ADHD関連

KYのASとADHD

 世に言う典型的なAS、典型的なADHDは、いずれも非言語的なやり取りが不得手なKYのタイプであると私は想像している。

 その意味では、この2者は一見良く似ている。結果として非常に合理的になり、両者ともたまたま技術者や研究者、職人的な職業に恵まれれば診断がつくような不適応を感じないで生きて行く可能性も大きいだろう。

 子供時代からマイペースでいじめられることはあるかも知れないが、高機能のケースは学業成績が良いのでそれほど自己評価が低下しないで経過することも可能だ。

 親から見ても、「正直だが不器用」「オタク」という表現で理解しやすく、言葉で合理的に説明すれば理解できるので比較的育てやすい。

 WAISなどの知能検査をすれば、言語性IQ>動作性IQの所見がおそらく出るだろう。

 実はケアも理屈で「脳の働きの少数派」と説明すれば良いので、ASの場合愛着の問題が生じて特別な扱いが必要となる以外は、「ほぼ同一のケアの方針で行ける」ということになる。

 ASは本来「人を非常に近く感じて、人に振り回される」、対してADHDは「人にこだわらない」という対人関係の特徴を持っているが、結果KYの場合は、状況が読める(特に受動型の)ASやジャイアンに比べてこの問題が現実の障害として問題化しにくいと言える。

 やはり問題は非言語的な状況察知能力を持っているASとジャイアンである。「空気の読めすぎる」ASは状況反応性に振り回され続け、ジャイアンは(自分に対してだけという一方的な形ではあるが状況察知が出来るので)おかしな(非言語的なフォローへの)依存の問題が出てきたり依存型ジャイアンとなって周囲を振り回し続けたりするなどの複雑な行動が帰結するからだ。

 見掛けは異なるがKYのASと読めすぎるASは同じように「人を近くに感じすぎてプロセスが大事」という思考の特徴を持ち、またKYのADHDとジャイアンも同じ「人にこだわらず結果が大事」という特徴を持っている。

 大きく一からげにしないほうが見かけと一致することはありはするが、「本質」を見極めるにはこの分類基準が有用だと私は考える。


関連記事

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  4. ジャイアンのでき方
  5. 中間または合併①
  6. ADHDの認知③ 他者の不在
  7. ACとジャイアンと受動型AS①
  8. 多動を伴うAS

コメント

    • ドロシー
    • 2009年 4月 06日

    わかりやすくまとめられ、また復習になりました。
    典型的ADHDとジャイアンでは、脳のどの部位の働きが弱く、
    神経伝達物質の何が足りないなど、分類それぞれでの
    違いも知りたいです。(調べても難しくて??です)
    いつか、このブログが書籍化されることを望みます!

    • にゃおん
    • 2009年 4月 06日

    私も、中枢神経系の器質的或いは機能的障害とは、多数派の人たちと脳のどこがどう違うのか、
    また、環境、養育に起因するADHD(様症状?)と、器質的障害はどう違うのかなどがよく理解できません。
    (この場合は、ADHDとは異なるものなのでしょうか?
    「虐待環境で養育された子どもの80%がADHDの診断基準を満たすという欧米の報告は数多くある。」など、環境を重視する見方もあるようなのですが)
    ここらあたりの説明がされるととても助かります。
    自分はジャイアン(かつAC)だと思うのですが、今ひとつ自分がよくわからないのです。
    ドロシーさんと同様に、私も書籍化されることを期待しています。

    • mican
    • 2009年 4月 07日

    久しぶりに発言させて頂きます。
    [人を近くに感じすぎて]というところが、解らないです。
    人を近くに感じるというのは誰もが自分に注目しているように感じるという理解で合っているでしょうか。
    AS(?)夫に質問を重ねて喧嘩になったと、以前発言しました。
    その後、これを繰り返してしまい、案の定、大喧嘩に発展してしまったのですが
    ひとつ、理解しあえたことがありまして。
    夫は私が質問をする(夫を知ろうとする)ことを攻撃している・怒っていると感じていたそうです。
     なんとか私が攻撃してるわけではないと理解できたことで、夫自身が何故不快になるかを考える切欠となりました。
     夫が言うには誰であっても自分に注目していると思うと、不快な感情が沸くそうです。
    それが何故なのかは解らないようで、その感情が沸くこと事態、本人自身が気がつかなかったと言ってました。
    要するに、私が攻撃していないと理屈で理解しても、感じることは難しいと言います。
    完全に心から追い出している感じです。
     それは夫が無意識のレベルで誰もが攻撃していると感じてしまうからでしょうか?
    これが、つまり他者を近くに感じすぎている結果でしょうか。

