AC、人格障害関連

ADHDと他者

 さて新しいクリニックもスタートしたことであるし、私は一人のジャイアンとして自己を振り返る作業に戻ろう。 

 私はADHDは個体認識の学習障害であると考えている。特定の名前を持った「**さんとの関係」という関係自体を認識できない。(顔や名前を覚えられないのはその一部だ)。

 「無差別、平等、公平、偏見が無い」という特徴はADHDのむしろ良い面であるが、実はこれは「個体認識が出来ないから抽象的な人間対人間の関係になる」というまさに障害そのものの結果なのだ。

 私は以前「ジャイアンは人を必要としない」と書いた。実際例えば「筏に乗っていて川下に滝があることを教えられるのを拒否する」ような自己決定権への強いこだわりがあり、逆に変に「人を必要とする」時は病的な依存になっていることの方が多い。

 それから私はずっと、ではADHDは「世界にぽつんとただ一人」で他者との関わりの意味は全く無いのか?、他者との関わりの中で精神的に救われることは出来ないのか? 
をずっと考え続けてきた。

 実は最近ASの若いケースと話す中でやっと答えが出た。

 その答えは非常に単純で、「ADHDは理解を求めるが、理解は他者にしかできない」ということだった。

 ああ良かった。ADHDも他者と関わる余地があった。ただ少し抽象的であるが。

 ADHD流の人との関わり方は、「お互いに自分の考えを述べ合って、かなり議論をして、その後『理解しあった』という実感を得る」という内容だ。

 この「理解されることの意味」についてはもっと考え続ける必要があるが、とにかく唯我独尊状態ではなくなったというだけで私自身はかなりほっとした。

 これで仕事以外にも人と接触することに少しずつでもトライしくことが出来るかなとも思う。


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コメント

    • 匿名
    • 2011年 7月 04日

    「ADHDは理解を求めるが、理解は他者にしかできない」
    ジャイアンの小生としては「自分のことを理解してくれていると思える他者とならなんとかうまくやっていける。しかし他者を理解しているかどうかは別である」と理解しましたが、それでよろしかったでしょうか。

    • 2011年 7月 07日

    私も、人の名前を覚えられず、また、その人との関係をどう築き(築いてきたか)、どう関係していくかに無頓着で、その場において、その人が要求していることや起こっている状況から、自らの思考や判断を用いて発言しています。そして、確かに、「無差別、平等、公平、偏見がない」のが特徴です。
    私は、ジャイアンADHDの特徴は、「関係」を基軸に他者との関係をもつのではなく、「状況」を基軸に他者との関係をもつことだと思います。個体認識の障害というよりも、思考が状況に依存しているために、連続体である「とある他者」との「連続的な関係」を保持することが困難であるように感じます。
    そして、ジャイアンADHDは、「状況」を基軸に他者と関わるがために、知的に障害がなければ、知的好奇心からその状況の前後周辺の状況を把握しようとし、結果的に「近似した状況に直感的に反応する」ようになるのではないかと考えます。
    ADHDの特徴である「多動」は、知的障害のない成人では「思考の多動」となり、過去からの引き出しを開けてみたり、新しい知見を探してみたりします。そこには、他者の発言の中身である知見が「その状況を物語る一つの知見」に過ぎないと認識しており、中心性の働きからか「自分の思考の探索から導き出された考えを優先させる」ことから、「近似した状況に直感的に反応する」行動へと、衝動的に移すのだと感じますし、考えます。
    「ADHDは理解を求めるが、理解は他者にしかできない」というのは、「ADHD本人が理解していても仕方がない」、「ADHD本人が他者に理解を求めている」ということですね。ADHDである本人は、「理解したことを他者にも理解してもらわないと気が済まない」のです。つまり、他者がいないと「状況を打破することが困難であることを知っている」、その状況を打破するには「他者が自分の手となり足となることを望んでいる」ということではないでしょうか。こんなこと、おおっぴらに発言することなど許されることはありませんが。根底に潜むのは、弱者を救いたい願いが強いと思います。自身の屈辱を昇華という形で、人生のある時期に、適切な表現がなされるように訓練されたうえで、「花が開くように」支援・指導していく必要があると考えます。

