AS(アスペルガー)関連

思春期の発達障害ケア

典型的な症例
 小学校高学年のケース
 小学校3,4年で積極奇異型ASと診断、本人にも告知、家族や本人もASについて理解して、学校にも主治医が出向いて説明、その後も主治医はことあるごとに学校へ診療情報提供書を作成してケアについて意見を述べる連携の体制をとり続けている。特別支援の体制として、学校の全スタッフにASの理解をお願いしたうえで、4年生では本人が校長と相談してどの授業に出るかを学期の初めに相談し、それ以外は登校するか否か、また母が同伴するか否かも本人に任せ、登校などへの積極的な働きかけは避けるという体制を作った。その結果本人が決めた時間は出席して、また適宜本人が学校で過ごせないときは断った上で帰宅することもOKとしていた。
 高学年になって本人から「普通が良い」「特別に目立つことは希望しない」という以前とは違う申し出があり、それまでの体制を改め思春期の体制への切り替えを相談した。
 この申し出の意味は、「積極奇異型ASの中心志向から、自分が特別扱いを要する、特別扱いで「障害」的な形でクラスメートに対して目立つことは納得できない」という意味と理解した。
 主治医は本人に対し、「普通を目指して自閉的なこだわり等では周囲に合わせて妥協し、ストレスが多い生活を生きるか、あるいは自閉的なこだわりなどを大事にしてストレスは少ない人生を生きて、その代わり生きられる環境(進路選択等)が限られているか、どの線を選ぶかは自分で決めなさい」と説明し、本人に考えさせた。
 また学校に対しては本人が自分でこの問題にある程度の答えを出すまでの間は試行錯誤の時期として基本的な過ごしかたはこれまでどおり本人に任せる体制とし、あえて周囲からの積極的な介入を避けるように指示した。(積極的な介入は避けながら、本人の選択した方法の結果逆に妥協できなかった自閉的な面が現実的結果的に目立たないように対他のクラスメートの場面で非公式にフォローすることはお願いした)
 
 思春期になると、「登校する」という単純な行動を決定する段階でも、中心志向を優先するか、自閉的な部分を優先するか、ASの持つ非常に根本的な問題に直面することになる。その際大事なことは、「余計な介入はしないで本人に考えさせる」ということで、この試行錯誤の最中に愛着の対象である親から強く登校を促したり、また社会的な責任を負わせてストレスをかけたりすると、AC的な認知と行動パターンとなったり、また身体症状や強迫症状、聴覚過敏などのASのストレス反応症状が悪化して、病的な経過になり、これらの二次障害のために必要以上に社会適応が悪化する可能性がある。

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コメント

    • NA
    • 2008年 4月 24日

    本当に今更ながら、発達障害について、暗闇の中を歩いてきたような気持ちです。それだから先生のこの内容の援助が私の子供たちに出来ていたらと思うと同時に、これからを生きる子供たち・私達親の本当にひとつの目標になります。まさに明日また学校(高校)の担任先生に子供を理解をして貰うための懇談が有りますが、本当に感謝です。これからも本当にいろいろな方の事を知って前向きにやっていこうと思います。

    • ねね
    • 2008年 4月 24日

     今回一番重要なことは情報を提示し自分で考えさせるということだと思いました。
    自分が今なお学んでいる状態なので 当時情報を提示することは不可能でしたが 自分で考えさせることはできたはずでした。
    学校側がそれを受け入れるかどうかは別にして自分が子供の考えを応援することはできたはずなのにと思います。
     
     子供は少し前、自分の意見を訊ねられると頭が真っ白になる、自分の考えがないようだと言っていました。
    そんなつもりはなかったのに私の考えを押し付けていたようです。
    ちゃんと子供の考えをくみ取っていたら、不登校の問題に対しても もう少し建設的な対応ができたはずと思え残念です。
     娘は症状が重く、どのように自立させたらよいのか依然模索しているところですが、息子は自立に向けて準備を始めていますから、それを見守る形で応援しようと思っています。

