ASにとっては「分からない」「見通しが立たない」ことは非常な不安であり、そのために強引にこじつけてでも見通しを立てたり後付けの理論を組み立てたりする思考が当たり前となっている。
自分自身の予知不能で不確実な未来自体が、(よほど安定した環境に恵まれない限り)、非常なストレスを感じることになるのは当然とはいえASにとっては「生きているだけで困難」となる理由のひとつだ。
予知不能なものは未来のほかに「他者」がある。他者の「本心」も当然だが完全に正確に知ることは出来ず、それどころか現実の生活の中での必要な情報さえうまく伝わることは難しいのが現実だ。
他者の「現在の真意」でさえ理解不可能であり、当然「他者の未来の見通し」はなおさら確実に知ることは不可能だ。
これはASの人にとっても曲げることの出来ない当たり前の「事実」「現実」であり、このことを弁えるのが「支配の断念」である。
具体的には、「他者は永遠に未知である」ことを現実として弁え、他者について現在の本心についていかなることでも「断定」したり、無理やりに見通しを立てたりすること自体を断念する。
「何が出て来るか分からないブラックボックス」というイメージがある。これはASの人にとっては非常な不安の原因となるものである。しかし驚きやわくわくするような可能性もこのブラックボックス無しには不可能である。
不安の反対側には、「不安は無い代わりに創造や驚きも無い平和だが退屈で無味乾燥な時間」があるだけである。もしもそちらを望むのであれば、人と関わること全体を断念するしかない。
これがASの目の前にある本当の「現実」「真実」だ。と同時に、自らこの事実を受け入れ、相手を支配することを断念することで、人と関わる豊かな可能性が目の前に広がってくることの「確実な」保障でもある。
ASの対人関係の原則は実は「全ての相手をADHDのように扱うこと」ということになるのは面白い。
少しだけ解ってきました。
他者についての勝手なシステムを想定してしまうのですね。その想像のシステムに対して行動するから適切な行動が出来ない、その他者からすると「分かってもらえない」となる。それはASが安心するために作り出した仮想システムだからそれを捨て去り「他者は永遠に未知である」ことを常に意識する必要がある。そうであるならば、理解できました。それが今後上手くできるかどうかは別にして、意識し続ける努力は出来そうです。
ところで、その仮想システム(勝手な見通しや想像)は、感情を読み取る機能が弱いASゆえに構築に失敗するものなのでしょうか?それとも、ASのみが不安解消のために構築するのであって、AS以外の人はそもそも仮想システム(未来の見通しや相手の本心の想定)を構築しないのでしょうか?とするならば、ずっと不安なままで居るのでしょうか?それとも、不安を感じないのでしょうか?
他者を、未来を知って安心したいと言う欲求は、誰もが持っているような気がするのだけれども…
もう一点、未知の未来、あるいは未知の相手に対して見通しを立てようとする事が、何故「相手を支配する」ことになるのか、未だに解りません。
ある日テレビの歌番組を見ていた時、夫が私にある曲について『この曲(アーチスト)のどこがいいのかが分からない』と聞いてきたので『多くの人がいいと感じる何かがあるからじゃないの?』と私が答えたら『何かって何』と更に聞くので『それは人によって違うから』。 実はこの会話は先がまだあるのですが、結論は『私は(多くの人がいいと感じる何か)というところで納得しているからこれ以上の事は私には言葉にできない』という線でとりあえず終了させました。夫が完全に『納得したか』わかりませんが。 一つの曲について『どこが好きか?』という質問に対する答えは『人によって違うもの』だから、私が答える『好きなところ』は、あくまで私の感想でしかありません。私が『好き』と感じる事を他の人もそう感じるかどうかは『わかりません』。『同じかもしれない』し『違うかもしれない』。 他者の気持ちは、『他者その人のもの』であるのだから。
yurinさん
好みは人によって違う、それは私にも解ります。でも、多くの人が好ましいと思うのであれば、共通して感じられている何らかの良さが存在すると思ってしまいます。そして、それを知りたいと思います。
人間に、社会に、物理現象に、共通する何らかの真理があると思っています。それが人のタイプや物理の相に詳細化されると、またそれぞれに真理があります。AS的な人、ADHD的な人、それぞれに共通の原理があり、それらの人を理解する助けになります。更にそれらの人それぞれに異なる原理を持っている事も解ります。
何か話がややこしくなりましたが、共通する好み(何か)を知りたいと思います。それは解らないの一言で終わってしまってはもったいない。何も進歩しない。それが最終的には解らない(無い)かも知れなくても、知りたいと言う気持ちは捨てられません。
marioさんへ
『知ろうとすること』はそれ自体は素晴らしい事です。ただ『あなたが出した答え』は『あなたのもの』であって他の誰のものでもありません。だからこそ『かけがえのない大切なもの』であり『それこそが、大切なあなた自身である』ということを忘れないで下さい。
AS当事者の視点で「支配を断念する決意」を読むと、ASの「生きているだけで困難」となる
要因のひとつが実に論理的に説明されていると感じます。そしてなによりも、その対応方法
に言及されている重要な文章だと感じます。
>「何が出て来るか分からないブラックボックス」
分かりやすい表現で、興味をひかれます。と同時にAS当事者としては、正直に言うと
なんともいえぬ不安感も生じます。興味と不安感がコインの裏表のように同居している感じ。
しかしそれが人生の事実なのでしょう。
そこまで説明されても「ブラックボックス」に拭い去れない恐怖感を感じてしまうのですから
自分でも厄介だなと思います。しかし同時に自分の認知のゆがみを修正できそうな可能性も
感じます。
個人的には、聴覚過敏に対する過剰な刺激と、それによる不安反応も解決したいです。
>具体的には、「他者は永遠に未知である」ことを現実として弁え、他者について現在の本心
>についていかなることでも「断定」したり、無理やりに見通しを立てたりすること自体を断念する。
この「断定」がゆがんだ認知を生み出す根源なのですね。
確かに「断定」=「自分勝手のこじつけ」=「ブラックボックス(可能性)の否定」です。
自分の思考ではこのような点が思い浮かばないので、指摘していただけるのは
自身の認知修正の基礎になり、自身の可能性を広げるための助けになります。
私個人の現状でいえば、混乱の一言で現せるのですが、それもこのような
認知の基礎の部分が欠落しているからだと自覚しています。
少しづつでも修正できて、基礎ができたらいいなと思っています。
最近「受動型AS」と認識し始めました。
率直に、今までの困難の原因に気づく事が出来た事、嬉しく思っています。
強引にこじつけた「歪んだ認知」のため長い間、人間関係で苦労していたように思います。
その「歪んだ認知」の為、勝手に相手の気持ちを「断定」して、「自由」を奪い、結果、追い詰めてしまい、不安定な関係が続いていたようです。
「支配」を断絶することで「豊かな人間関係」を築くことができる・・・。
頭の中にすんなり入る言葉ですね。
先生、全然面白くないよ!