    • にこ
    • 2011年 7月 08日

    yanbaru先生
    いつもお世話になっております。個体認識に誤りがあると他者との自分の関係が上手く把握できず、その結果、信頼関係や愛情を上手く感じ取ることが出来ない点に問題があり、その結果二次障害やパニックから多数派とのタイム・ラグが起きる事に問題が有る。
    ↑の結果先生が仰られた問題が起きる。ジャイアンは知識や能力だけを蓄えた精神年齢的にもジャイアンなのでしょう。
    日本は村社会ですから、皆同じで皆一緒。
    この背景に反抗すればするほどジャイアンの地位は悪くなります。
    個体認識(どんな人がどんな時に着る服装)を多数派は何だか変だなぁと思ってもやんわりとやりすごすことができますが、ジャイアンは理解または区別できないパニックから必要以上に反応してしまう点がKY。
    教育実習の教師が私服やジャージで若者風になっていた時など。(まるで子供の時に母親が長い髪の毛をばっさり切った時の様に)
    日本語には主語がなくても通じます。日本の新聞がつまらないのはそこに記者と言う主人公が無いからです。主人公の無い小説を読むからつまらないのです。
    ジャイアンは物語の主人公です。しかし、多数派の人はそうではありません。

    • らいと
    • 2011年 7月 08日

    理解は他者しかできないので、
    他者が必要であるということですか?
    ジャイアンさまは
    寂しさを探し歩いていてひとり
    砂漠を旅してるのでしょうか・・。

    • のりまき
    • 2011年 7月 10日

    ADHDには、理解されたい欲求もありますが、他者を理解したい欲求も、一般的な人より強いと思います。ただ「それがそうである理由」を理解できないと、攻撃的になりがちです。(自己反省です)
    ADHDは普通の人より、問題を抱える人の気持ちをわかってあげられることが時々あるのではないでしょうか。でもその理解は、普通の人がそうであるような情緒的なものに基づくというより、論理的理解に基づくので、抽象的かもしれません。そしてだからまた、その過程において人を傷つけるという。。。
    ADHDは、アスペルガーと別の方向性で抽象的な考え方を好むような気がします。アスペルガーが細部での細かい理論化に長けているのに比べ、ADHDは、大雑把な骨組みなどの部分における理論化に長けているように思います。

    • らいと
    • 2011年 7月 12日

    あ。そうか。
    「寂しさ?何?食えるの?」っていうのがジャイアンさまでした。
    「他者から何か与えていただけるものはあるのか?」
    「それは『理解』だ」
    ということ・・かな。
    そして
    「我々も理解を与えることができる・・」
    が・・・しか~し
    多数派の方が求めているのは、時に「理解」ではなく「(自分に都合のよい)誤解」だったりする。
    結果、他者の心を土足で踏み荒らすようなことになり、傷つけ、嫌われてしまう事があるのですね・・・(T_T)

    • meru
    • 2011年 7月 12日

    こんにちは、はじめまして
    もう40歳を過ぎて、いい年齢になりましたが
    とても苦しい日日を過ごしています
    思い切って沖縄に行ってみようかな
    治療を受けてみたいと思いました
    現在までは治療を受けたことがありません
    気長に治るまで滞在することはできませんので
    行ったり来たりすると思います
    だけど、最初は最低でも1ヶ月は住みたいと思います
    その場合、週にできるだけ回数 診察していただく
    など可能なのでしょうか?
    お忙しくされているので特別扱いなどはできないと
    思いますので、難しいお願いでしょうか?
    すぐにというわけには行かないので、いま文章に
    まとめたりしていますが、まとめ切れず
    とても長いです、ウンザリされてしまうかも、だけど、
    色色知っていただきたいのです
    よろしくお願いします