    • mario (AS)
    • 2009年 4月 07日

    micanさん
    私はmicanさんの夫さんとは違う人間なので、またASにもタイプもありそうなので、私の説明で合っているか分かりませんが、私の感覚で夫さんの説明を試みます。
    先生のサイトを読んで私が考えるようになったASの基本的性質(感覚)に「世の中は自分も含めて完璧でキチンと調和が取れている」と言うのがあります。もちろん、自分が完璧でない事は事実として知っていますので「完璧であるべきだ、調和が取れているべきだ」かも知れません。
    他者を近くに感じる=他者も自分と調和が取れているべきだ と解釈しています。特に愛着の対象(恋人や結婚相手など)は自分の事をちゃんと理解しているべきだと感じます。逆に、調和が取れていない事実を確認するのが怖いので、関係ない(いや、もっと積極的に自分と調和の取れていない)人や物事には目を瞑る(シャッターを下ろす)ような感覚があります。
    それらから考えて、重ねて質問される→理解してくれていない、あるいは(自分の不完全な部分を)攻撃している、と感じたのではないでしょうか?
    パートナーと分かり合おうとする努力は要らない!何故ならもう分かり合っている筈だから、既に分かり合っているべきだから。分かり合おうとする努力は、今は未だ分かり合えていない事実を目の前に曝します。そして、分かり合えていない人と一緒にいると言うのが明らかになれば、心の平穏を保てない、緊張し続けなければならないと言う事につながりそうです。
    また、人が注目している→完璧な自分でなければならない、と感じますので私はとても疲れます。不快というのはその意味かな、そこは良く分かりませんけど。
    幾らかでも参考になれば幸いです。

    • mican
    • 2009年 4月 07日

    marioさん ありがとうございます。
    モヤモヤがとけた感じです。
    質問の途中で突然人が変わったかのように
    「シャッターを下ろす」ように、怒り出すんです。
    しかも、私は怒り出している事に気がつくのに時間がかかってします。
    自分の「一方的な想い」に自信がありすぎて、見えなくなっているからかもしれません。
    なので、怒っていると気がつくと、びっくり(想像もできない感情に出くわす感じ)してしまい、
    さらに「?」が増し、混乱します。
    気がついても、自分の中の解らないモヤモヤも我慢できず、”どちて坊や”のように、しつこく聞いてしまう癖があるようです。
    ここは夫が責められていると勘違いする所以だとも思い、気をつけるようになりました。
    「何故ならもう分かり合っている筈だから」すごく解ります。
    あ~、そうだった。そう思われてるんだった・・と思い出しました。
    この思いには安心感と、寂しさと両方沸き起こります。
    なるほど、完璧でなければならないから、疲れるんですね。
    夫が言うには
    「昔は距離(テリトリーのこと?)がもっと近かったから疲れたけど、
     今は遠くに置いているから気にならなくなった。
     だから、俺の事は一切他人には知られたくない。
     何も聞かないで欲しいって思うんだ。」
    ここですね。きっと・・・
    そして、知られたくないについて、私の事は別次元なのだそうですが・・

    • mican
    • 2009年 4月 07日

    追記させてください。
    ひとつ思ったのですが
    夫の場合「攻撃」しているのは本人自身なのですね。
    あんまり多くの質問をされて、その感情が外に溢れ出てしまう・・
    そんな風に解釈しました。
    だから、質問の中身は全く理解されないまま、怒り出してしまう。
    矢継ぎ早に質問すると、その行為そのものが夫を傷つけてしまうこともある。
    そう考えてみました。

    • kcotan
    • 2009年 4月 07日

    すごい。
    ほんとにすごい切り分けだと思います。
    必ず役に立つことだとも思います!
    まずは私の身の回りで当てはめて考えてみます!

