ADHDの認知とその結果の努力について事細かく説明してきたが、ここで理解して欲しい大事なポイントは、「問題の自覚」だ。
ASの人のコメントの中に、「私も人間です」という表現があり、実は私は「うらやましい」と感じた。かつての私は、(自己正当化型ADHDからも)親からも繰り返し「変わっている」と言われ続け、「自分は変わっているのだから他の人と同じように楽しくなくても当たり前なんだ」と思い込んで思春期を過ごしていた。
だから「自分もいつかは人間だと言える様になるのかなあ」というのが元々の私の自己評価で、始めから「人間です」と言えるのはうらやましいわけだ。私は極端かもしれないが、自己正当化型を除き、ほとんどのADHDは思春期に入る段階で自己評価が下がり、その代わりに「自分に問題があること」を自覚する。
だからほとんどのADHDは「自分自身を変えなければならない」ことはすでに出発点から分かっているということをASの人に理解して欲しいと考える。多くのADHDが、診断されて「楽になった」というのは、自分ですでに自分の問題を自覚しているからだ。
その立場からすると、「多数派と違って同じように問題があるのにそれを認めず、自分の問題を自覚しない」というASの当初の立場が非常に傲慢に見えると言う状況を想像してみて欲しい。
このブログで私がかなり「はっきり」書いてみた結果、ASの認知のゆがみに気付かれたASの人は、ADHDから見るとある意味で「やっと自分たちと同じスタートラインにたどり着いた」ということになる。
問題の自覚が無ければ、診断が分かっても当然否認するだろう。しかし問題を自覚された方は、「自分こそが普通だと思い込んで独善的に問題を自覚することを拒む」状態が非常に不幸で、それこそ救いがたい状態であることは分かると思う。
そのためには、誰かが一度は「はっきり」言うしかない。これは本人の前進のためにどうしても必要なことであり、辛くても乗り越えなければならないことである。
それが分かっていて、「相手が辛いだろうから」という「理由で本当のことを言わないことを私は「配慮」とか「優しさ」と呼ぶべきではないと(個人的には)考える。
これを読んで、「あれ?ASも思春期前後に限らず、幼少時代からかなり自己評価が下がって苦しんだことをYANBARU先生は気づいてくれないの???」というのが私の第一声です。
「それとも、私はADHD???」
私の場合は親に口うるさく言われた経験は無いのですが、小学校の先生から徹底的に嫌われたことでかなり自己評価が落ちました。幼児期にも友達との遊びの中で、たった二文字「ダメ」が言えなくて苦しみました。学校生活の殆どは地獄のイメージがあります。
ずる休みもしました。
離人症の体験もしました。
自分だけが透明な風船に入っている感覚。
集団登校で、自分だけがランドセルを背負ってなかったり(忘れて)靴も、うっかりお父さんのサンダルだったり・・。
「PTAには、必ずお母さんに来てもらってください!」と念を押されてPTAの出欠の紙を出すことが恐怖でした。
担任の先生は脅しのつもりだったと思いますが、私はクラスみんなの前で「特殊学級に行きなさい」と言われた経験があります。
「私は人間じゃない」「犬に生まれてくれば良かった」
自己評価はドブの底。
だから、この記事を読んで「あれ?」と。
私がASであるならば、「ASだって低い自己評価に苦しめられて生きてきたのです」と言いたいのですが・・。
他のASの方のご意見も伺いたいです。
HIKARIさん
大変な幼少期でしたね…。
「受動型ASとADHDの区別」については、YANBARU先生が(このブログではなく)ホームページの雑感に書いておられます。昨年10月14日の分です。
ホームページの自己診断ガイドの中でも繰り返し触れられていますので、お読みになってはいかがでしょう。
私はASだと思いますが、自己評価は殆ど下がっていません。今でも果たして同じスタートラインに立っているか疑問です。自分がASである事に強い矜持を持っているように感じます。
人間関係には確かに苦労して来ました。高校時代まで友人は極端に少なかったですし、彼らとの付き合いは今は途絶えています。イジメやトラブルも経験しました。今、2度目の離婚の危機に瀕しております(離婚よりもパートナーに辛い思いをさせて来た事自体が悲しいです)。それでも「コミュニケーション方法が多数派と違うから、多数派に合わせる事で上手くコミュニケーションを取れるようになりたい」と思うだけで、自分が普通とは違うことが分かっても、自分に問題があるという自覚は強くありません。いや、自分に何か問題があると気付いて調べ始め、その際ちょっと自己評価が下がったものの、原因(ASであること)が分かっただけで回復したような気がします。
自己評価は、個別の性格や、育った環境、親、関わった先生によっても違いが出そうですが、総じてASは強い(自己評価が下がりにくい)のかと思っていました。そして私は、幸い(?)自己評価を余り下げることなく大人になりました。
私もASの人は自信があっていいなあと思ってました。
私は中学の頃、忘れ物と遅刻の常習犯で先生からしょっちゅう注意されました。忘れ物は気をつけているつもりなのにやってしまって、そのたびに『今度こそ』と決意する。しかし何故か翌日も何か一つは忘れ物をする。そういうことを何度も繰り返すたびに『私は救いようがないくらい頭が悪い』と思うようになりました。対人関係も下手でいつも取り残される。さらに自分はダメだと思いこんでいく。はっきりと自己評価が下がったと自覚のある記憶は、中学に入る前後からです。
