上でした
(先生、大変失礼いたしました 上司ADHDの話です 終わりです)
Paul Carpenterさん
自分は中2の頃は親にほとんど反抗できずに鬱憤が溜まる一方だったので、「(ADHD同士なら)お互い言いたいことを言い合ってぶつかり合う」のは良いことだと思いますが…うちの弟達のように「見てる側」には辛い光景かもしれませんね。
なんだか娘さん、親の気を引こうとして(自分を見て欲しくて)わざとやってるような気もするんですが…
気のせいかな。
JETさん。
>ドラえもん型は中心志向がどらやき志向になっていますが、どらやきにこだわりがあり相談者はそれで釣ることは出来ない。<
思わず笑ってしまいました。これからいいクルマといい女がどらやきに見えそうです。(失礼)
道産娘さん。
>親の気を引こうとして(自分を見て欲しくて)わざとやってるような気もするんですが<
それはたまに感じることがあります。
しかし多数派ならそれを感知察知した時点で自分も相手もいい方向へ向かわせようとする、おそらく無理せずに対応できるのでしょうが。
小生の中のジャイアンの中心志向が邪魔をして、(中心志向のせいにはしたくないけど)反対方向へ突っ走ることが多々あるように思います。
血が繋がっているから余計にそうなるんでしょうねきっと。
娘に腹を立てる以上に本当は(娘をそんなふうにさせてしまう)自分自身に怒りをぶちまけているんでしょう。残念ながらその怒りを外に出すときには娘や嫁に向かってしまうのですが。
難儀ですよねえまったく。わかっちゃいるはずなのに。
みさんのコメントにピンときて何度も読み返してたのですが、どうやら私は「察知」「反応」ができるようですね。
きっと幼少期も読めてたな…また「思い込みレベル」の失敗のようです。
(っていうか、全く感知しないのび太は情緒障害にならないのかな?)
あまり欲がなく、損得利益に疎いと思ってたけど、「損をしない(見捨てられ不安を含め)」ことには敏感だったかもしれません。
だから「とりあえず心の準備だけでも…」とか「お互い言いたいことを言い合う」とか、場当たり的な発想しか思い浮かばないんだな…
情けない。どうせ反省してもすぐに忘れるのだと思うと余計に。
とりあえず皆さん、気付かせていただきありがとうございます。
(また「とりあえず」かよ!)
「察知」=推し量って知ること。それと気が付くこと。
推し量る=類似の事実を当てはめてみて見当をつける。推測する。推量する。
親の要求を推し量って、それに応えようとする→これまでの親子のかかわりから、類似の事実を当てはめてみて見当をつけ、反応する。「直感的」
親に可愛がられることに終始し、見捨てられないために衝動統制する=ボーダー型。
親の顔色を伺って、責められないための衝動統制をする=情緒障害型。
甘やかされ尻拭いしてくれるから、ごねたり暴力をふるって要求を通す。我慢しない=暴君型。
いずれも状況を察知しているからできることです。状況察知→状況認識→適応行動
ついでに、見捨てられる、責められる→損 可愛がられる、褒められる→得
天然のび太は、状況の察知に失敗するので、状況認識が適当でなく、反応自体ピントがずれる。
状況察知→状況認識→適応行動の最初からつまずくため、とんちんかんな反応をして「天然」と呼ばれてしまう。
それを指摘、否定される環境下にあると自己評価が下がる=のび太AC。
状況を察知する能力は社会適応において大事な能力ですが、衝動性が高いジャイアン群はとかく損得に関する状況察知能力が研ぎ澄まされてしまっている。これは分別がわかる以前の子どもは欲求のまま行動するという当たり前の人間の発達段階においても、衝動性が高いことから状況察知能力を駆使して欲求を満たそうとするため、多数派の子どもより損得に対して敏感になる。
天然のび太は状況察知に疎く、好きなことをやっているように見え、周囲には「天然」として受け入れられる。しかしながら賢い人とは見られない。状況察知に疎いからそれでOK、好きな事さえできればOKでしょう。のび太がACになるのは「天然」ではいられない状況下に置かれ、どうしたらよいかがわからなくなってしまうからでしょう。
情緒障害は環境刺激に対する心理的な反応と行動面の異常ですから、状況察知に疎いのび太でなく、状況察知ができるジャイアンの二次障害として生じるものだと思います。
子ども自身が環境に働きかけることについて欠落していました。双方向
子ども自身の欲求を非常に強く泣くなどして、親の反応を引き出す→これまでの親子のかかわりから、類似の事実を当てはめてみて見当をつけ、反応を引き出す。
責められる、褒められる→学習理論
ADHDの衝動統制には、飴と鞭の理論では偏った衝動統制となる。
合理的根拠による衝動統制へ