    • エイト
    • 2008年 4月 24日

    今回の先生のテーマは次男と重なります。
    次男は、3,4年生のころは学校では「自分はちょっと変わっているけどこんな自分を許してほしい(理解してほしい)」と(言葉にはしませんが私からみるとこうです)思っている様子でした。でも5年生になり、彼のよいところを十分に認めてくれる担任の先生に代わっても、やはりみんなと一緒にはできないので、自分がとても許せない、なぜできないのか悩むという様子になりました。
    そこで、今まで彼が拒否していた指導教室(発達障害専門医院が運営する)に通ってみることをまた打診したのが数日前です。やはり最初は大泣きして「嫌だ」(自分のハンデを認めたくない気持ちだと思います)と抵抗しました。数ヶ月前からそれとなく、ADHDについてママもお兄ちゃんも次男もそういう特徴があるよと話していました(親だからといって、あなたもそうだと言ってしまってよいのかという疑問がありますが)。ママは沖縄の先生にメールでいろいろと治療してもらっていたら、悪いところが少しずつ減ってきたんだよ、だから家の中もきれいになったでしょう。〇〇も指導教室に行ったら、自分のためになるいいことをきっと先生に教えてもらえる、と促したらやっと彼は承諾しました。
    YANBARU先生のおかげです。先生のブログに出会って自分が少しずついい方向に変わりつつあることを私が実感できたからこそ、次男にも私には教えられない「気付き、転機」があるはずだと、未来(人)を信じられる気持ちになったからです。今までは、正直に言うと私自身がそういう指導教室というものに抵抗感というか、期待できない気持ちがあったように思います。
    発達障害を持つ人は、その人の「特別な才能」を周囲が認めた場合に限り、その人の「こだわり(変人的要素)」も許容されると私は思います。「特別な才能」があるかどうか疑わしい次男の場合は、「たとえストレスが多くても周囲に合わせる努力をして、社会に適応する力をつけておく必要がある」と思います。今までできなかったことができるようになるというのは気持ちがよいし自身にもなります。
    今回は私が促して指導教室に通うことになりましたが、先生が仰る「余計な介入はしないで本人に考えさせる」周囲の姿勢が大事ということも、とても勉強になりました。(これはADHDにもあてはめてよいのでしょうか?)ありがとうございます。

    • あおがえる
    • 2008年 4月 24日

    高校レベルの社交性についていけなくて、神経症になり自殺未遂で入院しました。
    その後、学校には戻らない道を選びました。それから16年あまり立ちますが、未だに定職にはつけません。自分の優れた能力を活かす道を選びましたが、結局人とのコミュニケーションによって非常に疲労して、日本語さえも理解出来なくなる程になるので続けられなかったのです。
    今は職種を変えてチャレンジしていますが、職に就くとは社会の職の穴にはまることと考えると、これも無理そうです。

    • らーら
    • 2008年 4月 25日

    >余計な介入はしないで本人に考えさせる
     このお話しはとても良くわかりました。
     知人のASの方の、自分は何も悪くないという姿勢に、どうしても感情的になってしまい、余計な事をしていたかもしれません。
     

    • エイト
    • 2008年 4月 25日

    私も高校入学と同時に、まるで自分の周りにバリアを張るような、自分から殻に閉じこもるような感覚がありました。
    程なく、YANBARU先生も書いておられた離人症のような気分障害(?)にもなりました。その頃は自分では受験勉強のストレスだろうと考えていました。
    それは二十歳頃まで続き、その後の人とのコミュニケーションにも影響を与えたと思います。相手の意図することが言葉から汲み取れない、自分の言いたいことがうまく言えない等。
    引きこもることが今ほどあたりまえではない時代で、自分はなんとか引きこもりませんでしたが、今のような風潮なら自信はありません。私の20代は「非常に社会に適応しにくい自分」を思い知らされた時期です。
    指導教室の話をしていたら次男がぽつりと「生きるって辛いね・・」とつぶやきました。辛さを緩和する努力をしていくしかないねと、共感するほかありませんでした。