ただ、よく気をつけて記憶をたどると幼稚園の頃、担任が厳しく、よく注意されたり叱られたりしていました。
果たして幼稚園のころに『自分の問題に気がついていたか?』というと微妙ですが、一番印象に残ってる記憶は、途中で家に帰りたくなって、友達に『おうちに帰るから』と告げて帰ろうとしたとき。先生が何人か追いかけてきて、なんだか必死に訴えるのを見て『これはしてはいけないことらしい』と気が付き、『そういえば友達はみんなダメだと言ってくれた、それなのに私は言う事をきかなかった』とぼんやり考えていたような記憶があります。同じ時期に、人前で叱られたり、登園拒否の記憶も鮮明に残っているので、私の自己評価はすでにこのあたりから少し下がったかと思います。
さてここしばらくASの人のコメントを読んできましたが、私から見るとASの人の自己評価は下がっていないように見えます。でもASの人にだって辛い体験がないわけじゃない。辛い体験と自己評価は必ずしも一致しないのでしょうか?だとするとそれはどうしてだろう、と考えこんでしまいました。
私は今まで先生の仰る「事実」にうろたえながらも、少しずつ現実に目を向けて立ち上がろうとしているつもりです。
しかしながら、「認知の歪み」は簡単には矯正できない厄介な部分です。
この「認知の歪み」には「はっきり」言っていただくことによって「目が覚める」効果が私にはあります。
しかしながら、ほとんどの認知がこうまで「歪んでいる」「現実」はASにとって「絶望」に近いものがあります。
今はスモールステップで時々息を抜きながら「認知の修正」に心がけています。
常に自分をコントロールしている状態ではありますが・・・。
コメントありがとうございました。
私はASの人が「苦しんだ体験を持っていない」とか、「自己評価が下がっていない」ということを理解してほしいのではありません。「そのことが人のせいではなくて自分のせいで、自分の問題でこうなっているのだ」という問題の自覚がADHDの場合に出発点からあることが多いということを理解してほしいだけです。
自己評価が下がった後で、「自分が変わらなければならない」「自分を変えなければならない」と考えることは前向きなことで、非常に大事な気付きです。ここがコーチングの出発点として非常に重要であるということを理解してください。
私の言いたいのはそれだけです。それ以上の意味を付け加えて理解しないでください。
コメントありがとうございました。
自己正当化型ADHDの場合は「自己評価が下がらなかった」ので「変わらないといけない」と考えることがなかったのでしょうか?外からアプローチする(気付かせる、コーチングを始める)方法はないでしょうか?
SLUMMYさんへ
(パソコンのキーボードの調子が悪く、アルファベットの小文字が打てません。ニックネームが大文字でごめんなさい。)
コメントを読んで、涙が流れてしまいました。
私の辛い体験を、受け止めてくださってありがとうございます。
もう一度、YANBARU先生のホームページに戻って、自分に忠実に自己診断から見直してみます。
ありがとうございます。
YANBARU先生
ポイントは『問題の自覚』でしたね。
どんなに悩もうと、担任の先生を恨もうとも、最終的には『自業自得』にたどり着くのでした。
確かに「自分が変わらなければならない」「変えなければならない」と決意した日があります。それは、青年期だったと思います。
問題をはっきり自覚したのは、よく考えると思春期以降ですね。
ただ私の場合、幼稚園の頃から『他の子なら絶対しないようなことをやる子ども』だったために注意を受けることが人より多く、自分の実感として『自分が思ったことをしようとするといつも叱られる』と感じていたのだと想像します。だから幼稚園年長のあたりから『叱られない行動』を考えて実行するようになった。でもそれは本当の意味で『問題を自覚して』ではなかった。ただ、AC人生の第一歩であったというだけです。
思春期に自覚していた問題も恐らくAC的に、という意味での気付きであったと思います。忘れ物をする→だから私はダメだ、頭が悪い、という短絡的な発想。本当の問題はそれではなく、『忘れ物をしやすい自分の脳の働き』に気が付くべきだった。自己評価が下がったのは、『問題に気が付いてはいたけど、本質的な問題には気が付かないでいたため』だったのではないかと、自分なりに考えました。
(これは自分のための分析です。それ以上の意味はありません。)
「AS」と「自覚していない時」私は、自己評価がとても低く人間不信に近い状態でした。被害妄想的に考えてしまうこともその原因の一つだと思います。
しかし、「AS」と「自覚」してから、もっと自己評価が下がりました。
とゆうことは、それまでの自己評価は実はそんなに低くなく今は落ちるところまで落ちた・・・とゆう感じです。
確かに自己評価がどん底まで落ちることは、とても辛い事ですが、そこから這い上がろうとする自分がいます。
「自分を知る事」は嫌でも現実に目を向けなくてはならない作業です。
今までの私はその「現実」から目をそむけながら生きてきたので仕方ないと感じています。
「歪んだ認知」を「現実」と照らし合わせて一つ一つ確認していくしかありません。
「AS」と自覚して主人とは全く喧嘩をしていません。(仲がいいとは言えませんが・・・)
「ADHD]であろう主人とスタートが並んだからなのでしょうか?
