発達障害はもともとは(多数派の世間を正常とすれば)、多数派と同じように状況を読めないという認知障害と、注意欠陥や多動傾向、自閉症的なこだわりなどの行動上の特徴からなる。
ただ人間の脳には、「不足であれば別の機能で補う」という代償的な働きがあり、結局、少数派の生き辛さの中でこの認知障害を前提とした価値観が二次的に形成され、結果として障害はありながらも価値観を含んだ一つの「適応するための統一されたスタイル」のようなものが出来上がる。
パソコンで言えばハードウェアが違うところで、ソフトの働き方も違ってくるようなものだろう。
自閉症圏(AS、広汎性発達障害)の場合はもともと自閉症的な認知と行動の特徴に直接含まれる価値観のあり方(対人関係の愛着など)という印象を私は持つが、ADHDの場合は、認知障害から二次的に帰結する価値観のあり方のように思う。
さてこの価値観が、「極端」であるというのが発達障害の特徴だ。ASは「100パーセント完璧」を当たり前に求め、ADHDは「完全な誠実、正直、完璧に合理的」なあり方を自分にも人にも求める。この意味で発達障害(学習障害はちょっと違うが)は、強迫的傾向を持つといっても良いだろう。
多数派の「場の流れに合わせる」という直感的な働きの代わりに、理論的に厳密な合理性や、義理人情の絶対的な「無私」や「利他」の精神などの、言語的な「原理」が行動の決定に際して支えとなる。
この意味でADHDの場合にも、ASの場合にも、人間業では不可能な「厳密さ」を自分に要求することになり、有限な存在である生きた現実の自分との間に出来る矛盾から先延ばしが生じる。
発達障害の根本問題はこのあたりに根っこがあるように思う。
いくつか前の「発達障害の適応の考え方」のエントリーから非常に参考になる書き込みをありがとうございます。
発達障害の脳が多数派の脳にはなれないことがよく理解できました。多数派を理解して合わせようと無理をしていたら元からあった対人恐怖の傾向が強くなってきていたところだったので、どうにかしなければなーと思っていたのですが、これらを読んで、自分に見合った二次的なスタイルを組み立ててみようかなと思いました。
>人間業では不可能な「厳密さ」を自分に要求することになり、
これはまさにその通りで、理想が高すぎると言われたことがあります。先延ばしが生じ、仕舞いには身動きがとれなくなってしまいました。そして何より一番嫌だったのは、先生も書かれているように、その要求を周りの人間にも突きつけるようになったことでした。当然のように、多数派の人にはその強すぎる発言を「怖い」といわれたこともあります(^^;
今こうして考えれば当たり前ですよね。自分はその完璧で人間離れした理想を支持して取り入れていただけで、いざ実行となるとその半分もこなせていなかったような気がします。
(書いていて気づきました・・・恥ずかしい。。。)
わたしの場合ですが本来過集中や時間を守れないといった「行動」にADHDらしさがあらわれることが多いタイプなのですが、それらを過剰に抑えようとすると空気が読めなくなったり対人恐怖などが出てくるのかもしれない・・・と最近では考えているます。なので、自分スタイル構築実験の際はそこらへんは極端に甘くしてみようと思っています。
例えば時間を守れないということについては、努力はしたけど(或いは努力にも疲れすぎて)会社に遅刻してしまったとき、周りから白い目で見られても「しょうがない」と開き直る。(今までは自分を責めていた)だけど遅刻した分以上の仕事は必ずこなして帰る、という自分が納得のいくノルマをつける・・・のような。(会社によってはクビの可能性がありますがもう仕方がないと割り切る)
発達障害であるが故の負荷が掛かりやすい部分(わたしの場合は時間を守ること)だけを意図的にそのままゆるめておくと、自分や周囲の人間に対する全体的な強迫的傾向も薄れ、少しうまくいくのかな、という気がしてきました。
私はとてもルーズな人間です。それを医療職につくため、「先延ばしにしない」という原則で自分を制御して、対人関係で空気をよめない分時間を守ったり、きちんとするという面ではまわりの人に何も言われないように努力しています。今自分の小さな頃から一番苦手にしてきたことをしつづけています。。(宿題をしたことのない者が朝早く起き、一番先に課題を提出しています。。ストレスを受けると出てくる軽いパニックを抱えつつ・・)
その分、自分がこれだけ苦しい努力をしているのに、同じADHDだと思われる学校の同級生が毎日学校を大幅に遅刻し授業中よく抜け出し、自分で調べないですぐ人に聞くのを見ると・・とってもイライラします。
そう、周りの人にも自分も苦しい思いで対処しているのだから同じようにできるはずだと要求してしまうのです。同じような障害を持ってる人同士で理解できなくてどうするんだと理論で自己突っ込みしまくりの日々です。
