AC、人格障害関連

「愛情不足」

 子供の問題行動や衝動性などがあると、良く「愛情不足」という言葉が出てくる。  

 私はそれを見るたびに「安易に言うな!」と腹立たしく思う。

 この表面的な見方の根本には、「ある程度満足するまで愛情を親などから与えれば正常化して問題行動は治まる」という非常に根拠の無い前提が存在し、実際この前提まで含めて世間の多くの人は説得力があると認識しているようだ。  

 発達障害支援の現場で、親などの相手が根負けして折れるまで激しい反抗を続けるジャイアン型ADHDの子供や、愛着の相手に100パーセントを当たり前に要求する受動型ASのケースを見ていたら、「子供はある程度愛情を受けたら満足して自立する」等という前提は全く意味を成さないことがすぐに分かる。  
 
 実際ジャイアンの子供を「よしよし」となだめたら、どんな悪さをしていても、「その前に叱られたことは完全に忘れ去られる」と考えるべきであり、また、受動型ASの子供は母親が「察して合わせる」ことをすればするほどとめどなく母親に理不尽とも見える要求をするようになって行く。  
 
 激しい衝動性、非常に表面的には親などに「かまってほしい」と解釈が可能な行動を、無理に多数派的に理解、説明しようとした場合にこういう「表面的」な想像が出てくるのだろうが、もともと多数派の世界には「そういう過剰な要求はしない」から理解が困難なのだろう。   
 
 私の理解はこうだ。もともと多数派の世界では衝動統制は「ビルトイン」された「空気」によって行われる。幼児でもどこまで駄々をこねたら良いか「周り」を見ていることが多い。  

 多数派の親は「無下に無視するのは冷たいので」しばらくは駄々をこねる子供の相手をするが、ある程度相手をした後まで子供の要求がしつこいと、言い方や顔の表情などの非言語的な部分で「これ以上は聞かないよ」というメッセージを伝える。  

 子供はその非言語的なメッセージを察知して、最初は何度か失敗しながら、実際にひどく叱られる場合と要求が通る場合と、引っ込めたほうが良い場合の学習をする。  

 こういう多数派の「空気による調節」による衝動統制を前提にすれば、大人の側がある程度面倒を見れば、「いろいろな空気による調節と同様に」子供の側も状況を察知して、それ以上の要求をしなくなる。  

 そのことを「愛情に満足する」とまた表面的に解釈するのだが、実際は「これ以上は難しいと折り合いをつけて諦める」というのに近いだろう。  
 愛情は不足してもいないし、満足しているわけでもない。

 表面的にそういう見かけになる現象はあるにはあるが、そういう説明をしても何も解決しない。  

 特に発達障害のケースには、「180度誤った見立てと助言となる」ということが重要だ。


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コメント

    • はすのはな
    • 2012年 2月 22日

    愛情と方法論は区別して考えたほうが良いと感じています。確かに問題行動=愛情不足と結論付けるのは短絡的です。ただ、空気をよんで子供を躾けるというか、どちらかといえば「その子そのもの」を観れるかどうかがポイントのような気がします。親の先入観や狭い価値観がそこにはたらいていないか。自分(親)の我慢出来なさを子供にぶつけていないか。
    先生のおっしゃるように、ものの見方の角度を変化させることは必要だと思います。別の記事にありましたが「親が楽になっていることは、こどもが苦しんでいることかもしれない」のですから。

    • pole
    • 2012年 2月 24日

    先生のブログを大部分読ませてもらいました。
    思ったことを率直に書きますね。
    先生は先生自身の個性と障害を混同しすぎてるように
    感じます。
    発達障害を持っている人に共通して持つ特徴をこのブログに書かれている部分も確かにあります。但し、障害はあくまで表面的な部分でそのもっと深遠にはそれぞれの「個性」があります。
    先生は節約家でも倹約家の障害をもってる人もいます。
    空虚感を持っていないジャイアンもいるでしょう。
    そして何よりも先生の人生で勝ち取った人生観を同じ障害を持っているからという理由で押し付けてるような感じがしてならないです。
    先生が苦しみの中で勝ち取った人生観は尊重されるべきものだと思いますが、他の発達障害を持ってる人は先生とはまったく別の人生を歩み生育環境も違います。苦しみの度合いも違うし、感じ方考え方も違います。
    生き方は各々が自分の個性と対峙してみつけるべきものだと思います。