今は主人の風変わりな所も「見てみぬふり」ができるようになりました。
それまでは、問い詰めたり、見下したりしていましたから。
スタートが並んだ事で、「お互い様」とゆう気持ちになれたようです。
先生の仰る「スタート」と意味合いが違っていたらごめんなさい。私の勘違いかもしれません。
前回のコメントの内容がなんだか中途半端な書き終わりだったような気がするので、補足します。
これも私自身の確認のための書きこみなので、その旨お断りします。
本当に問題として自覚したのは、昨年夏頃だと思います。真面目に『変わらないと』と考えました。それまで何度も『変わらないと』と考えていながら、全く進歩が無い自分に行き詰まってしまったのだと思います。
辛かったのは『本当の自分の姿』を見つけることでした。思えば幼稚園の脱走未遂事件以来、『周囲にあわせる』ことだけ考えて生きてきたから。自分の好みさえ、人に合わせていたくらいですから『好きなこと』を見つけるのも『楽しい』と感じることを見つけるのも『果たしてこれは、本当の自分が望むことなのだろうか?』と常に問いかけながらでした。
やっと本当の自分を見つけた今、今までの辛い経験がきれいに流れてしまったかのような気持ちです。
これからは、自分がいいと感じること、大切に思うことを最優先に生きていきたいと思います。
『自己評価』について、ASの人とADHDの人とで捉える意味合いが違うような気がしました。たとえばHIKARIさんが表現されている『自己評価』はどちらかというと『プライド』とか『誇り』といった意味合いに受け取れます。
私が考える『自己評価』というのは微妙に違って、文字通り『自分という人間の価値への評価』というような意味です。具体的に言葉にすると『自分はダメな人間だから』というようなことです。私が前のコメントで『ASの人は自己評価が下がっていない』と書いたのは、ここでのAS方のコメントを読む限りでは『自分はだめな人間だ』ということを殆ど感じることがなかったからです。言葉でどう表現していても『それでも私は悪くない』という雰囲気やオーラ?を感じていたのです。それが私の率直な印象です・・・あくまで『印象』ですけれど。
(だからASの人は辛くないと言ってるのではありません。)
yurinさんから見ると、私はそう見えるのですね?
何故だろう・・・。
私は言葉が厳密ではないので、何て表現したらいいのか難しいですね。
確かに「自己評価がさがる」ことは「プライドが傷つく」ことです。そして、「自己嫌悪」に繋がるのですが。
私は最近ここに来たばかりで、急激に発達障害についての情報が入ってきて、少々混乱してます。
正直、まだ自分が何者なのかも、どちらに属するのかもよくわかってないです。
ASとADHD・・・。
どちらも当てはまるのですが・・。
『愛着』で決めるとしても、発達障害を持って生まれてきた子供を特別に手をかけざるを得ない状況下では「私が守らずに誰が守る?」という気持ちが根底にあったので、もしも私が多数派だとしても(ありえないけど)特別な関係になってしまうのではないか?と思ったり。
私は『プライド』が高いのかな?
marioさん、私って、どう見えますか?
もし読んでたら正直に言ってください。おてやわらかに!
HIKARIさんへ
自己診断で迷われているようですので、私の印象を書きますね。YANBARU先生、もし私の印象に関してご意見ありましたら指摘してください。
私がHIKARIさんを見た印象は『積極奇異型AS』です。ご自身はどうお感じなのかわかりませんが、特定の人に対して(私から見ると)かなり強い愛着を感じます。愛着というのは、私的には『愛情とは微妙に違うけれども本質的には同じ』です。その感情の中には『この人にはわかってもらいたい』と強く願うことも含まれると思います。
私の本質はADHDです。私は特定の人に対して『この人に』わかってもらいたいとはあんまり思いません。もちろん、わかってもらえたら嬉しいけれども、所詮違う人間なのだから完全に分かり合えないのは当たり前だというのが基本的にあります。
それとプライドが高いことが問題、というよりも『自分にもどこか問題がなかったか』と思えるか、思えないかです。自分に問題がないという考え方が根本にあると、自己評価が下がらないのかもしれませんが、別の意味で自分を辛くさせます。
極端な話ですが、たとえば、です。『自分はまったく悪くないのに、人から辛くされる』と思うことが逆に自分を苦しめる、ということなのですが、これがどういうことを意味するのかが、わかりますか?
