引き続きASの側から問題を記述してみる作業を続ける。
ADHDから見ても非常に不思議なことなのだが、ASの人には「相手が自分を理解してくれる可能性を感じると同時に、結果として完全に理解することを要求してしまう」という現象がよくみられる。
「相手が自分を理解してくれるかもしれない」というのは一つの可能性であり、当然理解してくれない可能性もあるし、結果としての理解を保証するものでは全く無い。
しかしASの人は、一足飛びに「だったら全部分かってくれるはず」というところに飛んで、100パーセント理解していることを前提に行動したりする。これは事実上「理解の要求」になっている。
理解の「可能性」と「結果の要求」は明らかに別物であり、これを区別できないことが、ASと他者の多くのコミュニケーションのトラブルの原因では無いかと私は思う。
理解への努力は出来る。するべきでもある。しかし結果「理解できるのが当たり前」と要求することは誰にも出来ないし、本来不可能なことである。
「可能性」は「可能性」でしかない。分かってくれる努力はしてくれても、それでも結果は不十分かもしれない。こういう場合に、「どうして分かってくれないか」と追求するのでは相手が努力を続けられなくなる。
「努力が見えれば、結果は不十分でもそれでよし」とするところまで妥協する必要がある。(ASでない人はほとんどみんなそうしている)。その理由は、「人間は不完全で、未来も他者も本来完全に理解することは不可能だ」という当たり前の真実をみんな認めるからだ。
「可能性と結果の要求は全く違う」ということを理解できるかどうか、皆さんの意見を聞かせてください。
受動型ASの自覚がある私が、どうも引っかかるのは、
>「理解への努力はできる」
努力ぶりを実感できてないから。
>「努力が見えれば、結果は不十分でもそれでよし」とする必要がある。
努力が見えないからどこまでも要求してしまう。
>「可能性と結果の要求は全く違う」ということを理解できるか?
思い描いている結果があり、それと違った結果が出たときに不快になる。だからどこまでも可能性を追求する。
補足させてください。
自分が相手のことを理解している大きさと同じ位、自分のことも理解して欲しいと望むのです。
冷静に分析すれば、押し付けになるのかもしれませんが、自分と同じレベルまで理解しあいたい衝動なのかもしれません。
当然、相手は誰でも良いのではなくて、本能的に自分が選んだ人に限られる訳です。この人だけには限りなくわかってほしいと思う人がいます。
それは配偶者であったり、精神科医であったり。
追われる立場は好まないけど、追うのは大好きです。
でも勘違いしないでください、実際に追うことは無いので。
永遠にわかりあえないかもしれないことは、本当は望んでいることかもしれない。実際、妙にわかられ過ぎたら「終わり」かもしれない。確信は無いけれど・・・。
確かに分かり合えたと思ったら、相手が100パーセント理解していることを前提に行動してしまっている自分が居ます。もし100パーセントで無いのであれば、それを表明して、お互いにそれを解消する努力をする必要があると思っています(が、その表明をあっさりと否定してしまっていた自分がいます)。私のこの意識の背景にあるのは「人間は不完全で…」と言うことの否定です。自分に、人間に、そこはかとない万能感を持っているようです。
「可能性と結果の要求は全く違う」ということは理解できるが、無限の可能性を感じているので、それと意識せずに結果の要求に繋がっているようです。
>>「理解できるのが当たり前」
同じ人間だから理解できるものなのでは?と思います。
>>分かってくれる努力はしてくれても、それでも結果は不十分かもしれない。
分ってくれる努力をしているなら、どうして最後までしようとしないのかが分りません。
>>「努力が見えれば、結果は不十分でもそれでよし」
私から見れば、相手が努力しているようには、見えません。自分がここまで出来るのに、相手が出来ないと言われても、怠けているようにしか思えません。
根底に自分の考えがあって、そこから考え方を覆される。私にとっては苦痛でしかありません。
>ASの人には「相手が自分を理解してくれる可能性を感じると同時に、結果として
>完全に理解することを要求してしまう」という現象がよくみられる。
これは普段、理解してくれそうな可能性を持つ人との出会いがあまりにも少ないため
その反動として、また自身の資質として衝動的に断定してしまうのだと思います。
ここでもAS者の「断定」がキーワードになっていますね。「独自の断定=勝手な要求」
>ASの人は、一足飛びに「だったら全部分かってくれるはず」というところに飛んで100パー
>セント理解していることを前提に行動したりする。これは事実上「理解の要求」になっている。
これらの点は、外から見て指摘してもらわない限り、私自身ではまるで検知できない内容
です。一足飛びになってしまう点など、AS者は「途中経過」という概念が理解できていない
のかもしれません。
今はじめて一足飛びの思考が「理解の要求」になりうることを、論理的に頭で知りました。
しかし現実的にどのように瞬時瞬時に対処すればいいか分かりません。
>理解の「可能性」と「結果の要求」は明らかに別物であり、これを区別できないことが
>ASと他者の多くのコミュニケーションのトラブルの原因では無いかと私は思う。
「理解の可能性」=「ブラックボックス」(なにがでてくるか分からない)
「結果の要求」=「無意識の衝動的断定」
と思っていいのでしょうか。
>分かってくれる努力はしてくれても、それでも結果は不十分かもしれない。こういう場合に
>「どうして分かってくれないか」と追求するのでは相手が努力を続けられなくなる。
この部分の意味合いが読み取れません。なぜ、追求が相手の努力を妨害するのでしょうか。
この追求が要求であるということでしょうか。
「追求」=「要求」=「断定」=「相手の自由意志を認めていない」という事でしょうか?