    • 匿名
    • 2012年 2月 24日

    >生き方は各々が自分の個性と対峙してみつけるべきものだと思います。<
     まさに仰るとおりですね。小生も何度も折れそうになりながら(今でもそうですが)悪戦苦闘して自分の個性に合う生き方を模索し続けて生きています。
     ただどうなんでしょうか。それが認識できない、そこまで到達できていない状態で苦しみ、折れてしまう人が多いのも事実ではないかと。
     そういう方々が一縷の望み、一筋の光明を見つけ出すお手伝いをYANBARU先生はされているだけではないかと思うのです。
     言い方がストレートすぎてきついのは同じジャイアンとして理解できますし…………….失礼。

    • カボス
    • 2012年 2月 24日

    >障害はあくまで表面的な部分でそのもっと深遠にはそれぞれの「個性」・・・
    反対だと思います。
    「個性」は表面的な部分でその深遠に「障害」がある。
    心のパーツの多くの部分は、「社会」のインストールでできているのにそれがうまくいかない。
    そんな欠陥だらけの脳が後天的に獲得した言語と認知のみを使って、
    心を適切にコントロールできるとうぬぼれたらダメじゃんっ!!!!

    • pole
    • 2012年 2月 25日

    >心のパーツの多くの部分は、「社会」のインストールで
    できている
    これは全く同意しかねますね。
    障害を持ってても色々な人との関わりの中で心は自分で作っていくものだと思います。
    個性より先に障害があるのならば、もっと言うなら障害というもので画一化してしまうのならば、何故生きるのかという疑問にぶつかります。
    障害を持っててもみな各々多種多様な苦悩もあるし美点も持っていると思いますよ。
    それとこの記事で「愛」という言葉がでてきましたが、愛は障害を持ってる人を見るとき「障害」を見るのではなく「個性」を見ます。

    • pole
    • 2012年 2月 25日

    それとカボスさんに言い忘れてましたが
    どの文面を見て自惚れてると判断したのかわからないけど
    あなたこそ!心の底では自惚れていて自分のことをダメだと思ってるんでしょうね。

    • Yuki
    • 2012年 2月 25日

    私の経験では、先生のおっしゃる通りだと思います。
    多分私もジャイアンですが、私の親は、躾には厳しいくせに愛情表現のような行動はほとんどなく、幼児の頃でも添い寝すらしてくれなかったので、私は小学生の時点でかなり自立した子供になり、10代で家を出て、自分で学費を稼ぎ、専門分野の教員免許取得までできました。
    そのことから、自分の子供にはかなり親密に愛情を注いで自分がされたこととは真逆に育てましたが、一人ではなにもできない生き物をつくりあげただけでした。
    私は、「鬼母」の記事に出てきたような、我が子を谷底から突き落とすタイプの母親です。我が子が可愛いからこそできる仕打ちと思いたいですが、自分にも他人にも平等にそんな感じです(笑)
    私自身はそれで自立するタイプの人間なので、本人のためという気持ちでしていました。でも、子育て本などの通りに、叱った後抱き締めて訳を説明して優しくフォローするのは、我が子にとっては正に叱った事を無かった事にさせ、同じ失敗を毎日でも1日何度でも繰り返させるだけの結果になりました。
    子供の頃好きだったドラえもんも、今観るとイライラするだけです。
    私と子供の関係にソックリなので。
    我が子は中学生ですが、未だに添い寝を要求し、私の可愛がるペットにやきもちを焼いていじめたりします。
    寝て起きて食べて遊ぶ以外は自分ではなにもしません。歯も磨かなければ風呂にも入りません。塾ではトップレベルですが、学校では並の成績です。塾は先生が導いてくれるから。学校の集団の中では、落ちこぼれなければいい必要以上の努力は要らないという考えです。
    音楽祭の伴奏などは進んでしますが、望んだ曲目で無いといつまでも愚痴っていて、練習も適当です。
    診断の経緯は、チビの頃から手がかかり、4年生の頃に注意欠陥が親から見て限界に達したので、どうしようもなくなり受診させたところ、詳しい検査でギリギリADHDの範囲に入っていると診断されました。現在はストラテラを服用しています。