こんばんは。はじめまして。
医者になって・・・医大生の時代から
「俺ってADHDかもなぁ」
と、思っていたことがあります。一応診断基準に照らし合わせると違うことになるのですが・・。
自分自身、今何かで困っていることも無いのですけど・・・ふと時間があったので覗いて読んでいました。非常に面白かったです。
一応、僕の小学生のころですけど・・・よく、問題出されても一瞬集中して、解いたあとは人にちょっかいをかける。これはちなみに予備校時代まで変わっていないと思います。露骨でないだけで・・・。
先生のHP見ました。非常に面白かったです。僕に当てはまるところもありましたが、全面的には当てはまらないと思っています。「同時並行でいろいろ考えている閃き派」な自分ですが、たぶん学生時代に4つの長をやっていたので、協調性はあるほうだと思っているのですけど・・・。
いや、本当に勉強になりました。また、時々見に来ます。では、失礼いたします
yurinさんへ
そういえば確か「わかってもらいたい人は限られてる。配偶者であったり、精神科医であっらり・・」というコメントを記したことを覚えています。
今、冷静に考えると、限られてなかったような気がしてきました。yurinさんでも、YANBARU先生でも、話を聞いてくれる人、話を聞いてくれそうな人を求めたと思います。
不用意で安易な発言をお許しください。
それから、
「それとプライドが高いことが問題、というよりも『自分にもどこか問題がなかったか』と思えるか思えないかです。自分に問題がないという考え方が根本にあると、自己評価が下がらないかもしれませんが(ここまでは、意味解ります)別の意味で自分を辛くさせます。(ここから最後の部分が解りにくいです)」
たとえ話で説明を加えてくださっていますが、解りにくいです。ここで言う「自分」とは私のことでしょうか?
yurinさんが、どういう考え方をお持ちなのかわからないままなんとなく、あなたのブログを読み、心が動き、友達になりたいと思いました。正直な気持ちです。
私から見たyurinさんは、良い意味で『とても強い女性』です。かなり誠実な方だろうことが分かります。
だから、私の『不誠実』ととれるコメントが許せなかったのでしょう。
私の問題は、この『不誠実さ』だと思います。
『自分と向き合う』ということは辛い作業ですね。
自分の弱さ、欠点ばかりが見えてきます。
自分は何らかの発達障害であることの自覚はできても、今はまだ「あなたはASです」とか「あなたはADHDです」と診断を下されるのは正直、怖いです。自分で思ったとしても、自分以外の方からはっきり診断されるのは怖いです。
今は急激にASとADHDの違いの情報が入ってきて、こう見えてもかなり混乱してます。
今後ともどうかお手柔らかにお願いします。
yurinさんへ
今、『積極奇異型AS』をじっくり読んでいます。
やっぱり、当てはまるかもしれません・・。
迷うところもありますが・・。
あなたのご指摘、真摯に受け取ります。
ありがとうございました。
HIKARIさんへ
こちらの書きこみに気がつかなくて、ごめんなさい。
>別の意味で自分を辛くさせます。(ここから最後の部分が解りにくいです)」
問題点に気がつくことは、確かに辛いし、いろんな苦しみも伴います。だけど問題点がわかるということは、その解決策も見つけられる、というふうに私は考えます。逆に問題点に気が付けないと、解決策も見つからず、現状に踏みとどまったまま何も変わらない。辛い現状は辛いまま、ということです。
自己診断についてですが、迷われていたようなので、あくまで参考までにと私の印象を率直に書きました。診断を決めるのはもちろんHIKARIさんご自身です。自分が納得するのが一番大事です。
私の自己診断の一番の決め手(ポイント)は、YANBARU先生の基準『愛着の有無』という点で書きました。ADHDとASは一見非常に似通って見えますが、違うのは実はこの点だけだからです。
私はADHDという診断は比較的すんなり受け入れたものの、『やっぱり努力が足りないだけかも』とか、『もっと頑張れば普通になれるかも』という形の否認に苦労しました。認めたいのに認められない、という状況です。
人間、問題点は違っていても、実は誰でも持っているものです。ただ気が付くか、つかないかの違いです。
HIKARIさんへ
私はあなたを不誠実だとは、全く感じていませんよ。ただ、ちょっと『驚かされた』ように感じたことはありましたけど、それは『少しだけ』あなたを理解できたので、今は納得しています。
>話を聞いてくれる人、話を聞いてくれそうな人を求めたと思います。
私は話を聞いてくれそうな人・・・というふうに求めることはもともとの思考にないのですよ、実は。もちろん、今でこそ話を聞いてもらいたいときは、聞いてくれそうな人かどうか?考えるようになったけれど、もっと昔の小学生の頃や、あるいは中学高校あたりでも、そんなことは考えようとあまりしませんでした。
『話すときは話題によって相手を選ぶ』とか『聞いてくれそうな人を選ぶ』ことを考えたり、それをどうにか実行できるようになったのは、社会に出て何年もたってからだったと思います。失敗もたくさんして、嫌な思いもいっぱいして、もろもろの荒波をこえて、やっとできるようになった、というのが実感です。
ADHDは、もともとはそういう障害なんです。不足している能力をみんながそれぞれの努力でおぎなって、どうにか生きているというのが正直なところです。
yurinさんへ