    • 2011年 7月 13日

    私は、ADHDの人が、他者から何かを与えてくれるのを期待しているとは思えません。むしろ、「他者の理解を獲得しようと議論する」ように思います。その相手からは「議論を仕掛けられた」と感じ、逃げたくなるのでしょう。議論をすることは、今まで文化的に伝承されたことに批判を加える行為でもあります。何の疑問を抱かずにしている、あるいは信じている事柄に対し、疑問をもち投げかけるのですから、現状がうまくいっていると認識しているなかでは相当の抵抗を感じますし、排除したくもなります。
    ADHDのなかで、確かに反抗挑戦的であったり行為障害を呈する人がいます。でも、それが、ADHD全体を説明するものではありません。数としては、自身の特性に気付こうとしている者や、気付いて修正しようと試す者、ある意味で開き直った者のほうが多いのです。多数派のバイアスの問題、議論のスキルアップの必要性について棚上げして話を進めてよいものでしょうか。
    さて、本当に日本は村社会で、それを保守しなければならないのか、問いたいと思います。もう随分前に、自動車関連の下請け会社等、企業の子会社に外国人が雇用されるようになりました。彼らは日本語を学び、生活習慣を学び、日本の慣習を学び、そして日本に貢献してきました。そのなかで、差別にあい、首や腹を自ら切って病院に搬送され、一命を取り留めた者もいます。傷の処置をしていて、日本という国の残酷な面を感じ、悔しくなりました。同じ日本人であるのに。。。
     日本の村社会の皆同じで皆一緒とは、このような人々を「弱い」と表現し、排除することが正当として認められることなのでしょうか。グローバル化が進展するなかで、自国を離れて異国の地で生きようとする彼らの者の見方や考え方、学んできたことを、出身地や日本の言語や習慣にそぐわないという「形にこだわり」、保守しようとする姿は、彼らの何も「理解しようとしない」姿なのではないでしょうか。

    • らいと
    • 2011年 7月 14日

    他者の理解を「獲得」しようとする「強欲」さは、さすがジャイアンさまだと思います!!
    それはともかく・・
    差別・・つまり「いじめ」は人の命を奪う犯罪だと思います。今の社会はいじめ行為の犯罪性を加害者はもとより被害者も軽視しているとしか思えない。
    世の中、車にボールが当たっただけで苦情を言うのがあたりまえなのに、
    いじめ被害者は声を上げるまえに自殺したりする。
    集団とはなにか
    集団とどうかかわるべきか
    もっと知りたい。

    • 2011年 7月 28日

    私は、この不条理さを、がんで亡くなる人々と接して感じました。自分の生において「死」があることなど思っていなかった人々にとって、「がんは治療して治す」か、「治療して治らなければ死を待つ」でした。私は内心で思いました。「ところで、貴方の生き様は、誰にも、何にも、影響を与えられなかったといえるか」だったのです。「スピリチュアルペイン」との出会いでした。
    私は、自己の特性について気づき自己診断に至ったこの2年弱の間に、自己探求としての学習と、これまでのさまざまな学習(経験からも理論からも)をくっつけて、自分を理解しようと努めてきました。ですから、一方的な見方であることは承知しておりますし、2年弱で医療専門的な文献をいくつか読んだとしても精神科医療をすべて理解することはできませんし、ましてや精神科医療に携わっている人間でもない者のいうことは「全くの素人」とあしらわれることは当然です。
    しかし、当の本人が自分のことについて「探索、探究、究明」しようとする姿勢に対し、「情報は所詮自分のほうから見た一面でしかないから、えらそうに判断するまで行かない」という考え方だと推奨するには、「当事者」が客観的情報をどのように収集し、どのように主観を排除し、どのように判断するかを、教え導かなければならないのではないかと考えます。
    多くの研究論文がインターネットで読めるようになりました。成人になり、疑問に感じたことを検索するという作業は、どの職場でも必要とされることでしょう。その延長上の自己探求にも、職場で培ったその能力は生かされるのではないでしょうか。また、1993年当時の大学・短大進学率は50%前後だと記憶していますが、初等・中等教育の受動的学習態度から高等教育の能動的学習態度への転換を迫られることへの適応を考えると、にわか知識が増えるのも仕方がないことでしょう。
    さて、「スピリチュアルペイン」との出会いを通して、「不条理を生きる人々」ががん患者だけではないことに気付いた私は、発達障害の思春期の子どもたちに接しながら、「生きる力」とはと考えています。

    • ああそうか
    • 2011年 9月 24日

    人間を本当は自分にとって大事な人間と他の人間。
    個人認識の障害と言うことはその二者に対して全く同じ扱いをしてしまうってことになりますよね。
    普通の人は自分の大事な人を贔屓したりする。
    でもADHDにはそれが無いともいえると思います。
    全てが平等。
    でも一般人はそうでは無い。
    気持ちたい気持ちなので、贔屓もするし、思いやりも持てる。

    • rinomi
    • 2013年 7月 18日

    他人に理解してもらって、ようやく ほっとできたり。
    自分のことなのに、他人に理解してもらってようやく、
    自分のことに気付けることがあります。
    無差別、平等、公平、偏見が無い
    良い性格だよね、と言われることもある変わりに
    共感してほしい人からしたら、いつも当たり障りないことばかりいう。というような風になってしまってますね。
    これは私の性格なのか、なんなのか 分からないけれど
    名前も顔も覚えられない自分と、
    覚えていない状況に直面したときの自分、覚えてないので当たり障りのない会話で終わってしまい、先に続かない状況に、苛立ちを覚える自分との差が 激しいような気がします。