    • カボス
    • 2012年 2月 26日

    poleさん。本当にすみません。変な文章になっていました。
    『欠陥だらけの脳が後天的に獲得した言語と認知のみを使って、心を適切にコントロールできるとうぬぼれ』ていたのは私のことです。
    だから、それじゃダメだと、やんばる先生を頼ってここにきているのです。
    自分を棚にあげるつもりはなかったのですが、そう思われてもしかたがない文章でした。すみません。
    あと・・。
    「障害を持ってても色々な人との関わりの中で心は自分で作っていく」と
    poleさんも書かれてあるとおり、心は「他者との関わりで」つくられるもの・・これは同意します。
    私は、それを「社会」のインストールと表現しました。
    ・・でもその肝心なところに致命的な欠陥がある・・・それが悩みの種です・・

    • 2012年 2月 26日

     コメントの流れを読むと、個性と障害を区別し、その差異を表面か深遠かに求めようとしていますが、さてそのような見方が適切かどうか、考えなければならないのではないかと思いました。
     発達障害の特性は多数派といわれる人々にも見受けられるものです。発達障害と医学的に診断されるには社会適応が困難であることが前提になっており、診断されない人々は個性として捉えるか、自己診断してその特性と折り合いをつけながら生きていくか、自身で選択していくものです。
     また、個性と障害について明確な線引きをすることはできません。発達障害の診断には、発達障害の診断ツールに照らし合わせますが、個性と障害を区別するものではありません。
     表面か深遠かについて、個人差というのは現在遺伝と環境の相互作用とされており、発達障害も遺伝との関連がいわれているなかで、どちらがどうということに意味をなさないように思います。
     やんばる先生は、発達障害の特性があり困っている人々を対象に、適応していくためのヒントを精神科医の立場から発しています。情報の取捨選択はその個人に任されています。自分の人生に責任を持つことができるのは自分だけです。
     さて、この「愛情不足」というエントリーに話を戻します。私も安易に「愛情」という言葉をつかうべきではないと考えています。空気が読めないか読みづらい発達障害親子に多数派の論理で一般化されたことを当てはめてしまうのは、孤立化を促進するだけのように思います。そもそも、叱る褒めるといったことは子どもの社会化において必要で、愛情ゆえの働きかけとは違った意味合いがあります。発達障害がある子どもの社会化を促すには、一般化された愛情の論理でなく、発達障害の特性に合わせた叱る褒めるを必要としますね。

    • カボス
    • 2012年 2月 27日

    <コメントの流れを読むと、個性と障害を区別し、その差異を表面か深遠かに求めようとしていますが あ・・ちょっと違います。 個性と障害を区別し、← これはそうなのですが 差異を表面か深遠かに求めようとしていますが ← これが違います。 私は求めようとしてません。 「障害」は脳の器質的障害、 「個性」はその脳の器質的障害の結果、体で表現されるコミュニケーションの姿と厳密に分けています。 ですから 「障害」は修正不可能、あるいは薬物を使用してやや改善するもの。 「個性」はいくらでも修正可能なものとしてとらえています。 ですから、言葉の定義の問題で、論点ではないのです。 あくまでも私がかってにそう定義して、それを他者に強引に押し付けただけです・・。・・・反省・・・。