>問題点にきがつくことは、確かに辛いし、いろんな苦しみを伴います。だけど、問題点がわかるということは、その解決策をみつけられる・・・。
そうなんですよ。先日いただいたコメントの
「別の意味で辛くさせます・・・」
の意味を解釈するのに時間がかかりましたが、yurinさんのこの言葉で、私は『目が覚めた』と思います。
そういえば、表面的にしか自分は「反省してなかった」ような気がします。言葉で「反省」とか「自己嫌悪」とか口にするのは簡単なことでしたが、本当の意味で、自分自身が心の芯まで打ちのめされるような気持ちは感じてなかったことがわかりました。
それは、心の底に「私は悪くないから大丈夫」「私は間違っていないから大丈夫」という変な自信があって、(これが歪んだ認知なのでしょうけど)この気持ちが私自身の『自己評価を下げるはなかった』ことに気が付いたのです。
これに気が付いたとき、やっとADHDの方と同じスタートラインに立てたと思いました。
やっと、自分を客観的に見れたのです。
yurinさんが言いたかった真意がわかったとき、生まれ変わったような気持ちになれました。
産みの苦しみを乗り越えた・・逃げなくて良かった、向き合って良かった。
やっと、始まる・・・。
そんな気持ちです。
コメントありがとうございました。
mario様
自己正当化型ADHDの問題は別に詳しく検討する予定です。自己正当化型ADHDの人の場合には問題を自覚することは合理的でないだけ、ASの人よりもなお困難な感じがします。
HIKARI様
最初のあなたのコメントと2回目のコメントの印象がかなり違います。これは表面的な印象ですが、感情的な反応と取られるような(最初の)コメントはかなり相手に圧迫感があります。私の受け取り方の問題でもありますが。あくまで表面的な印象で、2回目のコメントを見れば思いすごしであったことが分かります。
みい子様
自己評価が「下がる」というのも、あなたがあなた自身に厳しすぎるハードルを設定しているからではないですか?
人間はみんな有限で、完全ではありません。ぼちぼち生きましょう。
アンフェタミン様
私も時々拝見しています。今後ともよろしく。
yurin様、HIKARI様
ここのやり取りは非常に重要で、お二人ともよく頑張りました。そのうれしさはお二人が一番よく感じていると思いますが。これはこのブログの上で「理解が成立した」という事実の証明です!。
コメントありがとうございました。
①
私は今、自分は家族の大転換期を乗り越える局面にあるのだと思っています。そのタイミングに、先生のブログに初めてコメントさせていただきました。リアルな世界では、私はここに書いてきた“自分の問題”を表出できる交遊関係を持っていません。
今、私なりに、方向性を見失わないように必死なのだと思います。ブログ記事を断片的に読み、瞬間的な思いを書き散らすかのようなコメント連投をお許しいただき、本当にありがたく思っております。
3年前(いつの間にか3年もたっていました)、子どもの問題行動が表面化しました。当初は子どもの問題と捉えていましたが、徐々に
⇒家族の問題だと思うようになる⇒自分自身の問題だと思う⇒自分の問題であると同時に家族の問題だと思うに至る(今)という経過をたどっています。
ここ1年ほど、私の頭の中は「なぜパートナーが家族の問題に向き合おうとしないのか?」という疑問が常にありました。今春以降、特にこの1ヶ月間に子どもは大きく変わりましたので、それに精いっぱいの誠意で応じることに正直疲弊し、同時にパートナーへの疑問と怒りも膨らんでいったのだな、などと思います。
②
当エントリを含む’07年の記事で、彼がなぜ「子どもの問題は家族の問題でもある(さらには彼自身の問題でもある)」という理解をしないのか」が私なりに理解できたような気がします。
彼はいつも「僕が求めているのは心の平安だけだ」と言います。私は言外の「だから家族は僕の生き方を乱すなよ」を察知し、重圧を感じ、様々な怒りの形で表現してきました。
会話の最後に発せられる、彼の「じゃあどうすればいいの?」「指示してよ」は、私には問題の丸投げに聞こえましたが、彼にその意識は本当にないようでした。
二人の脳の根本的違いを知ることができたこれからは、私は感情的にならないよう(私の最大の課題です)「確認作業」を繰り返していきます。
>そのためには、誰かが一度は「はっきり」言うしかない。これは本人の前進のためにどうしても必要なことであり、辛くても乗り越えなければならないことである。
彼の認知には(私と同様)独特な部分があることは、きつい言い方で(ゆがみという言葉を使って)何回も言いました。私の言い方、あるいは私の伝え方で、彼が自分の問題に気づくかどうか・・・これは難しいように思いました。
彼に悪気はないことはわかり、私の責め口調が相当辛らつである自覚もあります(つまり押しつけになっている)。
しかし私的には、彼には理解をしてもらわねばならない。
彼が、辛くても乗り越えなければならないことなのかどうか?今の私に、この問題を適切に考えることは無理だと思いました。
・・・やはり、彼自身が気づく“べき”ではないか、でなければ意味がないと思えたりします。
③
どうにもすっきりしないので、もう少し続けさせてください。
彼に対する不満・・・
1.事実として子どもの問題が表面化しているのに、(経済的に責任は果たしていても)自分の問題として捉えていない
2.そもそも同居以来、家族関係維持に必要な相互理解の努力をしようとしていなかった(積年の恨み!)