    • chikako
    • 2014年 3月 18日

    私は周囲のジャイアンやのび太とは意見を言い合えますよ。聞く耳があるから。話すことで致命的な痛みを得ようとしている人ではないし。そういう人はごめんだと思います。

    • h.o
    • 2014年 8月 22日

    人との関わりは本当に難しい
    私は過去の人間関係において説明するのを諦め、
    切り捨てて来てしまった。
    彼等は傷ついた(自分が傷つけた)のだというのは想像に難くない。
    同じ人間なのに彼等(親も含め)と自分が別物だなんて考えたくない、想像もしたくない。
    けれど、そこを認めないと前進など出来ないのだろう。

    • tukatantikatan
    • 2015年 1月 21日

    私は自分は何かの学習障害に思えるがなんだろうてずっと思ってました。
    >特定の名前を持った「**さんとの関係」という関係自体を認識できない
    それがこれなんだなあってつくづく思う今日この頃です。

    LDの人は実物とイメージを合成して見ることができる。あたかも今自分の目でそれを見ることができる。そういう主観をもてる。実際すごい。で人間に対してのジャイアン能力もそこ似てます。その、合成できちゃうところが。LDの人は、混乱しないようにイメージを制御する訓練をするという。ジャイアン状態にある人も、そういうことをすればいいのではないかと想像。私は合成まではできない。離れています。そしてなぜ離れているんだろうと思っているところがおかしい。いいんです離れてて。非言語的な情報がとれないことが自分で納得いかないのかもしれない。ジャイアンが多い環境が生来続いているから、ジャイアンがふつうという思い込みがまだあるような?

      • tukatantikatan
      • 2015年 1月 23日

      違うかも。
      高校受験の時、合格発表を見たら中学校に帰って合否の報告をすることになっていた。私はここなら入れると言われた高校を志望して合格し中学校に帰って報告し、ある友達Aさんは複数受験して、第一志望のとこは無理っぽいと担任の先生に言われていたが受験した。Aさんと、私よりもっと仲の良い友達がそこを受けるからであった。Aさんは第一志望は不合格で中学校には遅れて帰ってくる、とその子らに聞いた。誰も居ない教室で私はAさんの帰りを待ってしまったのです・・・。なにを言えばいいかはわからないが待ったほうがいいのではないかと思った。
      はたしてAさんは帰ってきて、「なんで待ってんのよ~!!」と言って行ってしまった。
      Aさんは、誰にも、特に合格した人になんか会いたくなかったのであろう・・・。
      だからみんないなくなってたのか、と時間差で気付く。
      私がもし不合格だったとしてもAさんのようにはなれないのである。
      こういう経験がかさなって、「人の気持ちがわからない」と思うことは正しい。私の場合実物とイメージの合成はしないことは正しいが、またできないという予測はたつけれど、予測は予測でしかないので、悲観的な思い込みに偏りすぎたところがある。自分に対しては根本的にはいつも悲観的。
      ジャイアン能力があるとこういう時は待たないでいてあげられると思う。そこに非言語情報を受信する能力があればもっと。行動的に多数派に近いと思う。だから私にはそういうとこはふつうの範囲に見えるんだなあ。
      個体認識LDと非言語LDとやる気LDがあって、そこに私はいるように思う。
      で、私にとっては他者というものは今までは理解するための対象でありました。これを双方向にするのはモチベーションが足りないという気がする。また他者のモチベーションも必要。んー。やっぱり、私にとっては理解するための対象でいいんじゃないかなと。

        • tukatantikatan
        • 2015年 1月 23日

        やる気とは上昇志向の意味で使っています・・・
        全く無いわけじゃないと思うが、人から見れば無いだろうしということです・・・。

          • tukatantikatan
          • 2015年 1月 24日

          あっ反撃て >なんで待ってんのよ ですかしら。ううむ私は自分の言動で相手を不快にさせたと思うとこまで。その先は無い、困るだけ。たぶん相手の言動に反撃という名前をつけられるのは、非言語的にとっさに意味がとれるかまたはやる気が要ると思う。
          「なんで」をやる気=悪意を責める意味で使うことがあるのは知っている。知ってはいるが。
          「なんで」=理由を聞くだと思ってしまいます。
          おお・・・何か面倒くさい壁がまた立ちふさがってきた気が・・・
          でも、今親交があるのは「なんで」=理由を聞く の人達。だからセーフ。やはりこれを大切にしていこう・・・。