    • 匿名
    • 2012年 2月 27日

    ジャイアンの小生は以前、同じジャイアンのYANBARU先生に「ジャイアンに愛(愛情だったかも)はあるのでしょうか」と質問したことがあります。回答はありませんでしたが、それほど微妙な問題えはないかと。そしてこれは他の発達障害、ひいては多数はも関係してくる問題ではないかと。
    そもそも愛ないし愛情とは何か、とか多数派が感じる愛、愛情とは一体何なのか、ということはさておき(これも以前YANBARU先生が提示されたテーマのひとつだったと思いますが、このときも収拾がつかなくなったように記憶しています)。
    一例ですが、小生が嫁こどもに「家族のためにと思って」言ったことしたことが「自分勝手で基地外じみている」と捉えられて避難されると、かなり辛いものがあり、「せっかくお前ら何もわかってない愚かな人間を助けようと思っているのに」と激高してしまい、泥沼にはまることがしょっちゅうあります。
    こちらは「世の真実を伝え目を開かせるためによかれと思っている」のでそれは愛、愛情の範疇に入るものかもしれない。
    そして向こうも「おかしな旦那父親を矯正し社会に適応させるするためによかれと思っている」のでもしかしたら愛、愛情の範疇に入るものかもしれません。
    でもジャイアンと多数派の考えるところの「愛、愛情」は全く別物で相反するものなのか。
    そういう意味では、お互い妥協点を模索しながら折り合いをつけるしかないのではなかろうか、とも思います。納得は決してできないのですが……

    • みかん
    • 2012年 2月 27日

    相手の言いなりになることで生き延びようとしていた、のび太からの意見です
    母ジャイアンと迷いながら同居継続中です。
    そもそも「愛情」とはなんなのでしょうか。
    私は幾つかの異なる問題をごちゃまぜにして、区別できずにおりました。
    問題の一つに母が非常に軽度の知的障害の問題を抱えていたことが最近発覚しました。
    例えば握力が強すぎて調節できない問題
    それは日常的に持っているお茶碗を割ってしまうほど。
    小学生時の銭湯でのこと・肌が腫上るほど束子で洗われた。
    それも毎回、しかも人が大勢いる銭湯。
    痛いと泣いて喚いても、これが良い事だと信じて止めてくれない。
    子供の「痛い」という言葉・表現をどのように捉えているのかは不明。理解不能。
    私はそれら母の奇行は愛情が欠けていて、だから酷い仕打ちをするのだと思っていました。
    父親からの虐待・姉からの暴力からも守ってくれず、母親すらも感情の赴くままに三歳児の髪を掴んで振り回した。
    そんな母へ「あなたには愛情が無なかった。だからあんな育て方が出来たんだ」と責めても全く認めません。
    「愛情はあった」と怒鳴り返すのですよ。
    虐待の数々の反省は一つも無く、こんな年寄りを苛めてと泣く。
    「愛情が無い」ことを責めても仕方がない(愛情は生まれない)と絶望した時期もありました。
    最近ふと思ったこと。
    私が欲しかったのはまともな生活であって、愛情ではなかったのかもしれないと。
    親の能力不足のために、幼少期の私は適切な教育・生活環境を得られなかった。
    そのために精神が不安定になり、今も苦しい。
    母はあったと言うのだから、母なりの愛情はあったのかもしれない
    でもそれは私が必要としているものではなかったのかも。
    私の愛情の定義は自分を押し殺して他者を優先することが愛情だと思っていました。
    それも行き過ぎた勘違いでした。
    では愛情とは???

    • なみこしまり
    • 2012年 2月 28日

    ずっと「自分が認識している愛」と「一般的な(多数派の)愛」とはどうも違うなと思っていました。
    まだ発達障害として認識も認知もないときのことです。
    世の中の大きな謎の一つでした(笑)
    やんばる先生の記事やみなさんのコメントを読んでいって思ったのですが「愛」という概念を定義づけしようとする行為こそが、発達障害者の特徴であり、多数派の人は「愛」についてそれほど深く考えてないのかも知れません。
    多数派が使う「愛」とは、自分の言動を肯定するための便利な(あらゆる場面でご都合主義的に使われる)言葉でしかないのではないでしょうか。
    流行り歌(私は吐き気がするほど気持ちが悪いので聞かないようにしてますが、街で否応にも耳に入ってしまう)の歌詞を聴いていると、自分にとって都合のいいことだけを「愛」と表現しているに過ぎないと感じます。
    また「愛」とか「子どものため」というような言葉を用いると、その瞬間から否定意見を出しにくくする効果があり、内容云々ということに踏み込まずにすませてしまうことが多いように思います。
    Paul Carpenter さんの話を例にするなら、Paul Carpenterさんが「家族のためにと思って」と考えたことは全く関係なく、家族(嫁こども)にとって都合がいい内容なら「愛」。都合が悪ければ「自分勝手」。
    そういうことなのではないでしょうか。
    なんか、まとまっていなくてすみません。