    • ひまわり
    • 2008年 4月 27日

    娘は昨年、高校入学後1ヶ月で不登校になり、そのまま引きこもりという生活に入りました。
    中学の頃から、度々行き渋りがあり、覚悟はしていましたが、かなり苦しい思いをしました。
    発達障害を抱えた方達が集まるこの場で、私側からの思いを書くことは、誰かを傷つけることにはなりやしないかと、心配ではありますが、すみません、話させて下さい。
    娘は、
    トイレに大勢の人が集っているから「お弁当の前に手を洗いに行けない」と言っていました。
    入学早々カラオケに誘われ「雨降らないかなー」と祈っていました。
    苦手な体育も、ラジオ体操を完璧にやることで乗り切った後「あんなの真面目にやる奴の気がしれない」と言ってるのを耳にし、落ち込んでいました。
    「もう、ここには居られない、苦しい」と私にメールを送ってきました。
    私は、子どもを救いに学校に行きました。
    そして、その後、
    学校の先生方と沢山話をしました。
    有名だと言われる医者にも診てもらいました。
    娘は、診断がつくこともなく、一人闇に落ちていきました。
    母親の私に暴言を浴びせ、紙をはさみで切り続け、リストカットをし、部屋に閉じこもり、突然居なくなったり・・・
    切られた髪の毛がゴミ箱に入っている、「物がなくなった!」持ち物を「触るな!見るな!」と怒鳴る。
    ひたすら耐えました。死にたかったです。
    (続きます)

    • ひまわり
    • 2008年 4月 27日

    (続きです)
    たまたま4年前から発達障害の子どもと関わる仕事についたお陰で、娘の異変に気付いてやることができるようになっていたため、私自身も頑張れたと思います。
    私は、ここで時々出てくる『AS被影響症候群』だと思います。
    みなさんを責めているわけでは決してありませんが、みなさんが辛い、苦しいと感じていらっしゃるように、受動型ASの方と真剣に付き合っていくとしたら、私達も同じように辛い思いや苦しい思いをしているのは事実です。
    しかし、排除しようとは思っていません。理解しようと思っているのです。
    娘は、ありがたいことに、前高校の先生や姉達の寛大な受容とアドバイスのお陰で、9ヶ月という期間で自分の道を決めることができ、再び受験をし、定時制高校に元気に通いだすことができました。
    何度、沖縄まで娘を連れて行き(娘は、オレンジレンジ好きで、沖縄へのこだわりが強いので、沖縄なら行くかと思い)YANBARU先生に診てもらおうかと思ったことか・・・
    きっと、私の話を真面目に聞いてくれるだろうと思っていました。
    今回のテーマは、私が話をしてもらいたかった内容でした。
    ありがとうございます。

