実は薬物依存やギャンブル依存などのaddictionの背後に依存型ジャイアンがあることが多い。考えてみれば当然とも思えることだ。
依存型ジャイアンは一瞬の刹那に生きるので、「その瞬間に不安が簡単に確実に解消する」「面倒な意味や意義よりも結果が手っ取り早く明白に手に入る」意味でアルコール、薬物などの依存性物質や、ギャンブルなどは「利用価値が高い」。
逆に、依存型ジャイアンの刹那の認識からは、addictionの恐ろしさ、問題性は見えないようになっている。時間的継続性に立って考えないから、「依存から抜けられなくなる」ことは何ら問題ではなく、また負けた損害の瞬間も過ぎ去れば忘れるので、addictionによるマイナスはほとんど認識できないことになる。
他方で、「ギャンブルに当たった時のメリット」、薬物急性中毒症状の中での快感、目前の不利な現実から目をそらし頭から除去することを可能とする作用など、addictionは依存型ジャイアンにとって有利なことはたくさんあるのだ。
「他者」から見た「意味」を考えることがないから自分の依存行動の家族や関係者への影響を考えることもない。発覚して「現実的にまずく」なってからもみ消すようにトンズラする。見つからなければ何も問題はない。「見つかったのは運が悪かったからだ」「警察や法律が悪い」という発想になる。
それでも治療の場や裁判になれば、その場の要請に合わせて見事に「反省して更正する」ことを演じて見せることになる。「そのほうが有利」だからだ。
「真摯に反省して更生を誓う姿勢」と裏腹な次の瞬間の露骨な依存行動への執拗さ、大胆不敵とも言える行動パターンは、「刹那に生きるADHD」を想定しなければ説明は困難な現象だ。
結局依存型ジャイアンがaddictionの背景にある場合には、「時間的継続性を前提とした合理的思考を言語的にトレーニングする」という作業が必要となってくる。
「この前自分が何を言ったか、相手から何を言われたか、少なくとも過去数日分くらいはこれからとる行動を考える際に同じテーブルに乗せて考えるようにしないと相手から激怒されて著しい不都合が生じる」という説明から丹念に当たり前のことを説明しなおす作業が必要で、意外に効果も上がるのが不思議だ。
拘ってすみませんが、リタリンを規制される原因になったリタリン依存をした人々は未だに許しません。
ただ、純粋なADHDにはいないことを信じたいですが。ADHD症状にはちょうど良く効くはずの薬で、噂で言われるような覚醒を伴う快感は当事者には無いと信じたいと思っています・・・。
ASには、きっと統計は無いでしょうが、逃避として薬はあまり効かないでしょうね。
『ずっと普通になりたかった』のグニラさんは、純粋な効き目ではなく“同じ目的を共有しながら自分の世界に閉じこもることを許容してくれる仲間が一緒にいる空間”を求めて、今時期はここに書くのも恐くなるような薬を使い、そして断薬は自分で決め、自力で依存症状を抜きました。
私が発達障害を知る前、眼痛を始めとする様々な心因症状で仕事の手が止まり、耐えられずに周りに打ち明け、それでも周りには助け方が分からず、私が薬を飲んでいるかどうかを無言の監視をするしかなかった時、私が飲んでいたのはただの精神安定剤でした。
それでも緊張状態は止まらず、起き抜けから薬を飲んで行動する状態でした。私の脳裏には常に、もし薬を飲まなかったときにミスをした時の私に注目をする同僚のイメージが住み着いていました。薬をやめることは、当時は恐かったです。
ASが抜けられなくなる薬は、生きている人間の出すフィードバックでしょうね。
悪い薬としても、良い薬としても。
しかし薬剤の薬同様、休薬日を適度に作らないと身を滅ぼしますね。
続けます。
続きます。
AS語りになってすみません。
ASには大きく分けて二つの居場所が存在すると思うことがありまます。
仕事等の必要に応じて、奇異なりに他人の中に入る時と、一人で頭をリセットする時間です。
これこそ、ADHDを見習うわけではないですが、一カ所に固執しないために、仕事を離れてリセットを少し手伝うためのフィードバック係を役割別に、仕事とは別に手に入れるだけで、リセットのスピードは大変違うと思うのですが・・・。
薬とは違い、適度に構造化された仕事さえしていれば、少々フィードバック係のコントロール力に不足があっても、依存症状にはならないはずです。
でも私が去年不安定の際にお世話になった支援者は、連絡を取ろうとしたら取れず、調べたら昇進して配置換えになっていました。
確かに・・・お金を出せば手に入り、自宅の薬棚に保管できる薬は人間と比べて勝手に居なくなりませんけどね。
余談ですが、勝手にいなくならない相手としてインターネットもあります。
『ネトゲ廃人』という本を読みました。ネトゲとはインターネット通信ゲームのことです。
私は容量の低い古いPCなのでまずダウンロード出来ませんが、本には昔の私が居ました。
ゲームを断った後も習慣的な反応として頭の中にしつこく展開される慣れ親しんだエピソード。
現実の人間関係に対して自分が出来るアプローチが尽きて、しかし逃げも和解もしない関係の空白を埋めるための依存。
世の中がありのままの自分を必要としてくれない、誰も自分という人間を使いこなしてくれない代償。
ASの必要欲求もADHDの勝ち進み欲求も、両方満たされる恐い恐い魅力的な場所がインターネットでした。
だからやめろと言われても・・・両親には忠告されていますが・・・全部はやめられません。
ネトゲの人々も、そういう精神状態なのかもしれません。
井戸掘りが出来るASがもしいたら、それはそれで一線を越えた尊敬に値するASなのかもしれません。私を含めて、現在の社会不適応者の大半には未熟すぎて、望めない境地なのかもしれないと思いました。