    • はすのはな
    • 2012年 2月 28日

    なみこしまりさん
    あえて申し上げます。そうやって決めつけないでください。その時点で多数派と呼ばれる人々と当事者と呼ばれる人々の歩みよりは遮られます。
    確かに「愛」という言葉の定義づけようとする皆さんのコメントは理解できます。しかし、多数派が愛を深く考えてないとあなたは断言できますか?ただ単にあなたがそう感じているだけなのでは?
    言葉をただのツールとして考えるなら、そもそも愛なんて言葉に意味なんかありません。ただ漠然としたもの、それでも何かを感じることの表現としてその言葉を使っているのではないですか?
    当事者の方が、いわゆる多数派との感じ方の差異を提言してることに対して、多数派の批判をするのはフェアではないと感じました。

    • 2012年 2月 29日

     発達障害当事者が「愛、愛情」について考えをめぐらすのは、おそらく「空気が読めない」ためにそれについて理解しようとするからでしょう。そして、それぞれに現時点での「愛、愛情」の捉え方があり、それが表現されているものと思います。
     人間の感情は、喜びや怒り、悲しみ、嫌悪、恐怖、愛しむなどあります。なので、多数派も発達障害者も愛しむという感情はあります。ただ、その感情の発露の仕方や言語化において、空気が読める人たちと空気が読めない人たちとの間で差異があるのだと思います。
     空気にプラグインしていないということは、その感情の発露に気づくことが困難であったり、その感情を自分が空気によるメッセージとして送っていることに無頓着であったりするのでしょう。ですから、親子間での思いのすれ違いが起こるし、対人関係でつまずく。
     私は「ないものはない、あるものはある」として、「愛、愛情」など抽象的で見えないものを求めることに合理的な意味があるか、などと考えています。空気にプラグインしていない私には、表に現れた言葉や行為から読み取るしかなく、それに対してどう判断するかが大事だと考えています。合理的に考えることで衝動統制をすること、つまり、これは私の愛だ、受け取ってくれ、私はこの愛が欲しい、といった衝動を統制するには合理的思考が必要だ、と考えています。
     ですから、この「愛情不足」のエントリーに対し、発達障害の特性に合わせた「叱る褒める」が必要だなぁと思ったのです。空気にプラグインしていない子どもに、表に現れた言葉や行為から読み取る力を養い、その読み取った事柄にどう判断するかを考えさせることが重要だと考えます。

    • 匿名
    • 2012年 2月 29日

    >「家族のためにと思って」と考えたことは全く関係なく、家族(嫁こども)にとって都合がいい内容なら「愛」。都合が悪ければ「自分勝手」。
    そういうことなのではないでしょうか。<
    >発達障害当事者が「愛、愛情」について考えをめぐらすのは、おそらく「空気が読めない」ためにそれについて理解しようとするからでしょう。
     私は「ないものはない、あるものはある」として、「愛、愛情」など抽象的で見えないものを求めることに合理的な意味があるか、などと考えています。<
     このお二人のお言葉は発達障害にとってというか小生にとって非常にわかりやすいです。
     ちなみに小生は目に見える国語、英語長文読解、英作文英文法は得意でしたが目に見えない理数系、英会話はまったくダメでした。
     あと親に洗礼を受けさせられた不真面目クリスチャンですが。
     子どもの頃毎週日曜日に教会へ連れて行かれ、聖書や祈祷で「愛」という言葉が毎回いやというほど出てくるのに小さい頃から違和感をおぼえていました。
     熱心な信者で寄付もたくさんしていた父親が重病にかかったときに何度父や我々家族が教会に頼んでも来てくれなかったり(そのうち若い人が少数いやいやベッドサイドに来てくれて簡単なお祈りをしてくれましたが。もちろん多額の報酬を払って)、亡くなって教会で葬儀をしたあと、お金を払うと牧師さんから「少ないですねえ」の一言。
     父は高齢で退職して長かったし、小生はまだ学生だったのでこれが精一杯です(元気なときには多額の寄付をしていたはず!)と怒りを抑えながら答えると。
     「じゃあ社会人になったら出世払いしてください」
     その牧師さんはその数年後に父と同じ病気で他界しました。
     社会人になっても寄付は増額していません。
     「愛」という都合のいい言葉の真相を知った貴重な機会であったと思います。
     本題から外れていたらごめんなさい。