合理的根拠の言語化。親の言語化する能力が問われている。
時代背景との関連、大学進学50%以上、知識基盤社会
親自身に衝動統制に関する合理的な根拠を述べられる能力が要求されている、ということかなぁ。
良かった。
これでようやく自己分析を終わらせることができそうです。
「ジャイアンにとって反省とは?」の記事にあった通り、あとは静かに自分の「醜さ」と向き合おうと思います。
(…と言いつつ、またコメント残すでしょうが)
やはり自分の中に甘えがあり、楽観的で「なるようになる」と悩むことを避け、その場しのぎの考え方で生きてきた代償が身体症状となって現れたのだと思いました。
「合理的思考」
「自己責任」
「好きなことをする」
全部身に付けるまで相当時間がかかりそうだ…(-_-;)
地道に頑張ります。
JETさんへ
ドラえもんの話笑えました。
「マフィアのボス化」して、片手に爆弾、片手に葉巻を持ってソファーに座るドラえもん想像してしまいました(笑)
あと、後ろに金塊…ではなく、どら焼きの山。
真面目な話だったらごめんなさいm(__)m
道産娘さん
笑ってもらえましたか、良かったです・・
(いつも思いつきを口走って叩かれています・・)
ドラえもん型はいつもは親切で優しいですよ。
道産娘さんの書き込みは非常に参考にさせてもらってました。
ありがとうございました。
世代性かぁ。
エリクソンの発達課題
養育環境と次世代を育てること
依存関係から脱することと特性への理解、そして学びの連鎖
教育は、教材と対峙させ、汗をかかせ、教材の持つ本質を理解させること
その個人の認識を新たにさせる、変化させる営み
こうしてみると、先生のエントリこそが発達障害者の教材であり、各々その教材から学び取っていくという営みである、といえますね。
>養育環境と次世代を育てること<
IMFに4.7兆円、韓国に5兆円、米国に累積数十兆円どころか数百兆円。
そのうちの1割でも1%でもみさんの提唱する場に回せ、と言いたい。もちろんリストラされて自殺するしかないと思いつめている人たちにも。
>依存関係から脱すること<
やっぱりこれが一番大切かつ困難なんじゃないでしょうか。
そのきっかけがこのブログになる方が一人でも増えることを願います。
>特性への理解<
自分が自分自身の本当の姿、内面を理解認識することができれば、他者のことを理解することも可能になってきますね。
>学びの連鎖<
自身を理解し、相手を理解することがさらに広範囲にわたる理解の拡大、そしてよりよき社会生活への適応につながりますね。
>教育は、教材と対峙させ、汗をかかせ<
やっぱり人間にも自然にも直接対峙して汗をかいて生きていくのが本来の人間(生物みな)の生き方のはずですよね。毎日娘と対峙しながら、ワンコの世話をしながら、また休日レンタル農園をやっていてつくづくそう思います。
>教材の持つ本質を理解させる<
くだらない教材が世の中多すぎますよね!まるで愚民を量産して権力者の言いなりにさせようとせんがために。
まあくだらん教材は反面教師になっていいのですが。そのためには、本質を見極める目と心を養う必要がありますね。
いずれにしても、自分をきちんと見つめられる目と心をまず最初に養わねばならない、ということになりますか。
最近YANBARU先生はもちろんのこと、みさんをはじめとする皆さんのコメントがバイブルのようになっています。大変感謝しております。
特に危ういジャイアン父娘がうまく生きていくために。
Paul Carpenterさん
ありがとうございます。いやぁ、何となく思考を巡らしていて、何となく書き込んだのですが・・・
雑多な思考をまとめていくことをここでさせていただいています。
私も皆さんのコメントから得られることが多くて、バイブルになっています!
みさん。たしかに思考の整理をするには最適な場ですね。
例の表、YANBARU先生の大作をようやく見ることができました。前のPC、携帯では無理だったのに、スマートフォンで小さいながらやっと見れました。
すごいですねこれは。
ちなみに小生は合理的ADHDと中心志向型ADHDがその時々で交互に現れるようです。もともと混在しているのかどうかはわかりませんが。他の要素も時々絡むみたいです。まあ養育環境自体が多種多様でしたからね。親祖父母近所の多くの親切な方々、そして養父と。
「買い物依存、衝動買い」はたまにやりますし。
考えたら誰しも多少どの要素も元来持っていたり、抑えつけられているだけなのかも、と思ったり。
情動障害型、ボーダー型は知人同僚に何人かいるようです。
薬物依存、自傷行為を繰り返す、などびっくりするほど当たっています。
のび太は思い当たる大御所がいるけど、周囲には意外と少なそうな気が。小生が気づいてないだけかな?