>「努力が見えれば、結果は不十分でもそれでよし」とするところまで妥協する必要がある。
この場合の努力は、どのように見ればいいのでしょうか?
どのようにすれば理解できるのでしょうか?
私の場合、結果が不十分であった場合、衝動的に「なぜ?」が頭の中を駆け巡ります。
そして相手が「なぜ?」の要因であれば、相手に質問します。「なぜ?」と・・・
これも「結果の要求」になっているのでしょうか?
正直、自分ではよくわかりません。
これから私が書くことはASの人にとってかなり厳しいかもしれないけれど、私が日頃から感じている本音です。
私の夫はASであると思ってます。彼は人に対する洞察が鋭いところがあり、そこは私も尊敬するところです。彼はいつも、自分は『他者をほぼ100パーセント理解している』かのように話します。だから私にも『自分と同程度の理解』を求めているようです。
でも私は心の中で密かにこう『反論』しています。
『あなたが思っている理解は、全て推測にすぎない。どれほど的を得ていようがそれは”憶測が当たる確率が高い“だけだ』と。
私は彼の全てを理解できません。しようと努力しても、それらはすべて『憶測』ですから。そのかわり私も、完全な理解を彼に求めてはいません。
このあたりの話になると私達夫婦は全く話が合いません。それでも十六年間共に過ごしてきました。…私が大事に思うのは、この『共に過ごしてきた時間』であり、『理解』ではありません。
>>「相手が自分を理解してくれる可能性を感じると同時に、結果として完全に理解することを要求してしまう」
断定はできませんが、主人はADHD、私はASだと思います。私からすれば、付き合い始めた当初に理解してくれていると思ったのと同時に、理解=束縛に繋がっているように思います。
主人は私の考えている事、行動が変だといいます。
依存=お互いが全て把握している事。
解り合いたいという溢れんばかりの強い想いの結果が、断定だなんて...!
にわかには信じがたい気持ちです
断定こそ、解り合おうという努力、コミュニケーションの放棄に他ならない
そう考えてきましたから...
どう足掻いても、切望しても、解り合いたいと努力すればするほど、解り合えない部分が見えるもの
その境地にまで至らないことこそ、中途半端な努力に過ぎない
安易なショートカットで満足しているだけではないのか
矛盾するデータの検証、自己責任の追及を怠った結果ではないのか
そういう風には考えられないものなのでしょうか
不満足な結果
それはお互い様
でも、あなたの出した結論を受け入れ、評価します
様々な結論の中の一つとして
少なくとも、結論を出すに至った努力に対して
しかしあなたは、自分の結論が唯一無二で、他の可能性はあり得ないと思うのでしょうか
自分はそのように他人に赦して貰っているとは思わないのでしょうか
いつもいつも、そう言いたい想いを呑み込んできました
人は不完全なものだから、
100%解り合えることは絶対にない
それでも解り合う努力をしていくことが尊く、
愛なしにそのようなことは不可能
私が感動してきた名画の主題の多くがそこにあったように思います
それは淋しい覚悟かもしれません
命あるものが必ず死に、出逢いがあったら分かれが必定であることを覆せないように
...というような思考回路は持てないのでしょうか?