    • ぴよよ
    • 2008年 4月 28日

    “子どもの決まりはお友だちの群れに入ること”と信じて、過去の私は思春期を迎えました。
    でも、一時期話しかけ続けた(今から見ると付きまとったと言われても仕方がないかもしれない)グループからきっちり突き放された後、私は壊れました。
    食べられない寝られない涙が止まらないはもちろん、こんな私をもきっちり心底から立ち直らせるために必要な説得文句を求めて、私は泣いていないときは両親に話し続けました。口が勝手に動くと言って良かったかもしれません。両親の理解力を越えている話でも、もう両親のキャパシティーを越えていても、日常生活に邪魔な程度に達していても、両親の体調に影響しても、病的に止まりませんでした。
    私はたぶん薬を求めるように、私の頭を全部整理してくれる言葉を文章で求めていました。
    力づくで我慢をしては、何年か毎にこうしてダムが壊れるように壊れることが、ADHDを知るまでに繰り返されました。
    一般の子育て知識では手に入らない水準の説得力がないと、当時の私を言葉ですくい上げるのは無理だったでしょう。
    ADHDの言葉も誰も知らなかった時代、人より抜きん出た才能も無い私は、世の中から救っていただける価値はありませんでした。
    私が、群れに入っていなくても平常心に戻って立ち直っても良いことを、言葉で長い時間を掛けて許可して欲しかったです。それは、当時は途方もない支離滅裂な願いになりました。全部私の十代のゆるい頭の中で、自己責任で処理することが義務のようなものでした。
    頭を冷やせとバルコニーに出されても、何十分でも嗚咽が止まりませんでした。自分で何も決められなくなりました。でも登校しましたが。
    こうして生きているのは、おそらく軽い解離をしたのかもしれません。家族にも生活がありましたから。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2008年 4月 28日

    続きます。
    今でも人と親密になりづらいのは、この頃の後遺症のようなものでしょう。
    心底傷ついたときで、一人で立ち上がれないときも、私の導いて欲しい方向へ押す言葉を、いつまで待っても誰も言えなさそうで恐いのです。そして言って欲しいと望んだ人を憎みそうな予感も、嫌です。
    まさか、「私の言ったことをそのまま復唱しなさい」と命じて、言って欲しい言葉をオウム返しさせるわけにもいきません。ユング?のカウンセリングのように言葉を自分に自給自足することも嫌です。言われたいのです。
    自給自足が習慣になると、自己突っ込みが時々増大します。メンテナンスされたいのです。
    未消化でこうして残るほど、十代の依頼心、依存心とは、げに恐ろしいパワーを持っているものなのでしょうね。
    しかし今困っているのは、前にも書かせて頂いたように、継続してかかれる医師が見つからないことです。このエピソードにも話がたどり着いたことがありません。。
    人間関係を求める気持ちは病気ではない、従って人格障害ではないとある医師に言っていただいたことがありますが、自己コントロールが出来ない苦痛は病気として扱って欲しいのですが・・・・歯を始め生活に支障が出ているというのに、どう訴えればいいのか・・・生活の支障をそのままにすると仕事にすぐ影響するのに・・・。この訴えの言葉も、せっせと自分で作るしか無い現状に、時々うんざりします。
    こんな無責任なコメントだけをしている時間だけが、とても頭がすっきりするひとときなのです。

    • ぴよよ
    • 2008年 4月 28日

    >「普通を目指して自閉的なこだわり等では周囲に合わせて妥協し、ストレスが多い生活を生きるか、あるいは自閉的なこだわりなどを大事にしてストレスは少ない人生を生きて、その代わり生きられる環境(進路選択等)が限られているか、どの線を選ぶかは自分で決めなさい」
    この選択肢から自分で選べることはとてもありがたい支援であると思います。
    子どもの立場で障碍を受け入れていく場合、たぶん大きな心配事は、これらの人生や自分の扱われかたをもう自分の意志で決める権利が無くなってしまうのではないかということだと思うからです。
    この選択が無いと、まるで判決が下されたように、自分の扱われかたは周りの都合で勝手に決められて、それ以外の関心事や質問雑談には口も効いてくれなくなるような想像をすると思います。
    実際インターネットを通さない、大人の現実世界では一時そうなりかけました。私はこの“罰”を今でも忘れません。
    そう流れていくのではなくて、道は選べるのだということは大きな救いだと思われます。
    それが全ての学校で実施して欲しいですね。
    しかしその先の大人社会への道はどうでしょう。
    普通の社会適応を頑張って、頑張って、(想念の中での)自傷行為のように生きるか、あるいは多くの制限と諦めと不公平を飲み込み、家族の老衰や人生模様を目の当たりにしながら支援を受けて生きるかしか、どうせ残されていないのですがね。

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