            • tukatantikatan
            • 2015年 1月 25日

            あっ言外のことに反応しないできないからいじめられてもわからないてことか・・・

    • nobigappa
    • 2015年 1月 31日

    以下は上記の方の受験のコメントを読み、「立場」について自身を振り返ったコメントです。

    私の場合「(自分は合格し、相手は不合格だったという)事実、及び立場の違いから、想像して推測する」だけですが、どうやら相手の情緒ではなく「立場」を優先して考える傾向があり、そこに対してフォローすることは多かったなと思います。
    例えば、「客と店員」の関係なら「店員が客に対して『ありがとうございます』と言う時はサービス(仕事)の延長で言っているが、客が店員に対して『ありがとうございます』と言う時は、素直に感謝の気持ちとして受け取りやすい」気がします(何も言わない人の方が多いので余計にそう思うのかもしれませんが)。
    以前「このブログのコメント者は皆平等」と書いたのも、「コメントする立場は皆一緒なのに、誰か一人だけ特別にルールに反したコメントをするのはおかしいのでは?」という気持ちからで、私自身は「支配」とは捉えていませんでした(どの立場から言っているのだろう?とは思いましたが)。ただ、「立場」でものを見ない人からすれば「誰々が○○しようとしている」等と言った「対個人」や「人を見る」という発想になるのだろうと思います。

    話を戻しますが、例えば、合格した人が不合格だった人に対して励ました時、相手から「あなたは合格したから良いよね!」と言われれば、私なら(悪意の有無・嫌味かどうか等に関わらず)「確かに」と思ってしまう。合格した人が不合格だった人を慰めるのは、立場の違い故「上から目線」に見られても仕方が無いと思うから(かと言って、それ以上どうすることもできませんが)。

    私の場合は「非言語的な状況察知能力」ではなく、「相手の立場や現実状況だけを見て、フォローする」ことはあったなと、自身を振り返ってみて思います。

      • tukatantikatan
      • 2015年 2月 02日

      NOBIGAPPAさん「だけ」にお願いがあります。>上記の方の受験のコメントを読みとつけて関連付けるのはやめて下さい。そのように他の人に託けるのはやめて下さい。コメントのルールだと先生のせいにするのは見当違いです。

        • tukatantikatan
        • 2015年 3月 12日

        NOBIGAPPAさんの質問を待っていたが、無いようなので勝手に補足します。
        >上記の方の
        と書くことで日時関係無くこの記事内のコメント者のどれかだと範囲が狭まってしまいます。
        「他者のコメントを読んで自分を振り返るコメントがあってもいい」と許されているのだから、上記の、とかつける必要は無いと私は思います。むしろ名前を出すことは禁止なので上記のとつけてはいけないと私は思います。
        しかし。
        >話を戻しますが、例えば、合格した人が不合格だった人に対して~
        と書いたことで、受験のことを書いているのが私だけだったので、私のコメントのようだと思いました。それは
        >話を戻した
        話を戻したということはそれが本論だと示唆したのだと思いました。また本論だから、上記の、とつけなければならないのだろうか?出典の意味合いとして。
        >例えば >私なら~
        はNOBIGAPPAさんの作り話で不合格の人に対しての話で「予測」だと思います。それは過去の事実の振り返りではないです。
        こういうのはコメントへのコメントだと私は思います。どうでしょうか。
        でもこういうことを考えて言語化することができ、やめて下さいとお願いすることで自分の利益(NOBIGAPPAさんの利益も)守ることができ、そういう経験をさせていただき、実にNOBIGAPPAさんに感謝しています。ありがとう。

    • nobigappa
    • 2015年 1月 31日

    「合格した人」と「不合格だった人」、「客」と「店員」、「コメント者」と「ブログの管理人」…私が見ているものは、この記事にある「抽象的な人間関係」そのものであり、そこから「空気を読んで相手の気持ちを探り当てようとしても無理があるよね」と思いました(状況察知能力のあるジャイアン型の人はできると思いますが)。