自分の苛立ち・・・
1.子どもの問題行動を通して私が真摯に自分の問題に向き合ってきたことを、彼が評価せず、そもそも状況を理解していない
2.どうやら「理解すること自体」が彼にとっては困難らしいことに、私は気づいてしまった
3.じゃあこれは結局、自分自身がどう捉えるかの問題なのか?しかし彼に責任はないのか?
子どもは夏休み中ということもあって、毎日楽しく過ごせているようです。私もそれを「子にとっては正当」と認めることができていると思います。そこに「気づかぬ抑圧」があるのかな・・・その点、自分ではよくわかりません。
④
対人の力関係(折り合いの付け方)は、客観的には50:50がフェアだと思うのですが、私の場合、本音は「るる80:他者20」(!!)くらいが満足なラインで「いやそれはジャイアンの傲慢だろう」という思いで、しぶしぶ50:50を目指すイメージです。
これを今の家族で考えてみると、
・るる:子=40:60・・・私なりに子どもを尊重していて、納得できている。つまり自分としては、-10くらいで合理性があるバランスに思える
・るる:パートナー=70:30・・・本来80:20にしたいがそれは傲慢だろう、しかしそれじゃ、あなたが理解しない“私の努力”は、報われていないじゃないか、だから私は70は欲しい、でもそ70という数字は私にとって合理性もないし、ジャイアンを満たすものでもない中途半端な数値→「怒」につながる
どうやら私独特の「不利益感」があり、それは「あなたが悪いのだ」という側面が・・・「本来80:20で然るべきどころか、子に対する-10をかぶってもらって私が90くらいが正当でしょ」という思い、これこそ私の「依存」の正体ですね。そこに自己突っ込みが入るのですね。
醜い自分をたくさん書きました。
とりあえず彼との会話では、
・彼の認知は歪んでいる(私とも、多数派とも違う)
・自分が、見当違いの受け止め方をしている可能性
を念頭に置き、瞬間的反応を抑える工夫をしてみます。
>「相手が辛いだろうから」という「理由で本当のことを言わないことを私は「配慮」とか「優しさ」と呼ぶべきではないと(個人的には)考える。
他記事に自己愛性人格障害でASの知り合いのことを書きましたが、これまでは「まだあなたのことをよく知らないから好きか嫌いか判断できない」と言ってましたが、何度も同じことを訊かれ、根負けして「じゃあ嫌い」と言ってしまいました。
白黒はっきりつけて欲しかったらしく、「好き」と答えて思わせ振りな態度をとるよりは良いと思い「嫌い」と答えましたが、これで良かったのか?と釈然としない気持ちが残りました。
ダメですよね。
「相手のために白黒はっきりつけるのって、(人からの要請になる)依存的な考えだなぁ」と思いました。
この記事の「配慮」や「優しさ」とは違うかもしれませんが、最近ASの人と接してて「表面的に同調して欲しいのか?」と思うことが多く、コメントしたくなりました。
私は思わせ振りな態度をとり、相手に余計な期待をさせるのは「人を騙すようで不誠実」という考えがあるのですが、それで白黒はっきりさせようと「嫌い」と答えるのもおかしいよね?と今更ながら気付きました(汗)
モデルとしてのASは、何か問題が生じると、大量に蓄積された過去のデータベースから類似するケースを引っ張ってきて、個別具体的に対応することになります。これで、たいていは解決できてしまいます。ここに、真の問題が潜んでいるように思います。
つまり、大容量のデータベースでも対応できないまったく新しい問題にぶち当たるか、または問題の発生した事実が大量に蓄積されて「俺っておかしい?」と気付くか。そこではじめて、自分の問題に気付きます。どうしたって遅いんです。でかい壁が現れない限り、さらに遅くなります。