はじめて書き込ませてもらいます。
よろしくお願いします。
NHKの朝の放送で、やんばる先生が自身もADHDであることを
公表し、かつ結婚生活もおくり、医師として活躍なさって
いるのを拝見し、大変こころ強く思いました。
HPも拝見しております。
わたし自身は、4年ほど前から、自分が多動性のないADHD
ではないかと疑いだし、小さいころの写真や行動を考え、
家族にも細かい質問に答えてもらい、かなりの可能性が
あると思うにいたりました。
しかし、先生の一覧表ではASに酷似している部分もあり、
考え中です。
他の方の書き込みに関してさらに書き込むのは禁止という
ことですが、申し訳ありませんがどうしても書きます。
yurin さんのおっしゃる『あなたが思っている理解は、
全て推測にすぎない。どれほど的を得ていようがそれは
”憶測が当たる確率が高い“だけだ』と。
これはわたしが実父から言われ続けていることです。
そして、Lisさんの今回の書き込み、前回の書き込みは、
わたしには、面と向かってがんがんと責めたてられて
いるように感じてしまいます。
リストラ対象にあげられているわたしは、実際自分の
再構築中(それこそリストラクチャですね)です。
みなさんの書き込みはとても参考になります。
それにしても自分のことだというのに、
わからないことだらけです!
>「可能性と結果の要求は全く違う」
つまり
『理解してくれたらうれしい』という気持ちは『期待』、
『理解して欲しいと、強く相手に望む』ことが『要求』。
似てるけれど、この二つは全く『別物』だと私にはわかります。
ADHDである私は、恐らく(自覚はないけれど)脳内の情報処理の過程の中で
『理解してくれたらうれしい』という気持ち=期待=『そういうもの』としてしばらくおいておこう。・・・となっているのかと思います。もちろん『想像』でしかありませんが。
もしも、(断定ではなく『仮定』)ASの人にこの『作業(=情報処理)』が難しいのだとするなら、
(自分がそうと自覚がなくて)ASの人の脳内では、そのような処理がされてない、・・・ということだと私は『仮定』してみます。つまり『脳内の情報処理の問題=認知の問題』というふうに。(=だから人間性とか性格の問題とは別物、と私は考えています)
ASの人に必要なのは、『AS以外の人が、どのような認知の世界に居るのか』ということを知り『ならばASの人はどうすれば、AS以外の人と共存できるか』ということを探ることではないかと思います。
恐らく先生は、(これは私の『推測』ですが)ASの人には難しいかもしれないけれど、まずはやってみましょう、ということで書かれているのだと私は思っています。
『AS以外の人が、どのような認知の世界に居るのか』ということを知りたいと思います。『ならばASの人はどうすれば、AS以外の人と共存できるか』ということを探りたいと思います。
それでも未だ、全てを受け入れられずにいます。この作業のためには、これまでの自分の価値観を根底から覆さなければなりません。
ここで言う可能性、あるいは期待は、未だに理解を諦める事のような気がして受け入れにくいのです。お互いに100%理解し合える事がないと頭で分かっていても(頭では分かっているのです)、それを受け入れることは、人と互いに分かり合える事の無いとても寂しい世界に放り出されたような気持ちになります(これもAS特有の1か0の価値観なのでしょう)。
分かり合う努力をして行く、その事自体も相手に求めれば求めるほど現状では相手を束縛していってしまいそうで、では何が出来るかと言うと、分かり合うことを諦めるしか無いような、そんな気持ちになります。
先生の、Lisさんの、yurinさんの言っている事は、頭では分かる気もするのですが、自分のものにするのは、出来たとしても未だずいぶん先の事になりそうです。
marioさんへ
>分かり合う努力をして行く、その事自体も相手に求めれば求めるほど現状では相手を束縛していってしまいそうで、では何が出来るかと言うと、分かり合うことを諦めるしか無いような、そんな気持ちになります。
もしも『分かり合う=100%の理解』という『理解』を求めるなら、分かり合うことは諦めた方がいいかもしれません。
ただ個人的な話をするなら、私は夫を『100%の理解ではないけれど、『理解』してはいます。
具体的に説明すると『夫がいるから、自分の行動が(多少窮屈に感じてはいるけれど)セーブできている』と思っています。つまり夫は私にとって『枠のない私の行動に、枠を与えてくれる大切な存在』であるという『理解』です。
それはそれで、自分にない個性と受け止めることもできるし、共に生きる意味を見出すこともできます。
だけどこれはあくまで私のADHD流思考で、ASの人にとっては『理解しあう』ということは、何か特別な価値があることのようですね。それは、『現実には』永遠に求めても手に入らないものなのかもしれません。だけど何か一つのロマンのような純粋で、ひたむきな人間の心の美しさがあるように思います。
私はここまで、皆さんのコメントを読んでそのようにも感じています。
>HIKARIさんへ
>追われる立場は好まないけど、追うのは大好きです。
>でも勘違いしないでください、実際に追うことは無いので。
ちょっと、この言葉に戸惑ってしまいました。
どういう意味合いなのか、説明していただけるとありがたいです。
すみません、私信になってしまいましたが、私自身の過去を振り返ると、自分とトラブルになった人の中にASを感じる人がいるので、どうも過剰反応してしまうようです。すみません。
先日、元同僚ののび太さんといっしょに、講演を聴く機会がありました。
講演の途中で「手話とは何か?」という漠然とした問いを出され、その答えを書くように鉛筆と用紙が配られました。
手話は手話じゃないの?
