発達障害にとって「教えられる」ことは実は非常に困難なことだ。多数派流に「教わる」ことには、実は非常に高度な技を必要とする。
あるピアノを学ぶAS氏は、毎回先生の指示通りに弾かず、学ぶ誠意に欠けると見なされていた。
私は本人から細かく話を聞いてみて、実は話は逆で、「先生に合わせようとするのだが、どのように合わせて良いのか分からず、結局自分なりに弾いてしまう」ということが起こっているのではないかと考えた。
「合わせる」とか「理解する」という言葉は発達障害にとっては「100パーセント合わせる」「100パーセント理解する」という意味になる。
その意味では、世間の多数派の意味での「合わせる」は、発達障害流には、「合わせない」のほうに入る可能性があると私は思う。
「この先生から学ぶ」という状況で、先生の言う通りに「合わせる」とすれば、逆に「自分」が無くなってしまう。自分自身の立ち位置が分からなくなり、非常に不安な状態だ。
特に積極奇異型ASにはほとんど困難なことだろう。
話を聞いた結果の私の助言は、「合わせるのを止めよう」というものだった。「先生の言うように勉強しようとする」ことははじめから止めて、「勉強は自分がする」「その先生の助言で自分に役に立つ部分だけ吸収する」と考えた方が、結局先生の助言を聞けるかもしれない。
結局発達障害に可能な「学ぶ」ことは、「我流」しかないと私は思う。「誰かに教えられたから分かった」のではなく、自分なりにいろいろ試行錯誤、工夫していく結果に師の助言を体験的に確認するという形しか無いように私は思う。
私は数学の公式も、出来上がりを覚えるとかえって符号などを間違えるので、「毎回公式自体をいちいち導き出し直す」というやり方をしていた。
医師としてのスタイルには、実は私には真似している「師」が居るのだが、これも本来の指導医は別に居られたのを勝手に師の担当患者のカルテを読んだりして「盗んだ」というのに近いと思う。
「我流」を咎めるのは止めよう。「うまく教えられる」ことは発達障害にはあまりにも困難な複雑なことであるのだ。
スクールで学んでいる方法ではなく、ほかの本を読んで自分勝手にしている自分は何なんだろう?と思っていましたが、そういうことだったんですね。
確かに教えれたように完璧にしようとし、でもできなくて、他の方法を模索しているうちにできるようになったということが多々ありました。
これから堂々と我流研究に没頭することにします。
来年は留年しないようにがんばります。
ありがとうございました!
今回の記事は自分の経験に当てはまります。
まず、中学校以降の勉強は、授業では理解できず、多くの時間を自習に費やし、自分なりの勉強方法を編み出していました。先生の指導を仰いでも役に立たず、どうしたものかと途方にくれましたが、思い切って孤独に耐えやり抜くしかなかったと憶えています。
音楽の場合、指導者の言う通りに練習していても上達はあまりしませんでした。ある日楽器店で立ち読みした練習の理論書を読み、それを自分で実習することによって短期間で上達しました。
またオーケストラでも誰それに吹き方を教えてもらうというよりも、わずかなヒントをもらって周りを観察しながら自分で憶えて上達したのが実際です。
自分一人で試行錯誤を繰り返し、ものにしていくと言う方法しかないように思いますが、多数派にはこれが理解出来ず、カリキュラムに沿った教育しか認められないのはとても残念です。
多数派からは意固地で自分勝手に見える様ですが、そんなことをおかまい無しに自学自習をやり抜かないと身に付くことはないと思います。
特に問題も生じず、ずっと我流でやって来ました。(数式は私も毎回導出派でした!)
今でも仕事(研究)のやり方はかなり我流です。ボスのお手本になると思った部分だけを自分なりの方法で自分に適用している以外は、これからもきっと我流だと思います。
今思えば、我流を貫くという意味では、大学受験を回避したのは大正解だったかも知れません。やりたいようにやらせてくれた、世間一般を押し付けなかった両親に感謝の気持ちで一杯です!