    • ぴよよ
    • 2009年 4月 08日

    上記の皆さんのコメント、とても勉強になりましたが、(私ももし訳も分からないうちに結婚してしまう人生だったら・・・。)と想像してゾゾッとしました。(既婚の皆さんすみません、すみません!)
    駄目ですね。こういうのは。現実の出来事にもげっそりしているのに、想像にも消耗してるようでは誰も私と関わり合いになりたくなくなってしまいますよね。
    一部のASにとっては、愛着すると定めた相手は、もう脳機能の一部みたいにして組み込んでしまうのかなあ?と読みながら思わされました。
    頭の中で、せっかく優先順位を付けて事実掌握をする範囲設定を済ませたのに、その範囲設定を崩され、優先順位の全書き換えを求められたら私はかなり動揺します。
    とても偉い上司相手でもうろたえたことがあります。後から自分の発言に赤訂正を、頭が勝手に書き始めるので、今でもより良い言い方を勝手に添削し続けて後悔してしまいます。
    これも駄目だなあと自省していますが、始めから後悔しそうな状況には自分を置きたくないと思うようになったので、ともかく避ける癖が付きました。
    私は子どもの時から考える材料には恵まれたようで、結婚も予想外のリスクが付いてくる物と判断(これも子どもとして健全であるかというとそうとも思っていませんが。)できましたが、そういかなかった場合、ASの空想の中では結婚相手という存在はどう情報処理されるのでしょう・・・?
    私の想像ですが、自分の理解者兼、配偶者兼、相談相手兼、自分のキャパを越えた情報を入れるテレビのようなツール(親戚が集まった場所で煩雑すぎて空気読み切れないとき等。)兼、自己コントロールが上手く機能しないときの鏡やコーチの役も求めるのかもしれません。私の場合、不注意もあるので相手自身があまりに耐えられない室内の時は、片づけ役も引き受けて貰わなくてはならなくなります。
    ありすぎて、これ以上もう何も求められないですね・・・。でもいざ相手がいれば、きっと私だって旅行とか行きたくなりそうですが、求めづらい!
    これらの一部でも外注できたら、・・・例えば支援制度が進化してカップルカウンセリングは半額とか・・・そういう時代が来たら、かなりありがたいでしょうね。今よりも罪悪感も遠慮もなく結婚を考えられる当事者が増えそうですね。

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 4月 08日

    YANBARU先生へのコメントではないのですが、
    「シャッターを下ろす」ですが、
    半ば意識的に下ろしているのでしょうか?
    逆に、他人と話す、接する時は普段は降りているシャッターを上げているのでしょうか?
    私自身は、後者、接客の際などには意識して、努力して(長年の修練?で)、降りているシャッターを上げているような気がしています。疲れると、相手に関心を向け、顔を見て表情を解釈して接することを、止めてしまいます。
    今読んでいる、「ソーシャルブレインズ」(東京大学出版会)の一節ですが、深く肯けるものを感じます。
    ソーシャルブレイン研究を始めとする認知研究において、こういった「能力」の研究に加えて、実際の社会場面でそれらの能力をどれだけ使いこなすことができるのかという「運用」についての理解が、今後ますます重要になっていくのではないかと、筆者は考える。自閉症者は、誤信念課題や模倣、視線処理においては相当の能力を有しているが、対人コミュニケーションの場面でそれらの能力を自発的に、有効に使うことに困難を抱えているようである。このことは、ソーシャルブレインの定型発達においては、心の理論などの能力を有するだけでなく、社会的な文脈でそれらの能力を適切に用いることができることが、実際の社会的場面への適応にきわめて重要な役割を果たしていることを示唆している。 277ページ 筆者・・千住 淳(せんじゅう あつし ロンドン大学)