    • かぼす
    • 2012年 2月 29日

    「世の真実を伝え目を開かせるためによかれと思っている」ことと、
    「社会に適応させるためによかれと思っている」ことにおおきな・・・
    とてつもなく大きな隔たりがあることに、私もある日気づきました。
    武装した国境警備隊の前を、
    「愛」を書いたプラカードをもって丸腰で歩いて、銃で撃たれる人間は馬鹿としかいえない。
    貧しい人がわずかな所持金から寄付した愛の1000円より、
    汚い金だろうがなんだろうが、1億の寄付のほうが確実に人を救う。
    ・・・本当の祈りは聖書のなかにはないと思う。
    どうすることもできない不安や恐怖、怒りや憎しみ、哀しみを
    そんなどす黒い何かを・・
    それを飲み込まざるおえない時、飲み込むと決めた時、
    そしてそれを「何か」にぶつけて捨てる時に、祈りがあるのだと思う。
    そしてその「何か」が愛なるものなんだと思う。

    • 匿名
    • 2012年 3月 01日

    >本当の祈りは聖書のなかにはないと思う<
     強く同意します。「喧伝される」愛というものは喧伝する側の都合のいいように、自分たちの言うことを聞かせるための言い訳のようなものではないかと。
    >どうすることもできない不安や恐怖、怒りや憎しみ、哀しみを
    そんなどす黒い何かを・・
    それを飲み込まざるおえない時、飲み込むと決めた時、
    そしてそれを「何か」にぶつけて捨てる時に、祈りがあるのだと思う。
    そしてその「何か」が愛なるものなんだと思う<
     「何か」も祈りも個人が自分の心の中で行うべきものであり、その範囲内であれば大変有意義なことだと思います。
     それを外に出して他者に押し付けようとする(たとえ無意識で悪意がない場合であっても)ところからおかしくなるのではないか、と思います。
     ただしこれが親子や恋人や夫婦であるとかえってややこしくなるのではないかと。
     「いわゆるところの愛」を強く感じれば感じるほど。

    • Yuki
    • 2012年 3月 01日

    一方通行の愛という言葉が頭に浮かびました。
    多少空気の読めるジャイアンです。
    空気の読めない友達と多数派の友達との間で代弁的に仲を取り持つこともあります。
    私の考える愛についてお話させてください。
    空を見上げたとき、花を思い浮かべたとき、人それぞれ違う様に、愛も人それぞれだと思います。多数派だろうとそれぞれ違います。
    特定の相手かも知れないし、もっと大きなくくりかもしれない誰かを、守ってあげたいとか、幸せにしたいとか、救いたいとか、失いたくないとか、自分の事を思って欲しいとか、そういうことが全部愛なのではないでしょうか。
    人それぞれ違うからこそ、いつの世にも愛についての議論が交わされる。
    私はそういうの好きです。

    • かぼす
    • 2012年 3月 01日

    それを外に出して他者に押し付けようとする(たとえ無意識で悪意がない場合であっても)ところからおかしくなるのではないか、と思います。
    本当にそのとおりだと思います。
    だから、大切な人、あるいは関係の無い他者に、あるいは自分にぶつけないために、それを引き受けてくれる「何か」が必要だと・・。
    その「何か」の名前は「かみさま」でも「イワシの頭」でも、なんでもいい・・そう思っています。

    • KEI
    • 2012年 3月 01日

    うちのジャイアン息子を薬抜きで育てたらそれはそれは、正直逃げ出したくなりますよ。幼少の頃、まだ発達障害と知らなかった時、あまりに大変なので保育園の一時保育を利用したのですが、2,3回あずけると断られてしまいます。あまりに手がかかり、ルールは無視、暴力的なので先生がつきっきりになる。うちでは人数が足りないので申し訳ないがお預かりできない。と言われてしまう事がしばしばでした。普通公立の保育園って断っちゃいけないんですってね、、、。それほどに、すごいって事です。