(ADHDのACだと思われる者より)
>自閉症圏(AS、広汎性発達障害)の場合はもともと自閉症的な認知と行動の特徴に直接含まれる価値観のあり方(対人関係の愛着など)という印象を私は持つが
>自閉症的なこだわりなどの行動上の特徴からなる
以上の点について先生にご質問がございます。
「こだわり」がどういうものかによって、個々がずいぶんちがう価値観のように見えたりすることもあるように感じますが、具体的にこだわりとはどんなものがあるのでしょうか。
当然自閉症の方のこだわりとは違った様相になって、周囲からは表面上はこだわりという捉え方では見られていないように思います。
また、ASの方ご本人にはその「こだわり」はどのように認知されていると考えられますでしょうか。そしてその「こだわり」本当に「どうにもならない」のでしょうか。もし可能でありましたら何かの機会に触れていただけたらありがたいです。
また、「愛着」が「こだわり」より優先するというような趣旨のことを以前お書きになっていたように思いますが、それで社会的に不都合な「こだわり」を「どうにかできた」具体例がありましたら教えてください。
1つの信念に向かって進んでいくということはほんとうに大変なことだと思います。その才能を最も発揮できるのが、ADHDやASの方々ではないかと思います。
最近は、ASのこだわりというのは、単純に多数派との価値観が違う部分に過ぎないのではないか? と思います。
多数派なら、「これは絶対に譲れない」という価値観は人によって大差がないので、それを修正しろとは求められない。
ASは、多数派が「絶対に譲れない」ことが自分にはどうでもいいことだったり、多数派が「どうでもいい」と思うことが自分にとっては絶対に譲れないことだったりする。
当然、他人からは異端の目で見られ、修正を強要する圧力が強く働く。
たとえば、机の上は綺麗でないといけない、というのは多数派の価値観だが、私の場合は机の上は、自分がものを出しやすいようになっていないといけない。
引き出しにしまうようなものは、めったに使わないものであって、良く使うものを引き出しにしまうのは、取り出すのが面倒くさい。良く使うものは、机のどの位置に何がおいてあるかを覚えていればいいだけだ。(ASなら普通は苦にならない)
当然多数派やADHDからは叩かれることになるが、私はこの方が仕事がしやすいのだから仕方ない。
このような、多数派とは違う価値観(受動型ASの場合、大半が面倒くさがりが原因)のすべてがこだわりなのではないだろうか?
>社会的に不都合な「こだわり」を「どうにかできた」
たとえば、学生時代は髪の毛の手入れをしない(面倒だから)のが価値観でしたが、社会人になってからは、金という目的のために仕方なくこの価値観を捨てることはできます。
ストレスになりますし、仕事をやめれば元に戻ります。だから、完璧に「どうにかできた」というのとは違うと思います。
こだわりを捨てることにより、明確なメリットがある。
これ以外ではメリットは捨てられないでしょう。
愛着対象のためにこだわりを捨てる。これは十分以上に明確なメリット(愛着対象に評価される)があります。
極論すると、こだわりを捨てるために必要なものは、女(=愛着対象)か金か、しかないともいえるのではないでしょうか。
自分の価値観を変える、それは大変ストレスになることです。
価値観を変えざるを得ない環境におかれた場合、このストレスになれていない多数派は変化についていけずボロボロになるという事実は、こういうところから来ているのでしょう。
cooさん
私も似たような逆恨みをすることがあります。
そういう場合私が心がけているのは、逆恨みをする自分を許すこと、そして逆恨みの対象に近づかないことです。
ネットのブログや書き込みでも、「発達障害だから仕方ない」とか、「支援がないのが悪い」というタイプの書き込みは絶対読みません。
逆恨みは悪いことではないです。
努力してもまだまだ恵まれているといえない状況では、仕方のないことだと思います。
ですから、逆恨みの相手とは一切関わらないのが精神の健康に良いと思います。
ほぼ定型の親友の話では、薄い人間関係の中で大事にするのは「バランス」が一番なんだそうですね。
どっちの味方とも取れるような発言、当たり障りのない物言い、、、。そのバランスを上手く取っている自分を確認して安心し、悦に入るそうです。
私「え?そのメリットって何なの?」
友「うーん。敵を作らないとか、そういう所かな、、、?」
私「あー私は絶対に無理だ。そこに魅力を感じないもん。
一緒にいていつまでも腹の探りあいして、楽しくないなら、疲れる度合いと比較すると損、みたいな。時間も金もかかるしね」
友「最近ね、私もそう思うのよ。