誰かに言われると、気付く可能性がゼロではなくなります。ただ、ひとりに言われる程度ではたいてい、ほぼゼロのままです。ASのデータには「今回については、どちらかがおかしい(たぶん、相手がおかしい)」として保存されるからです。ひとりに何回も言われたところで、これが積み重なるだけです。
複数の人から1回ずつ言われるほうが、ずっといいものです。ひとりふたりでは(相手がおかしい)と思えても、5人10人となると(そこまで相手がおかしいことが連続するか?)となってくるためです。ひとりから言われる場合でも、一般的に/世間でもおかしいと自覚させるような表現ですと、同様の効果が生じます。
先生のこのエントリーは6年前のものですから、いま同じテーマでエントリーなさると、また異なる表現・異なるアプローチになってくるのかもしれない。そう想像すると、これはこれで楽しくなります。
そうそう、俺の場合は、でかい壁でした。言われ続けても「何のことやら」でした(汗)
⑤
現状での、とりあえずのまとめ
昨日も投稿した後、ずっと引っかかりを感じていて、’08.02頃のエントリを読ませていただいていました。
○私の目的
・現状の子どもを認め、自分の-10を妥当と考えている理由は、自分の「子への支配関係」を切り離し、自分自身が子どもとの適切な距離感を考えるためです。それがいつの間にか、パートナーに、自分の努力を理解・評価させることになりかかっている!
○実生活
・子どもと二人で過ごす時には、ほとんど違和感がない⇒(これは自己評価を下げている状態?)
・パートナーと二人で過ごす時は”るる様状態”(汗&恥)⇒(彼、ボコボコにされてる状態?)
・三人で過ごす時の、私の異様な居心地の悪さ。⇒表面的には二人を“共に”尊重しつつ(彼に対しても、子どもへの対応と同様にするしかない)、内心では彼に「私の心情読めよ~(怒)」と。
↓
この違和感は、文章にしてみましたら、腑に落ちました。とてもとてもよくわかりました。
◎今の私にできること
1.現状を認め(るしかないので割り切る)
2.自分の努力は自分で評価し、自分を褒める
3.彼に対してはジャイアン風を吹かす
4.子に対しては自己評価を下げてでも、尊重する
5.家族の団らん=我が家においては異文化交流。言語圏の異なる(彼も子もASで共通言語だと思うのだが、なぜか互いに交流しない)人との同席
パートナーの「独特の認知」については、ASの方々のコメントで、私なりに理解できたと思います。とはいえ、たぶんこれからも、瞬間的に怒りの感情が芽生えるでしょう。そこは日々のチェック項目として、
◎自分の認知も歪んでいる可能性がある以上、彼への過剰な反応は控える努力をする
(以前書かせていただいた「倹約」も今にして思うと、私の過剰反応の一例に思えます)
おかげさまで、るる史上最高に“アツい夏”です。
世の中に私と同じ考え方の人がどれ程いるのか分かりませんが、よくASの人達からは「はっきり言い過ぎる」と指摘されていました。
ただ、その反面、言い方がさっぱりし過ぎて気迫さが足りないせいか、受け流されることも多いです。
どうも知り合いは「私が何故怒っているのか」分からないまま、私の機嫌をとるために合わせてくれているらしいのですが、本心は「ほぼ100%の受け入れ」のようですね。
ASの人に合理性を求めるのは酷だとは思うので、ある程度「妥協して合わせてくれるだけで満足」と考えれば良いのでしょうが、肝心な事が伝わっていないような気がして、ちょっと虚しくなりますね…
あと、ここは依存心の無いのび太との違いだと思いますが「俺がお前に合わせているのだから、お前も俺に合わせろ」的なオーラ(首尾一貫性を求める非言語表現?)だけは何となく感じるんですよね(苦笑)
ちなみに「私も人間です」発言より、「自分こそ普通」と言い切れることの方が羨ましかったりします。
「普通の概念」がさっぱり分かりません。(5段階評価なら3にあたるのか?)