    • ぴよよ
    • 2009年 4月 11日

    前のコメントを書かせて頂いてから、勝手に『ASが外面(そとづら)を保ち続ける方法』について考え続けていました。
    ASが愛着相手に求める脳機能の外注内容として、実はカップルカウンセリングもあまり有効ではないような気がしました。書いた後なのに・・・。
    自覚の無い、または弱いASの欠点の一つは内弁慶でしょう。ASは(あなたさえ理解して理想通りに変わってくれればいいのに・・・。)と望み、配偶者などの愛着相手は(一緒になってからどうして一方的に沢山の理想を望まれるのかが分からない。)等と困惑するようですよね。
    その理想を望めない限界が来たときに、その関係は崩壊するかどちらかが行動開始して、両者の間に問題が表面化するのかもしれません。それは上手くいかないと、時として事件化するでしょう。
    ASが自分の特性の自己理解を深めつつ、感情的な愛着欲求を外注で“処分”する場があれば、望み過ぎは解消されるのではないかと漠然と思っていました。
    ASにとって、外面は社会の適応に不可欠です。こだわりの押しつけでもなく、依存的な指示待ちや服従でもない、初対面の相手に対するかのような“外面”を保てれば、周りの人と円満に近い関係が作れることは、経験で分かっています。
    子どもの時からも、家族に「ちょうど良くしろ。」と望まれれば(そんな外面みたいな態度ばかり取ってられない。)と思ったことがありました。
    同級生からも「どうして変じゃないふうに出来ないの?」と言われても(そんな外面は友達な感じじゃない。)と、何となく思ったことがあります。
    しかし、外面が正解だったのです。
    しかし正解であると同時に、精神的に自分を殺すような行動でもあります。
    しかし、ASの乗り越え方として、からくりを理解しそれを納得したことを誉められ、感心され、そういう自分の全体像に関心を持たれていると強くなれる特徴があります。
    しかし(しかしが続いてウザイですね。)そのコーチング役を親や配偶者が十分にすると、高確率でその者が倒れます。
    だから外注です。
    しかし今は、どこにもそれを請け負えるカウンセラーは居ないと思います。今はまだ、配偶者に理解者役を頼んでいるASの話を、距離を取って「ふーん。」と聞く医療者しかほとんどいないと思っています。

    • ヒゲ達磨(AS?)
    • 2009年 4月 12日

    >ASの乗り越え方として、からくりを理解しそれを納得したことを誉められ、感心され、そういう自分の全体像に関心を持たれていると強くなれる特徴
    ASと言っても色々だと、改めて感じますね。全体像に関心を持たれるのは、私は望みません、期待しません。私を一寸であれ受け入れる、承認してくれる事ですね、私の場合は
    それで >感情的な愛着欲求を外注で“処分”する< 外注先も、多数多様。愛着の分散処理です。 星々には物質としての私 木々や花や鳥や動物などの生物には、生物としての私 多数の人々には、人間としての私。 そうした物、生き物、人間に、一寸であれ私を受け入れてもらう。受け入れてもらっていると感じることですね。 コーチングは、このプログをはじめ様々なところで気付きのチャンスをいただいて、自分でやっていく。ここは他人に頼らない頼れないAS的なところですね。

    • ぴよよ
    • 2009年 4月 20日

    うるさくてすみません。まだ『ASが外面(そとづら)を保ち続ける方法』についての考え事を続行していました。
    両親が観光旅行に行って、土産物店でお総菜を送ってくれたのですが・・・。
    酷いことに、苛立たしい気持とありがたい気持が、何年経っても混在してどちらも一歩も譲りません。
    “素直に喜んだら、そのままの勢いで両親の理想(普通になる。)を全て叶えなくてはならなくなると思える認知の歪み”と“自分側の再燃する言い分や都合ばかりを言いたがるKYさの恥ずかしさと優先順位としてのモラルある対応(受け取った物には感謝する。)”の両方に自分一人で対処しなければならないからかなと考えています。
    この場合に限らずですが「ありがとう。でも腹が立つ。」等、思ったことを次々言おうものなら相手が誰でも、かなりまずいことになります。
    このブログで言われる『人を近くに感じる感覚』とはこれに通じるのでしょうか。
    学習を積めば言ってはならないと分かります。しかし全部言いたい要求も生じてしまうということなのでしょうか。
    私にはまだ全部を辻褄合わせて話す力はありません。
    両親始め私以外の人は、(私にしては)短い話と、作ってきた関係に相応しい行動を求めます。
    しかし結論は、出来ません。
    原因の“発達障害”が当の私でも必死で消化吸収している内容なのに、“かなりまずいことになった”相手に説明する責任は私にあるものなのです。
    だから取り繕いきれいない可能性がある状況は嫌いです。でも避けられないのがそういう緊急事態というものです。
    世の中『ギャップもて』という言葉があるそうです。第一印象と本性にギャップがあると異性にもてる現象の言葉です。
    私はそれをもじって『ギャップ嫌悪』の造語を思いつきました。
    私のようなASは『ギャップ嫌悪』されて嫌われる可能性があるように思います。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2009年 4月 20日

