ADHDの説明に戻ろう。ADHDは自分の障害と二次障害のために、自分以外の多数派について、いくつか幻想を持つようになると私は思う。
幻想1.多数派の人はお互いを言葉で説明しなくてもよく理解しあっている。
幻想2.多数派の人はお互いを傷つけないで平和的に人間関係を進めている。
幻想3.多数派の人はお互いに配慮しあって、激しい意見の対立も無くスムーズに合意を形成し「調和」的な解決をしている 。
以下はADHDとしての私の観察結果であり、私の「推測」「仮説」でしかないが、多数派を見るときのひとつの参考にしてほしい。
1.まず「理解」の意味が違う。多数派にとっては「理解」は単に「表面上の対立が無い」というだけの意味しかなく、ADHDの求める真剣な話し合いの結果としての理解とは大きく異なる。
だからADHD的に言えば、「多数派は理解しあっている振りをしているだけで、表面上話を合わせているだけに過ぎない」。 その証拠に、(ADHDから見れば)多数派は一対一の別の場面では別の考えを平気で言える。
2.よく観察すると、多数派は、ADHDに見えない水面下の表情や言い方のやり取りの中で、反感を示したり、無視したり、非常に「(ADHDから見ると)怖い」やりとりを頻繁にしている。「ねたみ」「そねみ」「あてこすり」「みせしめ」という用語は多数派の世界の用語であり、これはそういう現象が当たり前にあることの証拠だ。
多数派はお互いに「見えないようにしながら激しく傷つけあう場面がしばしばある」
3.多数派の「表面上対立があることにしないようにしながら合意を形成する」というシステムは、「責任を明確にしない」という意味があるように私は思う。誰かが主張し、一人ひとりがそれに賛同し、合意を形成すれば、当然「賛成した責任」が生じる。
上記のように多数派は他の場面では「あそこではああ言ったけど、実は***」と本心と違う「建前」の意思表示をしているので、当然の結果として責任を負えない。
だから私は「調和」というのは責任をあいまいにする機能を持っているのではないかと推測している。
多数派はさもお互い分かりあい、お互い配慮しあい、平和的にスムーズに合意を形成しているように振舞っていて、ADHDが正直率直に発言すると、さも場の雰囲気を壊す乱暴で強引な行動であるかのような態度を示すが、これは言葉や態度の通りではなく、ただ「多数派流の表面上平和な振りをして責任をあいまいにしたいスタイルにとって都合が悪い」ということを表明しているに過ぎない。
この幻想が元で自己評価を下げているADHDは真相を見極め、自己評価を修正しよう。多数派は発達障害に比べて全てがそんなにきれいで平和な人たちではないのだ。
すくなくともここに書かれている『多数派幻想』を抱いているであろうADHD当事者の一人ですが、『責任をあいまいにする意味』が、自分としてはよく観察できませんし、また理解も非常に困難な気がします。
もっとよく観察の必要があろうかと思いますが、印象では『個人の責任逃れのために他者に責任をおしつける』ことが『あてこすり』とか『みせしめ』という行動になるのかなと。
いわゆる『勝ち組』『負け組』という言葉も、多数派世界の言葉かもしれません。多数派の『表面上対立はしないが、実は対立していて、見えないところで傷つけあっている』という人間関係を、多数派なら上手くこなせるとは限らないでしょう。
私は『率直に言いすぎる』と言われることが多いです。半分は意識的に『率直に言って誤解を受けても、自分としていくらでも責任が取れる』ということからそうしていますが、半分は無意識です。
それが多数派にしてみたらよっぽど『都合が悪い』のでしょう。役員仲間の間でも私をけむたがる行動が見えます。
ただ、それでも私としてはPTA活動をやることにある種の意義を見出しています。それは『学校を知る』ことができるのと、父兄との関わりが持てることにです。
以前YANBARU先生が『発達障害がいなければ表面上は平和だけど、不正も悪漢もチェックされないかもしれない』ということをこのブログでも書かれていました。多数派にはまずできないことだけど実は多数派にも必要なことが、発達障害にできるなら、私がPTA活動をやることにもなんらかの意味があると考えました。