これだけ苦労してバランスを取っているのに、それを対人操作ですべて台無しにしやがったとんでもない奴らにいたく
傷つけられてね、、、変な奴とでもうっかり付き合っちゃうものだから、してやられることもある。もうバランスなんていいや、自分らしくいこうかなぁ、、、なんて思うようになってきた。だけど気づくとまたやってるんだよねぇ、、、。バランス取り」
私「ふーん。なんか、、、大変だね。自動操縦みたいで」
友「あなたははっきりしていていいよね。」
私「直接話したこともない人にいきなり嫌われることもままあるけどね、、、。」
友「ヤナ奴のふるいみたいな。そんな奴は付き合っても後で面倒だよ」
、、、。あ、やっぱり私もジャイアンかもな、、、。単なるADHDでなく。
>パソコンで言えばハードウェアが違うところで、ソフトの働き方も違ってくるようなものだろう。
私は何か説明を考える時に、うまく言える言葉はないかと思って辞典とか辞書とかよく見るんですけど、プログラミング言語がよさそうだと思ったので書いてみます。
私は関数型・非手続き型言語です。再帰呼び出しして遅延評価しています。解法は知らないんですよ。すみません。非言語入力による副作用はありません。意味入力と注意の転導による参照透過性があります。また意外とオブジェクト指向ではありません。
どうですか全然分かんないですよね。これは特徴だけを捉えた比喩です。でも言葉を調べるために辞典を見ているのに、その言葉をそのまま使うときに使わないで、比喩に使うのはまわりくどいですよね。でもそれは意味入力だからなんですよ。私は理数系はできないので詳しいことは知りません。それなのにこれで比喩にしてしまうということは大ざっぱだからです。適当だからです。wiki見て書いています。比喩をよく使う人は脳が同時処理傾向だと思います。比喩とは、ふたつ以上の事象を同時に処理するから。まあ継次処理傾向の人も使うでしょうけどね。あと型推論の機能があるんですが、ジャイアン型の人は意外と継次処理傾向なところがあって、手続き型・命令型言語だと思うんですけどどうでしょう。すみません勉強してきます。
>多数派の「場の流れに合わせる」という直感的な働きの代わりに、理論的に厳密な合理性や、義理人情の絶対的な「無私」や「利他」の精神などの、言語的な「原理」が行動の決定に際して支えとなる。
私が、自分の中にある「過信」と言っているのは、この「言語的な「原理」」の事かもしれないですね。行動の決定に際して支えになる事はなりますけれど…自分の中では諸刃の剣っぽく思えたりもします。
>有限な存在である生きた現実の自分との間に出来る矛盾
矛盾というか、心身に無理が来ますね、どうも。
最近、ボランティア登録をしている所の担当さんから連絡が来まして、依頼が来たので相談したいとの事でした。
今現在の私は、特に価値観と呼べるものをもって行動しているというわけではないのですが(しいて言えば、有資格者として、という意識が私の行動の選択の幅を決めているようです)、強迫的傾向が比較的やわらいでいるのが自分でもわかるので、長続きをするような関係が保てたりしているようです。
上記コメントのその後
わーいHaskellの本を手に入れましたよ。さあなじみ深い概念が並んでいます。言行一致、先延ばし、怠け者、自力で型推論、プログラムは命令型より短いコメント。アドホック仮説みたいなものは無し。帰納。
参照透過性は透明性となってました。これはとてもありがたくて、これがあるせいで私は周囲のジャイアンに
「やっぱり・・・orz」
「あんたのやる事はわかるんだよ・・・」
って言ってもらえるんですよ。でも参照透明性は、ジャイアンのほうがあるんじゃないですかねえ。
精神科でこの話をしたら、自分の特性について勉強するのは良いと言われました。
厳密さは求める、でも結果は求めないということで。
やっぱりね、なんらかの過去(自分以外のことが多い)の中でのパターンマッチを自動的にやってるんだと思うんだ。再帰はデフォルトなんだ、ちょっとした違いがわかることがあるんだ、ピンポイントで。それLD的。ちょっとした色の違いがわかるのび太的な人は美容部員を喜んでやってたりした。(英語が好きなのび太的な人は多い気がするが研究中・一人の子は文化が好きと言っていた・それはわかる気がする)何に対しての違いか、は個性みたいだ。無限リストには昨日までの過去(のなかでの何か)という制約があることが良いんだ。制約が無い未来で無限リストにはまっている人を時々見る。パートナーは夜食のメニューで無限リストにはまることが多い。カツ丼?カツカレー?ラーメン?何ラーメン?etc・・・
過去との間の痕跡が関係性に目を向けさせてくれるのだが、あまり後ろ向きになるとうつっぽくなるので注意。
まうまい具合に思い出せなくなっているのだが・・・ブツブツ
なんだ自分を振り返るのは苦手なだけだった