前にあった「管理型共依存」や「ジャイアン主治医の落とし穴」のエントリーと読み合わせると、親が超合理的強迫的なジャイアンADHDで、発達障害の子の場合、 >自分(子)なりにいろいろ試行錯誤、工夫していく結果に師(親)の助言を体験的に確認する< 迄、ジャイアン親が耐えられるか?、難しいところですね。 私、積極特異型ASの私も省みると、未自覚であった頃は、父権主義的に振舞っていたから、ジャイアンさんをあれこれ批判できるものではないですが。 この >発達障害にとって「教えられる」ことは実は非常に困難< であることは療育の場面でも同じだろうから、 >自分(発達障害者)なりにいろいろ試行錯誤、工夫していく結果に師(支援者)の助言を体験的に確認< しないと、我流でやらないと身に付かないことを、支援者や親がどれほどわかっているのでしょうかね??
ヒゲ達磨様の【我流でやらないと身に付かないことを、支援者や親がどれほどわかっているのでしょうかね】内容に思わずうなずいていました。
高3アスペの息子は自分が今まで得た情報を常に張り巡らし、周囲には「これぐらいでなぜ疲れるのか?」「何が困るのかを言ってくれないと援助できない」と言われてきました。本人も周囲の親切?に悪意までは感じないのですが、整理できない状況に混乱し苛つき身体症状で苦しんでいます。ところが時々自分でそのことを自分のやり方で納得しているようです。親である私がいつも反省するのは、自分の考えでがんばってやっているのに、つい情報を提供?提案?しすぎて、より混乱させてしまうことです。きっと自分らしく歩いていく過程で、お互いを知る大切な学びにしたいとは思うのですが。
私も落ちこぼれの支援者端くれとして自省しながら書くことですが。
我流でもなんでも、最終目的に向かって進めれば、そのヒントになれば、その手助けはOKであると見なされていいと思います。
世の中まだまだ発達障碍児の支援成功事例の情報発信が少なすぎるのだろうと思っています。
NA5さんのような親御さんが恐らく多数、我が子に成功体験を積ませることと引き替えに、ご自分に責めを向けていると思われます。
健常児には健常児の、肢体不自由児にはその障碍の、視覚不自由、聾障碍、知的、病弱、それぞれの支援事例は社会へ出すまでの物が在るところにはありますので、近い事例や似た事例を探せば試行錯誤の重責を幾分か省けます。
その試行錯誤や、手間、苦労の意味をどう捉えるかも文献が多数あるので、心情と合う物が見つかる可能性があります。
しかし発達障碍児支援の事例は、日常生活指導の一場面、一場面を切り抜いた資料が多いばかりで、支援を迷う人の根気や意味付けを十分に支える物にまだなかなか出会えませんね。
後は文章力のある当事者が自伝で振り返り、少しばかりの感謝の気持が出てくるような状態で・・・。
発達障碍児が診断され、増えて来るに従って、例えば受動型AS傾向とジャイアンや、積極奇異AS傾向と虐待児等、明らかに“そり”の合わない支援者とクライアントの組み合わせもどうしても出てくると思うので、そうしないと人員が足りなくて足りなくてどうしようもないので、それでも希望を失わないで支援して、最後は社会まで出す方法が大量に情報発信されて欲しいものです。
初めてレスします。
確かに、ジャイアントな私も小さいときから我流そのものでした。なぜなら、相手の説明が何を言ているのか理解できないからです。あと、同じ曜日に同じ時間に決まったカリキュラムに沿うことができません。だから約束はできません。プレッシャーになるからだと思います。その代わり、自分の好きな時間に好きなことをして良い場合は、何時間でも集中していられますし、多数派の人からするとかなりストイックでハードなことであっても、結果的にゲットできることが多いです。