    • 2012年 3月 03日

    子供のころは過保護過干渉でした。思春期に入ると放置。垢だらけ、歯も満足に磨けない。忘れ物、遅刻の常習犯、学校で浮きまくり。お金や門限、服装の管理だけは厳しかったです。親戚にはあんたの親は甘いと言われていましたが、同級生には厳しい親だと思われていました。
    私がおかしいことは親もわかっていたようですが、こういう奴だということで済ませてくれていました。ちょっと変だけど放っておけば自然に普通の人になると思っていたようです。知的障害のある弟がいますので、そちらに注意が向いていたのと、あんたは健常なんだから自分でやれということだったんだと思います。でも何をどうやればいいのかわからなくて、管理されている範囲内で固まっていました。動かないでいれば叱られないし、これでいいのだ、自分から動いてはいけないのだと思っていました。
    縛り付けと感じていた管理も、私が何をしでかすかわからないから必要だったからで、そこには愛もあったのだということもわかってきました。が、当時は気づいていませんでした。何故か自分はちゃんとできていると思っていたので。また、こんな自分になったのは親のせいだと恨みもしてきました。
    私の親には愛もあった。愛をもって接してもらっても、私の方にそれを受け取るための能力がなかったのだと、今回の記事を読んで思い至りました。憑き物が落ちた感じがします。いたたまれないです。
    大学に進学、一人暮らしをさせてもらうようになってから、親の管理下にいた頃に自分の中で思い描いていた「愛」の形を実現させようとしたら、見事に共依存にはまり込んでしまいました。相手が逃げ出してくれて終わりましたが、依存の癖は抜けません。でも最近少しはましになりました。
    私にとっては愛という言葉は毒です。依存の口実にしてしまいます。とても扱いきれるものではありません。もう昔に戻りたくはないので、愛はいりません。

    • moco
    • 2012年 3月 04日

    実さんの『もう昔に戻りたくはないので、愛はいりません。』って言葉が身にしみました。
    私の元夫は『愛』を獲得した途端に『依存』へと変わりました。
    当時、アスペルガーについての知識は私になく、とても辛い思いをしました。
    今は彼の苦しみも理解できて、より深く別の意味で苦しいです。
    きっと今、彼は『愛はいりません。』って思っていると思います。
    そして私は今、アスペルガーの小2の娘と二人暮らし・・・
    娘も同じ完全な受動型ASで、ひとりではトイレに行くこともできません。(家にいる時だけ)
    現在、精神科からリスパダール、デプロメール、ハイセレニン、ツムラの54と80を服用しています。
    (いくらかひどい要求は治まり、ひとりでできるようにもなってます。)
    YANBARU先生の見解にはいつも救われます。
    次の『受動型ASの理解』はまさに娘におこっていることであり、すごい納得しました。ありがとうございます!

    • ADD親子
    • 2012年 3月 07日

    今日のエントリー参考になります。兼ね合いが大事なんですよね。
    アメとムチですかね。
    感情的に叱るのはご法度のような気がしますが厳しく叱るのは大事かと。愛情で包んだところで助長するだけかと。
    うちの子は小学校時代はとんでもなくだらしなかったですが
    あえて厳しい進学校に行ったら、少しきりっとしてきました。
    親も呼ばれて指導されるのですが、進学校にはうちの子みたいな子が多いそうで先生のおっしゃる非言語の指導が通用しないので、おそらく教師は口で説明して、叱って、理解させます。曖昧な事、空気では無理なんだと思います。
    ちなみに自分も勝手に幼児洗礼受けさせられたクリスチャンですが理系のほうが得意です。子供も完全理系頭です。
    親子で長文読解が苦手で理数系が得意な子供でした。想像力はある方で、作文などはこれも親子で表彰したり入選したりします。KYなのになぜだかわかりません。
    今日のエントリーとコメントの一部が内容かみあっていない気がしますが、子育てに愛情は必要だけど愛情だけじゃ無理って話しではないかと思いますが違うのでしょうか?
    愛情なくビシバシするだけでは発達障害の子は鬱になると思うんですけどね。あくまでアメとムチを使い分けよという話しでは?
    そして自分はクリスチャンですが、愛=恋愛、依存、期待でないと考えると広義の愛、クリスチャン的愛は発達障害者のほうが理解しやすいのではないかと思います。
    失礼ながら世の牧師はどちらか言うと発達障害傾向がある方が多いですよ。純粋な「愛」を実践できるのはむしろ発達障害者ならではのような気がします。
    日本人、多数派にとって「愛情」は「恋愛」と理解している方が多いと思います。そういう意味では私も「愛はいらない、面倒」と思います。また子どもに対しては、多数派の親も充分依存的に思います。子どもに過度に期待してる方が多いで、女子だから実家のそばに住まわせるとか、同居するとか、東大に入れるとか、あとは家族への悪口が多いです。でも愛情たっぷりのような顔をしていて、逆に「それは愛じゃないよ」と思います。
    ただ多数派が変だと思う時点で私が変なのか、上記の親すべてが実は発達障害なのかわかりませんが・・。
    私はADDですがASの方はまたこの記事への受け取り方が違うのでしょうか。興味があります。