    たとえ空気が読めなくても、想像力で補いながらある程度の人付き合いはできるので、強迫的に多数派に合わせる必要等無かったのだと、今となっては思います。実生活ではこれまで通り「合理的思考(現実的必要)の再インストール」を地道に続けていくつもりです。

    • tukatantikatan
    • 2015年 3月 14日

    さあ確定申告も終わったところで
    気がついたんですが、私は理解を求めるの入り口に立ったのだ。まさか。というのは、感情論に目覚めたのです。

    私は今まで根拠=自分というのはいまいち不可能だったんです。そういうのってどうやるの?と思っていました。
    また多数派の人の話、会話を聞いていると、細やかな感情をまじえながら実になめらかに話しているな、これも、どうやってるのかしら・・・と。
    じぃ~と観察しながら。私はKYなので公理は必要ですよ。だから蓄積に努めてきましたけど。でもそれだけだと自分居ませんし。
    自分を出せよ、とか人を頼れよ、とか学校でも会社でもよく言われたけれど、それってどうやればそうしたことになるんだろうなーと・・・。
    でまた、自分がされて嫌なことがわからない時点で、そもそも自発的な関係改善など不可能なのであった。
    で、服薬して言語化してるうちに多少わかるようになってきて、診察中にその話(自分がされて嫌なことがうっすらとわかるような予感)をしてて服薬をやめるか聞かれたことがあった。
    わからないほうが、負担が増えないということで。あれは分かれ道だったんだなあ・・・私は知りたかったのでやめませんでしたけど。

    最近は、パートナーが物を投げた時に、「壊してはいけない」だけじゃなくて「やだからやめて」と、
    感情もまじえてリアルタイムで言えるようになってきていると自分でわかるので、これは本当に良かった。これが感情論だ!なんてこった。
    20年と服薬でやっとここまできた。。。そして私がそう言うことでかどうか?パートナーも俺もいやだ、と言語化する(これもやっとみたいな)。
    (自分もそうだというのはわりと言いやすいと思う)
    そうするとそれからもうしないのです。自分について言語化する効果というのはものすごいものだと常々思うんです。
    先生がコメントは自分を振り返った内容でとしているのは、脳科学や特別支援の本など調べても実に理にかなったことだと思う。

    やーこの感情論が受け入れられるということは非常に尊重感があって、良いです。

    そういえば関係を認識できない、ということは関係の中にしか存在しない「意味」というものがわからない。
    意味というものは全て後付けなのだけど、私は順番は逆で、意味が先にないと(調べるなり教わるなりしないと)わからなかったわけです。
    それは関係を認識できないからそこから意味をひねりだせないのでということだったのかと思う。

    • 182
    • 2015年 3月 14日

    なるほど!やっと分かりました!

    > 最近は、パートナーが物を投げた時に、「壊してはいけない」だけじゃなくて「やだからやめて」と、感情もまじえてリアルタイムで言えるようになってきていると自分でわかるので、これは本当に良かった。これが感情論だ!なんてこった。

    このお話、とても参考になります。

    確かに私も「壊してはいけない」等の合理的な理由以外に「やだからやめて」と自分の感情を言って良いのだという発想は無かったです。

    驚き!今日はじめて自覚しました。目から鱗です。

    なるほど、つまり私は超合理的強迫的ジャイアンという訳だ。
    「てめーの気持ちなんざ知ったこっちゃねーよ!」と自分の感情も他者の感情も「合理的理由」の前に唾棄して生きてきました。
    私の場合は感情そのものが無いのではありません。あくまで「唾棄」です。その辺がのび太とは違うところですね。

    でも生身の人間の世界は合理的理由だけでは説明し尽くせない。
    超合理主義は時として不合理となる。

    長く生きていると次第に自分の「超合理的強迫的」な適応型が再度の不適応を起こす。
    そこにマタタビを持った白馬の王子様が現れて、まんまと依存の泥沼に堕ちたって事か。

    なるほど。
    今日は本当は自分と夫の共依存関係が「行き違い」の方ではなく「管理型」の方だと自覚できた出来事があったのでその件について書くつもりでしたが、こちらでの発見の方が大きかったです。

    ありがとうございました。

    • Jenga
    • 2015年 3月 15日

    わ・・・わかったっ・・・・

    「カード借金」それも「リボ払い」なんて、貧困につけこまれ、安~い見栄と欲望を突っつかれて、複利のシステムを使って金持ちに金やサービスを吸い上げられる、効率的、合理的、合法的システムだから、超合理主義者はその合理にはまって不条理に落ちるのか。

    「方向のないベクトルは不条理に進む」・・・のかな?