    続きます。
    そもそも状況が分かるASは、初めに出過ぎないように気を付けられるので、第一印象はかなり穏やかになります。
    下手すると期待されたり理想を重ね合わせて見られます。
    その後次々と欠陥を露わにするので、周囲は大げさに言うなら裏切りと感じ、当人は損をかぶります。
    このギャップもハンディとなります。
    欠陥をカバーする能力や権力のある人と近づきづらくなり、無理をしないと関係を保てない人との関係が仕方なく強固になっていったりします。
    (例えば紹介無しにかかった医師にありありと“振る舞いも言葉も普通で就労しているのに何しに来たんだ!?”みたいな表情されることから始まり、「どうしたいわけ?」と私が聞きたいことを聞かれて終了、のような。)
    (私はいまだに自分の“商品価値”をよく解っていませんが、仮に婚活なんて始めたら悲惨なことになるでしょう。普通の人の談笑の輪に入れない者の側には問題ある者しか接近しないものです。)
    しかし、誰かに全部話したい、全部の全体像を理解して欲しい、この欲求が病気の可能性を取り除いても自然にASに存在するとしたら。
    問題行動を起こさず外面を保ち続けるために必要な相手とは。
    モラルから見たらかなり威張って、あえて威張って話せるカウンセリングの場所なのでしょうか。
    なにせ挙げる人、挙げる人、全員に失礼極まりないコメントをして発散しなければ発散出来ないかもしれないのです。
    クライアントは矛盾発言多用。「しかし」「でも」発言多用。
    しかし、自己責任の線は越えさせず、自尊心をくすぐるフィードバックを返して別世界を演出できる腕のあるカウンセラーが存在したとしたらです。
    いいのかな・・・。こんな仮説で・・・。
    たかが仮説。されど仮説。難しいです。

    • mario (AS)
    • 2009年 4月 21日

    ぴよよさん
    書かれている内容は、私には余り難解で理解できません。
    ただ、私は
    ・辻褄を合わせることを諦めました。
    ・人に全てを分かってもらう事も諦めました。
    辻褄を合わせる事を諦めた(辞めた)ので、行動に幅が出ました。昨日の自分と今日の自分は違っていても良い。明日も違ってて良い。
    なので、かなり自由に「今回だけやってみる」事が出来ます。選択肢が増えました。また、人に合わせる事も出来ます。土産物の例で言えば(ぴよよさんの言われている意味は余り分かって無いのですが)、欲しくないものでも素直に(相手の気持ちに対して)「ありがとう」と言えます。それが要らない自分と、それに感謝する自分が同時にあっても良いのですから。次は「要らない」と言っても良いのですから。
    分かってもらう事を諦めたので、外面を保っています。基本、相手が喜ぶ事だけを口にする事が出来ます。いや、内容によっては、自分を(自分の考えを)伝えるだけは伝えて、それ以上を期待しない事にしました。あ、書いてて気が付いたけど、それって先生が以前言われていた事と同じですよね、確か。
    ヒゲ達磨さんが言われているように、部分的にでも理解してもらえれば、受け入れてもらえれば、それで感謝する。満足する。それには、絶えず寂しい気持ちが付きまといますが、人との関係は(相手が自分と一心同体ではない以上)、そんなもんなんだと理解し、納得しています。
    これが可能なのは常に「自分は自分である」「自分が正しい」と言う感覚に守られているからかも知れません。