ASの「分からないから諦める」と言うのは、単純に「(相手がADHDだと)一方通行だから」なんでしょうね。
(他者を感じるか感じないかの違い)
最終的な判断は、ボーダー→ボーダーAC(情緒障害)→ボーダーAC→ACと合理的を行ったり来たり?…ですね。
昔受動父とアイコンタクトをとっていた記憶があるのですが、私の方は意味が分からなくて、ただニコニコしながら首を傾げていただけでした。
アイコンタクトの意味は分からず、このやり取り自体に意味があるのかと…
学童期からは父とほとんど口も利かず、目も合わせなかったのですが、これはACになった後、母の非言語的な嫌がらせ(妬み等)があって、母の目の前で父と仲良くできなかったのだと思います。
(不思議と父と二人きりの時は、自然に会話ができた)
少しずつ記憶が蘇ってきて、過去の出来事が整理できるようになりました。
こうしてみると、幼少期から周囲の人達の非言語的なやり取りに振り回されてたんだなぁ…と、改めて感じます。
心が少し楽になりました。
まだまだ長い道のりですが、目標が明確になったことで、少しずつですが前に進めそうです。
(いつも言ってますね…)
ありがとうございます。
こんにちは。私は自閉症の傾向があると思われる者です。ああたにある本の存在を知ってほしくてコメントをします。
これをどうか私、私を救ってくれたその本の著者からの贈り物と受け取ってください。
「発達障害と呼ばないで」著者:岡田尊司
この本にいままで私が読んできた他の発達障害に関する本には載っていない、‘‘真実‘‘と‘‘希望‘‘があります。
どうかそれがあなたや他の人にも届き、この本から学んで救われた私のように、あなたの心に光明が入ることを祈ります。
精神科などでADHDの診断をする時はPTSDを疑いますよね。
PTSDでそうなっているなら、ADHDの診断のみでは治れませんし。
PTSD+ADHDなら、ADHDの部分がPTSDが治るのを自分で後押しするだろうが。
EMDRなんか優しくていいと思いますけどね。
> 最良の養育環境はのび太の天然の母親だった
どうも、どうやら、そうらしい、と思いつつ「感情的に」受け入れがたいと感じるのは私がジャイアンだからなんでしょうね。
とにかく私は「鈍臭い」のび太母が嫌いだった。
それは多分、私の依存を拒絶されたせいで、その幼い頃の心情的なわだかまりが消えなくて、いくら「頭で理解」できても決して「私は母が好きです。」とは到底言えない、ドロドロした醜い感情があります。
せめて私が「のび太」であれば、「発達障害者にとって、のび太こそ最良の母親」と理解した時点でそんな感情も消えたかもしれない、と言うか、そもそもドロドロしないんだろうか?
ひとつだけ言える事は、このドロドロした感情を贖われたいとは全く思っていない、という事です。
と言うか、「贖うなんて、お前、のび太のクセに生意気だぞ!」って感じで、母にそれを望んではいません。
昔話はこの辺にして、TVなどでいじめ問題などが取沙汰されると、軽度に知的な遅れが見られるASD長男の将来が俄然気になります。
彼の養育環境として、最良足り得なくとも可能な限り「ベター」な環境を提供する必要があるだろう、と。
それは夫も同じ様で、普段は愛着の対象ではない長男に対し、急に色々やたらと世話を焼き始めます。
「もう(来年度から)年中さんになるんだから、コレ位できないと!」と心配して、パンツの履き方、靴下の履き方、ホラホラ、ボタンもちゃんと留めて!ほら!靴が逆になってるよ!
違う!そうじゃない!靴下は横に持つんだよ!何べん言ったら分かるんだ!あーもーこいつ本当に大丈夫???と。
思うに、この事態にはどうやらかなり「私の責任」がある様です。
と言うのも、朝の忙しい時間帯に彼が上手に着替えが出来ないのを待っている暇は無く、「私が手伝った方が早い」という合理的理由から彼が自分で着替えられるように丁寧に指導した事が無いのです。
一部の人にここで「合理的」という言葉が飛び出してくることへの反感がありそうですが、ジャイアンの「超」合理主義は他者から見ると非合理だったりします。
おそらくジャイアンの「超」合理主義には自分軸しかないからなんでしょうね。
だから私は少し頭を切り替えて、彼が自分で色々できる様にならないと、自分が親として不利な立場に立たされる事になる。という視点を意識的に取り入れたいと思います。
実はその様に考える事に強い自己ツッコミが入っていたのですが、その自己ツッコミは「不合理」だと理解する、という事です。
ついでに、「甘やかす」という言葉にも誤解があった様で、私は「甘やかす」とはもっと情緒的な問題かと思っていたのですが、そうではなく、「本人がすべき事に手を貸すこと」「先回りして問題を取り除く事」、、、という事みたいですね。