    • 1124英太
    • 2012年 3月 08日

    発達障害者の問題行動を愛情不足で済ますのは危険です。確かに、共感は必要ですが、問題行動に対しては毅然とした態度で対応することも大切です。ダメなことはダメという態度を取らないとつけあがります。

    • pole
    • 2012年 3月 24日

    自分は愛のある環境で育った発達障害をもってる人間だと思います。たぶんジァイアンではないきがします。
    自分の中で愛とはその人から精神性を理解されること、そして何よりもその人に心を守られてるという感覚です。
    今から考えると散々悪態をついてきた気がしますが、それでも受け入れられてきたという感覚が、外で色々あっても今までやってこれた気がします。
    僕自身は、外で色々問題が起こり生きずらいからこそ、家庭では受けとめられるという愛が障害をもってるぶん余計に必要なきがします。

    • rilakumalove
    • 2013年 7月 18日

    「愛情」…、非常に難しいテーマですが、敢えてコメントさせていただきます。
    相手の特性に合わせた上で、相手の社会性・人間性・倫理観などの向上、生命を守ることを考慮し、相手と接することが、「愛情」へつながる様に私は思います。
    例えば、言い分を否定せずに話を聞いてもらうだけで社会的な行動や倫理観を取り戻せるタイプの相手に対しては、ひたすら本人の話を聞き、本人をなだめ共感を示すことは必要不可欠なことと思いますが、それだけでは増長し反社会的な行動(暴力、恐喝、窃盗、殺人、など)を正当化するようになるタイプの相手や、要求がエスカレートし非社会的な行動(引きこもり、仕事や家庭生活などからの責任逃れ、自傷行為、アルコールや薬物などへの依存、など)の手助けを求めるようになるタイプの相手に対しては、相手の正当化したい行為(手助けしてもらいたい行為)の反社会性(非社会性)とそれらの行為に対し本人達が払うべき代償を説明し、「ダメなものはダメ」「ムリなことはムリ」などとはっきりと拒否することが何よりも大切で必要なことの様に思われます。
    但し、「相手の特性に合わせ」ることは、それ以前に相手のタイプを見極めて初めて成せる業であり、その段階での見落としや見間違え、自分の感覚を基準にしたかかわりなどが起こると、単なる「愛情」の安売りや押し売りになりかねない危険性も考えられます。
    (私もよくやらかしては日々反省しております…)
    個人的な話になるのですが、ADHD(「のび太型」?)の私の場合は、「ダメなものはダメ」「ムリなものはムリ」といきなり言われると、混乱と不満だけが残ることになりがちなことから、ダメ(ムリ)な理由や、ムリを通した場合に自分が払うべき代償の説明といった部分も、特にADHDを持つ相手に対しては、怠ってはならない(それも時として繰り返し行う必要もある)様に思われます。
    まずは接する相手のタイプを観察し、「愛情」ある人間関係を一人でも多くの方と築けるようになりたいところです。
    (まずは結婚して5か月の、主人との関係からですね…)
    ※長文になりましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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