    • ぴよよ
    • 2009年 4月 21日

    こんばんはmarioさん。
    難解なことばかりを書きたがってしまってすみませんね。
    お土産は要ります!
    しかし、お土産だけ「キャー嬉しい。」と受け取って、例えば職場の年間計画をさんざ打たされて直されてる精神的にきつい時期に、自宅へ遊びに行っていい? と聞かれた時にもの凄く深刻に悩んで見せて断ったらギャップありすぎです。
    母は特に「行きたいし(部屋を)見たいし(汚いと)言いたい! 親が我が子に思ったこと言って何がわるいか。言われたら直せばいいし、言ってもっと良くなると思ったら言いたいんだから素直にそうだねって聞けばいい。」という、片付けられない者にとってはきつい信条を持っているので、憂鬱さと抑うつのなりやすさを説明し続け、断りが通じる関係を必死に作ってきました。
    毎年帰省と両親の休日はずれ続け、墓参りも何年も同行していません。義理という言葉を知ってる振りはしたいけど出来ません。
    それが物を貰ったときとか、外で遊んでもらった時だけ「キャー。」と無邪気に喜んだら、親にしても誰にしても腹が立ちませんか?
    目の前の都合がいいことばかりに反応していてはいけないことは、もう分かっています。分かっててやったらいけないのです。やったらいい年してぴよよがエゴイストに見えますよ。信頼はそうやって失われていくと思っています。
    人は物をあげるとき、願いというおまけもつけるのです。
    親の本音は、私を喜ばせたら、その次は理想の普通の人になる努力を続けてほしい。仕事も両方頑張ればいい。他の人も力まないでそうしている(実際言います)。
    私は努力はしてはいても親の思惑とは違う努力。働き続ける努力に比重を置かないと、社会人としてまず許されない。
    この思惑の違い、優先順位の違いを放置すると、いざという時に大変なことになる経験を積んできたので、お土産一つでもその悩みは再燃するのです。
    再燃ばかりしていたら仕事にならないので、解決していない悩みでも、私は普段から多くの気になることを打ち切っています。打ち切りは、自然に出来ないので訓練で出来るようになりました。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2009年 4月 21日

    続きます。
    しかし再燃と打ち切りの繰り返しはエネルギーの消耗を伴います。私生活の時間の多くが潰れ、三十代が灰色になることの不満と疑問と、それも放置してしまうことで将来抑うつがぶり返す可能性も視野に入れて、どう予防すればいいのか、今から出来る努力は何かをこうして分析してしまうのです。
    ASは、自分の自尊心の傷つかないことが保証された場なら、沢山話したい一面を持っていると思います。
    marioさんも、書きたいという意志を親切にするという使い方で使おうとしているのが読んでいて伺えますし(そういう意識をしていなかったらごめんなさいね。)、種類別でもその傾向はあると思っています。自分の世界に住むKY型でも、積極奇異型でも、周囲とそりが合わない受動かACか広汎性かもう分からない型でも、何かしら話させる働きかけ方法はあるものです。
    相手が初心者や自覚のないASでも、こちらが謙遜する、謙虚にする、自己を低く見せるまでいかなくてもピエロになる、相手自身の話に興味を見せる等です。
    しかし、ASの多くは手が掛からなくなると話す場をもらえません。構ってもらえません。
    私がいつも気に掛けてしまう、凡才で薄幸なASには、他人にとって価値のない、何でも無い話をする場所はありません。
    私もですが、会話を自分から作る能力に欠ける者には、質問が必要です。当人が話したがっていることを聞く質問です。
    唐突に話し始めることが許されるのは子どもまで、成人は趣味仲間等特殊な場か、その場で権力があり有能な者にしか資格はありません。
    ここのブログでも多くのコメンターがそうだと思いますが、興味のあるテーマが来ると話したいものです。
    しかし来るテーマ、来るテーマにイエスノーで答えているだけでは、当然自分の全体像を伝えたことにはなりません。
    全体像を伝えないまま「ありがとう。でも腹が立つ。」みたいに思ったことを思ったままその場その場で言ってしまうと『ギャップ嫌悪』が起こります。
    (marioさんは問題の放置であまり困らない環境なのでしょうか。・・・それだけ有能なかたなのかもしれません。)
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2009年 4月 21日