    • Jenga
    • 2015年 3月 15日

    この間「相棒」の再放送を見ていたら、
    大学教授がそ右京さんを含む人質に「人を殺してはいけない理由を証明せよ。それができなければ殺す」と言われ、右京さんは「人を殺してはいけない証明などできない」と言っておりました。
    今、私が思うのは
    「人を殺してはいけない理由は証明できない」けれど、「人に殺されてはいけない理由は証明できる」んじゃないかということ。

    つまるところ人間関係とか社会っていうのは立場の違いにより利害の対立がおこり、それを調整することによって成り立っているのだから、その「調整」がわからなければ、合理主義者はただの利己主義者であり、つまるところそれが「わがまま」「身勝手」「KY」という多数派の強烈な批判につながり、社会に害なすものとして排除対象者になるんだろうな・・・と。

    • Jenga
    • 2015年 3月 16日

    一般的にはカード借金は自転車操業に陥ったら2,3年で自己破産に向かうらしい。
    そのじたばた足掻くのもあるある状態だから借金がかさむ前にさっさと、任意整理なりなんなりするほうがいいと・・・・・他人は思うけれど・・・いざ自分のことになると、難しいんだろうなあ・・・・・

    で・・・
    なんか数日前たに長男が通っている大学から成績表が届き、な~~~~~~んと、取得単位数が「0」と判明いたしました。
    \(゜ロ\)(/ロ゜)/
    学校に行ってるふりをして、口から出まかせばっかり言って、家では普通にしていたけれど、後期は履修登録さえしなかった無気力ニートくんだったのです。
    青天の霹靂・・・というより、小学校からニート予備軍のような性格で、高校も行ったり行かなかったりしたけれどなんとか卒業し、大学には進学し・・・・やっぱりそうなったんかい!!!!!みたいなかんじ。
    私が1年間おかしいな・・といつつも期待値があって目が曇り、信頼・・というか放置していたら、1年間まるまるつぶしやがった・・・。
    うちの息子は人当たりが良くて、要領が良くて、調子のいいところがあって・・でも「異常に」無責任で動作性が高いタイプのADHD系なきがする。
    1年間完全放置はADHDにとって良いネグレクトだったのかどうかはしらんが、私がブチ切れたら・・なんか反省してる風で・・・ちゃんと自分からハローワークに行って、求人票と若者就業支援事業資料をもらってきたり、ニートサポートセンターに電話して、学生はここの利用は不可だと回答があったと言い、今日は大学の学サポにいって、今後の事を相談してくるらしい。
    なんだ・・・このひきこもりニートに似合わない不思議な行動力はっ!!!

    しばらくここにレポする予定です(T_T)・・・ソツギョウデキナイ・・・
    アドバイスがあったら受け付けてまつ(T_T)

    • zzz
    • 2015年 3月 17日

    たぶんお気づきでないため(失礼な話で申し訳ないのですが)妙に可笑しくなってしまい、コメントしたくなってしまいました。

    「安~い見栄と欲望」に基づく行動は感情論そのものと思うのですが、いかがでしょうか。つまり、合理主義者と思っていても、実際には、感情に基づいてその人なりの合理性を作り出しているように思うのです。

    方向のないベクトルは、座標との関係ではどこにも進むことなく停滞します。しかし、ベクトルの乗っかっている座標が移動すれば、ベクトルも自ずと移動します。座標が感情で、感情が変化すればゼロベクトルも変化すると思います。

    この親記事であります先生のエントリーもそうですが、考えを深く掘り下げていく哲学的思考は、ときに自らを助けるものです。経験則でもあります。

    もちろん、深く掘り下げていってドツボにはまることもあります。そのため、掘り下げていってごちゃごちゃしてきたら、その思考をまるごといったん頭の引き出しにしまっておいていいと思います。頭の中に飼っておく、とでも言いましょうか。これまた経験則でもあります。

    先生のエントリーでも、長年考えていたことが整理できたという趣旨のエントリーがいくつかあったと思います。たぶん、四六時中考えていたというよりはむしろ、仕事中や日常生活の場面では頭の中の引き出しにしまっておき、何かの折に引き出しから出してきて考え、また引き出しに仕舞い、を繰り返しなさってきたのだろうな、と思っています。

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