実は周囲の反応に動揺して迷っていました。でも、向こうから『辞めろ』と言ってこない限り、やっていこうと思いました。
それから『多数派幻想』も、修正したいと思います。
前回の文章の中に『間違い』がありましたので、一部を訂正します。
多数派への幻想は『修正』でなくて『抹消』です。何故なら、幻想はあくまで幻想でしかなく、真実ではないことに気が付きました。
修正するべきは、『ありもしない幻想』のおかげで下がってしまった自己評価のほうでした。
YANBARU先生
恐らく私の『多数派幻想』は、ACの部分が生み出したものであると想像しています。子育ての中でもよく『みんな仲良く』とか、『友達をたくさん作れる子に』などということが言われ、これは本当に自分自身を惑わすものでした。
みんな仲良く、なんて本当は絶対ありえない。表面上『仲良くしなくちゃね』といいながら影で悪口を言う、いがみ合う・・・それなのに子どもには『みんな仲良くね』とか『友達にはやさしくね』なんてことを平気で言う。これが、『あくまで私が知る範囲』での『多数派の真実』でした。
そんな現実をある程度わかりながら、『多数派の人は平和』などという幻想を持っているのは矛盾していると思いました。これも多分ACの名残の部分ですね。
これは、かなり根深い部分でもあるので、もう意識的に努力で取り払うしかない、と考えました。いつまでもこの調子では、ADHDだろう娘と向き合うためにも絶対良い影響を与えない、と思いました。親の私がADHDとしての生き方を示さないと、娘も、道を見つけることができないでしょう。
親として、そして一人のADHD当事者として。
ふらつかずに歩いていくためのスタートラインに、やっと立てるような気がします。
yurinさん、私も多数派に対してこの幻想を持っています。
「表面上の対立が無い」「水面下の怖いやりとり」「本音と建前の矛盾」・・これらは私が多数派から遠ざかりたくなる理由です。
でも、私の場合はこのために自己評価が下がることはないですね・・。(やっぱりASなのね・・・)
「あなたは嘘の無い、信頼できる人」ですよ。
とことん話し合って、やっと分かりました。
自信を持ってくださいね。
私の多数派に対するイメージは、別の意味で歪んでいるのかな、と思いました。
私は狂信者に心酔して過ごした中高校生の頃、散々、キリスト教の「受難曲」を歌っていたました。
特に、ヨハン・セバスチャン・バッハの「ヨハネ受難曲」「マタイ受難曲」での民衆(多数派)の描写が非常に刺激的で、「殺せ、殺せ!」「磔にしろ!」とのシュプレッヒコールの音楽がとても前衛的で高揚感があり、当時の民衆の感情が憑依する様な体験を何度もしました。
実際、狂信者の教えも民衆(多数派)の愚かさをコンコンと説き、そこから解脱して神の国に行くには私の教えに従いなさい(←この辺から怪しい… >_<)というものだったので、「多数派は発達障害に比べて全てがそんなにきれいで平和な人たちではないのだ。」って所は普通に同意です。 混声での「殺せ!殺せ!」の大合唱(特にマタイでは二重合唱)は本当に群衆の狂気(若干ふざけている様な無責任なノリも含む)を見事に表現してます。 なので私はACになるどころか、多数派を舐めてかかってる所があります。 そう言う訳で今は「多数派を舐めてかかったら磔にされるぞ」的な方向での認知の修正をしている所です。 「私はADHDですから、と居直ってKYな行動をとり続けたいなら、殺されても良いくらいの覚悟が必要だ」という感じです。
記事にあることが最近やっとわかってきたんですよ。あれえ??という感じで。そしたら、前のように話を聞けなくなってきたのです。そのまま信じてもしょうがないのかなとがっかり感で。すると、すいすい記憶できなくなりました。今waisやっても、数唱19いかないだろうなと思います。数唱は、信じ込み度もあらわしてるんじゃないでしょうか。思い込みMAX型でしたからね…10で平均てことは、半分疑って平均なんだろうか。私は心理士の人の表情が忘れられないのですが。
そして、このことが人との関係性を作る要因でもあるんかな?と。多数派は、話を聞く度を、人により分けるのですねえ。愛着ではなくて。なるへそ…