    続けます。ごめんなさい。
    世の中のASの扱いの将来が心配なのです。
    インターネット外でも内でもASが誤解をされまくっていることも悔しいです。
    特に『外面』が作れない、作り方がまだ分からないASは、何型でも笑われ、面白がって見られます。
    それに自分がいざ仕事を無くしたとき、定年退職したときに、自分で自分を全部支える自信は無いし、ルールがあって人と上手に付き合わなければならない場所に所属することはまず無理だし、家族を始め医療等の周囲は何も私を支えられる準備もしていません。
    ASはASであって、孤立しても何でも自分一人で全部できる人という意味ではありません。
    ASだって困ります。
    凡才で薄幸なASは、物理的にも精神的にも生きていく上で困ります。
    文献を見ても、困るから「結婚したい。」と公言するASもいます。(私の持論や疑問は横に置いて・・・。)
    しかし現実は、笑われて終りで、助け無く人は去ります。酷いと依存します。ASが“変な”発言をする限り、関わる人は困るASとは距離を置く自由があるのです。
    誰が『外面』の作り方を教えるのか。
    インターネット内でも外でも、必死で困るASに具体性も何も無く、ちゃんとしなかったらいかに感情的に悪いか、信用に関わるか、責任問題になるかとか、“助言”ではなく“脅し”の詳しい説教がされている現場を見ると、無性に私は苛立つのです。
    違う、違うのに! と。
    当事者で集まったら逆に精神的で抽象的な話をしたいのに、個人的な具体的な話が尽きたらそのまま会話が無くなったり・・・。
    それらを反面教師にして自分は(特に仕事で)具体的な話を心がけていたら、相手自身が慣れていなくて返って付け込まれそうになったり。
    それでも現状は、具体的な助けや情報を得る一番の近道は『外面』を習得することです。
    笑われるだけでは習得できません。
    私はたまたま身につけられたのですが、自己努力しても限界で分からないASはきっと多いと思います。
    程々にしなければならないことは分かってますが、社会に問いたいのです。「まだですか。」と。
    うるさいですね。私・・・。

    • mario (AS)
    • 2009年 4月 22日

    ぴよよさん
    何だか難しいので、ちょっとだけ…
    私は先に書いたように、今は一貫性を考えずに、出来るだけシンプルに自分の心情を捉えて表現するように心掛けています。「お土産は嬉しい」&必要があればですが「今は忙しいから来てもらっては困る」みたいに。
    ある意味、私は孤立して生きる事にしました。外面を備えました。その上で身の回りの方達とのコミュニケーションに満足を見出しています。私には他のASの事までは気が回りません。いや、気を回すこと自体が今は余計なお世話だと思っています。今回もある意味、余計なお世話だったですかね。ぴよよさんとは、(ここ以外の場所で)じっくりお話ししたくもありますが…

    • ぴよよ
    • 2009年 4月 22日

    続けてしまい申し訳ありません。
    日を置いて、ひととおり読み直してみて、コメントとコメントに何の差異があるのか考えました。
    私は問題行動のあるASを念頭に置いて書いてしまいます。
    コメント返ししてくださったお二人は、問題解決を自分なりに済ませていて問題が無いことを前提にして書いているように読みとれました。
    “あなたは解決済みの環境なんですね。”という所にももっと触れれば良かったのかもしれません。
    “どこに? 誰?”には触れませんが、問題行動を起こすASは現実にまだいますし、人と近づきたくても近づけなくなった、仕事を教わりたいのに聞けなくなって辞めてしまった等、自分の意志ではなくやり方がすっかり分からなくなって孤立するASはいます。
    次の行動をやみくもに望む周囲と、自分の意志とは別に動けなくなって結果引きこもりになるケースはあります。
    そこでヤンバル先生のような支援者にかかれたらラッキーですが、そこで、欠乏感を埋めて助けて貰う方法を間違えた意味で結婚してしまったASは、そこでまた私には無い苦痛を抱えているでしょう。
    一対一で助かると夢を見たら、一対一の責任、自分を解って貰うだけではなく相手を分からなければならない責任も乗っかってきて問題行動や嗜癖に逃げるしか無くなったり。
    本人だけでなく、周囲も暗中模索させられて多くの時間と力が奪われてしまうものなのですが・・・。
    そもそもだから発達障害として、社会問題にされていると認識しているのですが。
    私はそれも目に入り、耳に入ってしまいますが、私が書いてしまうことにまずさがあったと思えばいいのでしょうか。
    私はいつ、人を上手に尊重しながらキャッチボールもできるようになるのでしょう。
    健常者ともADHDともASとも、人がそこにいたら私から口を開かなければならないのに、そうしないと働けなくなって私も家から出られなくなる所へ転がり落ちていきます。口を開かなければ・・・上手に開かなければ・・・頑張ります。