こんばんは、ヤンバル先生。
ネットサーフィンしていて、とある年配の方のブログで
入院されていた数日間のことを「限られた数千日のうちの貴重な数日が無駄になった」
と書かれていて驚天動地の思いがしました。
ぼくは自分の未来が数千日もあると感じたことはありません。
未来は真っ暗で、明日は真っ暗で、それどころか
数歩先も真っ暗です。一瞬後に死ぬかもしれず、倒れるかもしれず
何が起こるか分かりません。
明日が怖く、未来が怖く、次の一歩が非常に怖いです。
今この瞬間だけ、偶然死なずに生きているという感覚です。
なので、未来をよりよく生きるために今これこれのことをせねば
とかいう生き方をしたことがありません。
今この瞬間がつつがなく過ぎますようにという切実な願いで頭がいっぱいいっぱいです。
だから、先生のおっしゃる
>「不安は無い代わりに創造や驚きも無い平和だが退屈で無味乾燥な時間」
を望んだりもします。
先生こんばんは
二つ上のコメントの人は、「面白い」という言葉に噛み付いているですね。上から目線と感じたでしょうか。ASと思い込んでおったので感情移入したでしょうか。
これは自覚していないADHDの人のようですね。
この人はこの時実は、人間に憧れている自分に気づき愕然としたんですね。憧れは理解の対極、捨てるべし。と、すぐ捨ててしまいました。
先生、すみませんでした。
こちらは10年近く前の記事なんですね。なんだか感無量です…
>もう一点、未知の未来、あるいは未知の相手に対して見通しを立てようとする事が、何故「相手を支配する」ことになるのか、未だに解りません。
↑こちらは本記事へのASDさんのコメントなんですが、目にして、気持ちが少しふっきれたかもしれません。。
ASDが解ろうが解るまいが、それは本人の問題。
ジャイアンは説明する必要がないし、「支配しようとする」言動に、反応しなければいいのです。
スルーすればいい。
家族だからコミュニケーションをとらねばならない = 説明責任
のように感じていたけれど、自分にそこまでする(責任を感じる)必要はない。
いつも同じようなことを繰り返し書いていますが、少しずつ深いところで納得しているのでご容赦ください。
それから、
彼もほめられたいし、認められたいんだ と思いました。
発達障がい者は成長の過程で、周囲から努力を認められづらいのだと思います。
彼なりに一生懸命やってきて、今日の彼 があるのだと気づきました。
この記事への自己コメントは、孤立型ASDに思える パートナーを念頭に置いています。
パートナーは、常に心穏やかに生きることを求めており、事態の収拾こそが何より大切で、
丸く収まりさえすれば、自身の心情、感情はないものとするというスタイルで生きたいとのこと。
実際「じぶんのきもちはどうなの?」と問いかけても、「気持ちの発生は特になし」
あるいは「いちいち気持ちを言うのは非効率」とのこと。
私が受けとめた非言語メッセージから「あなたは実はこう思っているのではないか?」
と問うても、「そんなこと言っていない」「そんなこと思っていない」
「そのように受け取られるのは心外だ」とのこと。
「ではどう思っているの?」と問うと、「急に言われてもわからない」とのこと。
そして、話しかけられるのは、いつ話が終わるのかわからなくて苦痛だ とのこと。
私からみると
・感情自体は発生しているが、自覚しようとしないか自覚できないので「言語化しない(できない)」
・感情自体はあるので、非言語メッセージが態度からあふれ出ている(ように見える)
・その状況下で「何も言っていない」と言われるのが、r.にとってはあり得ない不合理に感じる
文章化すると、確かに私の問いかけには、答えに窮するというか相手を追いつめる面がありますね。
要は、私は自分の感情を自己処理しつつ、彼の非言語メッセージに反応しなければよい。
ということですね~
けれども、態度でいちいち「ネガティブ返し」をされると 私としてはへこみますね。
↑
だったら別れればいいのです。でもそれを選択しない自分・・・
ただただ、お互いわかり合えない他人として、互いに敬意を払いつつ同居を続けること
もまた、現実的な対処法の一つではないかと思うのですが、これは依存ですか?
「彼もまた認められたいのだ」と書いた前回のコメントから2か月たっていました。
わたしもただ、日々の家事努力を認められたいのだと思います。
(期待には添えていないとしても、私なりに精いっぱいこなしているのです!)
コメント欄を利用させていただき、ありがとうございます。