「皆それぞれ違うのが当たり前じゃないか?」というのが私の考える「普通」かなぁ。
書き忘れていたことがありました。
◎パートナーの認知について
現状で、彼のパートナーである私が“困っている”のですから、やはり私は「違うよ」と言い続けてしまうと思うし、彼のパートナーとして相互理解のために、言ってもいいのかなと思いました。
言い方は・・・そこは私の反省すべき点ですね。
気づくかどうか、それは「彼自身の問題」ですね。彼自身が考え、決めることであって、私がそこまで支配してはいけないなと思いました。
現状では、私からしか言われていないようです。きっと、彼は彼なりに社会に適応しているのだと思います。
・・・彼はいつも「心の平安を求めている」と言います。彼に伝えていませんが、実は私も「心の平安・安泰な人生」を求めています。
そこに、私は相互理解の脈がある!と思いました。
この自覚までASを持っていくこと、そこに光があるのか。そこに光があるといい。はっきりと言い続け、少しが光が見えたあと、ASはひどい裏切りをする。自分の痛みしかみえなくなり、100%の愛情を求める。彼らにいつか、健康的な関係を安定して保てる日が来るのか。ADHDの伴侶でさえ、共依存になるしか、手がないのではと、思わせるASとは、謎解きをするには、少しばかり手強い。しかし、自分自身の修行には素晴らしい相手である。
私が自覚しなければならなかった問題はこれだったのか。
幼少期、妖怪人間の「早く人間になりたい」が
自分へのあてつけのように思えました。その頃の悩みは
「自分は普通じゃないから普通を求めちゃ駄目なのに人には普通を要求される」
事でした、なるべく自分を押し殺して生きよう、としていた数年は
「まるで生きながらに死んでるゾンビ」「ロボットにすらなれない出来損ない」
「自分が雑巾やサンドバックならきっと破れていて使い物にならない」
などと自虐してました。
そんな中で
「自分だって障碍を持ってる癖に無自覚で多数派のふりして他者を貶す存在」
がどれ程苦痛だったか。
長いので分割します
最初、発達障害だ、と診断を受けた時
「やっぱり自分は普通と違うんじゃないか!・・・やっぱり違うのか・・・」
と喜びと落ち込みがほぼ同時でした。分かってなんになるのだろう?と。
認めなくては、変わらなければ、と思ったのはそれからずっと後で
自分が世界の中心だ、とでも言わんばかりに
他者に自分の考えを押し付けようとしている人、を見ると
「お前は何様だ、お前が思った事が真理にでもなるのか?」
と頭に血が昇ってしまい、だったらこっちも押し付けて
お前と同じことをしてやる!と、それをやってしまう度に
激しい後悔に襲われ、止めとけば良かった。
なぜ悪いと分かっていながら同じ事をした?もうしたくない・・・
と度々落ち込んでしまい
そこでやっと、自分が変わるしかない、と思い至りました。
ようは変わろうと思ったきっかけは
「自分だって井の中の蛙な癖に」
と後悔する自分が嫌過ぎてどうしようもなくなったから、です。
分割
恐らく私を見て、今までADHDの人が感じていた不快感、は
これと同じような嫌悪だったのだろうな、と耳が痛くなりました。
ブーメラン、オウム返し、を常に気にして、棚上げ大嫌いだった筈の
自分がまさかそれを最もやっていた張本人だったなんて・・・
あまりのショックにとても落ち込んでしまいました、が
この記事でハッキリ分かって良かった。
このまま自覚もなくこれ以上無責任に人を傷付けてしまっていたら
それこそ後悔してもしきれない所だった・・・いやそれにしてもショックだ。
きっとAS(恐らく)な自分は常にこうやって愛着相手には
多大なショックとなる言葉ばかり言ってしまっていたんだろうな、と
本当の意味でブーメランが返って来た思いです。
とりあえず、この記事は何度でも読み返そうと思います。
このような自分を見直すのにとても役立つ記事を書いて下さって本当に有難う御座います。
コメント欄にタイトルが上がっていたので、今夏の自己コメを読み返しました。
「パートナーの前ではジャイアン風を吹かす」というのは、よろしくないようで、というか、よろしくなかったです。
いや、正直に言いますと未だに、よろしくないことをわかっているにも拘らず、吹かしてしまうことがあります。
子の言動を尊重するのなら、パートナーも子と同様に尊重すること。自身の成長を目指すのなら、どちらも同様に尊重する必要がありました。
しか~し!!
これは難しいです。とてもとても難しい!悪戦苦闘です。
話をして解り合うにも、長い時間と忍耐(子とはしゃべらないので忍耐はいらないのです)が要ります。
この一週間、いろいろ考えました。
尊重 ≠ 顔色をうかがう
ではないことがよくわかりました。
自分自身が自立し自身を尊重しなければ、他者を尊重することは難しいように思いました。
相変わらず悪戦苦闘の日々ですが、様々な切り口から自立・尊重の本質に近づけているようにも感じています。
最近自分が人間であるとわかりました。って、わかってるんですが、言い切れないもやっと感を放置していました。
それは、私はなぜあなたではないのか、という疑問を、「違う」という実感・経験から持っていることから、
それ自体が、同じであることを表わしている。私とあなたを分けられるということが、大元がひとつであったことを示唆してるんだなと。