    • ぴよよ
    • 2009年 5月 19日

    自分で自分をうるさいと感じますが・・・。
    AS自身の自己努力をテーマに考えたから、人に勧めるつもりや押しつけるつもりが毛頭無くても「自分はそれは要らない。」「自分は・・・」「自分は・・・」と、個人の立場から判定を下しがちになるのでしょうか。
    該当するしないは個人判断で、発達障害関係業界(医療、支援、教育、マスコミなど情報発信、いつか出来て欲しい支援や雇用の民間企業等。)の進化に関係あるかどうかの仮説や想像に、私は話が飛びがちです。うるさい癖です。
    私は、自分がしなくても結婚や子育て支援の可能性に関心がありますし、年齢柄、人に聞かれたら答える自分の答えを用意しておく必要を感じています。咄嗟に用意できないからです。
    受け付けない会話は切り捨ててしなければいいのでしょうが、それは精神力と身体と体裁が許さなくなります。当事者支援者両方の立場に立てる私がそもそもうざい存在とも言えるのでしょうが・・・。
    と言ってももう誰に解らせたいというわけではないのですが・・・。
    前置きはここまでにして、では当事者自身の努力目標ではなく、関係が深くない関係者の注意点として『ASとジャイアンタイプを飼い慣らす方法』を考えていました。
    家族のように深くない関係であっても、どこまでもAS、ジャイアン両者の安心するポイントはフィードバックだと思いました。
    私が「(相性が)合う。」と第三者に言われる子にしているフィードバックと、私がさっぱり接近の仕方が分からない子にとても懐かれている職員の返しているフィードバックは、確かに違います。
    若い頃は(難度の低い子だから私にも関わりが持てるんでしょ。何も分析することでも名誉なことでも価値があることでもない! 難度の高い子と関われなければ私は一人前顔をする資格は無いんだ!)と黙ってこだわっていましたが、それなりに数をこなすと見えてくる物がありそうです。
    でも、書く自信は無かったのです。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2009年 5月 19日

    すみません、続けます。
    『ASとジャイアンタイプを飼い慣らす方法』・・・『手なづける方法』・・・文言で悩んでも仕方がないのですが。
    私は、復唱が大好きです。
    私が聞き取りを間違ってしていないか確認できますし、会話相手が私が聞き取ったことを喜ぶと私も嬉しいからです。
    自分が部下として指示を受けたときも復唱します。もう癖です。うるさがられた経験もあります。
    逆に指示を出した相手が復唱してくれると(伝わった!)と、嬉しいです。滅多にしてもらえませんが。
    しかし、私の指示に復唱を出せる主なタイプの一群がいます。(もちろん限定ではありませんが。)
    KYAS子群です・・・。
    このタイプは特に、私に強調して欲しいことを自分から繰り返してくれますので、何のフィードバックでおだてて欲しいのかヒントが見えやすく、分かりやすいです。
    ただ、この子達は友達関係など対等な関係でつまづくので、「人を誉めた方がいい。そして自分のことをきちんと行なうことは大切に。」と教え、フィードバックを返して貰うばかりがコミュニケーションではない、返すこともしましょうと知らせ、賞賛が癖になって依存的な人に付け入られないように予防させているつもりです。
    でも、人生の進路先に進み私の前から去った後、他人を誉められるようになっても、自分を守れるようになっても、どうやって誉めてくれる人を見つけたらいいのかは、何も教えられません。
    続けます。

    • ぴよよ
    • 2009年 5月 19日

    続きます。
    一方、私に寄りついてくれない子の気持を掴む人は、会話ペースが限りなく同じです。理解と返しが速いです。
    子ども側が反モラルな発言を混ぜていたり、失礼なことを混ぜて、私ならカチンとくる流れになっても、会話の主題からあまり外れません。
    外れて注意して欲しそうな意図を感じた時には、注意するか、会話を止めてほしいのか問いただします。
    例えるならシングルテニスのような一対一の対戦スポーツで、仕合の主導権を握った状態に持ち込めるのです。
    ジャイアン傾向ならなお、きっとこういう会話が好きなんでしょうね・・・。失礼しっ放しでも、誰かを否定しっ放しでも、自分にすら失礼でも、とりあえずその場は盛り上がりの腰は折られない。(自分のこと分かってくれてる!)と、心を捕まれて嬉しくなってしまうのでしょうね。
    きっとその後、指摘されたことは、言うことを聞いてみようという気になりやすいのかもしれませんね。聞けなければ直面化しかありませんが。
    書ききれないですね・・・。

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