でもこれじゃ答えになっていない。
ツール?伝える手段?
何かもっと難しい答えなのか(裏があるのか)、今までの講演で聞き落とした何か重要なことがあったのかと考えましたが、私にはわかりませんでした。
周りの人たちは一斉に鉛筆を持って、用紙に書き込んでいきます。(こういうとき、私は自分は頭が悪いのだろうかと思います)
どうしたものかと思ったのですが、前の席に座っているのび太さんの手も止まっていることに気づきました。
私は、彼女に聞こえるようにぼそっと「質問の意味がわからない」とつぶやいてみました。
すると、のび太さんは「意味わかんないですよね!」と勢いよく振り返りました。
講演のあとでのび太さんと話をしましたが、彼女も「人の言っていることがよくわからないことがある」「他の人が一斉に書き始めたのを見て、みんなすごいと思った」「Fさんの『わからない』って声が聞こえたとき、私だけじゃないんだと思ってほっとした」と言っていました。
「理解」に話を戻しますが、私やのび太さんの行動が、一般的にはあまり歓迎されないであろうことはわかります。
講師がいるところで、はっきりと「(講師の言うことの)意味がわからない」と表明するのは、申し訳ないと思います。
しかし、自分の中には「わかったふりをして適当に答えるのは、失礼である(講師が真剣だと思っているがゆえに)」感覚があります。
私は無意識のうちに、『講師が求めているのに一番近いであろう答え』を探していたのでしょう。
(他者から見ればその熱意が無駄な努力であり、その答えが自分の思い込みの産物なのだとしても)
夫と車で出かけたときのこと。
駐車場から大通りへ右折で出ようとしたとき、私たちの進路を塞ぐように停まった車がありました。
夫は「気が利かない運転手だなあ」と文句を言いました。
私はそういう人は頭が悪いのだと思っていましたから、「こういうのを気が利かないと言うのか」と小さな驚きがありました。
講演のときの話もそうですが、私は「わからない」「できない」ことを「理解が足りない(頭が悪い)」と捉えるようです。
>しかしASの人は、一足飛びに「だったら全部分かってくれるはず」というところに飛んで、100パーセント理解していることを前提に行動したりする。これは事実上「理解の要求」になっている。
私がこの言葉を「わかる」と感じるのは、「100%の理解の要求」をされた経験があるからだと思います。
「人の気持ちがわからない奴だ」と、先方が設定した「100点満点の答え」を要求されるのは本当に苦しかったです。
関わっている間、私はずっと試されている気分でした。
(大の苦手の数学で赤点しか取れなくて、「こんなこともわからないのか」とずっと責められ続けて、いたたまれない気分のような)
私は「理解」を「共感」の代わりに使っているように思います。
私にとって「理解」は、世界(自分以外のすべての物と者)とつながる、数少ない手段ではないかと感じています。
>理解の「可能性」と「結果の要求」は明らかに別物であり、これを区別できないことが、ASと他者の多くのコミュニケーションのトラブルの原因では無いかと私は思う。
>「可能性と結果の要求は全く違う」ということを理解できるかどうか、皆さんの意見を聞かせてください。
私は、頭では理解できます。
心理的距離の遠い人が相手なら、実行もできます。
心理的距離の近い人の場合は、もっとこう・・・もやもやとしています。
(我儘だと自覚しつつ)「わかってもらえるかも?」「無理なら仕方ないけど、やってみよう」
→(理解してもらえなかった場合)「じゃあ、もういいや。自分の片思いだったみたいだ」
実際に試してみる相手はそう多くはないですが、「この人だったら通じるかも・・・?」という確信に近いものがあります。
でも自分の勝手な確信なので、「どうやら片思いだった」と諦めることはできます。
やはり「自分(AS)にもわからないことがある=だから他人にも求められない」と等価の法則を持ち出せば、理解できるように思います。
ASの心情的には『正解』ではないけれど。
(まずは「自分にもわからないことがある」という、自覚を持てたらの話ですが・・・)
「(ASが持つ)理解への追求姿勢は否定しない。相手を理解しようと努力することはもちろん構わないが、同じ理解が返ってくることを要求してはならない」